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「平和の伝道者らしく」

平和の伝道者らしく」
2010年8月29日
テキスト マタイによる福音書 第10章5-15節 
「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」】

 長いテキストを一度で味わい、礼拝を捧げます。ただちに、御言葉の説き明かしを聞きましょう。

先ず、5節です。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」この御言葉は、聖書に慣れ親しんでいる人であれば、いささか戸惑いを与えると思います。何故なら、たとえば、ヨハネによる福音書第4章では、サマリアの町に入ってはならないとおっしゃる主イエスご自身が、サマリアの町に入られたことを知っているからです。その井戸辺で、ひとりの女性と出会い、彼女を通してサマリアの町の多くの人たちがイエスさまを信じるようになったのです。

それなら何故、主イエスは、弟子たちにそのように禁止されるのでしょうか。それは、主イエスが、伝道のきちんとした「方策」あるいは「順序」をお持ちだからです。主イエスは、でたとこ勝負のようなことはなさいません。福音伝道は、必ず、イスラエルから始まらなければならないのです。何故なら、神の言葉である旧約聖書にそう記されているからです。アブラハムとの約束にまでさかのぼります。救いは、ユダヤ人から始まるからです。ただし、同胞であるイスラエル伝道とは、実は、簡単なことではありませんでした。サマリア伝道や、異邦人伝道の方が、よほどやさしかったことを知っています。しかし、主イエスは、その困難な伝道へと、彼らを派遣なさったのです。神のお約束を成就するためです。

次に、「失われた羊」です。これは、第9章36節で言われていた、「飼い主のいない羊」のことです。弱り果て、打ちひしがれている羊たちのことです。主イエスは、断腸の思い、はらわたちぎれるような激しい痛みを伴う愛で、この羊をご覧になられました。ですから、主イエスは、この地に人間となって降りて来て下さり、そればかりではなく、十字架へとのぼって行かれました。

主イエスは、弟子たちに、ご自身の聖なるお仕事に他ならない、神の国の福音を伝道し、神の国がここに始まっていることを証するディアコニアのお働きをそっくりそのまま、委ねられるのです。ここに、教会の、キリスト者の使命、働きの原型があります。神の国の福音を言葉と行いで証する奉仕は、すべてのキリスト者に委託されています。

次に、病人を生かし、何よりも「死者を生き返らせ」に触れたいと思います。私どもは、死者の蘇生は、主イエスだけがなさったことではないかと思います。主イエスは、確かに死者を生き返らせました。あの「少女の蘇生」あるいは、ヨハネによる福音書での「役人の息子の蘇生」そして「ラザロの蘇生」が福音書に記録されています。しかし、弟子たちが、死者を生き返らせた記録は、ありません。それなら、この御言葉は、実現できなかったのでしょうか。決してそうではありません。

たとえば、ルカによる福音書第15章の有名な放蕩息子の譬があります。主イエスは、父親のもとから離れた息子が、父親のもとに帰って来た時、父親にこう言わせています。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」文字通り読めば、おかしいでしょう。息子は、父親のもとを離れ、自分の好き勝手に生きていただけで、決して、死んではいません。しかし、主イエスは、息子が父親から離れているとき、つまり、人間が父なる神から離れているそのとき、神さまとの関係を絶ってしまっている人間は、まことのいのちを、人生を生きることが出来ないと言う例え、メッセージなのです。その意味では、主イエスがまさに、弟子たちに与えた使命とは、死者を生き返らせること、父なる神との正しい絆を結ばせるように招くことでした。そして、彼らをそれを担うことができるのです。

次に、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」です。主イエスの福音、神の国のよき知らせは、神の恵み、賜物です。これは、計算できないほどのまさに宝の中の宝、至宝なのです。

この地上に、目に見えるものは、ほとんど計算ができます。お金に換算出来るわけです。確かに、「お金があれば、地上のことは何とかなる」という言葉には、説得力があります。しかし、お金に換えることができないものも確かにあるはずです。「ものより思い出」というCMがあります。その通りだと思います。子どもたちに、よい思い出を与えられたら、すばらしいです。自動車は、そのための道具だというのでしょう。

