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「良い畑とされて -神の御言葉の威力を知る-」

「神の御言葉の威力を知る」
2011年2月27日
テキスト マタイによる福音書 第13章1-9節・28-23節 
【その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。
「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」】
 

今日は、主イエスご自身によるたとえを用いて語る理由の説明の部分は、ずいぶん迷いましたが、読み飛ばしました。もとより、1節から23節までの全体を読んで頂きたいのですし、そうでなければ、深く説教を聴きとることは難しいと思います。ただ、余りに長くなるという理由で躊躇しました。来週は、10節から17節のテキストを取り扱います。しかし、そこでも、全体の御言葉を心に留めて頂かなければなりません。したがって、今朝の説教は、来週の説教とあわせて、一つの説教となると言ってもよいと思います。テキストの構造自体がそのようになっているからです。

 私どもの教会は、「説教の分かち合い」という集会をとても大切にしてまいりました。これからもそうありたいと考えておりますし、皆さまもこのときを、積極的に参加してくださると思います。

 さて、わたしはこのテキストを読みながら、このようなことを想像しました。もし説教を聴く前に、すぐに聖書朗読によって聖書の御言葉からの恵みを分かち合うとしたなら、どのようになるであろうかということです。皆さまは、主イエスがなさったこのたとえ話を、どのように解釈するのでしょうか。聴きとられたのでしょうか。 

わたしは、ある予想を立ててしまいました。というのも、かつてこの個所をある方々と読んだとき、このような声を聞いたことがあるからです。実は、わたし自身も、かつてこのように考えていたことがあったからです。

 ここには、種が落ちた場所として四つが数えられています。道端、石地、茨の間そして良い土地です。そこで、何が始まるかと申しますと、自分をその四つの土地のどれかに当てはめようとするのです。それは、悪いことではありません。最初に読めば、おそらく誰しもそのようになさるのだろうと思います。また、まさに、聖書を読むということは、まさに自分じしんのこととして読むことがまっとうな読み方であって、それ以外にありませんから、ふさわしいことであるともおもいます。

ただし、これはおそらく、一人二人ではないかもしれません。ご自分のことを、道端に落ちた種とか、石地に落ちた種とか、茨の間に落ちた種ではなかろうかと、仰る方がいらっしゃるのではないでしょうか。そして、ご自分のことを、良い土地に落ちた種であると感謝する人は、実は、少ないかもしれないのです。最初に申しあげると、これは、きわめて残念なこと、福音的な理解から遠ざかると思うのです。

ここで、最初に明らかにしておきたいことがあります。それは、道端に落ちた種も、石地に落ちた種であっても、茨の間に落ちた種であっても、いずれにしろ、その種は実を結べないのです。つまりは、天国に入れないということになってしまうのです。したがって、もしご自分のことを、道端に落ちた種とか、石地に落ちた種とか、茨の間に落ちた種ではなかろうかと、仰る方がいたとすれば、これは、とても、おかしな言い方かもしれませんが、今日は、教会に居残りして頂かなければ困ってしまうのです。

ただし、求道中の方や、まだ求道を初めていらっしゃらない方が、ご自分のことを道端ではないかとおっしゃるのは、仕方がありません。居残る必要もありませんし、その必要性を覚えてもいらっしゃらないと思います。

しかし、既に洗礼を受け、信仰を告白している兄弟姉妹たちは、もし今朝、そのような理解のまま家に、職場に、神が派遣されるそれぞれの場所に持ち帰ってはならなりません。今朝、ここで主イエスがたとえ話で描き出した福音のイメージをきちんと心のキャンバスに描き、福音の真理のことばをきちんと刻み込んでいただきたいのです。御言葉を正しく理解し、信じなければなりません。そうでなければ、「安心して行きなさい!」との主イエスの御言葉を聴きそこなってしまいます。受け止め損なってしまいます。ことは、重大です。ひとりわたしども自身の課題ではなく、私どもに接する多くの未信者の方々に責任があるからです。

