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「隣人となってくださる主」

隣人となってくださる主
2011年3月27日 主日礼拝式(緊急ディアコニア委員会召集の日)
 
テキスト ルカによる福音書第10章25-37節
「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

今朝は、まさに異例のことですが、予定しておりました、マタイによる福音書の講解説教を中断致しました。今日の午後は、伝道所委員会で決議しましたが、「ディアコニア委員会」を開催致します。私どもは、2006年に、知立市にある施設をお借りして、教会全体研修会を開催致しました。主題は、「教会のディアコニアを考える」でした。そこから、現住陪餐会員は、全員、ディアコニア委員会の委員であるということが話し合われました。キリスト者が、神への奉仕と関係なしに生きること、存在することはできないからです。

あれから既に5年の月日が流れました。今年の年報の表紙にも、それ以来毎年、-「ディアコニアに生きる教会」(第6年目)にふさわしい成長を目指して-と記されています。

新約聖書の中には、このディアコニアという言葉が実に100回程用いられています。新約聖書の中で、「もてなし、奉仕、働き、務め、任務、執事」などと訳されています。私どもの教会は、これまで「愛の執事的奉仕」と呼んでまいりました。ディアコニアということは、実に、教会の本質、キリスト者のあり方を根本から規定するほどのきわめて重要な言葉なのです。昨年、祈祷会で「信徒の手引き」の草稿を読み、様々なことを学びました。そこで、このような言葉、文章を読みました。「教会が真の教会であるか否かを判定する基準の一つであると数えてもよいほどです。」真剣にそう考えています。

さて、今朝のテキストは、大変、有名な物語です。「善きサマリア人のたとえ」「善きサマリア人」これは、キリスト教の伝統のある国々では、ほとんど、慈善団体の名称だと思います。

このたとえ話に入る前に、まず、先日、学びました。マタイによる福音書第11章を思い起こしたいと思います。主イエスは12人の弟子たちを集めて、彼らに伝道の使命を与え、またそれに必要な権威、力をも与えられました。そして、その最後にこのように仰ったのです。

「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」

主イエスは、福音の真理を幼子たちに示されたと祈られました。知恵ある者や賢い者には隠された仰います。もとより、それは、文字面だけで理解してはなりません。自分で自分のことを知恵ある者、賢い者と自惚れている人々のことです。この自惚れている人々に対して、主イエスは、厳しい態度で臨まれたのです。

マタイによる福音書では、この後、すぐに、律法学者たちとの論争を記します。安息日に麦の穂を摘んだこと、手の萎えた人を会堂で癒したことに対して、律法の学者、専門家たちがきびしい批判を投げつけて行きます。まさに、一丸となって、主イエスを攻撃するわけです。

それに対して、今朝のルカによる福音書では、その後にまさに、このサマリア人のたとえが続くのです。ここで律法学者が登場します。そうなりますと、もしかすると、安息日に麦の穂を摘み、手の萎えた人を癒した主イエスに向かって、批判した律法学者たちにこの譬が語られたと推測することもできるだろうと思います。

さて、そのような主イエスの説教そしてお祈りを聞いていた人の中に、気分を害された人がいました。彼は、律法の専門家です。言わば、主イエスが仰せになられた幼子の反対。大人なのです。聖書のことを、誰よりもよく理解している教師なのです。主イエスは今、そのような大人、教師に対して永遠の命を受け継いでいるとは言わないで、何の専門的な訓練も、研究もしていない七十二人の弟子たちをちやほや持ち上げて、語られたことに、いらいらしたのではないでしょか。

そこで彼はこう言います。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」実は、この質問の中に、既に重大な過ちがあるということが、主イエスの、そして聖書の大胆な主張、メッセージなのです。結論から申しますと、「何をしたら」という問い、言い方がすでに大きな問題なのです。自分が何をどうすれば、永遠の命を受け継げるのか。この言い方の中には、まるで自分の努力や行い次第で、永遠の命をやりとりすることができるかのようなニュアンスが含まれています。しかし、永遠の命は、徹底的に神の賜物なのです。使徒パウロがローマの信徒への手紙で言うとおり、「罪が支払う報酬は死です。しかし神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです。」この御言葉こそ決定的に大切な神の御言葉、福音です。

そこで主イエスは、律法学者に問い返されます。「律法には、聖書には何と書いてあって、それをあなたはどのように読んでいるのか、解釈しているのか」ということです。律法学者は、ただちに答えます。「神を徹底的に愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。」この答えに対し、主イエスは、「正しい答えだ」と仰せになられました。律法学者の返答は、さすがです。まさに正解です。主イエスもお認めになれます。

