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「どれほど大切にされているのか」

「どれほど大切にされているのか」
2011年1月9日
テキスト マタイによる福音書 第12章9-14節 
【イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。すると、片手の萎えた人がいた。   
人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。】

本日から、いつものようにマタイによる福音書の講解説教によって礼拝式を捧げて参りましょう。今朝与えられたテキストは、安息日をめぐる物語です。私どもの教会生活もまた、まさに、この安息日、主の復活記念日である日曜日を中心に営まれるものです。その意味で、本年最初のマタイによる福音書のテキストとしてたいへん相応しい個所が与えられていると感謝しています。

さて、もしかすると多くの方が、この物語に余り心を動かされないまま読み過ごしてしまうのではないかと、思います。と言うのは、ここで主イエスが語られたこと「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。」これに対して、こんな風に思われるかもしれません。「何も、そんなに仰々しく語らなくても、誰でもが考えていることだ」また、この物語の印象として、「昔のユダヤ人は、なんと融通が利かないのか。まったく本末転倒な考えをしているな。だから宗教にはまるというのは、危険なのだ。」そんなふうに、常識的に考えて、読み過ごされるのではないか、そう思います。

わたしが、この説教準備をする中で、二つの思いが湧いてまいりました。言葉にするとこうなります。一つは、「そこまでするか」もう一つは、「そこまでしてくださるのか」です。マタイによる福音書はここで、主イエスの伝道生活が極めて重要な局面へと入って行くことになったことを告げています。つまり、ファリサイ派の人々はこれを機に、イエスの殺害について相談を始めることになります。

ここには、名もない一人の男性が登場します。確かに、初めてその会堂に入ったであろう弟子たちは知らなくても当然でしょう。しかし、いつも一緒に会堂で礼拝し、聖書を学んでいた周りの人たちもまた、彼の名を知らなかったのだと思います。何よりも、そこで聖書を教えていた律法学者や熱心に学んでいたファリサイ派の人たちも知らなかったようです。これは、一緒に教会生活を営んでいるのに、まったく寂しい限りです。

要するに、この男性は、まったく目立たない人なのです。そして、周りの人たちも、彼に興味も関心も持っていなかったのでしょう。彼は、事故か何かで骨折してしまったのでしょうか。つぶされてしまったのでしょうか。片手の機能を失って、言わば、肢体不自由になったわけです。福祉の制度を持たない当時の社会では、やはり、精神的にも経済的にも、相当に厳しい状況にあったのではないかと思います。

ただし、彼は、これまで登場した様々な病に苦しんでいる人たちと比べれば、はるかに恵まれていたはずです。私を含め、殆どの方は、なんらかの病を抱え、あるいは不自由を抱えながら、しかし、折り合いをつけて暮らしているのだろうと思います。余談ですが、この説教を準備しながら、普段は忘れているのですが、顔面麻痺が完全に治ったら、どんなによいだろうかと思ってしまいました。

もしかしたら、この片手の萎えてしまった人は、ありとあらゆる病を癒すことがおできになられると噂されていたイエスさまを目の前にして、「ああ、遂に、この自分の障害をもこの人は、取り除いて下さるかもしれない」そんなふうに、心ときめかせたかもしれません。

さて、主イエスは、この事件の直前に、「わたしは、神殿よりも偉大な者なのだ、わたしが、安息日の主なのだ」と宣言したばかりです。つまり、ご自身が、生ける神の子でいらっしゃることを高らかに宣言したばかりでした。これに対して、宗教家たちつまり律法学者とファリサイ派の人々は、こう考えていました。「なんとしてもこのイエスの鼻をへし折ってやろう、どんなことをしてでもこのイエスの活動をとどめてやろう、そうしなければならない、それこそが神の正義の側に立つ自分たちの使命だ。」