私どもは、その意味で、のんきな思いで、自分のことを道端派、石地派、茨派とでも呼んだらよいのでしょうか、そちらに当てはめてやり過ごすことはできません。
 
さて、主イエスの説教、そしてたとえ話の中心は、他ならない神の国、天国についてです。神の国において、種とは御言葉です。そして、まさに今や、ここでその御言葉は、神の独り子でいらっしゃる主イエスご自身が蒔いておられるのです。さらに言えば、ヨハネによる福音書によれば、主イエス・キリストご自身こそ、生ける神の御言葉に他なりません。

 最初にこのたとえ話の説教の結論として、宣言しなければならないのは、神の御言葉が信仰によって受け止められ、その人に結びあわされなら、たとい道端であっても、石地であっても、茨の間の土地であっても、良い土地に開墾されてしまうということです。そして、私どもは良い土地になるようにと定められているという真理です。
 
 先日、いつものようにと申しますが、朝の祈祷会が終わってお茶を楽しんでいたとき、どういうわけか血液型の話になりました。詳しくお話しする暇も、その必要もありませんが、「ああ、やっぱりB型なんだ」とか、「A型だと思いました。」とか、「0型だと思った」とか、いろいろ言われて、最後に笑い合いました。確かに血液型によって性格のある程度の傾向性を指摘することはありうるだろうと思います。それは、統計学上の確率の問題だろうと思います。血液型ではありませんが、いずれにしろ、人間には、人それぞれの性格があります。そして、主イエスの家族としての教会の中で、血液型の話が出てきて、それがたとい消極的、否定的であっても、「まあ、しかたがないか。」と、お互いを受け入れ合う努力と思いをそこで、いっそう駆り立てることになるのだと思います。そうでなければ、血液型の話で笑うことはできません。また、すべきではないということになるでしょう。

さて、横道にそれましたが、ただしかし、万一にも、信仰の世界において、たとえば、このたとえの解釈をする上で、私どもが、キリスト者には、道端型、石地型、茨型などという信仰の型、類型が定まっているというように、考えるなら、これは、とんでもない間違いになります。くり返しますが、キリスト者は、もしも、お互いに、良い土地でなければ、天国は閉ざされてしまいます。

 しかし、一方で、このたとえ話は、言わば余りにも生々しい現実を描き出していると、私どもは受け止めるだろうと思います。何故なら、私どもの周りで、実際に、教会から離れてしまった方、信仰から離れてしまった方がいらっしゃるからです。現住陪餐会員から別帳会員に移管の手続きをとられた方がいらっしゃるわけです。日本の教会のことですが、ある統計によれば、洗礼を受けて教会から去ってしまう人が、実に、半数以上にのぼるのだそうです。しかも2~3年でそうなる方が多いというのです。これは、驚くべき数値です。その意味では、昔教会に行っていたという人は少なくないのです。その原因、理由をくわしく述べる暇はありません。

そのとき、私どもは「ああ、主イエスのこのたとえの通りだな」と思ったりすることもないわけではありません。「あの人は御言葉を聞いて喜んで信じたのに、信仰生活が始まって、いざ、艱難が起こる、家庭のなかで反対が起こって迫害さて教会に来なくなってしまった。ああ、やっぱり、イエスさまが仰ったとおり、石地だったのかもしれない。」あるいは、「あの人は、御言葉を聞いてはいるけれども、この世の価値観、この世の思い煩い、この世の富の誘惑、地位、名誉などを優先して、キリスト者として少しも成長しない。ああ、あの人は、茨の中に蒔かれた種のようだ。」正直に申しますと、そのようなことを、心の中で思ったりすること、したことがあるのではないでしょうか。しかし、それは、きわめて慎重にしなければならない、考えだと言わなければなりません。そして、このようなわきまえをきちんと持っておかなければなりません。それは、決して、私ども人間が、自分以外の誰かを、いへ、自分自身を含めて、道端型、石地型、茨型などと言って、人間の信仰をはかってはならないということです。これは、キリストの家族、主イエスの家庭である教会を形成する上で、基本的なわきまえです。

