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「狼に負けない羊の秘密」

「狼に負けない羊の秘密」
2010年9月19日
テキスト マタイによる福音書 第10章16-23節 
「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

 3週間ぶりに、マタイによる福音書の講解説教に戻ります。おさらいしながら、今朝、与えられた御言葉から学んでまいりましょう。
 
先ず、主イエスはこう仰います。「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」主イエスは、人間を羊として描き出しています。そもそも、羊とは、まったく弱い動物です。目が極端に悪く、運動能力が劣っています。戦う能力は、皆無です。見事なまでに、争う能力において、弱い動物、まったく無能とすら言ってよいかと思うほどです。羊は、羊飼いの配慮のもとで、命をつぐことができるのです。しかも主イエスは、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」と、ご覧になっておられます。まさに、当時の人々を神との関係に置き換えれば、つまり霊的に、信仰的に言えば、危機的状況におかれているとご覧になっておられるのです。

ところが、その主イエスご自身がここで、そのような羊に他ならない私どもを、ご自身の福音を伝道する使命へと用いられるのだと仰るのです。しかも、なんとそれは、狼の群れに送るようなものなのだとすら仰せになられるのです。常識的に考えれば、そんなにひどい司令官、見当違いな上司がいるでしょうか。まるで、先の大戦における「総員玉砕せよ」とか特攻隊員への「突撃命令」などということに等しい愚かな行為かと思ってしまいます。

しかし、言うまでもなく、まったく違います。主イエスは、はらわたを痛めるような激しい愛をもってこの羊たちをご覧になっていらっしゃるのです。それゆえ、御自ら、よき羊飼いとなられるため、この地上に来て下さり、しかも最後には、十字架にまで、羊の身代わりとなって着いて下さったのです。それは、羊の敵である狼を打ち倒すために他なりません。そのような主イエスが、狼の群れに送り出すようなものなのだと仰るのです。

それなら、まことの羊飼い、善き羊飼いに他ならないイエスさまが、この羊を冷たく見放したり、私ども羊たちと同行してくださらないということはあり得ません。善き羊飼いなる主イエスは狼から守って下さるはずです。つまり、主イエスがここでこのように説教なさったということは、逆から申しますと、私ども羊たちが、狼にも負けないことが、ここで決定的に明らかにされているということなのです。主イエスが、勝ち負けが分からないような戦い、やって見なくては分からない、出たとこ勝負のような戦へと、弱い私どもを派遣されることはあり得ないのです。何故なら、主イエスは既に十字架で勝利されたからです。主イエスは、死者の中から既に復活されたのです。繰り返しますが、そのような勝利の主が、私ども弟子たちを福音伝道へと派遣なさるのです。

次に、だからこそ主イエスは、このように呼びかけられます。「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」私ども羊たちには、賢さと素直さが必要なのです。ここで、主イエスが、蛇のようにと、仰ったことには、驚かされます。聖書の中では、蛇は悪魔の隠喩として用いられるからです。主イエスは、まさか、悪魔を見倣いなさい、悪魔のように賢くなりなさいと仰ったのではないと思います。何故なら、私どもの戦いの相手は、狼、悪魔に他ならないからです。ここでは、キリスト者たちは、悪魔の賢さに負けないようにということでしょう。

そして同時に、鳩が出てまいります。これは、聖書によれば、まさに平和と平和の福音の象徴として用いられます。鳩のイメージ、その意味は、素直です。たとえば、伝書鳩を思います。鳩に手紙や薬をいわいつけて飛ばすわけです。鳩には、優れた帰巣本能があって、それを用いるのだそうです。

つまり、確かに悪魔は賢い、人間よりはるかに賢いです。何千年も生きているわけで、知識も膨大、経験も膨大です。直に戦えば、ひとりの人間が勝てるはずがありません。横道にそれますが、だからこそ、人間は、歴史を学ばなければならないのです。人間の歴史的な遺産を受け取り直す必要があります。

さて、しかし、悪魔には、致命的な弱点があります。それは、素直さがないということです。素直とは、従順さです。

ここで言われている素直さも、従順さも、その対象は、他ならない神に向かうべきものです。神さまに素直であるということです。心が一つになって、まっすぐ、神とその御言葉の権威に向かうことです。そして、悪魔、狼には、それが皆無なのです。もし、羊が、神の民が、キリスト者が、神とその御言葉の前に心を一つにし、単純になって、従順であれば、私どもが、彼らに敗北することはないことが分かります。圧倒的な勝利者になれるわけです。

