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「救われるのは正しい人ではなく、罪人」

「救われるのは正しい人ではなく、罪人」
2010年7月11日
テキスト マタイによる福音書 第9章9-13節 
「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア書第6章6節)とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

今、朗読したテキストは、ここでは、二つの出来事が語られています。一つは、第9節です。たったの一節で、信仰者にとって大切なことの全部が語られてしまっている、そのような力あるみ言葉です。もう一つのことは、10節から13節までは、この事を通して起こった事件について語られています。

さて、今主イエスは、中風の人を癒された後、おそらくはカファルナウムの町を進み行かれます。そこには、旅人から通行税や、流通する品物、荷物に関税をかけ、税金を徴収する収税所が置かれていました。その署員が、他ならないマタイ、この福音書の著者じしんです。ここで彼は、言わば、自分の証を記します。実に赤裸々に記します。

彼は、徴税人でした。徴税人とは、ローマ帝国の下級役人です。ローマは、統治する国々の同じ民族、その国の人々を徴税人として採用しました。それによって、少しでもローマ支配の抵抗感を和らげようとする政策だったのでしょう。しかし、ユダヤの人々にとっては、自分たちの敵対者に他ならない異邦人に仕え、しかも自分たちの国や、自分たちを売り飛ばすような仕事をした彼らを軽蔑したのです。また、有名なザアカイという徴税人の長は、不正な蓄財で莫大な儲けを楽しんでいたようです。本来の税率以上で徴税したり、裕福な人々からは、わいろを受けるような仕方で、税率を下げたりして、私腹を肥やしていたのです。

そこを通る人々は、このマタイとやりとりしながら、提示される税金を仕方なく払って、通過したのだろうと思います。そのとき、ユダヤ人は、口には出さずとも、マタイを軽蔑と憎しみの眼で見つめていたのだと思います。しかし、おそらくマタイは、ユダヤ人たちを、逆に軽蔑のまなざしで見返したのかもしれません。心の中で、こう思っていたからもしれません。「お金こそ、一番大切だ。今更、ユダヤの信仰など、実社会では通用しない。今の時代は、ローマ式にやるしかないのだ」。

さて、主イエスもまた、この場所を通らねばなりませんでしたが、それは、こう呼びかけ招くためでした。「わたしに従って来なさい。」しかし、このひと言で、彼は立ちあがってイエスに従ったのです。漁師を辞めて従った弟子は、元の職場に戻ろうとすれば戻れます、しかし、マタイは、一度辞めれば、二度と復職できません。
なんという単純な記事でしょうか。確かに、ひとり一人の証には、まさにその人だけの証があって、そこにかけがえのない、厳粛な事実があるわけです。しかし、同時に、それ以上に大切なことが、ここで示されます。何人もの証をどれだけ聞いても、結局、そこに一つの共通した事実が見えてくるのです。それは、キリスト者とは、イエスさまから「わたしに従って来なさい。」と招かれたという事実。そして、この招きに応答して、主イエスに従う者、くっついて行く者のことであるということであります。

今朝も、礼拝式の招きの言葉として、有名なマタイによる福音書第11章28節を朗読しました。「すべて重荷を負う者は、わたしに従って来なさい。」マタイだけが記した御言葉ですが、彼は、まさに自分自身、主イエスのこの御言葉を心の底で聴いたのです。だから、自分の福音書に記したのかもしれません。

私どもは、職業も立場も性別も年齢もまったく違った者たちがここに集まっています。しかし、ひとしく「わたしに従って来なさい。」と招かれ、立ち上がってイエスさまに従う、ついて来た者に他なりません。そうであれば、イエスさまから離れないこと、イエスさまからの視線をそらさない事が肝心要となることは、明らかです。

