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「ようこそ、いのちの源へ」

「ようこそ、いのちの源へ」
2010年8月1日
テキスト マタイによる福音書 第9章18-26節 
【イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。
「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
このうわさはその地方一帯に広まった。】

今朝お読みしました個所には、主イエスによって起こされた二つの奇跡が、一つの物語の中で語られています。この出来事は、マルコによる福音書にもルカによる福音書にも記されていますが、この三つとも、一つの物語として報告されています。これは、歴史的な事実そのままの報告であったことは疑いえないことですが、やはり、二つの奇跡を重ねて一つのメッセージとしようとしているのだと思います。何度学んでも汲めども尽きない豊かな福音の幸いが記されていますが、私どももまた、今朝、これをひと息に語る事と致します。

さて、先週のおさらいから始めなければなりません。主イエスとその弟子たちとは、マタイと徴税人の同僚や仲間たちと共に、まるで天国の食卓であるかのように、深い喜びと豊かないのちの交わりを楽しんでいました。しかし、おそらく食べ終わったところかと思いますが、そこに、洗礼者ヨハネの弟子たちが、憤りを込めた顔つきで駈けつけて来ました。彼らは、主イエスと弟子たちが断食しないことを厳しく批判しました。

それに対して、主イエスは、今既に新しい時代が始まっている、神の国がこの地上で始まっていると宣言されました。約束されたキリスト、救い主は今、ここに来ているのだから、いっしょに祝い、喜んだらよい、どうぞ、あなたがたも、新しい時代にふさわしく、わたしを信じ、わたしと共に、天国のいのちの食卓に与りなさい。そのように主イエスがお答えになったのです。

さて、今朝の物語は、そこから始まります。このような議論がなされているマタイの家に、突然、悲しみで心が張り裂けんばかりになっている男性が駆けつけてきました。いきなり割り込んで、ひれ伏してこう頼み込むのです。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」

天国の喜びの食卓が再現されているかのようないのちの喜びを味わっているまさにその現場に、まるでそれを嘲笑い、冷や水を浴びせるかのように、地上の現実が割り込んで来たのです。まさに、ここには、天と地の差があります。天国のいのちの祝福と地上の死というのろい。喜びと悲しみ、楽しさと絶望が、これ以上ないような仕方で、ここに現れています。

この男性は、他の福音書によれば、ユダヤ教の会堂の管理者、その意味で、ユダヤ社会の指導者の一人です。12歳になる娘さんがいます。まさに育ちざかりの少女です。そのような娘が、親より先に死ぬ。こんなに悲しい事があるでしょうか。しかし、これが、この地上の現実なのです。

さて、主イエスは、この人がひれ伏して申し出た願いに、どのように応対なさるのでしょうか。「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。」主イエスは、躊躇することなく、ただちに立ち上がられます。彼の後をついて歩き出されます。弟子たちも、主イエスに、つき従います。

いのちと死について、深く考え抜くことは、人類に投げかけられた最大の主題であると思います。そこから宗教や哲学が生まれました。その中でも、おそらく、仏教の教え、その知恵は、深いものがあるだろうと思います。わたしは、もしも、この男性が、仏教の教えを開いた釈迦に、このような願いをもって駆け付けたらどうなったのだろうかと想像します。

仏教の説話の中で、大変有名なお話しの一つに、痩せたガウタミーのお話があります。まさに、釈迦の教えの本質を見事に言いあらわしていると思います。

「痩せたガウタミー」と呼ばれていた一人の女性がたった一人の愛する子を亡くしてしまったのです。よちよち歩きをし始めたばかりのかわいいさかりの男の子でした。ガウタミーは、死臭をたてはじめていた愛児の「遺体」を抱えて、インドのコーサラ国の首都=舎衛城の街を半狂乱になって走り回りました。

彼女は大声で叫びます。「誰か、この子を生き返らせる薬をください。」街の人々は、誰もが顔を背けます。当然でしょう。腐り始めているのですから。そのときです。舎衛城の街に来ていた釈迦が、このガウタミーにこう呼びかけるのです。「女よ、わたしがその薬をつくってあげよう」ガウタミーは、喜んで釈迦に近づきます。

釈迦は彼女に命じます。「薬の材料であるカラシ種を貰ってきなさい。ただし、これまで一人の死者をも出したことのない家から貰ってこなければならない。」こうして、彼女は、一軒一軒、「お宅では、死人を出したことがありますか、お宅では、死人を出したことがありますか」と聞いて回ったのです。こうして、彼女は気づきます。どの家もどの家も、悲しい別離を経験している、自分ひとりが、悲しい死別を経験しているのではない。ついに、ガウタミーは悟るのです。そして、きっぱりと死の現実を受け入れ、我が子の死を諦めることができたというのです。これが、仏教で言う悟り、救いなのです。

