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「最も小さな人間を最も偉大な人間とする天国の救い」

「最も小さな人間を最も偉大な人間とする天国の救い」
2010年11月14日
テキスト マタイによる福音書 第11章7-19節 
【ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。】

先週に引き続いて、主イエスが洗礼者ヨハネについて語られた御言葉を学んで、礼拝を捧げます。説教の題を「最も小さな人間を最も偉大な人間とする天国の救い」とおそらく、これまでで最も長い説教題となりました。

さて、今朝も、先週に引き続いて、主イエスが、洗礼者ヨハネのことを、彼こそ、女から生まれた者のうち、最大の人物、最も偉大な人間であると紹介なさった御言葉を聴きました。先週のおさらいとなりますが、そのようなことは、旧約聖書を普通に読んでいる者たちには、簡単には認められないはずです。あの偉大なモーセ、つまり、イスラエルをエジプトから解放した民族の英雄と洗礼者ヨハネの行い、言わば業績を比べることなどおよそできないはずだからです。もし、洗礼者ヨハネがこれまでの歴史の中で、誰とも比べることができない業績があるとすると、それは、ただ一つだけです。つまり、旧約聖書が予告したこと、預言者たちが預言したメシアを、自ら目撃し、そのメシアにむかって、「この人を見よ、この人こそキリストです」と紹介できたこと、この一点にのみあります。つまり、彼の偉大さの決定的な根拠は、実は、彼自身の資質や働きにあるわけではありません。

さて、今日、このことは、むしろキリスト者じしんこそよく考えるべき事柄です。主イエスは、「この人を見よ、このイエスさまこそ、キリストです」と紹介する人は、最も偉大な人間なのですと、語られたのです。

キリスト者と誰のことでしょうか。聖書を通して、説教を通して、礼拝式を通して、今共にいてくださる主イエス・キリストに出会った人です。先週も、ひとりの求道の友が、わたしの目の前で、イエスさまを信じる祈りを共に捧げました。ルカによる福音書の中に記されたザアカイの物語を読みながら、ザアカイだけではなく、主イエスが自分じしんにも出会ってくださり、その心の中に入って下さることを願い、信じ、祈られたのです。小さな祈りですが、しかし、これからの歩みにおいては、決定的な祈りです。キリスト者とは、聖書に記されている神の御言葉を信じ、それによって生きておられる神との交わり、対話へと招き入れられた人です。出会いと言っても良いでしょう。

その時から、キリスト者は、主イエスの証人、復活の証人となります。ならせていただけますし、ならねばなりません。キリストの紹介者です。そうであれば、洗礼者ヨハネのように、「この人を見よ」とイエスさまを直接に指差すことはできませんが、しかし、キリスト者は、聖書をひもときながら、「このイエスさまによってわたしは救われたのです。このイエスさまに毎日、守られ、支えられているのです」と、証することはできるはずです。これが、今年、私どもが学び、祈り求めた個人伝道の姿です。

その意味で、私どもキリスト者とは、なんという光栄な人間なのでしょうか。主イエスは、ただ、キリストを紹介し、キリストを証することが許されているキリスト者をも、偉大な者と絶大なる評価してくださるはずであります。

ただし、これは、蛇足かもしれませんが、気をつけていなければならないことがあります。キリスト者でない方々の中に偉大な人がいないかのような考え違いをしてはならないということです。心から尊敬する未信者の方、挙げればきりがありません。昨日読んだ新聞に、法律家を育てている方が紹介されていました。憲法の理念、個人の、人権の尊厳に感動し、日本国憲法の精神を日本に徹底することができる法曹、法律家を育てている方です。その理念、考えこそ、キリスト教の文化価値、キリスト教の結実のはずです。教会で聖書や教理を教えられ、福音の真理を学んでいるキリスト者が、この方のように人間の尊厳のために戦っているのか、それを問われました。

さて、もとに戻りましょう。主イエスは、洗礼者ヨハネを、これまでの人間の中で最も偉大な者だと宣言されました。ところが、実に、主イエスはここで続けて、さらに高らかにこう宣言なさるのです。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」ここで決して誤解してはなりません。このヨハネは、天国に入れないということを仰っているのでは決してありません。主イエスは、ヨハネやその弟子たちを批判してこう仰ったのでもありません。

私はここで、少しこだわらなければならないと思う表現があります。主イエスはここで、天国に入った人の中にも、最も小さい者がいると仰いました。なるほど、確かに、キリスト者として、神と教会に仕え、この世界においてよき働きをあまりなしえなかった者のことを指しているのかもしれません。