さて、しかし、主イエスは、ここでこう仰せになられます。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」ここで、問題はとても複雑になります。まるで、神と隣人に向かう二つで一つの愛、愛することを徹底的に実行するなら、永遠の命が得られると仰せになられているかのように理解できてしまいます。おかしな、不遜な言い方になりますが、いったい、この主イエスの御言葉は正しいのでしょうか。もしそうであれば、使徒パウロの言葉は訂正しなければならないでしょう。永遠の命は、賜物ではなく、一生懸命奮闘努力して、神を愛し、隣人を愛した暁に獲得できるものなのだというのですから。しかし、この主の御言葉もまた、ただ文字面だけから、読んで、理解してはなりません。主イエスがこの御言葉を語られたのは、ひとへに、この律法学者、この目の前にいる律法学者を悔い改めと救いに導きたいからなのです。その主の御心をわきまえないで、文字面だけで読むことは正しくないのです。

さて、わたしは、このとき律法学者は、あわててしまったのだと思います。「それを実行しなさい。」との主イエスの御言葉にたじろいだのです。自分は、分かっているし、そればかりか教えてさへいる、けれども、ごく素朴なことですが、実際に自分が守り、行っているのかと問うならば、胸を張れない思いがあったからです。

そこで彼は、自分を正当化しようとして言います。ルカによる福音書は、はっきりとこの発言は、「自己正当化」のための言葉であると断罪しているのです。「実行するのは、かまわないけれど、それならわたしの隣人とは誰ですか。」この返答は、まったくでたらめではないでしょうか。そのようなことは、誰かに尋ねるべきものではないはずです。わたしの隣人。わたしの隣人とは誰なのか。そのようなことは、自分で判断すべきことでしょう。自分で、わきまえるべきことでしょう。それを、主イエスにたずねることは、まさに自己弁護でしかないはずです。

もし我々であれば、おそらくここで会話は絶えてしまうかもしれません。「こんな屁理屈を言う人間であれば、話し合いにならない。時間の無駄だ。」そのように思ってしまうこともあるのではないでしょうか。真理についての議論、正しいことについての議論は、もしも、相手が正しいのであれば、自分の意見を訂正する可能性を残すからこそ、真実になすことができると思います。相手が、自己正当化を図って、議論をこねくり回すだけであることが分かれば、我々は、そうそう時間をもてあましているわけではありませんから、議論を打ち切ってしまうかもしれません。あるいは、自分が傷つくのを恐れて、対話をあきらめることもあるかもしれません。ところが主イエスは、この律法学者のために、時間をお割きになられるのです。この律法学者のために、真実に接し、真剣に向き合ってくださるのです。つまり、もう既に、結論のようなメッセージですが、主イエスは、まさに、この傲慢な、この自称知恵ある者、賢い者の隣人となられたのです。

さて、この律法学者の善き隣人となられるためにこそ、語られたのが、この善きサマリア人のたとえに他なりません。

ある人が追いはぎに襲われました。追いはぎは、その人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去りました。このままでは、イスラエルの気候からすれば、夜になれば、気温もぐっと下がって、ほとんど死ぬ以外にはないのです。

そこに最初に通りがかったのは、祭司でした。祭司とは、エルサレムの神殿に仕える、いわば聖職者です。たまたま通りがかったのであると主は仰せになられました。何か、急ぎの仕事があるわけでもないようなニュアンスです。祭司は、はっきりとこの半殺しにされて倒れている人を見ました。確かに見ました。しかし、わざわざ道の向こう側に回って見なかったことにしました。通り過ぎました。

次に、レビ人が通りかかりました。レビ人は、祭司の仲間です。祭司になるのはユダヤ人の中でもこのレビ人からだけしか選ばれない、なれない特別の人々なのです。いわば、聖職者の予備軍です。ところが、彼らがとった行動は、祭司とまったく同じでした。

どうしてかかわりを持たなかったのか。多くの注解者が、いろいろと教えてくれます。律法の規定によれば、出血している人に触ることは汚れることを意味している。とりわけ神に仕えるレビ人も祭司も、その汚れを清めるための儀式は、大変、面倒になる。だから彼らは、自分の時間を奪われることは大変迷惑であると考えたのだと言うのです。いずれにしろ、この二人は、この追いはぎに襲われ、もやは死なんとしている人を見るには見るのですが、心を動かすことはなかったのです。見て見ぬふりをしたのです。