その日は、安息日、彼らがもっとも活躍する日のことでした。しかも神を礼拝する会堂の中にいます。そこに主イエスたちが入って来ます。宗教指導者たちは、いつもは、まったく関心も持っていないこの片手の萎えた人の存在にはっと気が付きます。「そうだ、イエスを攻撃するために、イエスを神の律法によって訴えるために、目の前にいるこの男を利用できる」そこで、彼らは主イエスにこう尋ねます。「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」

答えは、明白です。誰もが知っています。安息日に労働することは赦されていません。治療行為もまた労働です。安息日には、病院は急診日です。ただし、例外もありました。生命にかかわること、緊急の場合に限り、助けることは認めていました。考えれば、当たり前のことだと思います。

その常識、当時の律法の解釈の中で、許されていた行為を主イエス御自身が語られました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」

この羊が穴に落ちたままでも、生命に別条がないようであれば、放置するし、そうでなければ、例外的に許されるとされていたのです。

主イエスは、当時の律法の定めですら、羊のいのちを大切に思うことを引き合いに出されます。そして、最も大切で、当然の神のお考えを明らかになさいます。その御言葉を聴きましょう。「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」

ここで、二つのことが示されました。
第一に、人間は羊よりはるかに大切ないのち、ということです。これは、しばしば、最初からキリスト教を批判する人々が言うことですが、キリスト教は、人間中心主義だ、それに対して、東洋の知恵、宗教観は、すべてのいのちは平等、小さな虫けらにもいのちがあり、そのいのちは、人間のいのちとなんら変わらない。キリスト教は、人間中心だから、この世界の環境を破壊するだなどということがまことしやかに言われますが、まったくおろかな議論です。キリスト教は、人間絶対主義でも人間中心主義でもありません。また、同時に、昆虫のいのちと人間のいのちとを同列には決しておきません。人間の尊厳は、神によっていのちが直接与えられ、しかもそのいのちは神との交わりをする特別のいのち、言わば神のいのちを吹き入れられた者だからです。人間とサル、どれほどにていても、圧倒的に、いへ、質的にまったく違う生命体なのです。だから、人間は、動物を保護する責任がある。これが、聖書のメッセージです。

もう一つは、「安息日に善いことをするのは許されている」ということです。主イエスは、ここでまったく消極的な表現をなさっていらっしゃいます。許されている。この表現は、しても責められない、罰せられないというものです。まことに控えめです。しかし、それはむしろ主イエスからの批判として聴きとるべきものです。安息日に善い事をする、それは、許されるとう次元の問題ではないのです。むしろどんな日にもまさって、安息日にこそ、善いことが行われるのです。善い事を行うべきなのです。

そこで大切なことがあります。それなら、善い事とはどんなことであるかということです。そこでも、ローマの信徒への手紙第12章2節先週学んだ献金のときに朗読される御言葉が響きます。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」何が善いことであるのか、何が神に喜ばれるのか、完全とは何か、それらをわきまえることこそが問われています。そして、それは、まん中にあるひと言が鍵です。神に喜ばれることです。善いことも、完全なことも、すべては神のお心、神のご計画、神の真心にかかっています。神さまを抜きにして、何か善とか、完全とかがあるわけではありません。善いことそれは、神が喜ばれることです。それが完全なのです。神がお喜び下さることをわきまえることです。それなしに、どんな奉仕も、どのような教会生活も、どのような人生も空しいのです。

今、主イエスはいつものように、ここでも、「父なる神が何を願っていらっしゃるのか、何を望んでいらっしゃるのか、神の国とはどのようなものなのか」それを明らかにお示しになるのです。それが、まさに安息日と重なりました。

しかし彼らは、神の御心を正しくわきまえることが、まったくできません。聖書の知識には長けているし、その解釈も立て板に水のように、スラスラやってのけられたかもしれません。しかし、彼らは、目の前にいるこの男は、自分を神であるかのようにふるまい、主張し、安息日の掟を公然と破っている。神を冒涜している。何としても阻止しなければならないと考えたのです。

