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「神の国の全権大使たち」

「神の国の全権大使たち」
2010年10月24日
テキスト マタイによる福音書 第10章40-第11章1節 
「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。」

今朝は、第10章の最後の個所を読んで礼拝を捧げます。第10章は、後に使徒と呼ばれる12弟子をお選びになられた所から始まりました。それは、彼らを伝道へ、宣教へと派遣するためでした。彼らは、主イエスがなさったこととまさに同じことを行うようにと命じられ、派遣されました。そして、彼らにはそれを担う権能、力をもあわせてお授けになられたのでした。今朝、読んだ個所は、伝道へと派遣される12弟子たちへの説教の結びの言葉です。著者のマタイは、第11章1節で、最後の指図、指示を与えられて、主イエス御自身も再び、精力的な伝道活動へと戻られたと報告しています。

そもそも、主イエス御自身こそ、父なる神からこの地上へと派遣されたお方に他なりません。このお方は、神の御子でいらっしゃいます。神の国の言わば、王子なのです。今、ついに王子御自らが、父なる神から遣わされ、人となられ、地上を伝道して歩まれたのです。

主イエスはここで、「わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」と宣言されました。つまり、主イエスを信じ、受け入れることは、遣わした神御自身を受け入れることになるとの宣言です。ここで明らかにされたのは、まさに、主イエス・キリスト御自身と父なる神御自身とは、同じ尊厳をお持ちで、同じ力をお持ちだということです。主イエスを信じるとは、父なる神を信じることに直結するわけです。

さて、そのことなら、私どもキリスト者であれば、なんの抵抗もなくまさに受け入れられることではないでしょうか。しかし、この冒頭の宣言は、いかがでしょうか。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのである。」これは、実に驚くべきことではないでしょうか。 

丁寧に考えて参りましょう。先ず、ここでの「あなたがた」とは誰のことでしょうか。歴史的に言えば、間違いなく12弟子のことです。しかし、同時にまた間違いなく、ここでの「あなたがた」とは、時代を越えて受け継がれて行く、キリストの弟子たちのことでもあります。

来週は、宗教改革を記念する礼拝です。このことは、16世紀、教会の改革者たちにとって、まさに絶対に譲ることのできない、根本的な聖書の理解でした。つまり、中世のローマ・カトリック教会は、「あなたがた」というのを、言わば、自分たちの都合に合わせ、司祭たちのことだと解釈しました。神から特別の祝福を受けて聖なる者とされた、教える側の立場に立つ者たちという意味です。ローマ・カトリック教会は、教会を聖人たちの教会と一般信徒たちの教会というような二分化させたのです。

しかし、教会の改革者たちは、そのような非聖書的、反聖書的な教会理解を打破しよう、改革しようとして戦いました。およそ、福音主義諸教会、いわゆるプロテスタント諸教会は、この「あなたがた」を、決して、牧師や長老たちだけに限定させません。むしろ、教会全体、教会を構成するキリスト者ひとり一人として受け止めるのです。私どもは、実に、「信徒ひとり一人が、キリストの代理」という理解を持つのです。実に、主イエスは、「あなたがた」とおっしゃって、教会全体をさして宣言なさったのです。

私どもは、この御言葉を通して、キリスト者としての正しい姿、自己像、自己理解を今一度正されたいと思います。いわゆるセルフイメージをきちんとつくることへと導かれます。

この御言葉を通して見えてくる真理とは、主イエスは、私どもひとり一人を、まるで御自身でもあるかのように認めて下さるという真理です。その理由は、第10章では、主イエス御自身がわたしどもを派遣されるからです。

牧会通信にも書きましたが「米欧回覧実記」を読んでいます。明治初年、当時の政府首脳の実に半数が、日本を留守にして、特にアメリカとイギリス、そしてヨーロッパ諸国を歴訪しました。政府は、岩倉具視を特命全権大使としたのです。全権大使とは、日本国を代表し、条約を結ぶこと権威、権能が与えられているということです。不平等条約を改正するための準備が主な目的でした。彼らは、その後の日本の歩みに決定的な影響を与える人物となりました。

主イエスは、12弟子たちを、まさに神の国の全権大使として派遣なさるのです。そして、現代の私どもは、それを、キリストの教会こそが、この地上に派遣された神の国の言わば全権大使として理解します。そして、キリスト者ひとりひとりもまた、この教会の交わり、教会員とされているゆえに、この任務を帯びているのです。そのように主イエスから派遣され、期待され、その使命を実行することが求められているのです。

この事実を別の言葉で言い表したのが、「預言者」に他なりません。預言者とは、神からの言葉を預かり、それを告げる人のことです。自分の意見や考えを表明するのではなく、神の意見や考えを、告げるのです。伝令であり、伝言者です。言わば、神からの全権大使と言えるでしょう。キリスト者もまた、今日における神から派遣された預言者に他なりません。

