過去の投稿2011年3月14日

3月11日

★   礼拝式の中で、私どもが心をそこに集中するのは、何にも優って、説教聴聞です。説教とは、説教者が、一週間をかけて、与えられた聖書の箇所(テキスト)から、その群のために何が語りかけられているのかを神の民の代表として聴きとり、神の口となってその御心を告げるものです。神は、教会に御自身の恵みを伝達する手段として、「説教」を第一に、お与えになられました。世々の教会は、この説教を通して、自らを神の家、新約のイスラエル、キリストの体なる教会として自己形成を果たし参りました。世の終わりまで、続きます。このような説教なのですから、私どもは、特に祈祷会において、語られた説教を生活の中にいよいよ適応し、実践するために「学び」を深めます。そのようにして、同時に、次主日の説教への準備をいたします。説教聴聞者にとって、「準備」は、恵みをより深く受けるために不可欠の道です。

☆   説教聴聞とは、単なる受動的な行為ではありません。むしろ、聴くことこそ、実に能動的な行為です。説教者は、一週間、何十時間と説教作成に集中します。しかし、集中が途切れてしまうこともしばしばです。違う仕事をしたり・・・、机を片付けて見たり・・・。しかし、説教聴聞者は、40分余り、集中をとぎらせたら、大変です。ついて行けなくなるでしょう。そのためには、前日の過ごし方が、問われます。早めに休むことも必須です。説教者を「殺すに刃物は要らぬ。・・・だけでよい。」「・・・」は、いくつか入るかもしれませんが、お考え下さい。

★    前置きが長いですが、礼拝式中、名実ともに能動的になるのは、賛美を歌い、ニカヤ信条を告白して、「神に感謝と賛美を捧げ」、十戒を唱えて「神に感謝を捧げると同時に悔い改め」、主の祈りを唱えて、「主イエス・キリストと一つに結ばれつつ、神の民と一つになって、神の御心の実現のために」祈りときでしょう。そこで、皆さまに意識して頂きたいのは、「大きな声」で唱えることが大切です。

★    この「大きな声」は、礼拝式を「生き生き」としたものとならせるために、必須のように思いますが、いかがでしょうか。そして、それをよく弁えていてくださる兄妹たちがいらっしゃいます。特に、わたしの右側から、「アーメン!」と声がよく響くように感じます。ご自分の使命と考え、元気に、大きな声で賛美を歌い、「三要文」を唱えてくださっているのだと思っています。コリントの信徒への手紙Ⅰ第1章20節にこうあります。【神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。】「アーメン」は、究極の神賛美なのです。賛美練習とあわせて、「牧会祈祷」、「献金祈祷」、「祝福の際のわたしのアーメンに対する応答(応唱)」においても、アーメンの声の練習も、必要ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

☆    アーメンの意味として、「子どもカテキズム」問85はこう告白します。
問85 「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」という結びの言葉は、何を意味していますか。    答  私たちの神さまが、必ず勝利し、 このお祈りをかなえてくださる 力ある神さまであることを 喜びと感謝、信仰をもって言い表すのです。「アーメン」とは、 ただイエスさまの真実に支えられて、私も真実にお祈りすることができる、 ということです。ですから、私たちは、お祈りの最後に、 「主イエスさまの御名によって、アーメン」と 申し上げます。「天のお父さま、アーメン」。 これだけでも立派なお祈りですが、 私たちは神さまの子どもらしく、 素直に何でも祈り願います。
 「アーメンである方」(黙示録第3章14節)とはイエスさま御自身の別名です。真実なイエスさまを賛美する言葉でもあるのです。そうであれば、小さな声で、自分にだけ聞こえる声でアーメンと唱えるのは、余りにも申し訳ないのではないでしょうか。神へと、外へと、はっきりと表白すべきです。

★   賛美歌の歌声については、奏楽者の方々の指導があると思います。賛美は、「捧げるもの」であることを、常にわきまえることが基本中の基本です。とりわけ礼拝賛美は決定的に捧げものです。したがって、顔を挙げて、心を外へ、神へと向けることが必須です。賛美、とりわけ、神賛美は、徹底的に自分に向かうものではなく、神に捧げるたたえ歌なのです。祈祷会における賛美選曲には、自分の信仰の心を歌ったり、自分の心へと向かうような賛美は許されるでしょう。しかし、それでも、そのときの信仰の姿勢は、外へ、神へ、天へ向かうものでありたいと思います。 

 
☆   (如上は、水曜日に記載)今は、金曜日夜です。未曾有の大震災です。津波の被害を映像で見ました・・・。被災者の方々に主の慰めと助け、守りを祈っています。一刻を争う救援のときを。原発の危険回避のために、神に祈ります。東北を中心に、諸教会もおそらく多くの被害に・・。復旧の為、共に痛み、共に担うことができますように・・・。