そして、彼らは、その正義のために、普段は無視していた肢体不自由な男に注目したのです。彼を、主イエスを貶める手段として利用しようと思います。

それに対して、主イエスはただおひとり、ここで、これまでまわりの人々が無視していた、少なくとも関心を示していなかったこの男性を、ひとりの人間として認められたのでした。ひとりの人間として認めるというのは、いったい、どういうことを意味するのでしょうか。それは、「羊よりもはるかに大切なもの」つまり神に創造され、神に愛され、神の尊厳を与えられた人間として重んじておられるのです。イエスさまだけが、この人を神のお心で愛しておられるのです。主イエスは、このように人びとに語られました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」常識で言えば、命にかかわらないのであれば、次の日まで待てばよいだけのことです。これが、ユダヤ人の正統的考えなのです。ところが、主イエスは、そうはなさいません。

皆さまのなかで、主イエスのこの説教を思い起こされる方もいらっしゃるかもしれません。ルカによる福音書第15章です。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」

ここでも、常識のある人なら、そんなことは決してしないはずです。たった一匹を助け出す、探し出すために、野原に99匹を残す羊飼いはいません。計算したら、小さな子どもでも分かるわけです。しかし、あえて主イエスはこう仰います。それは人間の見方だ。何が神に善いことで、神に喜ばれ、完全なことであるのか、ここでそれがはっきりと示されるのです。神さまの御眼で、人間は羊よりもはるかに大切なものです。それは、いかなる場合にも貫かれる真理なのです。神さまの御前で、人間のいのちの値打ちが比べられることはありません。

冒頭に申しあげたとおり、羊より人間が大切だなんて、あたりまえではないかと思って読み飛ばしがちです。しかし、ここで主イエスが語られることは、中途半端なことではありません。まことの神が人間を、もっとはっきりと言わなければ分からないのであれば、まことの神、父なる神がこの人間の側から言えば名もなき男性、片手の萎えている男性を、どれほど、大切にしておられるのか、それが今ここで、安息日に会堂の真ん中で明らかにされるのです。

 こここそが、問題なのです。宗教家たちは、この当たり前のことが、わからなくなっているのです。いへ、これは、単に宗教家ということではなく、当時の彼らの社会的地位は、要するに役人であり政治家、つまり、社会の体制、国家の体制を支える側なのです。今も、同じ論理が世界中で常識とされてしまっています。一国のためなら、沖縄に犠牲を払ってもらうのは、当然だ。仕方がない。それより、自分の立場や一族のためなら、沖縄が米軍の統治に置かれるのは、むしろ、当然だと考えたのは昭和天皇でした。

 まさにイエスが殺されたのは、この論理に他なりませんでした。「そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。」

ところが、主イエスは、自分が殺されることになる、それを承知の上で、この人を癒そうとなさるのです。それは、売られた喧嘩を買うようなものとはまったく違います。宗教論争のためでもありません。ただ、この人がこのままでいるのは、かわいそうだからです。神の憐れみの心が動かなければ、たったの一日だけ待てば良いはずです。本人だって、すでに何年も、あるいは何十年も片手の不自由を抱えたまま生きてきて、「わたしを今すぐ、ここで癒して下さい」などと、思いもしなかったでしょう。

冒頭で申しました、わたしは、宗教指導者たちに驚きます。「そこまでやるのか」という思いです。このイエスを殺すために、この人をダシにするのか。人間のおぞましさに驚きます。しかし、それに比べられないほど私が驚かされるのは、実は、イエスさまの方です。「そこまでして下さるのか」という思いです。つまり、イエスさまは、常識的に考えれば、愚かに過ぎます。我々の賢さ、ずる賢さから言えば、あと何時間が待って癒してあげれば、何の文句も言われずに済んだのです。何よりご自身が殺害を企てられることもなかったかもしれないのです。たった一人の名もなき男性のために、しかも命にかかわる病でもないのに、神の御心をこの人にお示しになられるのです。これが、神のお心なのです。神の人間への、ひとりの人間への関心なのです。大切に思うお気持ちなのです。神の御心は、神の喜びは、神の完全は、この人が、そして、ここにいるあなたがたが皆、健康でいること、自由に、幸福に生きることなのです。主イエスは、この神の親心、真心を私どもに明らかに示すために、ご自身のいのちをかけて、この人を癒すのです。