さて、第二の出来事に移りましょう。この9節は、むしろ10節から13節までの序章となります。ここでこそ、事件が起こるのです。そしてこの事件を通して、主イエスとはどのようなお方なのか、さらに言えば、神さまの御心、あるいは「キリスト教とはどのような宗教なのか」さへ、明らかにされます。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」
マタイは、イエスさまのお招きを受け、大喜びです。そして、なんと彼は、自分の家にイエスさまを招き入れます。とても不思議な感じが致します。イエスさまの方がマタイを招かれたのですが、マタイはそのイエスさまを自分の家に招くのです。つまり、もうここに、主イエスとの間に親しい人格的な交わり、絆が結ばれていることが分かります。主イエスと私どもとの絆、それは、招き合う交わりなのだとも言えると思います。弟子たちも一緒に、豊かな食卓を、それは、ごちそうというより本来の人間どうしの豊かな交わりをこそ、楽しんでいたのだと思います。

しかし、それだけなら、ここでの事件は起こらなかったかもしれません。このようなにぎやかな食事会のことを聴きつけて、この家の外に、集まって来た人々がいました。「ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。」

ファリサイ派とは、ユダヤ人の中でも特に、神の御言葉、神の掟に忠実に従うことを標榜していた人々のことです。ユダヤ社会の中で良識派であり、ユダヤ社会の秩序を保っていた宗教に熱心な人々です。大勢の人たちから一定の尊敬と支持を得ていたのです。

ユダヤ人にとって、一緒に食事をするということは、特別なことを意味していました。それは、連帯責任者、連帯保証人となるという契約関係を結ぶことを意味したと言われます。つまり、イエスさまと弟子たちと徴税人とが一緒に食事をするということは、イエスさまと徴税人、罪人たちは、そのような仲間、契約関係にある仲間を意味するからです。

もしも、イエスさまが、山上の説教をお語りになられるだけであったら、ファリサイ派の人々は、イエスさまのことを、優れた聖書の教師として尊敬したはずです。ところが、山上の説教をそのまま生きられたとき、彼らは激しくイエスさまに反発したのです。「神の言葉を語る宗教者ともあろうものが、こんな罪深い連中が集まる家で食事をとるとは、何事だ。」彼らは、その振る舞いを、自分たちへの挑戦だと思ったのです。社会を混乱させ、常識を破り、聖なる宗教、ユダヤ教を破壊する暴挙だと見たのです。

さて、これに対するこの御言葉、これこそ、主イエスの本質、主イエスが地上に来られたご目的、神の御心の現れ、キリスト教という宗教の、まさに特異性、ユニークさを見事に明らかにする言葉なのです。「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

社会の常識、人間の道徳から申しますと、天国に入る人は、誰から見ても、人格的には品行方正で、生活ぶりは、正しく立派で、しかも得ている富をちゃんと分かち合い、皆の模範となっている。まさにファリサイ派の人々こそ、天国に入るにふさわしい人だと、考えるだろうと思います。もしも、罪人、社会の秩序を壊し、法律を無視するかそのグレーゾーンで活躍しようとする人たちが、評価されるなら、そうでなければ、言わば、社会の秩序が壊れるでしょう。

大相撲の名古屋場所が始まりました。今年は、野球とばく問題で、NHKの生中継はされないこととなりました。相撲の世界と暴力団が癒着している、相撲界に入りこんでいるのであれば、それは、徹底して排除しなければならない、これは、世間の常識だと思います。相撲協会も関係者たちも、この世間の常識に疎かったということで、マスコミや世間のバッシングを受けています。

ところが、ここで、主イエスさまの御言葉が正しく語られ、聴かれるなら、イエスさまは、むしろ、世間から厳しく批判され、降格されたり、解雇された人々を招く、彼らの友となるお方なのだとここで、宣言されたということを意味するのです。それが、2000年前、主イエスが語られた言葉の意味です。

もし今、主イエスがそう語られたら、ただちにマスコミを敵に回す発言とされるでしょう。世論は、「そのような非道徳な宗教や、教えなど、邪教である」と断罪するかもしれません。

しかし、そこでこそ、真実が鮮やかに見えてくるのです。それは何でしょうか。主イエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と仰せになられました。ここで、主イエスは、御自身を医者になぞらえられます。まさに、私どもはこれまで、完全なる医者であられる主イエスのお姿を、集中的に学んで参りました。イエスさまこそ、医者の中の医者であることがはっきりと示されました。

