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「ようこそ、神の国へ」

「ようこそ、神の国へ」
2010年8月8日
テキスト マタイによる福音書 第9章27-34節 
【イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。】

今朝は、二つの癒しの奇跡の物語を合わせて学び、礼拝を捧げて参りましょう。お読みした物語は、主イエスが、12歳の少女を死の床から蘇生させた奇跡の直後に、まさに立て続けに起こった出来事でした。
主イエスが、彼女を起き上がらせたとき、おそらく夕刻になっていたのかと思います。ある人の家に行かれます。するとそこへ、二人の盲人が、登場します。かねてより、主イエスの噂を聴いていたのでしょうか。あるいは、この少女が生き返ったという、驚くべき知らせを語り始めた町の人たちの声を聴いたのでしょうか。いずれにしろ、彼ら二人は、自分たちの目の前を、イエスと弟子たちが通り過ぎたことに気づいたのです。彼らは、ただちに叫び声を挙げます。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」

実は、この叫びは、やがて、キリストの教会の礼拝式の中で唱えられる言葉となりました。宗教音楽を聴かれる方なら、しばしば「キリエ・エレイソン」とうラテン語を耳にされると思います。「主よ、憐れんで下さい」という意味です。私どもも今朝、いつものように十戒を唱え、そして、その最後に、私が、ラテン語ではありませんが、「主よ、憐れんで下さい」と唱えました。ジュネーブの教会を指導した改革者カルバンは、十戒の一つを唱えるとき、その一つ一つに、「キリエ・エレイソン」と唱える式文をもって、唱えました。彼らが、主イエスに向かって叫んだ、「主よ、憐れんで下さい。」「キリエ・エレイソン」という言葉は、「アーメンやハレルヤ」と同様、特に教会の典礼、礼拝式で大切に唱えられて参りました言葉なのです。

「主よ、憐れんで下さい」という呼びかけは、マタイによる福音書の中では、特に重く豊かな響きをたてていると思います。それは、第9章12節で主イエスがこう宣言なさったからです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスは、旧約聖書のホセア書第6章6節の御言葉を引用して、父なる神が求めておられるのは、いけにえではなく、憐みなのであると強調されました。ですから、この盲人たちが、「憐れんで下さい」と呼びかけたとき、それは、神さまのお心を、その意味では、ぐっと捉えることになる、呼びかけだと思います。私どももまた、今朝、単なる式文としてではなく、心の底から、「主よ憐れんで下さい。アーメン。」と主イエスにすがりつけば、必ず、主が愛して、赦して下さることは、疑う余地がありません。憐れんで下さいと言わない人、言えない人、自分で、何とかできるし、しなければならないと考えている人は、何と不幸な人かと思います。

この二人は、「ダビデの子よ」と呼びかけます。これは、ダビデの子孫からメシアが生まれるという旧約聖書の預言に基づいて、イエスさまを彼らが考えるメシアであるという信仰の思いを込めた告白だと思います。彼らは、ダビデの子よと尊敬をもって、呼びかけるのです。

さて、私どもは、これまで学んでまいりましたから、一つの異変に気づくだろうと思います。おかしいなと、思います。何かと申しますと、主イエスが、まさに、あの娘を亡くした父親を憐れみ、また12年間長血を患った女性を深く深く憐れまれたのです。主イエスは、徹底して、悲しんでいる人と共に悲しみ、マタイのように喜んでいる人たちとは、大いにその喜びを共にされた方なのです。

ところが、この二人の盲人に対しては、主イエスは、立ち止まられません。とても不思議に思います。何故でしょうか。残念ながら、マタイは、理由を明示していません。しかし暗示しているのではないかと思います。

さて、彼らは、叫び続けます。にもかかわらず、主イエスは、足を止められません。やがて、お泊りになる家に着きます。彼らもまた、なお諦めずに、家に入って行きます。実に、見ず知らずの人の家にまで、イエスさまのみもとに近寄って来たのです。彼らは、何としても目を開かせていただきたかったのです。そして、ダビデの子でいらっしゃるこのイエスであれば、必ず癒すことがお出来になると信じているのです。このチャンスを決して逃してはならない、必死な思いが伝わります。