さて、このお父さんの悲しみは、あのガウタミーとまったく同じと思います。12歳の少女です。まさに、毎日、成長が楽しみな矢先です。どんな病気であったのか、事故であったのか、しかし、彼女は、父親の目の前で、息を引き取ってしまったのです。ガウタミーも、この父親も、まさに筆舌につくしがたい悲しみの中にいます。

死別の悲しみ、死の問題は、まさに、当事者でなければ分からないはずです。死が、まさに、本物の死の力をもって、私どもを攻撃し、倒すのは、それが、自分に関わりのある人の死、かけがえのない人の死、愛する人の死となるときです。もし、この出来事を、傍観者のように読んでしまうのであれば、おそらくは、聴きとるべきメッセージを聴きそこなってしまうと思います。

この父親は、娘が息を引き取ってしまったとき、主イエスを探しまわります。そして、主イエスを見つけて、こう、言います。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」驚くべきことは、彼は、「死にそうですから、助けて下さい」と言うのではありません。既に死んでしまったけれども、助けて下さいと申し出ているのです。あなたが、手を置いて下されば、触れて下されば、生き返ると、彼は、期待し、信じているのです。

間違いなく、彼は、主イエスの数々の奇跡、特に癒しの奇跡を聴いていたのだと思います。あるいは、目撃したことがあったのかもしれません。

ガウタミーの物語と比較すると、彼女は、「生き返らせる薬を下さい。」と訴えましたが、彼は、主イエスのところに直接出かけて行って、あなたが、生き返らせて下さいと願い出たのです。どちらの悲しみが云々と比べることは、愚かなことと思います。しかし、この父親のイエスさまに対する期待は、常識的なものではないと思います。率直に申しますと、異常な願いです。

いへ、それより何よりも、ここで驚くべきことは、主イエス御自身の方です。主イエスは釈迦のように、「落ち着きなさい。これが人生なのだ。命あるものの限界、定めなのだ、諦めなさい。受け止め、受け入れなさい。」と、語られないのです。彼の願いを実現するために、遺体のある彼の家に急ぐのです。

父親のとった行動が異常であるとすれば、イエスさまは、さらに異常な行動を取られたということができると思います。いずれにしろ、ここで主イエスは、この父親の悲しみに、心底から、心のもっとも深い部分で、共感され、御自身のお心を震わせておられます。父親の気持ちと一つになっていらっしゃいます。

こうして、主は、「立ち上が」って、父親について行きます。弟子たちもまた、弟子とされた以上、いくらなんでも、そんなことはあり得ないだろうと思いながらもついて行きます。

さて、一行は、町の真ん中を通ります。速足で、人ごみをかき分けるように進み行かれたイエスさまに、ひとりの女性が気付きます。その女性は、12年間、長血、一週の婦人病を患っていました。ただしこの病は、普通の病よりもさらに厳しい苦しみを強いるものでした。何故なら、この病に犯された女性は、律法において、社会生活を営めない人とされていたからです。彼女が触れるものは、すべて汚れたものとされたのです。病気そのものの苦しみだけではなく、社会的には、既に死んだような状況に置かれたのです。

かつての、いわゆる「らい病」と呼ばれて、国家の法律によって、一般社会から隔離された方々のことを、ご想像下さったら分かりやすいのではないかと思います。12歳のあの少女は肉体的な死を経験しました。それに対して、この女性は、すでに12年間、家族と別れさせられ、人間どうしの交わりを奪われ、言わば、社会的な死の体験を強いられていたわけです。

この女性は、主イエスにそっと近づきます。いや、駆け足で近付きます。しかし、誰にも怪しく見られないようにと、後ろから、イエスさまの衣に触れます。このことが明らかになれば、イエスさま御自身に大変なご迷惑をお掛けすると彼女は思ったからです。絶対に、誰にも知られてはならない。しかし、何とか、主イエスの服に触れさせていただきたい。そうすれば、癒されると思ったのです。

どうかすると我々は、この女性の行為もまた、何かの新興宗教に入っている信者さんみたい、と思うのではないでしょうか。あるいは、私どももまた、この女性の行為を、少なくとも信仰などとは呼んではならないのではないかと思うかもしれません。ところが、主イエスの評価はまったく違うのです。「イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ここで何よりも、私どもが驚かされるのは、このような彼女の率直な願いと行動を、主イエスが喜ばれたということです。主家は、御自分に近寄って来て、何とか治して頂きたい、そうすれば治ると考えた彼女を大いに喜ばれたのです。これらを、信仰と認められるのです。そして、主は彼女の願いを聞き入れ、癒されたのです。