ただし医者は、丈夫な人、健康な状態にある人にとっては価値がありません。ありがたさは分かりません。しかし、もし病人であれば、医者はまさに特別の存在となります。「診断してもらい、治してもらいたい」と、まさに特別に重要な人へと劇的に変わるはずです。つまり、病人にとってこそ、医者は医者となるのです。医者という存在は、病人との関係において正しく存在するわけです。もとより、これは、医者に限ったことではありません。

つまり、ここで問われることは、いったい、自分は病人であるのかないのかという自己認識の問題に他なりません。つまり、ここで言われる病人とは、私どもの本質、私どもの現実、私どもすべての人間のあり様のことがなぞらえられたのです。

ここに登場する徴税人や罪人は、世間的に見ていわゆる犯罪者、グレーな、灰色の人々です。ユダヤ教社会からすれば、アウトローです。しかし、彼らは、今、自分がそのような者であることを認めている。少なくとも、自覚し始めているのです。だから、イエスさまに招かれ、だからイエスの招きを感謝して受け入れ、主の赦しを味わい始め、喜び始めているのです。

何よりも主イエスこそ、この人たちの友となることを喜ばれているのです。マタイたちにとっても嬉しかったは、もちろんのことです。しかし誰よりもイエスさまご自身にとって、どんなに楽しい食事会であったかと思います。

何故か、マタイを神の働きへと招き、彼がそれを受け入れたからです。むしろ、何倍も何十倍もイエスさまが喜んでいらっしゃる。そのようにして、天のお父さまがどんなに喜ばれているのかということです。

ところが、それを喜ばない人々がいるのです。それは、自分たちは、病人ではないと自信を持ち、自覚している人たちです。彼らは、こう考えていました。「これまでの説教は素晴らしい、癒しをするのは、良いだろう。しかし、徴税人を弟子とし、彼の仲間たちと食事をする。何と言う愚かで、反社会的なことをこのイエスは始めているのか。」ファリサイ派の人々にとっては、決して受け入れられないのです。

何故、彼らは憤るのでしょうか。本来、彼らが、徴税人の職を辞めて、イエスさまの友となって、弟子となることは、すばらしいことのはずです。しかし、そこにこそ、彼らの本質が暴露されるのです。彼らにとって、まさに、徴税人や罪人を糾弾すること、彼らと高い壁をつくることによって、実は、自分たちの正しさ、まじめさ、社会的な有益さ、価値はいよいよ高まるのです。彼らは、自分たちと彼らとはっきりと区別することによって、自分の正しさを確保しようとうするのです。だから、攻撃的になるのです。彼らを批判し、厳しく裁けば裁くほど、それだけ、自分が正しい側にいるのだと、つまり神さまの側にいるのだと錯覚できる、自惚れられるのです。

このような心の動きを、私どもは、決して他人事とは思えません。他人の罪や過ちを糾弾すればするだけ、何か自分が偉い人間になったかのように錯覚する。ここに人間の罪深い姿がいよいよ明らかにされると思います。たとえば、マスコミは、いつでも、自分が正義でしょう。いへ、世間も、つまり我々もまた、まったく同じではないでしょうか。他者の悪い点を見つめて、それを批判するとき、何か批判している自分は、その人たちとは違う場所、賢い場所、優れた、高みに立っていると考えるのです。

少なくとも、罪や過ちを犯した人と、いっしょに食事をしようなどと、申し出るはずがありません。むしろ、少しでも、自分とは関係がありませんと言いたくなる。言い始めるのではないでしょうか。

ところが、主イエスは、そうではないのです。世間から、自分が正しいと考える人々から、糾弾されている人をこそ招かれるのです。病人をこそお招きになられるのです。主イエスこそ、まことの医者でいらっしゃるからです。

もとより、最も大切なことは、マタイじしんが、自分が病人であることを認めた、神によって知らされたということです。

主イエスのこの教えを日本の社会の中で考えるとき、おそらくやはりあの鎌倉時代の僧侶、親鸞のことを考えることとなると思います。「善人なをもて往生す、いわんや悪人をや」というあの教えです。わたし自身、さらに深く、この親鸞の言ったという教えの真実を学ばなければなりませんが、しかし、親鸞じしんは、自分を悪人として自覚していたこと、ここに、親鸞の教えとキリスト教で言えば、今朝のイエスさまの御言葉、何よりもローマの信徒への手紙の第7章における使徒パウロの言葉とが、実に豊かに響き合っているとことに気づけるかと思います。