たとえば、子どもの教会の教師のことを考えて頂ければと思います。彼らもまた、子どもたちのために派遣された小さな預言者に他なりません。あるいは伝道のことを考えてみましょう。キリスト者とは、すべての人に向かって、神から派遣された小さな預言者です。一人ひとりが伝道者として派遣されているのです。

もう一つの表現は、「正しい者」です。これも、私どもにとっては、信仰の基本的な理解にかかわることです。私どもは、神の御前に罪人です。これこそ、私どもの現実の姿に他なりません。しかし、キリスト者とは、その罪を主イエス・キリストの十字架の死、贖いを受けて、主イエスがその尊い御血をもって贖いだし、私どもの罪がしはらうべき刑罰、代価を身代わりに支払ってくださいました。その結果、罪が赦されたのです。つまり、神の御前に義とされたのです。正しい者と認められたのです。それが正しい人の意味です。私どもキリスト者は、誰もが、主イエスのおかげで、信仰によって、義とされ、正しい人間とされたのです。

従って今、私どもは、預言者として、正しい者として、主イエスから認められているのですから、そのためのふさわしさを、身につけることが、私どもの目標に他なりません。

もともと、外交に携わる人たちは、いわゆる貴族階級で、一般の人たちは、国の代表になれないという伝統があったようです。その意味もあるのでしょうが、外交官は、英語よりむしろフランス語が重んじられるのだそうです。それなら、私どもは、いかがでしょうか。私どもは、神の国の代表です。そうであれば、神の国の言語、言葉に堪能でありたいと思います。つまり、福音の言葉、救いの教えをよく理解したいと思います。主イエス・キリストとは誰か、福音とは何か、それを、派遣された国とその時代、その隣人の状況に即して語り、証することが、預言者たちには求められています。

確かに派遣されたその国とその時代を知ることは、極めて大切です。しかしそれより何より大切なのは、派遣されたお方を伝えることが求められているのでから、派遣したお方を正しく豊かに知ることです。十字架と復活の恵みを語り、証することが、キリスト者の使命なのです。

主イエスは、まことにもったいない事ですが、キリスト者をまるで御自身でもあるかのように見ていて下さいます。キリストの代理者として見ていて下さいます。神の国の全権大使たちとして見守っていて下さるのです。
ところが、そこでなお、わたしどもは、このような思い、このようなことを口に出すことがあるかもしれません。「わたしはそんな立派な人間、キリスト者ではありません。わたしなどは、むしろ、キリストさまの栄光を損なってしまうような弱い人間です。罪深い人間です。だから、このわたしが神の国の全権大使だなんて考えることもできません。」確かに、キリスト者としての歩みを始めたばかりであれば、謙遜な思いでそのように考え、発言することは、よく分かります。ただし注意して考えてみなければなりません。すでに、数年経って、いつまでも、「わたしはダメです。そんな立派な務めを担うなんて、できません。」と言い張るのならどうでしょうか。それは、もはや、謙遜とは言えないのではないでしょうか。むしろ、そこで、神の言葉、主イエスのご命令に反抗していることになるのではないでしょうか。ある人はそれを「謙遜傲慢」と言いました。謙遜のようでしかし実は、大変傲慢になっているのです。主イエスから託され、命じられた自分の責任を放棄することになり、反抗しているからです。

ここで、主イエスは、私どものことを何と呼ばれたのか、注意して聴きましょう。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に」ここで主イエスの弟子のことを、わたしの立派な弟子、大きな人物であるわたしの弟子とは呼ばれていません。あるがままのことを仰っています。それこそ、「この小さな者の一人」です。自分が、まさに小さな者であることは、主イエス御自身こそ、御存じでいらっしゃるのです。

謙遜とは、自分でそうなるのではありません。主イエスによって、自分は大きな、立派な者、一角の人物だと思いあがろうとする心を砕かれることによって、謙遜にされるのです。主に砕かれない謙遜は、キリスト者の謙遜ではなく、単なる品性の問題になってしまうのでます。もとより、キリスト者であれば、高い品性を身につけたいものですが、しかし、それは、信仰によって、傲慢を砕かれない限りは、まことの意味での謙遜にはならないのです。主イエスこそ、私どものことをはっきりと、「小さな者」と呼ばれるのです。

ここですでにある方は、キリスト者が羊と呼ばれていることを思い起こされるかもしれません。主は、まことに、罪深く弱い存在として、何度も羊と表現されました。羊とここでの小さな者とは、同じ意味です。その意味では、自分が小さな者であることを隠したり、偽ったりして、生きることは、神の前に偽善となるのです。

