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「ほんわかした姿を 平和を造り出す人々は幸い」

「ほんわかした姿を 平和を造り出す人々は幸い」
         2010年7月18日 子どもの教会キャンプ出発礼拝

テキスト マタイによる福音書 第5章9節
 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」

私たちの教会は、毎年、この日に、子どもの教会のキャンプに参ります。そしていつの頃からか、その主日の朝の礼拝式を早めに始め、キャンプの出発礼拝式として捧げてまいりました。

今、今年のキャンプの主題にされた聖句を朗読いたしました。イエスさまが山の上で、お弟子さんたちに語られた八つの祝福の言葉の一つです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」短い御言葉ですから、子どもたちも大人も皆、覚えて下さったらまさに幸いなことです。

今年のキャンプには、小学1年生の二人のお友達が参加してくれると聞いています。しかも、お父さんとお母さん、離れて、キャンプに行くわけです。もしかすると初めてお家を離れ、ご両親から離れて、一泊するのかもしれません。

今、きっと、心の中は、ドキドキしているでしょう。ご両親も、ドキドキしていらっしゃるかもしれません。それは、心の中に、「大丈夫かなぁ」という「不安」があるからです。実は、わたしたちにとって、この「不安」というのが、一番嫌なもの、少なくとも嫌な状態のひとつだと思います。

今、私たちの教会には、赤ちゃんがいません。赤ちゃんと思っていた子たちも、もうしっかり、しゃべり始めています。

少し前になりますが、教会で、久しぶりに赤ちゃんを抱っこしました。皆で、代わる代わるに抱っこさせてもらったのです。もう、自分のお家に帰って行きました。

生まれたばかりの赤ちゃんは、安心そのもの。平安そのものです。どうしてでしょう。まったくお母さんのことを信頼しているからです。安心しきって、任せきっているからです。そんな赤ちゃんとお母さんを見ていると、今日のイエスさまの御言葉が、まさにぴったり当てはまると思います。二人の間に、何があるのでしょう。それこそ「平和」です。二人の間に平和があるのです。

この平和という言葉こそ、聖書の信仰にとってまさに決定的に大切な言葉です。鍵になる言葉、キーワードです。

イエスさまとは、どのようなお方でしょう。イエスさまって、誰でしょうか。イエスさまは、神さまの独り子です。天の父なる神さまと同じ、天にいらっしゃるまことの神さまです。しかし、皆さんがよくご存じのように、このイエスさまは、私たちをお救いくださるために、天からこの地上に降りてきて下さいました。

でも、もしそのイエスさまが、神さまの御子の栄光に輝くお姿、そのままで来られたら、どうだったでしょうか。天のきらめく栄光、天の美しい輝き、そのあまりにも光輝くお姿のままだったら、私たち人間は、誰ひとり、近づくことができなかったはずです。ですから、天のお父さま、父なる神さまは、聖霊なる神さまの不思議な、すばらしい力で、神さまの御子を、マリアさんのお腹に宿らせ、マリアさんからお生まれにならせてくださったのです。こうして、私たちと同じ体を持つ、人間となってくださったのです。それは、イエスさまが、わたしたちの友だちとなって下さったということです。

そして、私たちの友だちになるために来られたイエスさまは、お弟子さんたちに、こう仰いました。「わたしの父なる神さまは、あなたがたの神さまです。あなたがた天のお父さまです。このお父さまは、あなたたちのことを、生まれる前から愛して、そして、一番ふさわしいときに、あなたたちのお父さんとお母さんを通して、生まれさせて下さったのです。あなたたちは、天のお父さまの子どもたちなのです。」つまり、イエスさまは、私たちがもともとは、神さまの子どもたちなのだ、ということを教えて下さったのです。

私たちが、神さまの子どもであって、神さまのことを「天のお父さま」とお呼びすることが許されていること、そのことは、小さなお友達の方が大人の人たちよりも、何倍も何十倍も、分かってくれると思います。神さまの平和ということを、もちろん、言葉ではわからなくても、けれども、大人の人たちよりは、よく分かってくれるのではないかと思います。何故なら、ついこの間まで、自分が赤ちゃんだったからです。

もう、忘れてしまったでしょうか。赤ちゃんは、お母さんに抱っこされ、おっぱいを飲んで、御腹が一杯になったら、抱っこされたまま、そのまま寝てしまう。今そこが、どこなのか。自分は、今、どこで寝ているのかなんて、少しも心配していません。それは、平和があるからなのです。

ところが、だんだんと大きくなるにしたがってこれを忘れてしまいます。その理由は、きっと、お母さんじしんが、お父さんも、「自分のことは、自分でやれるようになりなさい。早く、はやく、しっかりやりなさい。」こう言われるからです。

これは、確かに、間違いなく、皆さんのことを大切に思うから、そう言ってくださるのです。でも、同時に、正直に言うと、お父さんもお母さんも、実は、心配、不安になって来るのです。「もし立てなかったら、歩けなかったら、言葉が喋れなかったら、いや、他の赤ちゃんより、遅かったら、どうしよう。」そんなことを思うと、どんどん、「早くやりなさい!ちゃんと自分のことを自分でやりなさい!」と言いたくなってしまうのです。そうすると、皆さんも、どんどん、赤ちゃんのときのことを忘れてしまうかもしれません。心配なんかしたことがない子どもたちの方が、逆に、不安が強くなってくるかもしれません。これは、悲しいことです。