何よりも、ここでキリスト者が、自分自身のことを、「わたしは、ああだこうだ」と議論するなら、ほとんど意味がありません。しかも、そこで自己弁護が含まれるなら、決定的な過ちと言わなければなりません。もしも、ここで、「自分がすこしもキリスト者として成長しない、豊かな実りを作れないのは、結局のところ、種を蒔いた人が悪いのではないか。そもそも、わたしはもともと良い土地ではなかったのだ。つまるところ、それらの責任は、主権者なる神さまにあるのではないか。」このような議論、言い訳は、正しいのでしょうか。

 今、挙げましたたとえの間違った解釈をつきつめれば、こうなるでしょう。信仰とは、その人の資質、人柄、品性、性格つまり持って生まれたもの、あるいは教育によって培われた素養が決定的に影響力を持つという理解を持つことです。つまり、何か、最初から信仰を貫く人と、貫けない人がいる、定まっているという解釈、理解を持つこと、これは、まったくの間違いです。それは、来週の課題にも直結します。

さて、それなら、いよいよ、このたとえの正しい解釈とはいかなるものであるかを学びましょう。そもそも、ここで種とは何を意味するのでしょうか。それは、18節にあるように「御国の言葉」です。それは、神の言葉であり、福音、喜びの訪れを告げる言葉です。つまり、天国の言葉、ここに天国が始まった、ここに天国が開かれたと驚くべき救いを伝える、もたらす言葉、いのちの言葉、御国の言葉です。

 次に、そもそもここで種を蒔かれているのは、誰のことでしょうか。それは、イエスさまに他なりません。主イエスは今まさにここで、一所懸命、神の御言葉を語っておられるのです。湖のほとりに座っておられたイエスさまと弟子たちのところに大勢の群衆が集まって来たのです。そこで、舟を出して、湖畔に立っている人々に向き合うようにして舟に腰をおろして、響き渡るような、透き通って行くような御声を発せられて、このたとえを語られたのです。たとえを語られる主ご自身こそ、種を蒔く人、その人に他なりません。
 
 さて、それだけに、私どもがここで、一つ驚くのは、この種まく農夫についてではないでしょうか。私どもは、おかしな農夫だなと思ってしまうのです。おそらく日本のお百姓さんがこれを読めば、このたとえは、ただちに、おかしいと思われるでしょう。そもそも、日本で種を蒔く、それは、おそらくは小麦であったかと思いますが、いずれにしろ、種を蒔くなら、その畑を、よく開墾しなければならないはずです。せっせと耕して、そして種を丁寧に、一列に蒔いて行くのではないかと思います。

しかし、実は、ユダヤ人たちは、ここでの主イエスの種まきのたとえに違和感はなかったのだと思います。この当時、農夫は種を、まさにばら撒いて行くのだそうです。大胆にどんどんばら撒いて、その後で、土を返して行くのだそうです。わたしなどは、そもそも、種まきをしたことがありませんから、イメージがわきませんが、当時のこの地方の人々は、そのような方法で種まきをしていたと言われます。

確かに種をばら撒くのなら、道端に落ちることもありえるでしょう。ばら撒いた後、地面を掘り起こすと石がころがってあったということも、ありうることでしょう。そして、地面を掘り起こしたら、もともと茨の種か根っこも掘り返されたということもありうるかもしれません。

しかし、それでもなお、このたとえを素朴に読めば、種が道端に落ちるのは、例外的なことだと分かるのではないでしょうか。少なくとも、多くの種が道端に落ちたなどとうことは、どう考えてもあり得ないことです。そんな、愚かな農夫などいるはずがありません。石地にしても、そうそうあることではないと思います。いわんや、畑から茨が成長するということもまた、あったとしても、まさに例外的なことではないでしょうか。つまり、ごく素朴に、普通に聴くなら、圧倒的に多くの種は、良い土地に落ちるのだと思います。