私どもも、本当に教えられ、励まされます。「主よ、憐れんで下さい」と彼らのように、真剣に求める者とされたいのです。

そこで主イエスは、こう尋ねます。「わたしにできると信じるのか」二人は、「はい。主よ。」と即答します。「そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人は目が見えるようになった。」のです。

ここでも主イエスは、彼らに触られます。主イエスの御手が触れるということは、象徴的な行為です。主イエスとの出会いが起こったということです。主イエスとの触れ合い、人格的な、人間と人間の全人格的な出会いが起こったのです。主イエスのいのちに触れたことです。主イエスのいのちは、また、主イエスの憐れみそのもの、主の愛そのものです。主の愛が、そのいのちが、彼らに流れ込み、ここでは、盲目が啓かれたのです。

いったい、彼らの開かれた目は、そこで何を見ることになったのでしょうか。それはイエスさまに他なりません。主イエスを、仰ぎ見ることができた。つまり、この出来事は、ここでもまた、天国のモデル、神の国の幸いな状況を映し出す行為に他なりません。

さて、改めて問いましょう。主イエスは、ここで、何故、立ち止まられなかったでしょうか。主は、彼らの信仰を試し、そしてそのようにして彼らの信仰を支え、深めてあげようとなさったのだろうと思います。

そして、ついに、家の中で、主イエスは、彼らに問いかけます。「わたしにできると信じるのか」彼らは、即座に、「はい。」と答えます。「その通り」ということです。つまり、「できると信じる」と答えたわけです。これは、すばらしい信仰です。

しかし考えて見ますと、彼らは、「できる」と信じているからこそ叫び続け、後をついて来たわけです。しかし、主イエスは、彼らにその信仰をなお確かめられるのです。その意味は、彼らに主イエスに対する信仰の告白をなす幸いを与えて下さるためです。「主よ、はい、その通り」これは、要するに、現代の教会の言葉に移し替えれば、ひとこと、「主よ、アーメン」と言いあらわしたということです。

ニカヤ信条の最後に私どもは、「アーメン」と唱えます。それは、唱えた信仰の告白、内容のすべてに同意しますという表明です。ニカヤ信条は、特に聖餐の礼典を祝う前に唱えられるべき信条として、大切にされてまいりました。全世界のキリスト教会を一つに結び合わせる信仰告白、歴史的に申しますと唯一の信仰告白の絆と言っても言い過ぎではない信条が、ニカヤ信条です。そして、これを「アーメン」と同意する人だけが、「唯一の聖なる公同の教会」に受け入れられる、キリストの教会は判定してまいりました。そこに、このニカヤ信条の意義、重みがあります。ちなみに、「使徒信条」は、洗礼を受ける人に告白を求める信条として、私どもの教会は重んじてきた歴史があります。

しかし、主イエスは、ここで、ニカヤ信条のように長々と信仰の告白を求めません。彼らは、既に「ダビデの子」と呼んでいます。これは、当時の一般の人々が主イエスに期待し、抱いていた思いです。メシア、キリストつまり救い主という意味です。しかし、主はキリストには、あなたたちの眼を開く力があると信じるのか、要するに、このわたしにその力があると信じるのかと、問いかけて下さったのです。

つまり、彼らは、あらためて、自分たちの信仰の思いを、きちんと、明白にさせて頂くチャンスが与えられたわけです。主イエスは、ごく短く、言わば、ご自分がつくりだした信仰告白、ニカヤ信条で言えば、「我らは唯一の主、万物は彼によりて造られたり。」という信仰の内容に当てはまると思いますが、創造者なる神として、その力をお持ちの主として信じるのかと、問われるのです。そして、彼らには「はい。」つまり「アーメン」と答えさせて、それで十分とされたのです。

先週の週報に、古代の教会は、洗礼入会式まで3年余りの準備期間を設けると、書きました。しかし同時に、ここで、明らかにされる真理は、救いの信仰とは、ごく単純素朴なものであるということです。主イエスが、「わたしを信じるのか」と尋ねて下さり、私どもは、「はい。主よ」と答えれば、これで、完了なのです。まさに、誰にでもできるような応答ではないかと思います。