私どもが、もし、知恵にまったく不足し、本当に賢さが足らなかったとしても、もし、神とその御言葉に従順であれば、私どもになお勝ち目が出てくるのではないでしょうか。いへ、神の御言葉に従順であれば、私どもに、信仰に生きる上での賢さは、十分に与えられるはずです。悪魔の賢さにはるかに及ばなくても、勝てるはずです。

何よりも、私どもは、ここで確認し合いたいのです。私ども羊のための羊飼いでいらっしゃるイエスさまは、実は、羊飼いであると同時に、羊になられたということをです。あの十字架にはりつけられたのは、神の子羊としてでした。主イエスご自身が羊になってしまわれたのです。私どもの犠牲の羊となられ、殺されたのです。その意味で、まさに、羊そのものでした。ローマの兵隊や、律法学者、ユダヤの大祭司カイアファ、総督ポンテオ・ピラトのもとで、まったくなすすべもなく、一切の反抗もなく、軽々と捕まえられ、はりつけられ、殺されておしまいになられました。

主イエスこそ、羊です。ところが、私どもは、知っています。この羊が、すでに狼に完全に勝利したことをです。主は、ご復活なさいました。父なる神に甦らされたのです。そこに、私どもが目を注ぐなら、羊の勝利は確定したことが分かるはずです。ヨハネによる福音書にこうある通りです。「しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」!主イエスが、勝ち目なしに、羊を派遣するなどということは、あり得ません。また、善き羊飼いでいらっしゃる主イエスご自身が共に行かれることこそ、マタイによる福音書全体の確信なのです。それは、この福音書の結びの言葉に明らかです。「わたしは、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

次に、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」ことが起こるとも予告されています。そればかりか、後半では、「あなたがたはすべての人に憎まれる。」とまで、預言されています。

 私どもは、そこに、キリスト者の根本的な不思議さを思わずにいられません。同時に、キリスト者の厳しさをも思います。なぜなら、そもそもキリスト者とは、この世界に平和を造り出すためにこそ、存在させられたはずだからです。伝道とは、たとえば、あの桃太郎のように鬼を退治しに出かけて行くわけではありません。狼である悪魔、悪霊を退治したり、成敗しに行くのではありません。伝道とは、主の平和を告げに行くのです。神の平和を造るため、そこに造り出すためにこそ派遣されるものなのです。それにもかかわらず、政治権力の前に、迫害を受け、すべての人たちから憎まれなければならないとされるのです。不思議としか言いようがありません。
 
さて、ここでも、このテキストを読むために、大切な基本、前提を確認しておくとよいと思います。これが予告されたのは、誰に対してであったのでしょうか。それは、12弟子を含む主イエスの言わば直弟子たちのことです。その当時のことです。彼らは、まさに、この予告通りの厳しい迫害を受けることになりました。また、このことも歴史的な事実として、私どもは知っています。迫害は、彼らで終わらず、この福音書の第一の読者である、当時の人たちもまた、厳しい迫害、伝道の戦いの真っ最中にいました。4世紀半ばまでのキリスト教会にとってこのような迫害状況は、異常なこと、例外的なことではなかったのです。

 しかし、キリスト教が4世紀末、ローマ帝国の国教、国の宗教として公認されると、状況は変わります。教会はその国、その地方、村や町にとっては、自分たちの誇り、精神的な拠り所となって行くわけです。

 ヨーロッパの人々にとってのこのテキストは、もしかすると過去のお話しかもしれません。しかし、16世紀、教会の改革者たちにとって、このテキストは、あらためて、自分たちの現実を映し出すテキストとして、立ち上がって来たのだと思います。韓国の町にも、教会が沢山あります。そして、イギリスの町には農村にまで、教会堂の尖塔が目立っていました。しかし、イギリスで改革派教会は、わたしの見たところ、少ないと思います。しかも、そこで、改革派の教会の礼拝堂に入ると、まさに、シンプルです。英国教会ばかりの中で、礼拝堂を装飾することが当然の伝統の中で、それは、際立ちます。あらためて17世紀、私どもの先輩は、本当に厳しく激しい戦いをなしたのだと思います。そして、そこから、教会の自由、信教の自由を求める人々が新大陸、はるかアメリカに渡ったことも、よく分かるように思います。つまり、プロテスタントの先輩たちもまた、厳しい戦いを経験したわけです。

 しかし、世界史の中で、この日本こそ、この御言葉を深く体験した国も珍しいのではないかと思うのです。日本は、つい140年余り前に、キリシタンへの壮絶な迫害を行いました。それは、かの戦中に韓国のキリスト者たちを拷問したような壮絶なものでした。このことは、単に日本の教会固有の問題だけではありません。むしろ、日本という国そのものにとってこそ根本的に、決定的に重要な問題、精神的な宿題なのです。わたしは、最近、いよいよ確信するようになりました。この課題についても、説教で掘り下げる暇がありません。しかし、これを無視して、日本で伝道することは、的外れになるのだと思います。