 しかも、わたしはくわしいことは分かりませんが、一粒の種、おそらくは麦の種は、10倍の実を結べれば、良い種だと言われるそうです。したがって、30倍も実を結ぶ種なら、それは、すごい種となるはずです。いへ、ここでは60倍、さらに100倍にも実りをもたらすとまで言われています。そうなると、まさにこれは奇跡の種ということになるはずです。

 主イエスは、ここで、このたとえを聴く者たちにこのように期待しておられます。このように願っておられます。そのような願いと期待とをもって、まさに主イエス御自ら、天国の喜びの訪れ、福音の言葉、いのちの言葉を私どもに蒔いておられるのです。つまり、主イエスの語られる言葉、神のみことばの力は、驚くべき豊かな力を持っているということです。神の言葉のすさまじい威力です。成長させる力、拡大させる力、いのちをもたらす威力、命を豊かに実らせる動力です。

 マルコによる福音書における主イエスの種まきのたとえ話においては、30倍、60倍、100倍と記されています。これは、だんだんと多く数える普通の文学的表現です。ところが、マタイによる福音書では、そのように記しませんでした。100倍、60倍、30倍とだんだん少なくなるのです。30倍の可能性の方が少ないということです。つまり、神の言葉、天国の救いの言葉は、100倍の結実をもたらすことが、強調されているわけです。マタイは、30倍結実させる種であるより、100倍結実させる種の方が多数派だ、当たり前なのだと言いたいのでしょう。

 主イエスは、私どもの心のキャンバスに、神の言葉についてのこのようなはっきりしたイメージを植え付けようとしていて下さるのです。そうであれば、先ず、私どもがこの主イエスご自身の約束の御言葉、まさに種を受け入れることです。それを、信じることです。

 しかし、正直に申しますと、そのように語る説教者である私自身こそ、深く問われるのです。私も又、一人の説教者、種まく人に当てはまります。伝道者は、神の言葉の種を蒔くために神のお召しを受けた者であります。

 このことは、いちいちこまごまと説明する必要はないと思います。日本伝道の困難さについてです。そして、それは、近年、加速度を増すようになってまいりました。中会の交わりの中に、入った方はお気づきになられると思います。教会の高齢化はいよいよ進んでいます。日本キリスト改革派教会もまた、大会伝道委員会によって九州に数億という献金を投入しながら、開拓伝道所は複数、閉鎖されてしまいました。いへ、名古屋市内にもかつて一つの伝道所がありましたが、閉鎖されました。伝道が進展せず、結実しなかったわけです。何年伝道しても、受洗者が与えられていない教会が最近では例外ではなくなっています。そうなると、わたしども伝道献身者は、説教では神の言葉の威力を語りながら、それを真実に正しく語り切る、語り抜くことが困難になる・・・。

 わたしは、日本で牧師になる人と韓国で牧師になる人とを比べれば、おそらく、韓国の献身者は、このたとえ話はまさに、自分たちの教会の現実であると、ぴたりと当てはまりやすいと思います。一方で、日本の伝道者、そればかりかキリスト者たちもまた、「イエスさま、そうはおっしゃっても、この日本は、別です。だめです。私たちの教会は、そのような成長はしていません。」こう言いたくなりやすいのです。

 ただし、韓国の牧師が、日本で伝道してもほとんどの場合は、韓国のようにはまいりません。それほど、日本伝道は、その畑自身がなお開墾されていないのです。はっきりと言えば、よい土地ではないのです。
 
それ以上、お話しをする必要はありません。主イエスがここで語られた説教は、たとえ話による説教です。ここに登場する種は、不思議な種です。あり得ない種だと言わなければなりません。つまり、人間そのものに他ならない畑は、実に種を蒔くことによって開墾されるのです。

日本では、畑を耕した後に種を蒔くのです。しかし、主イエスが用いられたユダヤの開墾方法は違います。そしてそこにこそ、このたとえが生きるのです。神の国の姿を見事に描き出すたとえとなるのです。つまり、種をばらまくという方法です。そしてその後で、畑を混ぜ返して行くのです。