たとい、病床にあっても、もう、意識がなくなりかけても、あるいは、死ぬ瞬間でも、「はい、主よ」と返事をすることは、できるのではないかと思います。「アーメン」と返事はできるのではないかと思うのです。そんな小さな信仰の応答を、主イエスは、大いに喜んでくださるのです。それを、「あなたがたの信じているとおりになるように」とおっしゃって、まるで、この二人の信仰が、自分たちの深い、篤い信仰心の実りであるかのように表現なさるのです。彼らの信仰を大いに評価し、素朴にお喜びになるのです。しかし正しく表現すれば、まさに彼らの信仰とは、主イエスご自身が、彼らのために、「つくりだして下さった信仰」に他なりません。

したがって、もしも、この出来事を説明して、二人の信仰がすばらしかったから、模範的だから、主に癒されたのだなどという人いれば、それは、おかしいと言わざるを得ません。むしろ、危険な考えと言うべきです。ところが時々、そのようなニュアンスで語る人がいるようです。曰く、「あなたがもっともっと信じ、祈り求めるなら、病は癒され、問題は解決するはずです。あなたに襲いかかっている試練や不幸や失敗は、結局、あなたの信仰が足らないからだ」

確かに、不信仰は、神の働きを担うことはできません。まさに、神の働きは信仰を通して、信仰によって担われるものです。信仰とは、神からの賜物に他なりませんが、賜物として与えられたものは、実に、わたしじしんのもの、私どもの存在のもっとも深いところにまで、影響を及ぼして、私どもじしんのものと言いうるまでになるのです。ですから、与えられた信仰を働かせることは、決定的に重要です。

それなら、信仰を働かせるということは、具体的に言えば何でしょうか。それは、神とその御言葉に従うことです。御言葉の教えに従わないところで、信仰が篤いとか、信仰が薄いとか、議論しても空虚です。聖書によって明らかにされる信仰とは、従順のこと、信仰の従順、神の御言葉に従順に生きることなのです。

それなら、改めて、その規準に基づいてこの二人の信仰をはかりなおしてみましょう。主イエスは、彼らの眼を啓かれた後、ここでもとても驚くべき態度をとられました。主イエスは、「この事を、誰にも知らせてはいけないと厳しくお命じになった」のです。聖書のなかで、ここでしか用いられていない表現だと言われます。「激しく息まく」と言う翻訳もあります。

ところがどうでしょうか。なんと、彼らは、主イエスのことを言い広めてしまいます。おそらく彼らは、それが悪い事であるとは思わなかったのかもしれません。むしろ、こんなにすごいことをしてくださったイエスさまを、多くの人々に紹介したい、すべきだと思ったのかもしれません。また、自分たちは、神さまに愛されていることを、誇らしくも思って、そうしたのかもしれません。

しかし、信仰とは、どんなに善意であろうと、確信を持っていようとも、自分の判断を優先させることではありません。信仰とは、主イエスの御言葉に従うこと以外のなにものでもありません。聖書や教会はそう言うけれど、自分はこうした方が良いと思う。そのような考えや、行動は、結局は、キリスト教信仰ではなく、その人のキリスト教的信念、信心、考え方です。それは、どれほど強く、活動的で、さまざまなキリスト教活動をしても、神の御心ではありませんから、正しい奉仕でもなく、何よりもまことの実り、霊的な、神の実りを結ぶことには繋がらないでしょう。つまり、この二人の信仰とは、まさに、あるかないかわからないような本当にごく小さなもの、あるいは未熟なものであったと言わざるをえません。

ですから、この二人が万一にも、イエスさまは、わたしの信仰がすばらしいから、篤いものだから、癒して下さったのだ、などと宣伝するとしたら、大変な間違いを犯していることになります。もとより、そのようなことは、言わなかったのでしょう。しかし、繰り返しますが、この二人の信仰が、素晴らしかったから、だから、癒されたのだというわけではないはずです。