新約聖書の中で、その最もよい実例は、おそらく、主イエスと共に十字架につけられた犯罪人です。ルカによる福音書第23章に記されています。主イエスの両脇には、強盗たち二人もはりつけられていました。それは、おそらく、イエスという人間は、王さまでも救世主でもなく、強盗犯のような犯罪者のひとりにすぎないということを印象付けるために、あえて、ローマのユダヤ総督ピラトは、そうしたのでしょう。ところが、そのひとりが、十字架の上で、イエスさまに向かって天国への望み、救いを求めたのです。長くなりますが、朗読致します。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。」

主イエスは、この強盗に、天国を約束されました。まさに、彼は、地上では、何一つ、神と人に喜ばれることが出来ませんでした。しかし、最後のギリギリで、間に合ったのです。救い主の前で、自分の罪を認め、自分は神と人から裁かれて当然の人間だと認めたのです。しかし、その上で、絶望したのでもなく、開き直ったのでもなく、救いを神に、つまり、イエスさまに求めたのです。

このことも、本当は、説教で語る必要もないと思うのですが、あえて申しますと、私どもの伝道の望みを、ここに託すことができるのですし、託すべきです。自分の愛する人が、今まさに、地上の生命を終えようとしてもなお、洗礼を受けていない。しかし、この十字架の上で、救われた犯罪者を読めば、可能性がある、間に合うという信仰に立てるのではないでしょうか。少なくとも、私どもは、この福音とその力を、告げることができるのではないでしょうか。

十字架の上の犯罪者と洗礼者ヨハネとを比べたら、いかがでしょうか。ヨハネは、領主ヘロデが兄妹の妻を横取りした倫理的な問題を糾弾しました。神の言葉、神の正義を貫くために、自分のいのちをかけた人です。今、牢屋にいるのはそのためです。そして、最後に首をはねられるのです。しかし、あの強盗は、自分の欲望のために、お金を盗み、人を殺しました。

ところが、主イエスはこう高らかに宣言なさったのです。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

それならいったい、ここで言われている「偉大さ」とは何でしょうか。それは、我々が慣れ親しんでいる努力の世界、がんばって上に這い上がる、成功者となるという地上の論理、この世の価値観とはまったく異質のものなのです。この世における真実の偉大さとは、おそらくは、その人じしんが、人一倍の努力をなして、そして、自分の力で何か優れたこと、秀でたこと、しかも、人々の役に立つこと、感動させることをなしえた人ではないかと思います。
あえて付け加えるなら、親の七光りとか、生まれつきの立場だとかに頼らないで、その人じしんが獲得した優秀さ、それを我々は、心から偉大と認めるのではないでしょうか。

さて、それなら、天国に入れた人の偉大さとは何でしょうか。事柄を鮮明にするために、ここでも、あの犯罪人を考えたらよいかと思います。彼は、ただ天国に入れた、いへ、正しく表現しなければなりません。天国に入ったのではなく、入らせていただいたのです。ただ主イエスの恵みによって、入らせていただいただけです。しかし、その天国に入るということに、ただ、そこにのみ偉大さがあるということでしょう。そして、それは、何を意味するのかと申しますと、シィエスは、ここで、その偉大さという栄誉を、入った人本人に帰せられています。しかし、本当は、この偉大さは、主イエスご自身にのみあるのです。

最初に、キリスト者の偉大さについて、学びました。そのときの偉大さもまた、ただ一点にありました。つまり、主イエス・キリストと出会い、交わり、救われている、主イエスと個人的な関係を結んで頂いた、絆を与えられた、その一点にあるのです。だから、この主イエスを、他のだれでもなく、キリスト者だけが、証しできます。真実に紹介できるのです。そこに、キリスト者の偉大さがあるわけです。

天国に入らせていただくこと、これこそ、人間の究極の、最高の目標です。それができなければ、地上でどれほどの栄誉、富、力を得ても、まことの人間としては、空虚のはずです。

私どもは今朝、私どもに与えられ、約束された天国の救いがどれほどの恵みであるのかをあらためて悟り、心の底から神に感謝をささげたいのです。私どもは、主イエスが十字架で身代わりに私どもの罪を担って神に裁かれ、死んで頂かなければ、決して天国に入る、入れて頂ける資格がない者です。それにもかかわらず、私どもは、既に、天国の祝福を今ここでこのように、受け始めているのです。そうであれば、私どもが、この偉大なキリスト、言葉の真実の意味で、偉大なイエスさまを、ただイエスさまだけを誇りとして、これからもいよいよ主イエスに仕え、主イエスを証して参りたいと願います。