さて、主イエスの福音は、お金で買えません。神の国の救いは、お金で獲得できません。それは、主イエスがそのおいのちをもって、十字架で支払って、私どもの救いを獲得された宝なのです。父なる神のみもとへと買い戻して下さったのです。救いとは、罪の赦しを受けたと言うことは、イエスさまのおいのちが対価として支払われたということです。

したがって、福音は、あるいは救いは、いつでも、「ただ」なのです。仮にもし、この救いに値段がつけられたとしたら、誰が買えるのでしょうか。そのような大金持ちは一人もいません。地球上のすべての金銀財宝を積んでも、自分の救い、永遠のいのちは買えません。だから、ただでしか与えて頂けないのです。

そして、弟子たちは、そのような至宝、宝の中の宝をただで与えるために、派遣されるのです。弟子たちは、そのような宝を無代価で受けています。福音を盛られているのです。つまり、福音とは、彼らじしんのものではなく、徹底的に神のものです。主イエスは、その福音を語る神の権能を、彼ら自身のためではなく、彼ら自身の自己満足、自己実現、自己顕示のためではなく、徹底的に、人々のためになさなければならないのです。

9月12日、私どものために説教奉仕をしてくださいます後藤公子先生が、「神戸神学校校報」の巻頭言に、文書を書いておられます。「牧師が主のしもべでなければ、単なる職業になります。」これは、後藤先生から、私のような者に対して渾身の問いかけだと思います。いへ、批判と言ってもよいでしょう。後藤先生は、巻頭言で、キリスト者とは、器なのだと強調されます。全くその通りです。

使徒パウロは、キリスト者を土の器と言いました。そもそも、土のちりで造られた人間です。しかし、私どもには、主イエスのいのち、福音のたから、この栄光の宝を盛られています。そして、主イエスは、その宝を、持ち運ぶために、私どもを用いられるのです。持ち運ぶ器だと言ってよいのです。水を飲ませるとき、器がなければ、運べません。井戸辺に座り込んだ、イエスさまは、汲み上げる桶を持っていませんでした。それでは、水を飲めません。私どもは、器です。しかも、すでに、いのちの水を注がれているのです。

次に、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。」です。強い衝撃を受けます。当時の着物には、ポケットがありませんでした。ですから、大切なものは、鞄か、なければ帯の中に入れたようです。つまり、帯とは、お財布のことです。もとのギリシャ語を読みますと、「金貨はダメ。銀貨もダメ。銅貨もダメ。袋もダメ、換えの下着もダメ、履物もダメ、杖もダメ。」あれもダメ、これもダメ、という感じです。イスラエルを旅するのに履物がなければ、どうなるのでしょうか。杖とは、動物などから身を守るためのもので、旅の必需品だと言われます。

主イエスのご命令は、当時も現代も、受ける衝撃はまったく変わりません。わたしは、キリスト者、とりわけ伝道者で、文字通りそのまま実行している人とお会いしたことはありません。もとより、カードがあれば大丈夫などと言って済ませることはできません。

いったい、ここで言われていることは、キリスト者とりわけ伝道者には、私有財産を持つこと、生活のたくわえは一切を認めないということなのでしょうか。生きるか死ぬか、ギリギリの貧しさの中で生きて行けということでしょうか。違います。むしろ、その反対であると言った方が良いと思います。

御言葉は、こう続きます。「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」つまり、福音の伝道者、奉仕者は、当然、食べるものが与えられると言う約束なのです。住む場所も、生活の必需品も、換えの下着、鞄、サンダル、杖、必用なものは、食べる者、着る者、住むところ、すべて、備えられるのだ、それは、当然だということです。山上の説教のおさらいです。つまり、神の国を求める者には、必要なものは、すべて添えて与えられるということです。住む場所、宿泊場所も、神が備えて下さるということです。ここで描き出される伝道者、キリスト者の生き方や生活とは、貧しいものではなく、むしろ、豊かな、あふれるものだというイメージです。

さて、次に、「ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。」いったい、私どもが、誰かの家に泊めて頂く時、「ゆっくり、自分の家のようにしてください。」こう言われても、やはり、相当、気を遣うと思います。ところが、主イエスがここで描き出す宿泊する人の姿は違います。むしろ逆のように感じてしまいます。