まさに憐れんで下さいと願ったから、主の憐れみにあずかったのです。しかもそのように願い出ることを、主イエスは決して軽んじないのです。自分勝手な願いなら、ダメだとはおっしゃいません。目が見えないという彼らの厳しい人生を思い、主は、御心を示されたのです。そして、これまでの大きなおさらいになりますが、主イエスがこの地上に来られ、奇跡をなさったのは、神の国がこの地上に始まっていることを証明するためでした。この主イエスの御心、ご目的と、彼らの願いは、ピタリと重なっているのです。

さて、補足しますが、それならなぜ、主イエスは、広めてはならないと釘をさされたのでしょうか。それは、どこまでも主イエスの御心は、癒しの奇跡を行うことによって神の国を宣教することではなかったからです。癒しの奇跡は、神の国のしるし、証拠です。もしも、主イエスの第一の目的が肉体の癒しであれば、主イエスは、周り回って歩かれなくても、エルサレムの町の真ん中で、来た人々を皆癒されれば、効率がよいでしょう。

しかし、主が伝道なさりたいのは、神の国は、来ているのだから、悔い改めて福音を信じなさいということだったのです。そのようにして、神の国へと入りなさいと招くことでした。癒しだけを求めて駆けつけられることは、主の伝道のお働きを阻害することになるのです。今日、このような奇跡がしばしば起こるかと言えば、起こりません。何故なら、神の国が始まったことは、このとき、このような仕方で起こったことで十分に証明されたからです。その意味で、主イエスは、このような奇跡を大々的に宣伝なさるお方ではないということからも、今、私どもの周りで、このような奇跡が起こらなくとも、神の国の伝道と教会の形成が、進展しないということにはならなかったのです。そのような奇跡を体験せずとも、私どもの信仰はいささかも困らないのです。

これは、少し補足になりますが、それなら、現代のキリスト者は、自分の上になされた奇跡を黙っていなさいと命じられているのでしょうか。まったく違います。後ですぐに学ぶことになりますが、私どもは、罪を赦され、神の子とされ、永遠のいのちを授かったこの驚くべき奇跡を、外に出かけて行って証し、御言葉を伝えることに励むようにと命じられています。したがって、今の私どもがもしも、黙り込んだままでいるなら、彼らと同じようなまったく未熟な信仰者でしかないということになるでしょう。

さて、目が見えるようになった二人は、もう嬉しくて、この家を飛び出て行きます。すると、入れ替わりに、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、親しい人に連れられて主イエスのいらっしゃる家にまいります。主イエスは、ただちに、悪霊を追い出されます。

ここに連れて来られた人は、単に、しゃべれない、言わば失語症になったということだけではなく、聾唖者のことかと思います。耳が不自由なのです。耳が聴こえないから、しゃべれないのです。一度も言葉を聴いたことのない人は、上手に、しゃべることができません。言葉を音声にすることが難しいのだと思います。しかし今、彼は、耳が開いたのです。そして、イエスさまのお声をしっかり聞くことができるのです。

耳が開かれた人は、口も開きます。彼は、しゃべり始める。おそらく、最初は、誰も聴きとることのできない発音でしょう。何を言っているのやら、分からない。彼は、自分でもまだ、言葉が分からない。しかし、心にある思いを何としても伝えたかったはずです。

いったいそれは、どんな言葉でしょうか。想像してください。人間の究極の言葉です。それは、わたしは、感謝の気持ち、言葉だったと思います。ありがとう。ありがとう。ありがとうございます。そしてこの「ありがとう」は、「わたしはあなたを信じます。あなたを愛します。」という信仰の感謝の表明でもあったと思います。

最初のあの目を啓いて頂いた二人も、耳をひらいていただいたこの人も、最初に目にしたのは、主イエスのお姿でした。最初の耳にしたのは、主イエスの御言葉でした。つまり、彼らは、人間が見るべき、聴くべき究極のお方に出会ったのです。そのようにして、この主との交わりへと招かれたのです。まさに、天国の体験を今ここで味わっているわけです。