自分が、本当に救い難い悪人であるという認識、それは、宗教的認識と言ってもよいと思います。ただし、悪人と言う認識は、結局は、自分以外の人間関係の問題です。自分中心の人間なのだという認識が、親鸞の言う仏教の悪人ということです。しかし、聖書が言うのは、神さまの前に、生かされている自分、愛され、恵みを十分に受けながら、それを無視し、それに応えていない自分、その問題を罪と言うのです。罪人というのです。

神さまは、そのような罪人と言う認識を、主イエスと出会う人に、与えて下さるのです。それは、早期発見によって癌の完治に繋がるということに例えることもできるでしょう。「癌がありますよ。」と指摘されて、「わたしを馬鹿にするな。わたしを見下すな」と怒り出す人はいるでしょうか。ところが、「あなたは悪人なのですよ」と言われたら、どうでしょうか。何よりも、「あなたは、聖書でいう、神の前に安心して立つことのできない罪人、神の前に責任が問われている存在なのですよ。その責任は、あなたを永遠の死、滅びをもって刈り取るべきものですよ」と、こう指摘されて、すぐに、「ありがとう」とは言えないのです。しかし、主イエスは、聖書を通して、私どもを救うためにこそ、私どもの真実の姿を描き出して、私どもの目の前に見せて下さるのです。

したがって現実には、すべての徴税人が主イエスの弟子になったわけではありません。実際には、彼らの多くは、自分のことを病人と、つまり、罪深い人間とは考えないのです。むしろ、開き直る。「俺たちの生き方こそ、現実の賢い、楽しい人生の道なのだ」と自分の道を信じて進むのです。その点では、行動においては、ファリサイ派の人たちと、まったく対照的な生き方をしていたかもしれませんが、しかしその深いところでは、どちらも、同じ罪の中に留まっているということができるはずです。イエスさまの弟子の中には、律法学者がいたことをすでに第8章18節で学びました。あの律法学者は、主イエスの招きを受け、従ったのです。そうであれば、律法学者、ファリサイ派の人たちの中にも、主イエスに厳しく糾弾されて、ついに、自分が神の御前に、イエスさまの前には、病人、罪人であるのだと気づかされた人も起こされたのです。

今朝、私どもは自分じしんのことを問い返します。もし、自分が神の赦しがなければ、生きていけない、滅びるばかり、神の怒りを受けるばかりの人間であるとの自覚がなければ、イエスという人間は、結局、私どもにとっては、まったくの他人です。関係がありません。病人でなければ医者を必要としないように、罪人であることの恐ろしさと悲惨さ、空しさを覚えていなければ、罪を赦すことのできる権威者、救い主を必要としないのです。
先週、「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦された。」という宣言こそ、人間にとって究極の言葉、大切な言葉だと申しました。しかしそれは、自分が罪人、神さまの前にわだかまりを持ち、決して子どもと呼ばれる資格のない生き方をしていることを認めないのであれば、それを聴いても感激しない、できないのです。しかし、もし、自分が神の怒りを受けるべき罪を犯した人間、犯している人間であるとわきまえているなら、これ以上に幸いな言葉、すばらしい言葉は地上にないことが分かります。

最後に、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」という御言葉を学びましょう。ここで主イエスは、ご自身のこの行為は、旧約聖書のホセア書第6章6節の実践だったと告げるのです。もとの言葉はこうです。「わたしが喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。」

ファリサイ派の人々は、自分たちこそ、聖書の教えをきちんと学び、それを忠実に生きているという自負を抱いています。主イエスはしかし、もし本当にそうであれば、私のしている行為は、神の御心に適う行為そのものであると気づけるはずだと、反対に、彼らの聖書の読みの甘さ、浅さを批判なさったのです。神は、いけにえや焼き尽くすささげ物それ自体を重んじていらっしゃるのではないということです。神を愛し、神を人格的に知ることこそ、神が喜ばれること。その神の御心は、罪人たちを愛し、彼らと親しむことだというのです。