次に、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」弟子たちには、イエスさまと同じように、裁判が待っていると予告されます。さらには、殉教が待っているわけです。

その法廷、裁判において何を話すのか、弁明するのか、主はこう約束して励まして下さいます。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」

話すのは、つまり、裁判で戦うのは、結局、神御自身だということです。そこで、父なる神の霊、聖霊が、言葉を与えて下さるのです。この御言葉は、この世の裁判で勝つかどうかが約束されているのではありません。しかし、そのような厳しい状況にあって、父なる神が共にいてくださることが約束されている、保証されているのです。

主イエスごじしんこそ、形式上の裁判でしかなかったわけですが、歴史的には、ユダヤのそしてローマの裁判で勝訴できませんでした。その意味で、教会は、この世的に見れば、負けるのかもしれません。しかし、それが、真実の敗北になるわけではありません。この世の裁判で勝ったら自動的に、信仰の勝利になるというわけではありません。この点は、とても大切なことです。この問題は、現実には極めて重要です。まさに賢さが求められます。しかしこの説教で、掘り下げる暇はありません。

私どもは、ここで、この事を確認することができれば、十分だと思います。それは、主イエスの約束です。「あわてるな。心配するな。父なる神とその御言葉に、素直であれば良いのだ。そこにわたしの霊、聖霊、わたし自身が共にいるのだ。わたし自身が、あなたの口を用いるのだ」と語っておられます。

次の御言葉は、これです。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

わたしは、今朝の御言葉を、求道者の仲間たち、あるいは、教会にまったく初めていらっしゃった方には、どのように読まれ、そして説教を聞きとられるのか、正直に申しますと、困難さを覚えます。今、主の語られる御言葉には、主イエスの御名のために、すべての人に憎まれるのだとはっきりと言われているのです。マタイによる福音書を読み進めて、ここまで来ると、「ああ、自分は信者にはなりたくない」と考えるのが、むしろ普通のように思います。誰だって、人に憎まれたくありません。自分じしんが愚かで、人として欠けが多いので憎まれるだけでも、悔しく悲しく、残念でなりません。わたしたちは誰だって、暮らしのなかで何とか、そうならないようにと賢く、知恵深く人々とかかわりたいと思っています。それなのに、自分のせいではなく、イエスのせいでそうなるのなら、「なんだ、話が違うではないか。そんなことなら、そもそもイエスを信じたくない。」と考える人も出てくることもあるでしょう。

しかし、そこでも、落ち着いてよく考えるべきだと思います。主イエスが、このように、宣言なさったその背後には、主ご自身の中に、驚くべき自信があるからではないでしょうか。

何よりも、ひとりのキリスト者としての経験から思わされます。主イエスと出会った人、主イエスの憐みを受けた人、主に愛されたその人は、必ず、主イエスを愛したくなります。神の愛を受けた人は、もはや自分でも、自分の中に植え付けられた神へ愛を抜き取れなくなってしまうのです。そこにこそ、キリスト教信仰の強さがあるのではないか。そして、そこにこそ本物があると思います。愛とは、そのように打算を越えるものではないでしょうか。損になるから、得になるから信じるということでは、そもそも、まことの信仰などとは呼ぶことなどできません。

次に、この約束を聴きましょう。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」耐え忍ぶことの重要性です。主イエスを信じるとは、死に至るまで、最後まで信じ続けるということなのです。語り続けるということなのです。

わたしは、ここにも聖書のすごさを思います。もしこれが、人間が考え出した経典や宗教であれば、そんなことは大ぴらに書かないはずです。むしろ「信じたら、こんなにすばらしいことになるよ。こんなにご利益があるよ。」そう書くのだと思います。しかし、聖書は、臆することなく、記すのです。

そうであれば、ここでも、耐え忍ぶその力こそは、自分の英雄的な力に求められているのではないことは明らかです。そこにこそ、父の霊の働きがあるのです。語り、戦うのは、主ご自身であり、その力なのです。

同時に、ここからも分かることがあるだろうと思います。つまり、もう最初から、この勝負の決着は、ついてしまっているのです。主イエスを仰ぎ見るなら、私どもは、最後まで耐え忍ぶことが既に許されているのです。私どもはただ、この主イエスと御約束に素直であれば良いのです。

かつての迫害者であったパウロに、復活の主イエスが、こう語られたことを思い起して下さい。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」パウロは尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか」答えがこうありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」つまり、キリスト者への迫害は、キリストご自身への迫害に他ならないのです。恐るべきことには、迫害し、拷問するその人たちの眼には見えませんが、彼らは、実は、イエスさまに向かって、拷問したのです。