こうして、この第8章、第9章で、主イエスは、まさにこの地上に神の国が力をもって始まったことをものの見事に証されたのです。立証されたのです。目が開かれ、耳が開かれ、本当に見るべきもの、聴くべきもの、それなしには、人間が人間として、人間が人間らしく生きれないそのお方、つまり、主イエス・キリストと出会い、主イエスを知り、交わりをなす場所が、この地上に始められたのです。

これこそは、教会の現実です。教会の礼拝式において、私どもはこのいのちの主、神の国主なるイエスさまと交わり、そして、主イエスによって結びあわされたお互い、兄弟姉妹との交わりがここで実現しているのです。
しかし、それは、ただ自動的に、この場所に座って、讃美を歌い、御言葉を聴いていることで実現するわけではありません。そこに信仰を働かせる必要があるわけです。しかし、わたしどもは、今、そのまさにあるかなきか分からないように小さな信仰かもしれませんが、主に呼び覚まされて、「はい、主よ。その通りです。アーメン。」と告白することができたのです。そして、そこから出発して、いよいよ、信仰が富ましめられるようにと祈るのです。

さて、最後に学びましょう。こんなにすばらしい神の国の力が現されたわけですから、当然のことでしょう。「群衆は驚嘆し」て、言いました。「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」彼らは、いよいよ、神の国の始まりを予感し、イエスさまをダビデの子として理解し始め、確信へと進んで行こうとしています。

さて、ところがです。何と、同じすばらしい御業を目撃しながら、まさに正反対の評価をする人がいるのです。それが、あのファリサイ派の人々でした。これまで、ユダヤ人から、高い評価、尊敬のまなざしで見られていた彼らは、こう言うのです。「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している

ここに罪深い人間の心があらわになります。彼らは、自己中心的な先入観でしか、ものを見られないのです。まさに、彼らの目こそ、盲目になっているわけです。あるいは、色眼鏡をつけているのです。イエスさまが言うことなすこと全部、反対にとらえるのです。最初から、反対しているのです。

何故なのでしょうか。それは、「ねたみ」です。彼らは、イエスさまが登場なさる前までは、人々の尊敬を集めていたからです。どんなに素晴らしいことが起こっていても、自分たちの立場を否定するようなら、人間は、その善い行いを、評価しないのです。

最後の最後に、このファリサイ派の人々の態度を、他人事にすることはできません。私どももまた、主の教えとご命令に対して、どのように従うのでしょうか。自分の考え、体験、価値規準をもって、聖書や説教を聴くなら、私どもは、いつまでも変化しません。変わりません。むしろ、主イエスにむかって、御心とご命令の正反対のことすらしかねません。

私どもこそ、日々、信仰の眼を開いていただくことを、求めましょう。「主よ、憐れんで下さい」と、よりすがりましょう。そうでなければ、主イエスを見ることは決してできないからです。自分の力で、主を仰ぎ見、礼拝すること、信じることはできないからです。神の御言葉が聴き取れるように、祈り求めましょう。御言葉が分からなければ、主イエスに触れること、出会うこと、交わることができないからです。声をだせないからです。それは、私どもで言えば、祈れないということです。隣人に、福音を語れないということです。

キリスト者である私どもは既に、ここに登場した人たちのように、奇跡を起こして頂きました。つまり、信仰の目が啓かれ、耳が開かれ、ここに神の国が力をもって始まっていること、現れていることを確信することが許されているのです。その救いの奇跡を起こして下さったのは、主イエスであり、主イエスが共にいましたもうこの教会、この礼拝式です。そうであれば、私どもは、いよいよ、この神の国へと、選びの民をお招きする務め、その務めに真実に、聴き従う者とされますように。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもは、主イエスに目に触れて頂き、耳に触れて頂き、信仰の眼啓かれ、信仰の耳が開かれました。今、地上におりながら、私どものいのちの故郷である天の国を仰ぎ見ることができます。そして、ここに、この教会に主イエス・キリストが共にいてくださり、神の国を力をもって始めていて下さることを信じることができます。父なる神よ、どうぞ、私どもの信仰を強め、富ましめてください。今がどのような時代であるかを悟り、神の国の前進と拡大のために、信仰を働かさせて下さい。御用のために、用いて下さい。アーメン。