主イエスは、私どもが小さな者だから、神の国のために、主イエスのために何の働きも担えないのだなどとは、まったくお考えになっておられません。この小さな者たちこそ、偉大な、この上なく偉大な神の国の伝道の奉仕者たち、神の国の全権大使たちとして用いられ、派遣なさるのです。

さて、今朝与えられた御言葉のもう一つの核になる言葉があります。それは、「報いを受ける」です。ここでも驚かされざるを得ません。私どもはこれまで、福音とは、報いではないと徹底して学んできたはずです。つまり、福音とは恵みなのだということです。恵みとは、それを受けるにまったくふさわしくないのに、まったく受ける資格、いただく価値もないのに、一方的に、与えるお方のご好意だけに基づいて、施されることです。救いとは、徹底的に恵みです。恵みのみです。

それにもかかわらず、ここでは、「報いを受ける」と三回記し、強調しているわけです。そのように言いあらわす主イエスのお心、意図について、思いを巡らしたいと思います。
「預言者と同じ報い、正しい者と同じ報い」を受けるということは、ただ彼らを「受け入れる」だけで報いられるというのです。つまり、結局、ここで語られているのは、ただ恵みによって、彼らと同じ祝福を受け継ぐということです。

主イエスは、ここで私どもの伝道の戦いをどれほどか、励ましていて下さるかと思います。弟子たちがどれほど、厳しい戦いを強いられることになるのか、主イエスがご存じないわけではありません。主イエスのこのご命令が、弟子たち、使徒たちにとって、また、その後に続くキリスト者と教会にとって、特に、日本のキリスト者たちにとってどれほど厳しい戦いへと派遣することになるかご存知です。既に学んだ通り、狼の群に羊を送り込むようなものだからです。

だからこそ、主イエスが、この長い説教を終えるにあたり、励ましと慰めを語らないでは、おられなかったのだと、わたしは思います。

先ほどの「米欧回覧実記」やその解説書を読む前に、わたしは、浦上四番崩れについての書物を読んでいました。彼らは、キリシタン禁制の法律を破ったという罪状で、ただそれだけで、おそるべき弾圧を受けました。配流、島流し、諸国、諸藩へと追放されました。それを彼らは旅と呼びました。そのとき、配流をまぬかれた多くのキリシタン仲間たちが彼らを助けたことも知られています。

一方で、わたしは、先の大戦で、一人の牧師の回想記を読んだことを思い起こします。その方は、有名な牧師でした。彼の父もまた牧師でした。しかし、父親は、ホーリネス教会の牧師でしたから、治安維持法という悪法によって投獄され、教会も閉鎖させられました。彼は、食べることにも困って、元教会員、元役員だった会員の家に、食べ物をわけてもらいに行くのです。ところが、こう言われます。「あなたたちに分けられるモノはない。」本当に何もないはずはなかったのです。わずかなものでも分けあえたはずです。要するに、近寄らないでということでしょう。教会は閉鎖され、牧師は投獄されている。自分は、自分の家は、敵の宗教であるキリスト教とは関係がないということを表明したかった、したわけです。わたしは、その少年が、信仰を失わなかったこと、後で牧師になったことを思うと、まさに神の恵みと支えを思います。

冷たい水一杯」とは、現代では、おそらく冷蔵庫からペットボトル一本を取りだすイメージかもしれません。大したこと、大きな犠牲を払ってすることではありません。たとえば今夏、教会にキリスト教の書籍を届けてくださる方に、冷たい麦茶一杯をおだしします。もしもそれを、仰々しく、「わたしは、このキリスト者に「冷たい水一杯」を出したから、天国で報いられるなどと、その意味で、この御言葉をそこで意識することは、まったくありません。それは、何か違うと思います。

さて、「冷たい一杯の水」の意味を当時のこの状況において考えましょう。冷蔵庫のない時代、水を冷やすのは、冷暗室に置くことが必要です。そして、素焼きの壷に水を入れるのです。少しずつ壺の外に水がにじみ出して、その水分が蒸発するとき、冷たくなるわけです。そうであれば、家の中でも、特別の、まさにおもてなし用の水を施すということです。それは、自分を犠牲にするということ、そこに意味があるということです。たくさんあって困る、余りもの、処分してもよいけれどもったいない、そのような施しではないということです。

 小さな者、迫害を受けたまさに外見上は、みすぼらしいままの小さな者に、その水を飲ませるということは、その人の仲間であること、その人を受け入れることの表明です。

マタイが、この主イエスの説教を記したとき、すでに迫害が拡大し、伝道者たちの困難は、緊迫していました。その時代状況を理解して、この個所を読めば、この主イエスが、この御言葉の中に込められた伝道に生きる者たちをはらわたちぎれるような思いをもって、見つめてくださり、激励していてくださる、主の激しい愛が胸に迫ってまいります。

