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「憐みの主と共に働く弟子」

「憐みの主と共に働く弟子」
2010年8月22日
テキスト マタイによる福音書 第9章35-第10章4節 
【イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。】

今から10年ほど前、アメリカの長老教会が新しく子どものためにカテキズム、信仰問答書を編みました。その問い一にこうあります。「あなたは誰ですか。」答え「わたしは神さまの子どもです」実にすばらしいと問答です。

ちなみに、私どもの「子どもカテキズム」もまた、問いの二において、「人生の目的を実現するためには、どうすれば良いのかと尋ねます。そして、こう答えます。「主イエス・キリストを信じて救われること、神さまの子どもとされることによって、です。」私どもは、ただ主イエス・キリストの恵みによって、主イエス・キリストを信じて救われた結果、神の子と「される」わけです。

さて、私どもの普段の生活や会話においては、そのような問答がなされることはないと思います。おそらくこのような問答はあるでしょう。「あなたは、宗教持っていますか?」「あなた何か信仰しているの?」そのとき、大抵は、「はい、キリスト教です。」とか、何よりも「実は、キリスト者です。」と答えるのではないでしょうか。さて今朝、聴きました主イエスの御言葉は、改めて、私どもキリスト者とは、どのような存在なのか。それを今一度、確認させてくださる、重要な御言葉だろうと思います。

改めて言うまでもなく、「自分が誰であるのか、何者であるのか」それを知ることは、生きていく上で、決定的に大切です。思春期に、「自分って誰。自分っていったい何。何のために生まれてきたの。何のために生きるの。」人間が問うべき、最も大切な問いです。私どもは、神の子とされたキリスト者です。それなら、キリスト者の意味、キリスト者とは何者であるのかをきちんとわきまえていることは基本的に大切です。

8月の夜の祈祷会では、「60周年宣言」の、特に、死の問題を学びました。宣言の中には、小見出しがつけられています。そこに、「信者にとっての死の意味」また、「信者の死後の状態」というタイトルがありました。実は、私は、この「信者」という言葉を読むとき、いささか違和感を持ってしまうのです。というのは、わたしく自身は「しんじゃ」という言葉を、ほとんど、いやもしかしたら、一度も使ったことはないのではないかと思っているからです。

これは、ごくたまにしかありませんが、ある方から、「信者さんは、何人ですか」と聞かれることがあります。そこで、その「信者」という響きにひっかかってしまうのです。私じしんは、皆さんのことを教会員、会員とお呼びしますが、信者とお呼びしたことがありません。

信者という言葉は、確かに、聖書の中では、特に使徒言行録に登場します。しかし、福音書には、一度もありません。つまり、聖書じしんもまた、言わば、便宜上、信者という言葉を使っているのではないかと思います。それに対して、私どもを言い表す表現として圧倒的に多いのは、何でしょうか。

もしかすると、皆さまの中で、少なくない方が、「キリスト者」だと思われたかもしれません。このキリスト者という表現が歴史上初めて登場するは、使徒言行録の第11章26節です。「アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」つまり、キリスト者、英語で、クリスチャンは、もともと、キリスト者を嘲笑うあだ名として、言われたのでした。ところが、キリスト者の先輩たちは、このあだ名を大変、気に入ったのです。本当にその通りなのだと確信したからでしょう。

さて、答えは、何でしょうか。それは、「弟子」であります。新共同訳に342回出て参ります。ちなみに、新共同訳の中で、信者という翻訳は30回も出て来ません。

これは、あるカトリックの司祭の方の書物で読んだのですが、こうありました。「主イエスは、信者を作ろうとしたことは一度もない、信者を集めた事もない。主イエスがなさったことは、弟子を招き、弟子を育て、訓練したのだ。」わたしは、申し訳ないのですが、それがカトリックの司祭の言葉であったことに、とても驚かされました。わたしのイメージの中には、ローマ・カトリック教会は、むしろ、信者という表現をよく使い、会員の方々もそのような自己理解を持っていると思ったからです。

もともと、私どもの先達、500年前の教会改革者たちこそは、自分たちをキリストの弟子として強く認識致しました。ですから、改革教会は、教会にとって「訓練」という事が本質的に不可欠なのだと理解していました。今も、私どもの基本的な教会理解とは、「説教と聖礼典と正しい訓練とがなされているところに教会が存在する」というものです。したがって、教会員が、キリストの弟子となるため、よい弟子となるために、訓練を施されることは、会員の特権だと言っても言い過ぎではないのです。逆から申しますと、訓練を施さない教会、あるいは施せない教会は、健康ではないと言ってもいいわけです。私どもは、個人伝道の実践的な学びをしたのですが、それもとても大切なのです。したがって、万一、私どもの教会が、カトリックの司祭から、反省を迫られるようであっては、どちらの教会が、本当に改革された教会であるのか、問われてしまうことになるかもしれません。

