過去の投稿2010年11月7日

11月7日

★  先週は市川康則、神戸改革派神学校校長をお迎えして、全体研修会を開催することができました。今年最大級の学びの集会として位置付けて参りました。現住陪餐会員の8割が出席されました。その意味では、何とか、最低限は・・・と思います。男性たちが多く、その意味では頼もしく思わされました。

☆  先生からの講演、学びは、神学校の講義の教会政治の部分のエッセンスを語って頂きました。そして、講演の原稿(講義原稿)は、既に皆様に配布致しましたので、改めてお読みください。そして、11月28日の読書会では、原稿を再読しながら、私どもの教会の現実に即しつつ、懇談を深めます。どうぞ、ご出席下さい。

★  余談で語られた「必要は発明の母・・・」。召命もしくは信仰があれば、必ず、奉仕の賜物が備えられる!ということです。どうぞ、教会役員への召命を全員が、自分のこととして祈ってみて下さい!!!

◎◎   予告しておりました、金起泰先生の学び会に対するコメントを、記します。2週間前に記したものです。

○  「何気ない」先生の言葉に衝撃を受けた方も少なくなかったかと思います。何気ないというのは、先生にとってまったく「当たり前」のことという意味です。「新しい知見」は、ありませんでした。信仰者の基本だけが語られたわけです。常日頃、わたしが、皆さまに申しあげている(来た)ことと変わりはないはずです。問題は、それを実際に生きるかどうかです。(他の教師から、「発音」しなおして頂くことによって、新鮮に聴きとられ、再確認して頂ける恵みを思います。)

○   牧師の「権威」ということも語られました。「牧師」が教会内はもとより、社会のすみずみまで、尊敬されているとのことです。現在の韓国の牧師たちは高学歴化し、競争があります。ただし、お話しの中で、中卒から献身されて牧師になられた方の教会に、大学教授が60名も集まって、その指導を喜んで受けている教会があるとのこと・・・。先生は、教会が健全に立つ「道・基本」を証するためになされたと思います。この権威は、つまるところ、神の権威にあります。神を畏れることが、彼らには徹底されているのだと思います。そして、それは、聖書の権威を重んじる教会の姿勢をも整えます。御言葉への絶対的な信頼と服従によって初めて説教者の権威も確立するのです。

「(聖書は、説教者は・・・)そうは、言っても・・・」もしかすると、私どもに、こびりついている思いではないでしょうか。彼らは、聖書を「正典」つまり「信仰と生活の唯一絶対の規準」と、信じるのです。すべては、この信仰的認識から始まると思います。牧師の権威などというと、ただちに心理的に嫌悪感を抱くキリスト者も少なくない日本の諸教会です。確かにそこに、牧師じしんの問題があることは、どれほど強調してもし過ぎではないのですが・・・。鶏が先か、卵が先かの議論は無益です。ただちに克服すべき課題です。

牧師やキリスト者であることが、どれだけ恵まれたこと、すばらしいことであるかを味わう世界…。まさに、恵みをおすそ分けするような豊かな伝道へと展開されるこになるのでしょう。祝福のスパイラル、成長へのスパイラルが韓国のキリスト者、教会にはあると思います。謙虚に学びたいと思います。ただし言うまでもなく、日本の信徒、牧師から、韓国の信徒、牧師がなお見習うべき点もあるはずです…。(そうありたいです!)

○  「本音と建前」の日本人論も展開されました。言うまでもなく、教会は「本音」の世界です。教会とは、自分のあるがままを受け入れてくださった神を父と仰ぐ家族だからです。罪人であることを偽って、偽善的にふるまうところから救いだされたからです。ただし、もし、そこでの「本音」が、罪や不信仰へと傾斜するような本音であったら、話はまた別です。そのためにこそ、自分の信仰の「はかり」「次元」が高められ、深められることを、日々、祈り求める以外にはありません。信仰の交わりを建てる(それを教会形成と言います。)には、「霊的な会話」、信仰の価値観に裏打ちされた信仰の言葉が求められます。それこそ、「本音」のはずです。 
  ただ、もし実質を伴わず、形ばかりでなそうとしたら、疲れます。まさに、白々しくなるでしょう。そうなると「建前ばかりではなく、本音で話しましょう・・・」などと、不信仰やこの世の価値観が教会に入り込んで、教会が崩れます。崩れていることにも気づかなくなります。私どもの教会はそれを、克服すべく開拓されたのです。

○   日本人には、なぜ、「裏表」があるのでしょうか。まさに、それは、キリシタン迫害のトラウマ、「密告!」制度です。心の本当のところ、深いところは、誰にも見せられない・・・。伝道の射程には、言わば、「日本人の聖化」(=日本人の精神構造の福音化)も入ります。

★  金先生、市川先生の学び会の欠席者の霊的損失(教会にとってこそ!)は、どれほどのものでしょうか! 祈祷会そして読書会・・・。教会の集会への出席を、犠牲を払って!神と教会(形成)のために・・・。