さて、「行って学びなさい。」とは、いったいどこに行って、何を学ぶべきなのでしょうか。第一には、ファリサイ派の人たちらしくもう一度、律法学者たちのところ、ユダヤの会堂に行って、聖書の学びをしなさい。という事だろうと思います。

しかし、わたしは、マタイによる福音書自身は、今、あらためてこうも考えているはずだと思います。つまり、この福音書が読まれているのは、キリストの教会なのです。つまりどこに行くべきか、それは、教会にこそ行くべきなのです。学びなさいとは何によってでしょうか。それは、説教を聴くことによってでしょう。それだけではなく、先週、ここで祝ったあの聖餐の食卓をも指し示したことと思います。あの聖餐の食卓において、私どもは罪人でありながら、いへ、罪人だからこそ、イエスさまとの食事会の交わりのあずかったのです。そこで、イエスさまは、私どもの友、本物の友となってくださったのです。

あの食卓で、語られた御言葉は、「これはあなた方のために裂かれた私の体である。これは、あなたがたのために流す契約の血である。」という御言葉でした。つまり、主イエス・キリスト御自身が神の子羊となって、神へのいけにえ、献げ物そのものとなられたことが、確かめられたのです。

今週の、牧会通信にも記しましたが、この聖餐のいのちの祭りに一日でも早く与りたいと心から願う求道者がいらっしゃいます。聖餐の食卓、それは、イエスさまが罪人と食事をなさった出来事の象徴でもあります。そして、まさに天国の象徴です。私どもは教会において、神の愛の御心、憐みを学ぶことができるのです。それを、豊かに味わうことができるのです。

「行って学びなさい」と命じられるのは、単にファリサイ派の人たちだけのことではありません。キリスト者自身も、いへ、私どもこそ、新しく学び続けなければなりません。もしも、自分が永遠の死、永遠の滅びに至る病いを患っている人間であることを忘れて、自分を健康な人間、つまり神の前に正しい人間。少なくとも、教会に来ていない人たちより良い人間、あるいは、教会に中でも比較しあって、自分の方が立派な人間であるとうぬぼれたとき、私どもこそ、あのファリサイ派の人たちと同じ罪を犯すことになるからです。神の敵となりうるからです。主イエスは、「学びなさい」と命じられました。学ぶことは、神の愛と憐れみを実践するためであることを、深く、心に留めましょう。

今朝、新しく主イエスからの従って来なさいとの招きに心から感謝と感激を新たにしましょう。そして、それだけに、いよいよ、私ども自身が、主の愛と憐れみに生きる志を新たにして、ここから出発いたしましょう。

祈祷
罪人である私どもを、あなたの聖なる交わりのなかへと招き入れ、天国の民、神の民として、いのちの交わり、愛の交わりの中に包み込み、私どもを抱き続けていて下さる主イエス・キリストの父なる御神。そうです、私どもは、罪人であるがゆえに、わたしに従いなさいと、招いて頂きました。私どもには、あなたの招きにふさわしい正しさも賢さも一切持ち合わせていません。しかし、ただあなたが愛そのものでいらっしゃるゆえに、ただあなたが憐みそのものでいらっしゃるゆえに、私どもの犠牲になって、十字架で御血を流し、肉体を裂かれ、私どもをあなたの教会で、あなたとの聖なる交わり、兄弟姉妹との聖なる交わりに与らせて頂きました。心から感謝致します。

私どもの周りに、なお、教会は敷居が高い、まじめな清い人々の行くところだと考える人がいれば、それを正してください。また、教会などに行く程、自分は悪い人間でも弱い人間でも愚かな人間でもないと、自分を欺き、自分を真実に知ることが出来ない多くの方々に、主イエスの愛を悟らせ、自分を知る道を開いて下さい。そのようにして、多くの人々を、私ども罪人の仲間、神に罪赦された者たちのいのちの交わりへと招き入れて下さい。その為に、私どもこそ、罪を悔い改め続け、二度と、キリストを裁く罪を犯すことがありませんように。そして、このキリストへと人々を連れてくることができますように。
アーメン。

(M・M様。説教をネットで読んでいただいていますこと、うれしく思います。求道の道がいよいよ祝福されますようにと、毎日、お祈りいたしております。Soli Deo Gloria!)