次に行きましょう。12節、「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」この個所は、新約聖書の中でも、とても解釈の困難な個所とされています。ルカによる福音書第16章16節では、このような主イエスの言葉が記されています。「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力づくでそこに入ろうとしている。」このルカによる福音書では、主イエスの御言葉の真意は、はっきりしていると思います。天国に入る熱心、救われるために、どれほど熱心にならなければならないかということです。そしてその熱心さが推奨されているということです。おそらく、多くの方はそのように解釈すると思います。

ところが、ここでは、そうではありません。天国は力づくで、つまり暴力によって襲われているというのです。激しい攻撃者がまさに乱暴に天国を奪い取るというのです。つまり、天国は、この地上の力によって攻撃されているというメッセージです。

「天国を襲うだなんて、できるはずがないではないか」と、素朴に思う方もいらっしゃると思います。そうです、いったいどんな方法で、天国を奪い取ることができるというのでしょうか。しかし、もし我々が、その天国、神の国のことを地上はにない、天上にある国というふうに限定して捉えるのなら、まったくその通りでしょう。
それなら、何故、このような表現を主イエスはなさったのでしょうか。ここからは、聖書全体からの教え、教理を抜きにして理解することは、難しいでしょう。

私ども教会は、天国を二つに考えています。先日、○○兄弟は、天国へと凱旋して行かれました。それは、目に見えない神の国です。目に見えない教会と言い換えても良いのです。いわゆる信仰のない人たちも、死んだら天国に行くとか極楽に行くとか死後の世界のことをイメージすると思います。それに近いのが、目に見えない天の世界です。一般の方々も今では、なじんでいる天国です。

しかし、聖書は、この天国が、地上にすでに始まったと告げているわけです。主イエスが、「悔い改めよ、天国は近づいた」というあのメッセージに込められています。天にまします主イエス、天にいらっしゃるべき王の王、主の主が、地上に降誕なさったからです。天の王子さまが、地上に御自身の支配の場所を獲得なさったからです。それこそが、キリストの教会に他なりません。教会を構成する私どもの存在に他なりません。天国は、地上の教会において始まったのです。言わば天国を本店にたとえるなら支店、あるいは出張所がこの地上に置かれたのです。キリストの教会とは、天にある天国、神の国そのものではありませんが、神の国の地上における最高の現れなのです。

そして、だからこそと申しましょうか、この地上の神の国、天国は、教会は、まさにヨハネが主イエスを紹介し始めたときから、攻撃を受けているのです。そして、この後、一気に私どもはその攻撃を福音書から学んで行くはずです。主イエスが十字架へと赴くその歩みです。迫害です。主イエスが始まられた地上の天国、教会はこの地上に始まったのですが、その天国を破壊する力が、渾身の力を込めて略奪する勢力、つまり悪魔、サタンがあるのです。

それは、私どもが、マタイによる福音書の第10章で特に学んで来た事です。狼の群に羊を送り込む状況、それがこの地上での天国の状況なのです。つまり、教会のこの世におかれた現実に他なりません。私どもは、その意味で、どのような教会の理解を持つでしょうか。

確かに今や、世界中に教会は存在しています。神の国の臨在は、教会を通して鮮やかに世界に証されているはずです。しかし、1600年前までは、どうであったのでしょうか。教会の存亡、存続は言わば、そスレスレの状況でした。今もこうしてあるのは、まさに、教会が、「神の」教会であるからだと言えます。それほど、教会とは、地上にあって、攻撃されることを避けえないという理解を主イエスがお示しになられたのです。

それは、教会が徹底的に神の教会だからです。異質な存在だからです。このことを、私どもは、聖書から学び直しましょう。学びましょう。どうかすると私どもは、時代の進展に伴い、教会はこの世界を言わば、制覇するかのような思い込みがあるかもしれません。聖書には、そのような預言はありません。世界は、キリストの再臨によって、完成されるのです。