 また、「冷たい水一杯」を差し出すということは、伝道の最前線で戦っている仲間たち、伝道者たちを背後で支える仲間たちへの励ましです。伝道の戦いのためにはこの世の戦いと同じように背後から、物心両面の支え、補給が重要になるのです。

 そうやって、神の国を前進させ、拡大させるために、キリスト者どうしが、弟子どうしが、お互いを支え合うのです。そこに、神からの報いがあるのです。こうして、お互いに神からの報い、つまり、恵みが豊かに注がれ、内側から恵みに満たされて行くのです。

 ついでに申しますと、教会のディアコニアの歴史は、先ず、教会員の中で、困窮している寡婦に対してなされたことを思い起せばよいと思います。食べることに苦労している教会員がいました。彼らの労苦を、お金や土地、財産を持つ者たちが、分かち合う、そこから、教会の奉仕、ディアコニアが始まり、まさにそこにキリスト者の愛の交わり、コイノニア、教会共同体が築かれたのです。そしてまた、それは、教会の外にいる方々へも及んで行きます。

最後に、○○兄が金曜日、逝去されました。兄弟は、わたしに冷たい水の一杯を手渡してくださることはかないませんでした。まったく体が動かすことがお出来にならなかったらからです。自らの口で食事をとることも、お話しすることもできませんでした。しかし、兄弟も又、神の国の全権大使として神が用いて下さったことを信じます。もう、長くはないと言われ、ついに、洗礼を受けることができました。それから丁度1年ほど、地上にあって、病床にあって、教会生活を継続されました。信仰によって天国の希望に生き生きと生かされたからこそ、どれほど、厳しい戦いだったかはかりしれませんが、忍耐の限りを尽くして、しかし、天国をはっきりと見つめて、御言葉を聴いて、それに励まされ、信仰にたって、変えられて行かれました。わたし自身も、三輪委員もその証人です。そのようにして、この兄弟の病床における生活を通して、私どもは神の国の力を見ることができたのです。

私どもは、今、自由にこの足をつかって、礼拝堂に来ることができました。声を出して、賛美を歌うことができました。私どもは、この与えられた自由と特権を神の国の拡大のため、神の国の全権大使として、この使命、ミッションを遂行できるし、しなければなりません。

私どもは、自分がどれほど主の祝福に与っているかについて、いよいよ、豊かな、深い確信を抱きたいと思います。自分に与えられている幸いを不信仰によって受け損なってしまうことがないようにと恐れます。私どもは祝福の器、パイプなのですから、その器が大きければ、そのパイプが太ければ太いほど、隣人もまた、その祝福にあずかることが出来るでしょう。ですから、今朝、あらためて祈り求めましょう。いへ、信じることです。私どもは、主イエス・キリストからまるで御自身であるかのように認められ、守られ、そして、預言者、正しい者とされています。しかも、私どもを受け入れる人々に、私どもが受けている恵みがそのまま、受け継がれて行くのです。

私どもは、神の国の全権大使とされています。派遣されています。その責任の重大さを思えば、押しつぶされそうにならない人は一人もいないはずです。しかし、主イエス御自身が「安心して行け」とお命じになられます。そうであれば、命じたもう主イエス御自身が、私どもと共に歩まれないはずがありません。

私どもに残された生涯の日々が後どれほどあるのか誰にも分かりません。しかし、若い仲間たちは、若いときに救われたその特権を十二分に生かさなければ、主の前にもうしわけが立ちません。年を重ねて後救われた方々もまた、主に背いて生きた日々、長い歴史を思い、毎日毎日を大切に、派遣して下さった神を畏れ敬いつつ、このお方の御前で、生きなければ、同じようにもったいなく、もうしわけありません。

私どもは、土で作った陶器のように壊れやすい器です。しかし、そこに福音というこの上ない宝、人々に罪の赦しをもたらす救いの恵み、永遠の命の宝を宿しています。私どもは明るみで、大きな声で主の福音を宣伝すべきです。私どもは、永遠の滅びへと溺れかかっている大勢の人々に囲まれています。私どもは、すでに永遠の救い、いのちを受けています。言わば、浮輪が与えられています。この浮輪を、溺れかけている人々に投げてあげなければなりません。わたしは溺れていないと言い張る人にも、必要ないと侮る人にも、私どもは、派遣されています。

祈祷
わたしのような者はだめですと、あなたの御言葉のご命令に対しても、自分の小ささの殻に閉じこもり、そのようにして主権者なる全能のあなたに、心を開かない傲慢な思いの中に生きる私どもを憐れんで下さい。今、心から悔い改めます。どうぞ、あなたの使命に生きる従順なキリスト者、預言者、神の国の全権大使として、もう一度、私どもを奮い立たせて下さい。そして、救いの恵みを待ちわびる方々と出会わせて下さい。彼らの救いの浮輪とならせて下さい。アーメン