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「心で理解する神の真理」

「心で理解する神の真理」
2011年3月6日
テキスト マタイによる福音書 第13章1-17節 
【弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。  
この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」】

今日の聖書朗読は、第1節から第17節までを読みました。説教においては、10節から17節のテキストを集中して取り扱います。しかし、ここでの主イエスのたとえ話をきちんと理解するためには、1節から23節まで全体を読む必要があります。

 さて、種を蒔く人のたとえは、群衆を前に語られます。第13章は集中的に譬話がまとめられています。今朝、朗読したテキストには、最初に、「弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。」とあります。つまり、弟子たちには神の言葉、天国の真理、福音の真理が分かるのですが、「群衆」には分からないということです。

 さらに御言葉はこのように続きます。「イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」これを文字通り読むならば、キリスト者ならまだしも、未信者の方でいらっしゃれば、「なんだイエスは、人を分け隔てするのか。天の国の秘密を悟ることが許されていない人がいて、だからわざわざ真理を譬、つまり「謎」にしてしまうのか。「秘密」の内容にしてしまうのか。それなら、分からなくても結構、分かりたくもない」そのような応答をなさる方も出てくるでしょう。仏教の宗派の中に、「密教」というものがあります。奥義は一般大衆には秘密にしておくというのです。師から弟子へ、その教えを完全に伝え、その弟子はこうして師となって、次の弟子へと伝えて行くというのです。そのような知識を持っている方であれば、なるほど、イエスもまた、特別の弟子に限って、もっとも深い真理は教え、伝えるのかと考えるかもしれません。

しかし、それはまったくの誤解です。これまでの福音書を読んで来た私どもにとって、主イエスは、常に公然と語られるお方でいらっしゃることは、疑いの余地がありません。すべての人が神の国へと招かれているからこそ、群衆たちの困窮を、はらわたを痛めるまで憐れみ、愛してくださり、愛し抜いてくださって、癒し、語り続けて下さる、それがイエスさまのお姿なのです。そこには、人々を分け隔てるようなそぶりはまったく見当たらないはずです。

それだけに、「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」と仰る主イエスに、私どもも驚かされるのです。しかも、それで終わりません。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」 この個所にいたったら、憤慨しはじめる方もいらっしゃるかもしれません。「まったくひどい話だ。持っている人はさらに与えられて豊かになるなんて、資本主義の競争主義の市場原理そのままではないか。宗教の世界まで、そんな市場原理なのか。しかも、持っていない人は持っているものまで取り上げられるなんて、俗世間でもそんなことを大っぴらに言ったら大変なことになるのに。開いた口がふさがらない。」あるいは反対に、「いや、市場原理でいいではないか。宗教の世界でも何の世界でも、結局、人間の世界は賢く、力のある者が勝ち進んで行くのだ」どちらの批判も意見も、まったく見当違いなのです。

 持っている人とは、いったい何を持っている人なのでしょうか。今年、ひとりの新人プロ野球選手が注目されています。彼は、「何かを持っている男」と言われているのだそうです。「持っている人」流行語になりました。それは、人と比べて、どこか違う、秀でている、人間にとってそのような特別の才能、能力、特技を指しているのだと思います。しかし、ここで主イエスが持っている人と仰られたのは、そう言う意味ではまったくありません。むしろ、人間なら、誰しも持っているし、持たなければならないものなのです。それなら、人間が人間である、人間として生きて行くために、なくてならないもの、そのものとはなんでしょうか。

 最初に、それをつきつめて言ってしまえば、「信仰」に他なりません。信じる心です。聖書は、このように言います。神を認識するためには、神を神として知るためには、信仰が不可欠、信仰がなければ、神さまのことは、分からないと語っています。

 先日の説教で、「知らんがために信じる」という事を学びました。いささか長くなりますが、おさらいしたいと思います。

 私どもが生きておられる神さまを知ろうとするなら、先ず、私どもじしんの心を開き、正確に聴くということが不可欠です。今朝の牧会通信にも記しましたが、学生たちに「ここは、テストに出るよ」と言うと、ただちにスイッチが入って、真剣に聴き始めます。また、このような例もあげました。地理の先生が、生徒に「富士山は日本一高い山です」と教えたとするとき、もし、子どもが、「先生の言うことなんて信じられない。教科書だって間違いが書いているのかもしれない。自分で確かめるまで信じない。」と言ったらいかがでしょうか。おそらく、そのような子は、地理の知識をたくわえることができず、勉強が進まなくなるであろう、そう申しました。つまり、我々人間の地上の営みにおいても、何よりも先ず、信じるところからしか始まらないのです。始められないわけです。先ず信じることから始める以外には、私どもは世界を知る事、認識することはできないのです。