現代の私どもの教会は、法的な面で言えば、まさに、キリシタン伝道から数えて500年の歴史の中で、まさに、憲法によって信教の自由が保障されるという、それこそ、考えられないような幸せな、伝道できる自由が与えられています。こんなに伝道がしやすい時代は、かつて日本にはなかったはずです。私どもは、ついうっかりすると、今ほど、伝道の難しい時代はないなどと嘆いたりします。しかし、正面からの迫害がないという事実、この恵みをきちんと感謝し、これを守り抜く戦いを戦い抜き、何よりも、いよいよ盛んに伝道したいと思います。

しかし、同時にそこでも私どもは、教会がいつの時代であっても、迫害の下にあることを、見逃すことも決してできません。いつでも、教会は、危機の時代に生きているということを、真剣に弁えていなければ、教会は、立ち枯れるでしょう。確かに目に見える迫害は、昔と比べれば、なにほどものものでもないはずです。しかし、現代の教会は、物質的、経済的な豊かさ、価値観の中に生きています。肌の感覚で、それに包まれてしまっています。そのとき、神に対する真剣さ、敬虔さを奪い取られやすいのです。信仰が生ぬるいものとなる危機、あいまいな信仰に陥る危機の中にあるわけです。

最後の御言葉を学んで終わりましょう。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」

結びの「あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」というこの解釈は簡単ではありません。しかし、この説教は、実際の弟子たちの経験なのだと分かります。イスラエルの町を彼らが回り終わらない内に、主イエスは、十字架について甦られました。さらにその後、聖霊において、彼らとなお共に、力強く働かれたからです。聖霊において、主イエスは弟子たちのところに来られました。

最後の最後に、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」に触れます。キリストの教会は、殉教ということを、究極の神への愛と従順として、極めて高く評価してまいりました。古代教父テルトゥリアーヌスの有名なことばに、「殉教者の血は教会の種子である」というものがあります。確かに、これは、歴史的な事実でもあると、わたしは考えております。

ただし、ローマ教会の中の、ある伝統においては殉教者への崇拝と憧れ、殉教を求めるような一種の霊性、スピリットが起こったことも事実だと思います。問題はまさにそこにあります。主イエスは、決して殉教を鼓舞なさったのではありません。迫害されたときには、先ず、他の町へ逃げることが命じられたのです。これは、信仰の否定ではありません。妥協でもありません。信仰の純粋を否定することではないのです。主イエスは、私どもが地上で生きること、それをこそ優先なさるのです。しかし、それは、福音の幸いと真理を語り続けることを求めることと深く結びついています。

私どものいのち、それは肉体の命のことも含めて申しあげているのですが、それは、主イエスのお命をかけて贖われたほど、尊いものなのです。ですから、決して、指導者が殉教を命じることはありません。命じてはなりません。むしろ、そのとき、指導者は、率先して自ら殉教することになります。ここでも殉教の問題をこの説教一回で、掘り下げることなど到底できません。しかし、ここで、迫害されたときには、そこで他の町へ逃げること、それが、御言葉の、主イエスご自身のご命令なのだということを、しっかりと受け入れることこそ決定的に重要です。自ら進んで殉教へ進み行くことは、決して聖書の、御言葉の教えではないのです。殉教のことを真剣に考えないキリスト教は、好い加減なものです。しかし、殉教を神の言葉から離れて論じるとき、とりわけ信仰によってのみ、義とされる私どもの信仰の基本をないがしろにする危険があるのです。

私どもは羊であります。戦う能力をまったく持っていない羊です。しかし、狼の中へと、戦いのなかへと、平和をつくりだすために、伝道のために派遣されています。そのとき、私どもは、ただ、派遣してくださる主とその御言葉を信じ、信頼し、主イエスと共に働くそのとき、羊であるにもかかわらず、狼に勝利することができます。そのような勝利を既に小さく味わい始めているのが、名古屋岩の上教会であり、私どもです。この教会の羊の囲いの中で、この教会の唯一のまことの牧者でいらっしゃる主イエスは、今朝も、今週も、私どもを伴って、歩み続けて下さいます。一つ心をもって、主に従う羊の群れでありたいと心から祈ります。

祈祷
 まことの羊飼いなる主イエス・キリストの父なる御神、狼を力と恐ろしさを正しく弁えさせて下さい。しかし何よりも、あなたが共に戦って下さる現実を悟らせて下さい。そのようにして、主の勝利の中で、勇気をもって、日々、暮らし、神の平和の福音の伝道に勤しむ者とならせて下さい。アーメン。