テレビの番組で、「田舎に泊まろう」というがあります。有名人であっても、家に留めて頂くわけですから、当然、低姿勢です。あまり知られていない人であれば、さらに低姿勢になるでしょう。「わたしはスターです。わたしが、泊まってあげよう。嬉しいでしょう。」「わたしのような大スターが泊まるにふさわしい家を見つけて歩こう」そんな上から目線のことをしていたら、大変な目にあうかと思います。

ところが、主イエスは、ここで、福音の奉仕に生きるキリスト者、伝道者たちに、「びくびく、おどおどする必要はないのだ。むしろ、堂々としていなさい。」こう、仰っておられるように思うのです。

さらに、こう仰います。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」つまり、キリスト者、伝道者は、福音を「安売りしてはならない」と言うニュアンスを感じます。

確かに、わたしどもは、すべての人に福音を語り、証しなければなりません。こちらで、選別することは、許されないはずです。

どこかの宗教であれば、信者を勧誘し、獲得する時、たとえば、富裕層をターゲットにせよとか、社会的に力のある人を選んで、布教活動せよとか、あるでしょう。しかし、教会は、決して、そのような選別はしません。子どもにも大人にも、男性にも女性にも、すべての人に、福音は証されなければならないのです。ただし、もしも、まったく関心も持たず、求めもせず、むしろ否定する、あるいは自分の何かのためにキリスト教を利用する、そのような人にまで、その人に気に入られるように福音を語る必要はないし、してはらならないと仰るのです。

福音を拒絶すれば、神の滅びを受けることを、はっきりと告げなければならないのです。主は、宣言されます。「はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」ここに、福音の言わば尊厳を思います。ただで、誰にでも福音を証しすべきなのですが、しかし、その福音は、高価なものであり、高貴なものなのです。したがって、主イエスは、「あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」とまで仰います。

わたしは、自分を含めてですが、日本のキリスト者は、この威風堂々さが、欠けているように思えてなりません。社会や時代に対して、何とか、自分たちを受け入れてほしい。何とか、キリスト教を認めてほしい。そのような思いが強く働いているのです。それは、プロテスタント伝道の出発が、明治新政府によってキリシタン禁教令、禁教のお札が外されたことと関わります。実に、私ども日本のキリスト教にとって、決定的な過ちを犯すことになる背景がそこにあったのです。国家に認められるなら、合法化してもらえるなら、どこまでも妥協するという態度が、根底にありました。やがて、明治憲法の制定によって、制限付きの信教の自由であるにもかかわらず、まるで本当の信教の自由のように、受け止めてしまったところに、私どもの先輩たちの問題があります。逆に言えば、その当時の伝道の困難さを見ることができます。

それは、決して、昔の話ではありません。今も、どうしたら、キリスト教に振り向いてくれるのか、そのような考えで、伝道を考え始めれば、また、道を間違えるだけでしょう。福音が、福音の輝きを放ては、大丈夫です。

ここで主イエスは、「ふさわしい」という言葉を三回用いられます。福音の奉仕者を助けるのにふさわしい人であるのか、あるいはこう言い換えても良いかと思います。福音にあずかるのにふさわしい人か、そうでないか。それをあなたたちは、きちんと見分けなければならない。

ここでも、主イエスは、注意深く、賢く伝道することを求めていらっしゃるのだと思います。この直後に出て参ります。16節に「蛇のように賢く」という言葉が出て参りますが、ここに既に、そのような賢さで、相手を見ることが求められているように思います。おそらくは、マタイによる福音書が最初に読まれた時代にあって、福音の伝道が生易しいものではなかったことを覚えておかなければならないと思います。

さてしかし、この福音を聴くのに、ふさわしい相手を見抜くその賢さを問う前に、あるいはそれを問いながら、同時に、私どもは、今一度、自らを顧みる必要があります。つまり、福音を語る自分たちの、ふさわしさについてです。自分は、福音の伝道者、奉仕者、キリストの弟子としてふさわしく生き、働いているのかどうかです。