さて、このとき、この男性はどんな気持ちがしたでしょうか。彼こそ、びっくりしたと思います。この人は、こんなわたしに目をとめ、本当に同情してくださっている。自分でお願いしたわけでもなく、この人を訴える材料にするために自分が利用されていることを、彼も気づいていたはずです。しかし、主イエスは、堂々と彼に近づいて下さいます。そして、主イエスが彼にお命じになられます。「腕を伸ばしなさい。」これは、癒しへの招きです。主イエスのご命令です。しかし、そのとおりにするかしないか、それは、彼の意志にかかっています。無理やりではありません。この人は、神の自分への愛の真心を信じたのです。主イエスが、こんな自分を顧みて下さることを驚きをもって感謝し、伸ばせるはずもない腕を伸ばそうと、意思したのです。心を動かしたのです。そのとき、主イエスの癒しの力が直ちに発動して、彼は、癒され、萎えた手を高々と挙げて、神を賛美したはずです。ああ、わたしのような者を、神はお見捨てにならないのだ、ああ、神の国というのは、こうところだ、神の愛の支配があるところ、病が癒され、不幸が消し去られ、神の平和が満ちるのだ。彼はそう信じて喜んだはずです。

わたしは、この男性の喜びに深く共鳴します。ここにいる私どもも、全員、このような言わば、異常なまでに、主イエスの愛に愛されているのです。自分のいのちをかけて、こんな私にすら、苦しみ、痛み、不自由になって生きることを願っていらっしゃらないのです。むしろ、喜んで、楽に、迷いなく生きることを、ご自身のいのちを犠牲にする覚悟をしてまで願っていて下さるのです。これが、父なる神の親心なのです。私どもは、神の子なのです。今、私どももこの男性と同じです。この神の非常識なまでの、「そこまでしてくださるのか」という愛がなければ、わたしもまた、ここにいることはできませんでした。ここで神を愛し、信じ、礼拝することもできなかったはずです。この愛によって、わたしは今日あるを得ているのです。ただ、神に感謝あるのみです。

確かに、誰でもときに病気に苦しみ、こんなはずではなかったのにと思いもよらない困難に押しつぶされそうになったりする経験を重ねることがあります。しかし、私どもは、決して、ひるみません。この現実が全てなどでは決してないと確信しています。むしろ、神の完全は、そこにはないと知っています。神の愛の御心は、わたしの不幸にはないと確信するのです。この私とその祝福のためには、イエスさまのおいのちがかかっていることをわきまえているからです。だったら、この病、この試練、この課題に耐えられるのではないですか。それに負けないはずです。私どもは、神に愛され、守られているからです。キリスト者とは、誰でしょうか。それは、安息日に働くこの主イエスさまによって救われた者たちのことです。

さて、最後に、教会員として、あらためてこの主イエスと向き合いましょう。つまり、安息日をどのように生きるのか。神奉仕にどのように向き合うのか、それを考えて見ましょう。確かに、安息日は、教会で礼拝を捧げる日です。言うまでもなく、これこそもっとも重要で、最高の神奉仕であります。

 しかし、このときの主イエスを見つめているうちに、私どもも気づかされるのではないでしょうか。それは、萎えた手を癒された者である私どもは、その癒された手をもって、何をするのかということです。
キリストの弟子たちは、主イエスから悪霊を追い出し、病を癒す権威を与えられていました。その記事が記されたのは、ただ、当時の事実を書き記すという意図だけではないはずです。キリストの弟子として、生きるということの原型が示されたのです。