そして何よりも人と人との関係においてこそ、信じることは決定的に重要、絶対的に必要だと申しました。人が、友だちになりたい、友だちを作りたいと願うなら、先ず、相手の言葉を信じることが必要です。相手を信じなければ、相手を理解できないからです。もしも、「あなたが言うことは本当かどうか分からないので、しるしを見せてください。目に見える証拠をだして下さい」おう言い始めるなら、夫婦も、親子も、兄妹も、友だちもありとあらゆる人間関係は上辺だけのものとなります。誰とも心を通い合わせることはできません。つまり、信じるためには、心を開くこと、心において、受け止めることが必要なのです。

そして、まさに、人格の中の人格、存在の中の存在、すべての実在、確かさにはるかにまさって実在していらっしゃる神については、信じることなしに、知ることはできないのです。信じることなしに、知ることのできる神は、死んだ神です。ちっぽけな神です。人間がつくりだし、考えだした偶像でしかありません。

 つまり、主イエスが「持っている人」とは、そのような心のことです。相手の心と響き合うそのような心のことです。そしてそれは、信仰によってこそ養われるものなのです。反対に、神を否定し、打ち消すなら、私どもはその最も大切な、誰にも与えられているその心を、歪めてしまうのです。「持っているものまで、奪われる」とはそういうことです。正確に言えば、自分で、神から与えられているその最も大切な心の部分を捨ててしまうことになるのです。

 ヨハネの手紙Ⅰ第4章にこうあります。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」 

特に後半、とても厳しい言葉です。愛することを知らない者は神を知らない。知ることが出来ないと言う事です。愛を否定するなら、神を信じることはできないのです。何故なら、神こそが愛そのもの、愛に満ち満てるお方、愛の源なのです。

 したがって、時々、神を知らない、神など信じない、神などいないのだと豪語して見せる人がいらっしゃいます。しかしそれは、むしろ人間としては、恥ずべき言動に他ならないと思います。何故なら、「わたしには愛がない。わたしは愛などに価値を認めない」そう言っていることになってしまうからです。最近は、あまり聞かないように思いますが、こう仰る方もおられます。「信仰など、女、子どものものだ。つまり、人生の厳しさから逃げることだ、逃避にしか過ぎない。自分は、自分なりの哲学をもって、自分らしく、誰にも頼らないで生きて行く。」しかし、それもまた、誤解でしかありません。そもそも、信仰は、少なくともキリスト教信仰とは逃避とは無縁のものです。人間を人格として完成させ、一個の人格として立ち上がらせるものです。人間やお金、権力などに依存させることから解放します。女、子どもという差別的表現にのっかってしまうかもしれませんが、むしろ男らしいものではないかと思います。

 道端に落ちた種、それは、悟らない人のたとえでした。「悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る」そのような悲惨です。種は、心の中に蒔かれているのです。しかし、もしその心が萎えてしまっている。心が頑なになってしまっている。心がかじかんで硬直してしまっている。そのような心の状況であれば、その人は、ご自分の状況を誇らしく語るのではなく、むしろ悲しむべきではないでしょうか。

 主イエスは、御言葉を聴くということをどのように考えていらっしゃるのでしょうか。それは、主イエスはそこで、御言葉を悟ると言い表されました。そして、御言葉を悟るとは、御言葉を行うということと一つのことなのです。主イエスにおいては、聴くことと行うこととは分けられないのです。 

 そもそも「悟る」と言う言葉もまた仏教用語に他なりません。「悟りを開く」と言う言葉があります。難行苦行の修行を積み重ねて遂に到達する境地なのだと思います。しかし、ここで主イエスが仰ったのは、そのような選ばれた、特別に優れた人のことではまったくありません。むしろ人間なら誰もが持っているはずの、いへ、神に与えられているはずのものなのです。つまり、心、柔らかな心のことです。そのような心で神の御言葉を受け止めることです。

 わたしは、この「悟る」と言う言葉を、このように言い換えて見たいと思います。「響く」と言う言葉です。心に響く、響かせることです。心に、神さまの愛が響くのです。神の憐れみが響いてくるのです。そのとき、わたし自身の心のもっとも深いところ、根底が揺さぶられます。そのようにして、私どものもっとも深いところから、根本の所から変えられてしまうのです。