最初の教会は、本当にみすぼらしかったと思います。
パウロの手紙、コリントの信徒への手紙?第8章の中で、マケドニアの教会がエルサレム教会のために献金したことを、こう表現しました。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」極度の貧しさの中に、献金を受けるエルサレム教会だけではなく、捧げるマケドニア教会自身もまた、貧しかったわけです。

主イエスの弟子たちもそうでした。使徒言行録第3章6節の使徒ペトロの言葉を思います。「わたしには金銀はない。」しかし、使徒ペトロとヨハネとは、生まれながら足の不自由な人に向かって、こう宣言したのです。「わたしには金銀はない。しかし、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」彼らは、豊かに持っていました。それは、福音の宝でした。彼らの器の中には、イエス・キリストが、聖霊が内に住んでいてくださったのです。彼らには、イエス・キリストの御名の力、約束の言葉への信仰が与えられていました。

彼らは、それによって、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とのご命令と約束を実践したのです。私どももまた、この権威に生きる者とされていることを信じたいのです。そして、それを行使したいのです。自分たちを宣伝するためではなく、自分たちに脚光を浴びせるためでもありません。失われた羊たちの救いのためです。

主イエスは今、全く同じように私どもにも、「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」と「『平和があるように』と挨拶しなさい。」と命じられます。天国がここに始まったことを告げることこそ、伝道です。神との間に平和があるということ、その場所がここに来ていると、幸福の実現を宣言するのです。この宣言を信じる人には、事実、平和が生まれ、平和が実現します。しかし、この宣言に耳を傾けない人、場所には、平和がありません。私どもの言葉、教会の言葉には、実にそれほどの権威、究極の権威が与えられているわけであります。

私は、開拓伝道を始めたときのことを忘れられません。あの使徒と似ていました。わたしの帯の中に、銅貨せいぜい銀貨なら入っていましたが金貨はありません。最初に、一番困った事は、賃貸の部屋の礼金と敷金の問題でした。借りるためには、半年分支払うことが常識でした。しかし、ありません。借りるあてもありません。蓄えは、前任地での土地と会堂建築のために捧げています。

しかし実は、土地を買った不動産屋さんが、そのビルのオーナーだったのです。そこで、交渉しました。そして、免除していただくことができたのです。わたしの帯の中には、金貨はありませんでしたが、わたしどもの内には、福音が盛られていました。伝えるべき言葉がありました。派遣してくださる主イエスのご命令があったのです。

昔話をしてもほとんど意味がありません。今、私どもは、日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上伝道所の会員として、恵まれたこのような会堂の中で、礼拝を捧げ、伝道しています。しかし、そうであれば、いよいよ、私どもの帯の中には、何が入っているのか。それを、確認すべきでしょう。私どもにも、言葉が、救いの言葉が、神の国の福音、主の平和が宿っているはずです。

主イエスが共にいてくだされば、まさに、荒れ野のような道、人生であっても、はだしで歩けるのです。何故なら、主が、私どもの履物でいてくださるからであります。主ご自身が、敵から身を守る杖となってくださるからです。

地上で、必要なものは、必ず主が備えて下さる。この信頼こそ、弟子にふさわしい態度であります。「平和があるように」これこそ、世界が、日本にこそ最も必要とされているメッセージです。平和の福音を告げ、それを受け入れるところに、主がまことの平和を実現してくださいます。私どもは、主の権威に満たされて、福音を決して安売りせず、しかし、ただで、神から離れて弱り果てている人たちに届ける使命に生きて参りましょう。

祈祷
平和の源なる御神、私どもを主イエスの弟子として選び、主イエス・キリストの権威を与え、主イエスの福音伝道の尊いお働きへと派遣してくださいますことを心から感謝いたします。お金や杖にたよりながら、それだけ、あなたの平和と力を失い、使命から遠ざかる私どもを赦してください。憐れんで下さい。どうぞ、福音と信仰に満たし、弟子として生きさせてください。神の平和を告げる弟子として、奉仕に励むその中でふさわしく整えて下さい。そして、主イエスの使命を担い続けるキリスト者、私どもの教会としてお用い下さい。アメン。