そもそも、教会とは襲われる、攻撃される存在なのです。私どもは、この点で、ひるまずに歩みたいのです。たとえば、韓国のキリスト教を思います。戦後、その成長は、おそらくキリスト教の歴史の中でも、過去に例がないほどの成長を見ました。しかし、今、その勢いは、止まりつつあるとも伺っております。その意味では、ここからが、本当の戦いなのかもしれません。もしも、教会というのは、いつでも成長し、大きくなるという信念でいれば、そうでなければ、教会はよくない、病んでいると考えていると、わたしは危険だと思います。あるいは、韓国のように成長しない日本の教会は、簡単にダメだと考えるなら、それも危険な考えだと思います。

教会は、この攻撃を予告されています。しかし、主イエスは、十字架で終わりませんでした。ご復活されました。ですから、この主を信じ、この主イエス・キリストを頭とする教会であれば、まさに、敗北することはないのです。これを、私どもは信じなければならないのです。そして、ひるまず、成長を求め、教会として形成されることを、日々、祈り求めるのです。

最後に、短く、主イエスご自身の時代への評価、言わば社会批判の言葉、考察を学びましょう。15節、「耳のある者は聞きなさい。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」笛を吹くというのは、喜びや楽しいイメージでしょう。葬式の歌とは、まさに悲しみや痛みのメッセージでしょう。しかし、そのいずれにも、正しくふさわしく反応しない、応答しない人々、時代であると批判されます。

このイメージを受けて、さらに続けて語られます。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」つまり、洗礼者ヨハネが語った、「神の御前に、真剣に、禁欲的に生きよ」というメッセージに対しては、「あれは、悪霊に取りつかれている」と批判します。群衆は、「それは、宗教に生きるのは大切なことだし、人間にとって必要なことだけれど、行き過ぎはだめだ、ほどほどにしなければ。」こう言って、洗礼者ヨハネを言わば、非常識な人間だと批判したのです。

返す刀で、こんどは、主イエスのことを、ヨハネの反対の振る舞いをしていると誤解します。「あの男は、ふまじめにすぎる、まったく神の掟から離れたことを、好き放題をやっている」このように批判しました。人々は、群衆は、どっちらも極端と考えたのです。「ヨハネは、もっと自由にしたらよい。イエスは、もっと厳格にしたらよい。」まことに、好い加減なことを言うのです。神の御心を知ろうとも、悟ろうともしなかったのです。要するに、主イエスは、世間とは、神の国、天国を、いつでもお客さんのようにのぞいているだけなのだと仰るのです。「キリスト教の教えはもう少し自由であればなぁ、いや、もう少し厳しくすべきだ」あれこれ評論するだけなのです。その軸に座っているのは、結局、この一点につきます。自分です。自己中心です。自分は、生ける神の前に出ようとしません。つまり悔い改めて、人生の方向を変えて信じようとはしません。ところが、自分こそ、人生や社会の常識が分かっているかのようにふるまうのです。

しかし、主イエスは、仰います。19節、「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」論より証拠、知恵の正しさ、まことの神からの知恵を受け、その知恵で生きているかどうかは、彼の働き、行動で証明されるというのです。そして、その知恵とは、二人とも苦難の道を進むということにおいて鮮やかに証明なさったのでした。

そして、まさにそこで、群衆は、人々は、自分の内に神の知恵がないことを証明して行くことになります。つまり、十字架につけられるイエスを、メシアと信じないからです。苦しまれる救い主は、まことの救い主、キリストではないと考えたからです。そのようにして、天国からはるかに遠ざかるのです。偉大なイエスさまから離れさるのです。しかし、私どもを救うために十字架へと、苦難へと進み行かれることこそ、神の知恵なのです。

今、私どももまた、この結論の御言葉の前に立たされています。あなたは、あなたの知恵、あなた自身の知恵で生きるのか、それとも、神の知恵をこそ、まことの知恵、叡智として認めるのかです。私どもは、今こそ、悔い改めて主イエスを信じたいのです。神の知恵をこそ、救いの知恵、真理として信じ、従うのです。そのとき、私どもの従う生活において、世間は評価し、認められなくても、まさに神の知恵に基づく人生、救われる生活、天国へと至る歩みをなすことができるのであります。

祈祷
罪人であるゆえに天国に入る資格を何一つも持ち合わせていない私どもに、主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、御子イエス・キリストを与えて下さいました。御子を信じる故に、ただそれだけで、偉大なる主イエスとのいのちの交わりを与え、天国の民として数えてくださいました、心から感謝致します。今、あらためて、この偉大とされた恵みに応えて、自分ではなく、主イエスを紹介し、証する尊い奉仕へと、奮い立たせて下さい。天国の力、聖霊の力を豊かに注ぎ、神の愛と正義を証することが出来ますように。アーメン。