 私どもは、主イエスが「深く憐れんだ」という御言葉を大切にしてまいりました。スプランクニゾマイというギリシャ語で表現されている言葉です。はらわたを痛める愛。主イエスご自身が、そして父なる神もまた、私どもをはらわたを震わせるように、憐れみ、愛しておられるのです。そのように、神が震えていてくださるその愛の響き、主の愛の響きが、私どもに伝わるとき、それは、波動となって私の心を動かせます。そして、人間は、真実に心が動けば、行動へと直結せざるをえなくさせられるのです。人間はそのように造られているからです。こうして、御言葉の種を蒔かれるとき、人は、心を動かされてしまう。ある人は涙を流すかもしれません。それほど、深い感動が、御言葉にあるからです。しかし、涙を流して終わらない。それは、私どもの生活そのもの、生き方そのものへと動かす力なのです。

福音の真理が分かる、それは、何を意味するのでしょうか。それは、ひと言で言えば、救われるということです。もし、皆さまが聖書を読んで正しく理解できたら、ただちに救われます。天国が開かれ、既に救われています。もし、皆さまが説教を聴いてこれを正しく理解できたら、ただちに救われます。既に救われています。逆に申しますと、聖書とは、またその説き明かしである説教とは、救われないと理解できないということです。ここには、救いの真理が記されています。そして、説教はその救いの真理を語ります。救われていない人は語れません。しかし、救われている人なら、少なくとも、聖書の真理の全体ではなくとも、しかし、もっとも大切な救いの真理、それを福音と申しますが、その福音を語ることは救われている人なら誰でもできます。何故なら、聖書はそれを語ること、伝えることを、救われている人すべてに命じているからです。

 元に戻りますが、説教が分かったら、その人は洗礼を受けたくなるはずです。言い換えれば、御言葉を行う人になりたくなってしまうのです。御言葉が分かるとはそういうことなのです。ですから、頭で分かることは、決定的に重要ですが、しかし、聖書の真理、神の真理が分かるということは、人間の存在の根本、全体で分かるということ、つまり、生きるということに直結します。

 主イエスは、彼らが分からないのは、神の責任であるとは、断じて認めません。これは、まさに神秘的な真理、奥義ですが、人間の世界には、主イエスの真理に対して、確かに見ても見ない、聞いても聞かない人が出てくるのです。それは、旧約聖書のイザヤ第6章の預言として、説明できるものです。

あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
マタイによる福音書は、実はもともとのイザヤ書に記された御言葉をそのまま引用していません。後でご覧になられたら分かります。あるいは祈祷会で扱うかもしれません。そこでは、主ご自身が、真理を理解させない、見させないために、イザヤに御言葉を語らせるのだとお命じになられたのです。それは、主イエスが、譬を用いて語られる意味と一つのことだからです。

そこで、そもそも「たとえ話」とは何かを、きちんとわきまえておきたいと思います。我々は、難しい真理や少し込み入った議論を解きほぐして説明しようとするとき、「たとえば、こういうことですよ。」と話すことがあると思います。それこそ、たとえば、教会を表現するとき、「天国のような教会」とか「美術館のような教会堂」と言うことがあるかもしれません。

 ところが主イエスが用いられた「譬」、「譬話」とはそのようなものとは異なっているのです。そもそも、ここで譬と言われている言葉は、特殊な言葉であると言われています。イエスさまが用いられた言葉であるアラム語では、「謎」という意味があったのだそうです。つまり、直訳すれば、イエスさまは、群衆に「謎」のお話しをなさったということになってしまいます。新約聖書はギリシャ語で記されていますが、ギリシャ語では、ミュステーリオン、ミステリーという言葉の語源になるわけです。秘密とか神秘となります。ある翻訳では、奥義と訳されます。神の奥義です。奥義と言えば、誰でもパッと簡単に分かるというわけには行かないだろうと思います。その世界を極めた人にしか理解できない、そのような真理をこそ、特別にあらたまって、「奥義」と言うのだと思います。主イエスは、群衆に奥義を語る。普通なら、逆に、誰でも分かる、幼子にでも分かってもらえるような表現で語るものを、謎にしてしまわれるというわけです。

つまり、神の言葉とは、旧約聖書においても新約聖書においても、どの時代にあっても、それを聞く人々の心の問題、課題をつぶさに明らかにしてしまう力を持っているということです。つまり、もしも人が神の御言葉を心で理解しようとしないなら、悔い改めも起こりません。悔い改めが起こらないなら、目で見ていない、耳で聴いていないのです。