私どもは、ここで真の信仰とは何かを、改めて教えられるような思いが致します。ハイデルベルク信仰問答の問い21「まことの信仰とは何ですか。」答え「それは、神が御言葉において、わたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信するその確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしの内に起こして下さる、心からの信頼のことでもあります。」
ジュネーブ教会信仰問答の問い111にこうあります。「我々に対する神の愛についての確固とした認識であります。」

確かに、キリスト教信仰にとって、認識ということは、決定的に大切です。したがって、聖書、福音の説教による正しい知識が必要です。しかし、その知識を単に知的に認識するだけでは、不十分なのです。心からの信頼が信仰なのです。

神への信頼をカルバンは、私ども自身に対する神の愛と言います。本当に、その通りです。神が私を愛していて下さる、極みまで愛して下さる、命をかけて愛して下さり、今も、その愛をもってわたしは愛されているのだ、そう信じることが、信仰なのです。

この女性も、あの父親も、この16世紀と17世紀のすばらしい教会の教えを知ることはありません。けれども、単純に、主イエスのところに行こう、主イエスにお願いすれば、神の愛の御心を示して下さる。父なる神の愛に基づいて、最善のことが起こるのだと信じたのです。

私どもは、彼女の信仰、また何よりも、あの指導者の信仰をここで、読みながら、自らを問いたいと思います。いったい、私どもは、死の問題や病の問題、どうすることもできない人生の危機に遭遇するとき、そのとき、私どもは、どこに行くのでしょうか。何に頼るのでしょうか。

今朝、私どもは、この二人のような過酷な状況にいないかもしれません。しかし、お互いに、教育の問題、経済の問題、家庭の問題、様々な課題や問題を持っています。しかし、もしかすると、私どもこそ、彼らに叱責され、笑われるかもしれません。「いつでも、自分に頼る。目に見えるものに頼る。それは、信仰以前ではないか。まるで、21世紀版、新興宗教ではないか。」つまり、私どもは、どれほど、真剣に、主イエスに頼ろうとしているのか、と言うことです。

さて、もう一つの、決定的に大切なメッセージを、この物語から見つめましょう。ここには、病と死の問題、なによりもいのちの問題が扱われています。いったい、死とは何でしょうか。いのちとは何でしょうか。それが、この物語によって、鮮やかに示されました。彼らの行為、行動によって、現されたのです。

さて、「イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になられます。ユダヤの葬儀事情は、一種特別でした。「笛を吹く者」それは、悲しい音色を流して、涙を誘うために雇われた人です。また、雇われて号泣する女性もいたのです。その意味では、日本では、悲しみはぐっとこらえることが、葬儀におけるふさわしい悼み方と思われていると思いますが、しかし、ユダヤ社会では、悲しみを表に出すことが、ふさわし葬儀だったのです。おそらく、父親がいない間に、葬儀の手はずが整えられていたのです。

ところが、主イエスは、驚くべきことを宣言なさいます。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」この悲劇を聴きつけて、悼みに来た親戚、友人たちも、何よりも、葬儀屋さんたちは、「イエスをあざ笑」いました。彼らにすれば、何を、ふざけているのだろうと、本心から思ったことでしょう。
少女は、明らかに、死にました。主イエスが駆けつけたとき、すでに、葬儀は始まっているのです。心臓は停止し、体も硬直して、もはや、誰がどう見ても、死体となっているのです。ところが、主イエスは、眠っていると仰るのです。

昨年の夏、私どもは、心臓などの移植のために、脳死状態の人を死と判定する法律の是非について学びました。現代社会は、いよいよ、人間の科学的可能性があれば、それを追求することは、善いこと、許されることだと考える価値観にどんどん流されています。

主イエスが、ここで、客観的な事実としての死亡状態にある少女を、眠っていると宣言なさったことのメッセージを汲み取りたいのです。つまり、人間のいのちをまことのいのちと判定すること、人間の死をまことの死として決定するのは、神御自身なのだという真理です。つまり、それは、このわたしなのだという宣言がここでなされたのです。死から命へと取り戻す力、権威すらこのお方にあるということです。

群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」こうして、主イエスは、少女を蘇生させたのです。こうして、ここで、死とは何かが、明らかにされたのです。同時に、生きるということは何かも明らかにされています。まことの「いのち」とは何かということが、鮮やかに、単純に示されたのです。それは、どのようなものなのでしょうか。難しいことは、ここでは一つもありません。