さて、先週は、36節を集中して、学びました。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」主イエスが、神の国の伝道を展開し、病気や患いを癒される奇跡を行って神の国の到来、はじまりを証されたのは、私どもを、飼い主のいない羊とご覧になられ、深く憐れまれた、愛されたからなのだと学びました。

このようなはらわたをちぎるような激しい痛みをもって、私どもを憐れみ、愛される主イエスでいらっしゃればこそ、第10章1節の御言葉があります。

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」こうして、主イエスは、ご自身の働きを共に担うために弟子を選び出し、お立てになられたのです。汚れた霊を追放し、病気を癒す権能とは、主イエスご自身がもっていらっしゃる権能、つまり権力、権威にほかなりません。実に、この神御自身の権威を、弟子たちにそっくり授けられるというのです。これは、驚くべきことです。

さて、主は、ここで、「収穫は多い」と約束されます。それなら、収獲とは何でしょうか。主イエスが、あの筆頭弟子となったペトロにお声を掛けられた、御言葉を思い起して見ましょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」彼は、人間は天国へとすなどる、釣り上げる、収獲する働きへと召しだされたのです。そこから考えれば、ここでの収獲とは、畑で実った麦、その実りの収穫、つまり、天国へと人々を刈り入れるというイメージが成り立つと思います。つまり、主イエスは、ここで、天国へと入るキリスト者は大勢いるのだと、仰ったのだと思います。

しかし、同時に、ここで、せっかく大収穫が約束されていても、もしも、そのまま放置すれば、枯れてしまう。腐ってしまうと言う、そのようなイメージも描き出されます。いずれにしろ、当時もそして今も、多くの人たちが、すでに収獲されることを待っているというイメージを描き出しておられるのだと思います。

私どもの教会は、開拓伝道開始、16年目。なお、若い教会です。しかし、いつも考えるのは、主なる神は、16年のはるかに前に、この町に住む人々に働きかけていらっしゃるということです。今の有松に、明治の私どもの教会の指導者の植村正久牧師が、伝道しにきたという資料があります。そして、そこでの伝道は、さっぱりだったと、言わば、敗北感をもって、東京に戻ったことが記されています。私どもが生まれる前から、この地にも福音の種は、蒔かれていました。滝の水の町は、影も形もなかったわけですが・・・。

その意味では、今、私どもの教会も、どれほど熱心に、倦むことなく、種をまくことが求められていることかと思います。しかし、驚くべき感謝なことに、既に、私どもは、収獲の喜びをも与えられているのです。ここで、新しく洗礼を受けてキリスト者、会員になられた方で、この教会に来て生まれて初めて、聖書なるもの、キリストなるお方を聞いたという方は、一人もおられないはずです。

収穫は多いと主イエスは、私どもの眼の奥にもビジョンを、イメージを描き出して下さいます。ですから、主イエスは、もしも、収獲のために働く弟子たちが少なければ、どれほどの損失になるのかということを、仰るのだと思います。つまり、主イエスのあの憐れみのお心は、私どもに対して、弟子たちに対して、私と共に働きなさい。わたしの同労者になりなさいと、招かれるのは当然かと思います。主イエスは、まさにここで私どもを、「ただ座って、聞いているだけ」つまり「ただの信者」ではなく、「主の弟子」となることへと私どもを招かれたのです。弟子は、先生の考えが分かっている者なのです。先生の気持ち、お心に共鳴できる人なのです。

ただし、いずれにしろ、ここで決定的に大切な真理があります。教会が、とりわけわたしのような者が間違えてはならないことがあります。それは、収獲の主は、教会でも、伝道者じしんでもないということです。実らせるのは、主なる神御自身に他ならないということです。

さて、主イエスは、収獲は多いと語れました。しかし、収獲する人が少ないと仰います。そこで、主イエスは、何と仰ったのでしょうか。これが、今朝の説教の中での、大きなポイントになります。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ひと言で言えば、祈れということです。祈り願い求めよということです。わたしは改めて、不思議に思いました。

わたしは、素朴にこのように思います。もしも、神の、主イエスの深い憐みのお心、はらわたをちぎらすほどの痛みを伴う憐れみのお心を知ったなら、私どもは、何もしないで、じっと座ったままではいられないと思うのです。自分だけすばらしいお話しを聞いて、自分だけ、心がすっきりして、それでは、済ませられなくなると思うのです。いかがでしょうか。