さて、イエスさまがこの地上に来られた時、イエスさまの目に映った人間たちの姿は、どうだったのでしょうか。人間は、大人たちは、不安や心配で満ちていました。不安や心配ごとで、心が縮んでいました。くしゃくしゃになっている。かたくなっている。そんな人たちに、イエスさまは、おしゃいました。「そうじゃないでしょう。私たちの神さまは、お父さんでしょう。あなたたちは、その子どもたちでしょう。お父さんの強い腕の中に生きているのですよ。お父さんは、どんなときにもあなたといっしょにいてくださる。どんな苦しいときも、悲しいときも、あなたを抱っこしていてくださる。」つまり、あなたたちには、神さまの平和が与えられているということです。

イエスさまは、誰よりも、このお父さまといつも一緒にいます。イエスさまは、このお父さまの愛をあふれるほど受けていらっしゃいます。イエスさまも、天のお父さまをあふれるほどの愛と信頼で、こたえています。もう、お二人の間には、なんのわだかまりもありません。それこそが、「平和の中の平和」、まことの平和なのです。

ですから、正直に言うと、私たちが暮らしているこの地上には、今、この完璧な平和はどこを探してもありません。私たちは、その平和を、失ってしまったのです。失くしてしまったのです。私たちの方で、勝手に、神さまとの間にわだかまりをつくってしまったからです。

そのことを、「罪」と言います。神さまのことを信じなくなったからです。神さまの御言葉、そのご命令、そのお心に逆らったからです。反抗したのです。だから、その時から、この地上には、この完璧な平和、本物の平和がなくなりました。神さまと仲良し、友だちでは、いられなくなったのです。

神さまとの間に、安心がなくなったときから、わたしたちは、お互いに嘘をついたり、けんかしたり、いじめたり、いじめられたり、ついには、戦争したり、殺し合ったりもしているのです。

でも、イエスさまは、今から2000年前、この世界に、私たちの友だちとなるために来られました。イエスさまは神さまの御子、ひとり子ですから、このイエスさまと友だちになるなら、誰でも、イエスさまのお父さまとも親しくなれます。このお父さまの子どもになれる、つまり、私たちを罪から救って下さったのです。

このイエスさまによってキリストの教会が誕生しました。教会は、イエスさまを信じ、イエスさまのおかげで、神さまの家族にされたのです。教会には、いつもいつまでもイエスさまがいっしょにいて下さるのです。ですから、教会には、この本物の平和が、完璧ではありませんが、確かに始まっているのです。

ここには、天の平和、天のお父さまとイエスさまとの間にある、愛と喜び、いのちと安らぎが降り注がれています。神さまが、「日曜日には、教会で礼拝するよう」にと、わたしたちをお招きなさるのは、この天の平和、天国の平和を、神さまの平和を、神さまの子どもたちにあふれるほど注ぐためなのです。

教会の礼拝式の最後に、先生は、イエスさまに代わって、イエスさまの御言葉を皆さんに宣言します。「安心して行きなさい。」これは、イエスさまが、「私が今から、あなたと一緒について行くからね。だから、安心して出発しなさい。神さまの平和に包まれて生きて行きなさい。」そう言う意味です。

それは、神さまの平和を受けた神さまの子どもたちが、この平和の原因、この安心の中身、理由そのもの、つまり神さまの平和を、これから出会う人たちに証しに、告げにここから派遣する、送り出すということです。

つまり、わたしたちは、毎週、平和を隣人に告げるため、平和を造り出すために、ここに集まり、また、ここから出かけて行くわけです。

聖書の一番の鍵の言葉が、平和と言った意味は、この礼拝式のプログラムからも分かります。

平和を実現すること、平和を造り出すこと、そのためにどうすれば良いのでしょか。それは、時間があれば、もっとお話ししたいです。でも、肝心なことを教えます。平和を造り出ること、実現すること、それを「難しいなぁ、自分にはできないなぁと、ダメだなぁ」と暗くならないことです。間違ってはなりません。人間の知恵や努力や方法で、平和を造り出せるのだったら、もう、とっくの昔に世界は平和になっています。

平和は、神さまからの贈り物です。平和というのは、私たちの神さまのあだ名なのです。つまり、「平和の神」さまです。だったら、平和を造る、実現するということは、この平和の神さまともっともっと、仲好くするということが大切でしょう。イエスさまは、お友達になるために、この地上に来られたのだから、イエスさまに近づくことが必要でしょう。つまり、先ず、私たちが天のお父さまとイエスさまの平和、神さまの平和を、たくさん受けることです。味わうことです。

この世界中で、イエスさまと離れて生きている人などひとりもいません。しかし、今、世界の人たちのことを言う前に、イエスさまが、今ここで私たちと共にいてくださることを、心の底から認めましょう。それを信じるとき、この平和が実現します。これまでも、神さまが私たちを抱っこして守って下さったし、これからも守って下さることを、信じてよいのです。教会は、そして今捧げているこの礼拝式こそ、神さまの平和を受けることができるとき、場所です。

信じるわたしたちは、既に、神さまの子どもです。私たちと神さまとの間には、平和が実現しました。天のお父さまは、私たちのお父さんやお母さんのように、失敗することも、間違えることも、不十分なことも何一つありません。完璧に、守り、育て、完成してくださいます。平和を信じ、平和を実現するために、ここから出発しましょう。大丈夫です。イエスさまと一緒に生きている人は、必ず、平和を造り始めることができます。だって、赤ちゃんが安心してお母さんの腕の中で、ニコニコしてほんわかしていたら、ただそれだけで、それを見る人の心もまた、ほんわかするでしょう。僕たち私たちは、今、神さまの腕に抱かれ、子どもとされているのです。