しかし、誤解してはなりません。何も考えずにやみくもにばら撒けばよいということを意味しているのではありません。そのような乱暴な議論ではありません。しかし、決定的に大切なことは、種を蒔くことです。蒔き続けることです。そして、畑を混ぜ返すのです。そうすると、このようなことは、地上の現実の種では起こらないと思いますが、この種、神の種、主イエスご自身という命の種、神の言葉、天国の言葉そのものが畑を開墾して行くのであります。

 ただし、この実りが、いつ100倍に実るのか、実は、それは、記されていません。しかし、この日本においても、かつてのキリシタン伝道のようにもう一度、多くの人々が、福音に目覚め、飢え渇き、求め、結実する日がくるでしょう。そして、それを、先ず、私どもの教会から始めるべきです。今、時がよくても悪くても、へこたれずに蒔き続けることです。

 ここでの蒔く人とは、第一に主イエスご自身だと学びました。次に、召命を受けた説教者、伝道者だと学びました。しかし、それだけではありません。御言葉の種を蒔いていただいたすべてのキリスト者が、そのようにして実を実らせ始めている私ども自らが種まく人になるべきです。

そのために、私ども自身が、今蒔かれた御言葉を聴いて悟ることです。このたとえは、私どもへの厳しい警告でもあります。主イエスは、私どもに、「決して、道端でも石地でも茨の地になってはならない。御言葉を聴いて悟れば、なるはずがない。わたしの言葉を信じて、行いなさい。わたしの天の父の御心を行うことが、聴くことだ。そのように、聴きなさい。」こう招いておられます。

 今朝、この説教を聴いて下さったのであればもはや、教会に居残りする必要はありません。安心して、出て行くことです。安心して、主イエスに結ばれ、主と共に出て行くことです。御言葉を行うために出て行くのです。どんなに小さな働きでも、御言葉に従う志でなして行くなら、主が必ず実らせて下さいます。「わたしが」ではありません。「あなたが」でもありません。「主ごじしんが」実らせたもうのです。種は、外から植えつけられたもの、神の種、神の御言葉、イエスさまご自身だからです。

 自分に自信を持つ必要はありません。いへ、持ってはなりません。しかし、主イエスが私どもと共にいて、主イエスが私どもに宿っていて下さる約束と事実を信じる必要があります。そのときこそ、他ならないこのわたし、あなたを通して、神が100倍の実りを、自分の力では決してできないこと、つまり、神の奇跡に奉仕することができるのです。

伝道することも、神の奇跡に奉仕することです。愛することも、神の奇跡に奉仕することです。自分の力ではなく、与えられた力を信じることです。そのような神の子、キリストの家族とされている恵みの事実を信じ、自信、己を信じるのではなく、キリストを信じて御言葉を実践するのです。そのとき、私ども自身、いよいよ良い土地に変えられ、養われて参ります。100倍、60倍、30倍の実りを作り出して行くように変えられてまいります。

 最後の最後に、この説教の後、主イエスは、どこへ向かって進み行かれたのでしょうか。主イエスは、ヨハネによる福音書第12章においてこのように宣言なさいました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」これは、明らかに主イエス・キリストご自身の十字架を指差して語られています。十字架で父なる神の救いのご計画、私どもの救いを実現して下さったのです。そして、主は、100倍どころではない数え切れないほどの、いえ、数値化などできない実りを、時代を越え、国境を越え、民族を越え、私どもの間に実らせ続けておられます。主イエスこそが、私どもを変革し、変容し、改革し続けて、耕し続けておられます。私どもは今朝、あらためてこの種の力を受け入れ、自分のためのキリストから、キリストのための自分へと転換させられ、歩み続けて参ります。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、私どもにも主イエスを通して種を蒔いて下さいました。私どもは、この種によって良い土地とされています。自分の力に頼らず、ひたすらに種の威力、御言葉の力に信頼し、実行するように、聖霊をもって導き、何度失敗しても、へこたれず、御言葉の実践へと導き返して下さい。主の教えを口ずさむ人は、時が巡り来れば実を結び、その葉はしおれることはないからです。アーメン。