この癒された人は、自分に注がれた神の恵みと愛をどう考えたのでしょうか。もとより、彼は、まだこのとき、自分のためにそこまでしてくださった方が本当に殺されてしまうことを知らないかもしれません。けれども、もし、「ああ、自分を一方的に憐れんで、神の御心を鮮やかに示して下さったのだ」と気づいたのであれば、わたしは、彼もまた、安息日を神の働きのために一生懸命に奉仕したと思います。こう考えたのではないかと思います。「神を愛し、隣人を愛するということを具体的に進めるのに、もっともふさわしいのはむしろ、安息日ではないか。わたしも、また、神の喜ばれることを、日々、とりわけ、安息日こそすべきだ」

 最後の最後に、これは蛇足かもしれません。先週の礼拝式で、かつて委員をされた兄弟と久しぶりに交わりの時が与えられました。兄弟の教会の主日の午後は、いささか、忙しいということです。さまざまな委員会活動、奉仕があります。午拝があります。もしかすると、皆さんのなかで、びっくりなさるかもしれませんが、日本キリスト改革派教会のひとつの常識は、午前の礼拝と午後、もしくは夕べにも礼拝を捧げます。したがって、私どもが主日礼拝式と言うとき、それは、「朝拝」と言われます。午拝や夕礼拝は、朝に出席できない方のためのものではありません。

 私どもの開拓時、わたしは、主婦で一人、教会生活を守られる方を考慮し、配慮して、毎月、第二主日は、午後の集会をしないようにしようと、心に決めました。それは、基本的に、今日まで、守られています。今年も、伝道所委員会では、その件での議論はありません。それは、今年は、浜松伝道所の代理宣教教師として、毎月第二主日には出張するからでしょう。

今年、私どもは、家族伝道に集中するということを、皆さんと取り組もうとしています。まさに、ひとり一人の課題です。家族とゆっくり交わり、楽しい時を過ごすことは、極めて大切と確信しています。教会は、家族の交わりを育む場所であることを確信もしています。ですから、契約の子たちが、親が日曜日、教会だけにとられて寂しくするのを避けたいと思います。ついこの間まで、牧師の子らは、日曜日の午後もまた、ほっぽかれていました。それは、親が牧師ですから、夫婦で様々な奉仕に勤しむ体制でしたから、仕方がありませんでした。

しかし、今、10年をはるかに過ぎて、このように思い始めています。主日の午後、反対に、そのように集会をしないことの実りはどうであったのか、です。もとより、神さまのみご存じです。そして、憐れみによって守られて参りました。いずれにしろ、私どもの教会は、どうしたら教会員の家族が祝福され、共に恵みを受け継ぐこと、救われた家庭へと導くかを考えて続けてまいりました。

今年、安息日をどのように主に捧げ、主の働きを担うのか、それを考える一年にしましょう。いへ、考えて、それで終わってしまったら、何にもなりません。主の働きを押し進めましょう。今日、午後、家族のもとへ戻った時、どのように恵みを分かち合うのか、それが私どもの相応しい安息日の守り方となるはずです。礼拝後の懇談が祝されますように。

祈祷
私どもがどれほど大切な存在であるのか、あなたが教えて下さいました。御子のいのちを犠牲にしてまで、私どもを救い、楽しませ、自由にしてくださいました。父なる御神、あなたの愛そのもの、イエスさまのいのちをもって、大切にされた私どもは、今、あらゆるものにまさってあなたを大切にします。あなたを愛します。そしてそのわたしどもの真心を、あなたに奉仕すること、伝道することによって、示させてください。証させてください。あなたの霊を豊かに注ぎ、私どもの献身の真心を育て、深め、また、あなたの訓練を受けて、よき奉仕者として整えて下さい。よき実りを捧げさせて下さい。アーメン。