人間のまことのいのちとは、神に近づくことであり、父なる神との交わりのことなのです。いったい、主イエスとは誰なのでしょうか。主は、父なる神の御子です。神のいのちそのものでいらっしゃいます。父と子と聖霊の神こそ、いのちの源なのです。人となられたイエス・キリストは、神から私どもへのいのちの贈り物なのです。したがって、御子なるイエスさまに近づくこと、触れていただくこと、主イエス・キリストが共にいるということ、出会うこと、主イエス・キリストとの交わりこそが、人間のまことのいのちなのです。

 神の国とは、どこにあるのでしょうか。何でしょうか。それは、このイエスさまがいらっしゃる場所のことに他なりません。そこにこそ、いのちがあるのです。したがって、そこには、病も死もありません。そのような神の国の真理、その神秘と事実とを、私どもに確認させ、教え示すため、悟らせるそのために、ここに登場する二人の女性は、私どもの代表として癒され、蘇生させていただいたのです。

 しかし、ここで、大切なことがあります。この蘇生された少女も、12年間の厳しい病で苦しみ続けた女性も、イエスさまの愛されたのですが、しかし、やがて死んだに違いありません。それなら、もう一度、この父親は、イエスさまのところに駈けつけて、取り戻して頂くのでしょうか。聖書には、書いていません。しかし、わたしは、おそらく、このお父さんは、もう、イエスさまにこのようにお願いしなかったのではないかと、想像します。何故でしょうか。

彼女たちは、今、どこへ行ったのでしょうか。どこにいるのでしょうか。無になったのでしょうか。消滅してしまったのでしょうか。違います。彼女たちは今、イエスさまがいらっしゃる父なる神の御元にいるのです。そうなると、確かに彼女たちは地上においては、肉体的には、死んだのですが、主イエスがいましたもう所、父なる神がいますところにいるのです。そうであれば、彼女たちの状態こそ、いのちそのものと言っても、良いのではないでしょうか。いのちの源、それは、神です。イエスさま御自身です。そうであれば、地上に生きている私どもよりも比較にならないほど、天国において、天にいらっしゃる主イエスのもとで、いのちに満たされているはずです。

 確かに、天にいる彼女たちの肉体は、朽ちて、消滅してしまっています。しかし、それでも、あわてふためくこともありません。主イエスはお甦りになられたのです。そして、主イエスがこの地上に再び来臨されるとき、私どものもはや消滅してしまった肉体も新しい体とされて立ち上がる、復活するのです。こうして、完全ないのちへと、つまり、復活の肉体を備えたいのちへと甦るのです。ここで、人間は、歴史の中で完成されるのです。要するに、肉体の死は、わたしの、私どもの終わりではありません。詳しくは、夜の祈祷会で学びたいと思います。

 さて、今朝は、ついに、聖餐の食卓を祝う事が出来ます。まさに、礼拝式の中で、究極の祝福です。天国の食卓の前味と言って、これ以上のものがあるかと思います。今朝、信仰をもって、パンを受けて下さい。ちぎってください。「これは、あなたがたのためのわたしの体である。」わたしが、主イエスの宣言を、代わりに告げます。皆さまが触る、触れるのは、「わたしの体」、つまり、主の御体です。

信仰は、私どもに大きなイメージ、鮮やかなイメージ、ビジョンを見せます。あなたが主イエスに触れるのです。しかし、事実は、このような仕方において、主イエス御自身が、私どもにお触れ下さるのです。今朝、もう、これ以上は語る必要はありません。主イエスが、あなたに触れて下されば、あなたにいのちが注がれます。神のいのちです。永遠のいのちです。ですから、この聖餐の食卓に招かれた者たちは、死んでも生きるのです。まことのいのちがここで、始まっています。ですから、もはや決して死ぬことはないのです。

 主イエスは今朝、皆さんを「ようこそ、いのちの源へ」と招かれています。洗礼入会志願者の方は、いよいよ飢え渇いて主を求めて下さい。求道者の方は、どうぞ、洗礼を志願してください。そして、このいのちに与って下さい。キリスト者たちは、悔い改めと感謝を深めて、手を伸ばしましょう。

祈祷
私どものいのちなる主イエスよ、御子のいのちを私どもにお与えくださいました父なる御神よ、今このいのちを私どもに豊かにそそいでおられる聖霊なる御神よ、三位一体のいのちの交わりの内に、私どもの地上の旅路、人生を支えて下さい。どのように地上の旅路を終えようとも、あなたの交わりの内にあることを確信させてください。既に、御元へ召された仲間たち、兄弟姉妹を覚えます。あなたの祝福の中で、あなたのいのちの交わりの中にいるそのビジョンを見せて下さい。そして、私どものこの地上での使命と役割を、しっかりと担わせて下さい。そして、あなたのご計画にしたがって、私どもにも、彼らの祝福に与らせて下さい。アーメン。