信仰の真理とは、神の真理、生ける人格なる真理です。ですから、ここでこそ、人間にとってもっとも大切な、心で理解しようとしない、悟ろうとしない、響き合おうとしなければ、何も分かりませんし、何も起こらないのです。それは、神さまの責任ではなく、我々の責任なのだと主イエスはここではっきりとさせたもうのです。それがたとえで語る意味、目的です。したがって、譬とは、神の恵みと裁きとが同時に明らかにするための方法なのです。

そしてそれは、よく考えて見ますと、たとえだけに限りません。聖書のすべての御言葉、福音の言葉そのものがもっている効力に他なりません。聖書には、福音が語られると、すべての人々が「ああ、これは福音だ、すばらしい知らせだ」と頷いて、信じるとは、ひと言も書かれていません。

しかし、説教のことば、福音の言葉は、もしその人が心を開き、心の底の底のもっとも深いところで聴きとって、受け入れる人には、いよいよその心が耕かされて、深められて行くのです。そのようにされて、主イエスが約束されるように100倍もの実りを生み出すようになるのです。ところが、もし、そのようにしないで、心の表層の部分、上辺の部分だけで、御言葉を聞いて、聞き流して行けば、畑はいよいよ荒れてしまいます。心の畑は荒廃してまいります。

 先週の説教でも主イエスのこの御言葉を朗読致しました。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この御言葉は、第一義的には、主イエスの十字架を予告する御言葉です。しかし、同時にそれはまた、実は、わたしども自身のことでもあるのです。一粒の麦が死ぬとは何でしょうか。それは、悔い改めるということです。自分に頼っていた、目に見える人間やモノに頼って生きていた人間が、それを止めてしまうことです。古い自分の生き方に死んでしまうことです。それは、私どもの決心ひとつでどうにかなるということではまったくありません。そのような人間の可能性は皆無です。しかし、もし、人が神の御言葉を心で聴くなら、神の愛の響きがその人の心に響きはじめると、その人は、変えられて行くのです。古い生き方は、終わって行くのです。それが、ように死ぬことになるのです。そのとき、私どもは、驚くべき神の御言葉の力によって、実らせるのです。

 結びの言葉において、主イエスは、弟子たちを豊かに祝福されます。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」今や、弟子たちは、旧約における神の約束、救い主を目撃しています。当時の彼らがどれほど熱望し、憧れていたことでしょうか。見たかったのみ見る事ができず、聞きたかった救いの言葉を聞けなかったのに、彼らは今まさに見て、聞いているのです。

 わたしは、先日、教会のホームページにこのように記しました。「主イエス・キリスト アーメン。」人間は、このひと言を言うために生まれてきた。そして、このひと言を行うために今生かされている。」

 孔子は、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と言いました。これは、人間のもっとも深い願いを見事に言いあらわしている言葉です。道とは、人間の真理です。それを知ることができたら、聞くことができたら、もう死んでも構わない、悔いはない。それが、真理です。それなら、孔子じしんは、それを聞くことができたのでしょうか。残念ながら、それは、できませんでした。しかし、主イエスは、今、弟子たちにそう仰るのです。
 人間にとって究極の幸福とは、主イエス・キリストを知ることです。出会うことです。これにまさる幸いは他にありません。その幸いに今ここで、わたしどもは豊かにあずかっているのです。

 ルカによる福音書第2章で年老いたひとりの信仰者が登場します。シメオンです。「彼は、正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼に留まっていた」と言われる程の人でした。その彼は、ついに神殿で両親に抱かれた幼子イエスを見ます。シメオンはイエスを腕に抱きこう言います。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかにさらせてくださいます。」もう、安心して死ねると告白したのです。遂に、見たからです。これは、誰のお話しでしょうか。イウマデモナク、これこそ、私どもじしんの幸いの物語です。私どもはそれほどの幸福を今ここで与えられているのです。その意味で、もう、死んでもよいのです。しかし、生かされているなら、このお方のために全力で生きることです。それは、種を蒔くことです。信じることです。

 今、この幸いの極みである聖餐の食卓へと主イエスが招いててい下さいます。信仰をもって、献身の志をもって、この主イエスの食卓のもてなしにあずかりましょう。

祈祷
 私どもを信頼し、今朝も御言葉の種を私どもの心に豊かにお蒔きくださいました主イエス・キリストの父なる御神。私どもの心を柔らかくして下さい。頑なで高慢な心を砕き、あなたの愛と恵みに響きやすい心、敏感な心にしてください。そして、そのような心をもって、いよいよ御言葉を聴きとらせて下さい。また、そのようにして、この世界、私どもが遣わされている社会の中で、その心をもって人々の困窮を聴きとり、そして、彼らの為に、私どもが今週もまた種をたずさせ、蒔かせてください。アーメン。