さて、ところが、主イエスはここで「わたしにやらせてみて下さい」「わたしがやります」と、言わば、感激し、英雄のように立ち上がるようには、呼びかけていらっしゃらないのです。わたしは、とても不思議に思うのです。

わたしは、大学生の頃、何度「宣教大会」という集会に出席したことでしょう。それは、伝道献身者を募る、献身をアッピールする集会なのです。有名な説教者が、「今、若者よ、立ち上がろう、今、伝道のために、あなたの全生涯を捧げよう。主は用いて下さる。」熱烈なアッピールがなされます。わたしが、主から伝道者としての召命を受けたのは、そのような集会の中ではありませんでした。

伝道の収獲の主に他ならないイエス・キリストは、ここで、そのようなアッピールをなさっておられるのでしょうか。そうではありません。むしろそのように表現するなら、実に、控えめです。いったい、イエスさまは、アッピールがお上手ではない、おかしな表現ですが、そう思います。

それなら、主イエスがここで弟子たちにお命じになられたことは、とても単純素朴なことでした。ひと言、「神に祈れ」「神に祈り求めなさい」と言うのです。

どうして、私と共に立ち上がれ、決起しなさい、言わば、ある主の教会が盛んにする、「総決起集会」を開催なさらないのでしょうか。これは、先週の説教のおさらいになります。私ども自身の内には、あの憐れみが備わっていないからです。私どもの心の中には、主イエスのような、はらわたをちぎるような人を愛する愛の心がないからです。だから、神に祈り求めなければならないのです。どうぞ、こんなに多くの収獲が、人々が、天国へ入りたいと願っているのに、収獲する人がいないのであれば、誰かを、そのための奉仕者、働き手として、あなた御自身が送り出して下さいと祈らなければならないのです。そして、実は、この祈りを祈るところから、その人本人が、もしかすると、立ち上がらせられて行くことになるのではないでしょうか。わたくしは、自分自身の経験からも、確信致します。

さて、この後、主はただちに、弟子たちの中から、なお特別に12人を選び出します。彼らを10章2節で、「十二使徒」とされます。何故、十二人だったのでしょうか。これは、旧約聖書のイスラエルの十二部族が意識されていたからだと思います。

「使徒」とは、どのような意味でしょうか。ギリシャ語では、アポストロス、それは、派遣された者、つまり神から派遣された者、と言う意味です。英語で、使節、使節団のことをミッションと言うと思います。また、ミッションは使命の意味でもあります。それなら、皆さまは、ご自分のことを、使徒として理解しておられるでしょうか。キリスト者とは誰でしょうか。その本質はアポストロス、使徒に他なりません。神から使命を帯びて派遣された者、それが、弟子なのです。キリスト者なのです。英語で、クリスチャンミッションというと、それは、福音宣教、伝道という意味となります。ミッションとは、伝道という意味なのです。

さて、主イエスは、ここで「働き手」が少ないと嘆いておられます。わたしは、牧師として、率直に申しますと、まさに、教会の問題は、ここにあると思わざるを得ません。

聖書を読むと、福音書のイエスさまのお姿を見るとき、主イエスは、信者を獲得しようという働きはないのです。主イエスは、弟子を獲得し、育てられるのです。それなら、弟子とは、どのような人なのでしょうか。それは、主の御心を知り、これに生きようとする人のことです。信者は、おそらくいつも自分のことを優先します。自分のために、教会に来ます。自分のために、信仰するのです。ですから、信仰はいつでも、自分の殻を破ること、破ろうとは励みません。ほどほどなのです。いわゆる自分が出来る範囲で、するということです。しかも、本当は、出来るはずなのに、その範囲を自分で設定しているわけです。しかし、弟子は、常に、主イエスのお心、主イエスが与えてくださった使命から自分を顧みるのです。

しかしそのとき、改めて申します。そこで主イエスは、私どもに向かって、自分の思いや力で立ち上がれとは、仰っていません。収獲することも、主に従うことも、すべては、主の御力でしかできないからです。

ただし、同時に、残念ながら、何度でも繰り返さなければならないのかもしれません。主イエスは、収穫の主なる神に、収獲する奉仕者が教会に与えられるように、祈り求めよと命じられたのです。したがって、私どもは、どうしても、このように祈らなければならないはずです。祈りの務めを課せられていない人、そのようなキリストの弟子は一人もおりません。その後のこと、それはまさに、主がそのような人を、起こして下さるのです。したがって、主の教会は、常に、伝道者、牧師のために祈らなければなりません。この祈りなしに、教会が成り立つはずはないことも分かるはずです。

さて、この弟子は、ひとりで働きません。12人です。彼らは、二人ひと組になって奉仕しました。伝道旅行に派遣されます。

今朝は、特に、その中の二人に注目してみたいと思います。マタイによる福音書がわざわざ、注釈を付けた人たちです。これは、驚き以外のなにものでもないと思うからです。

先ず、著者自身のマタイです。彼は、徴税人です。徴税人とは、ユダヤ人からすれば、敵国のローマ帝国の下級官吏です。現体制を容認し、率先して、今ある政治体制、ユダヤ人からすれば、忌み嫌われる罪人でした。
もう一人は、熱心党のシモンです。彼は、今でいう、反体制派です。革命を起こして、ユダヤを自治独立の国として、解放すべく、準備していた人です。その意味では、過激派であり、テロ集団に近かったであろうと言われています。

つまり、これは、二人は、互いに、絶対に重ならない人たちです。出会わない人たちです。両極に位置する立場に生きているからです。

熱心党シモンにすれば、徴税人マタイのような不届き者は、暗殺しても、ゆるされるくらいに思っています。一方、マタイにすれば、シモンを発見したなら、ただちに、ローマの百卒長に、「熱心党の一味を見つけた、すぐに逮捕しなさい」と密告しかねません。そのようなお互いなのです。ところが今、彼らが、使徒の集団、一つの使徒団を形成するのです。

そこに、私どもが何を学ぶべきなのか。ゆっくり思い巡らしたいと思います。主イエスが使命を与えられた、使命に生きる共同体なのです。目的、志を一つにさせられたのです。

私どもの教会も、また同じです。主が選び立てられたお互いです。そこに、厳粛な事実を思います。私どもが、教会員を選んだのではないのです。つまり、私どもの絆は、ただ主ご自身にのみあります。ここで洗礼を受けた仲間、他教会から移って来られた仲間、いずれも、主の憐れみを受けたからです。確かに、人間的な思いがそこに入りこんでいないわけではないと思います。しかし、ここへと神によって、迎え入れられた限りは、同じ、使命を与えられたのです。その意味で、今朝、現住陪餐会員は、あらためて、自分が信者であるのか、弟子となろうと志しているのか自ら問われていると言うべきでしょう。私どもは主の使命に生きる共同体なのです。一つのミッションによって結ばれた共同体なのです。

もとより、私どもの誰しもが、心から善い弟子でありたいと願っているはずです。しかし、悲しいことですが、現実には、ふつつかな弟子でしかない場合が多いと思います。しかし、そこで開き直ってはなりません。収獲が多いと仰せられる、主のビジョンを共に、そして、ちゃんと見ましょう。そして、はらわたが今もちぎれるほどの愛で働き続けていてくださる主イエスのお姿を、じっくりと仰ぎ見ましょう。

主イエスは、今、天において、決して休息していらっしゃるわけではありません。主は、昔も今も、生きて働いておられるのです。今朝、私どもは繰り返し、キリスト者は主イエスの弟子とされていると学びました。その意味では、キリストと共に働く人間なのです。キリストが私どもを通して、用いて、働かれるのです。私どもは、キリストの鉛筆、キリストの道具とされているのです。キリスト者とはまさにキリスト者です。それは、地上におけるキリストの働きを継承し、キリストと共に結ばれて、キリストの働きを担える人という意味です。昔、キリスト者のことを、「小さなキリスト」、このように表現する先輩がいました。本当に比べられないような小ささです。
主は、私どもにそして教会に、権能を授けて下さいました。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。」私どもには、実に、洗礼を施す権能が与えられているのです。教会は、わたしを選び立ててその権能の実行を委託しました。しかし、本来、それは、教会全体に与えられたものなのです。洗礼の礼典は、罪の赦しを明らかにし、天国を開き、そこへと入らせることのできる目に見える「しるし」なのです。

今朝、あらためて、私どもが誰であるのか。それを、再確認しましょう。そのとき、誰もが、心から悔い改めて、主に祈るしかないと思います。こうして、一人一人が悔い改め、いよいよ、主イエスの弟子にふさわしい奉仕の歩みへと、整えられたいと思います。先ず、牧師から、そして委員たちから、始まります。そして全会員で力を合わせ奉仕を束にし、「収穫の主よ、豊かに刈り取るために、働き人を送って下さい」と、祈りを一つに集めてまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、収獲が少ないと嘆いている私どもを憐れみ赦して下さい。今、心から収獲の主に祈ります。働き人を送り出して下さい。私どもの教会に送ってください。この祈りを、祈り続けることができますように。私どもを伝道とディアコニアの使命に生きる共同体として下さい。互いに、賜物を認め合い、愛し合う共同体として、この世へと派遣して下さい。アメン。