ところが、ここに一人の人が登場します。サマリア人です。この人々は、ユダヤ人から見ると罪人でした。決して接触を持たなかったのです。それこそ、彼らと行き交うだけでも、汚れてしまうというほど、嫌悪していたのです。何故、それほどまでに嫌ったのでしょうか。もともとサマリア人とは、血統から言えば、ユダヤ人の親戚のような民族です。ところが、彼らは、異邦人と結婚してしまいました。それは、神を裏切り、律法を否定したことになると理解していたからなのです。ユダヤ人が人間としてもっとも軽蔑し、嫌悪していた人々が、サマリア人だったのです。ところがそのサマリア人が今、この半殺しにされて倒れているユダヤ人を見るのです。このサマリア人は、どのように反応するのでしょうか。祭司とレビ人とまったく違いました。「憐れに思い」とあります。

この言葉のもともとの意味を直訳すれば、「はらわたが痛む」となります。実際、憐れむ、かわいそうに思う、不憫に思うという感情が、深いものであれば、内臓が痛みます。いへ、肉体ばかりか、心にも大きなストレスが襲います。病んでしまうほどの激しい感情なのだと思います。それがギリシャ語の「憐れに思う」という言葉の持つ意味なのです。

さて、このサマリア人は、今、この倒れている人を、その全存在を震わせるようにしてかわいそうに思ったのです。そして彼は、倒れている人に近寄ります。そして、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をします。オリーブ油とぶどう酒、彼はそれを持っていました。それらは、食用のものですが、同時に、今日の薬をも意味します。自分の旅のために言わば救急箱のようなものを持っていたようです。しかも包帯もあるのです。まるで医者、看護師のような手際よさです。そして自分のろばに乗せます。このサマリア人は、力も強いはずです。そして宿屋に連れて行き、介抱します。一緒に泊まるのです。しかし、このサマリア人は、次の日は、自分の旅を続けます。大切な仕事、用事があるのは明らかです。彼は、宿屋の主人に、お金を渡します。デナリオン銀貨二枚。今日で言えば、およそ二万円でしょう。それによってこの瀕死の重傷を負った彼は、少なくとももう一泊は、宿を得ることができます。しかも、介抱つきです。

私どもは、今日の午後、ディアコニア委員会を緊急召集いたします。あらためて、このテキストを取り上げます。

主イエスは、最後に、質問者に尋ねるのです。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」誰が隣人になったのか。これは実に鋭い問いです。律法の専門家の問いを問いかえすものです。「私の隣人とは誰か。」という問いは、言わば立ち止まった問いです。自分はでーんと座り込んでいるのです。しかし、主イエスは、仰せになられました。「自分の隣人は誰か」ではなく、「隣人になる」ことへと、この学者を実践へと導かれるのです。専門家は、言いました。「その人を助けた人です。」まったくその通りです。そして主は、厳かに仰せになられます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この人のその後は記されていません。やりとりは続いたのか。これで終わったのか。終わったのであれば、彼は目覚めて、喜んで帰っていったのか。それとも、反発して帰っていったのか。分かりません。

しかし少なくとも読者である私どもにははっきり分かったことがあるのではないでしょうか。それは、このたとえを仰せになられた主イエスは、既にここでこの律法学者のよい隣人になられたという事実であり、そのお姿であります。主イエスは、この自惚れている専門家に、自称学者に何としてでも、永遠の命の祝福を与えたいと願っておられるのです。だから、このたとえ話を作り出して、語って下さったのです。

そして何よりも分かったことは、実にこのたとえの中に登場したサマリア人とは、他ならない主イエス御自身のことであるということであります。

私どもは、かつて、自分の罪のために死んでいた人間でした。霊的には、神との交わりを失ったままでした。つまり、肉体的には生きていましたが、神さまとの関わりにおいては、断絶していたのです。それを、霊的な死と言います。本当の人間のいのちとは、他ならないいのちの源であられる主イエス、神との交わりを受けることです。神との交わりのなかでこそ、人間は本当の人間になるのです。主イエス・キリストとの交わり、主イエス・キリストとの正しい関わりの中でこそ、人は人になるのです。自分が本当の自分と出会うことができるのです。本来の自分が始まって行くのです。本当の自分が実って行くのです。

私どもはかつて、まさに死んでいました。そのまま放置されていれば、遂には、永遠に滅びるしかなかった者たちでした。ところが、主は、私どもの人生に関わってくださったのです。私どもの旅路に、近寄ってくださったのです。そして、憐れんでくださいました。それは、痛みを伴った激しいものであったのです。そのようにして、このわたしのまことの隣人となられたのです。わたしにとって隣人となってくださったのはこのイエスさまです。あなたの隣人になられたのは、このイエスさまです。

主イエスは、律法学者に愛を込めてこうお命じになられました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
そして、この御言葉は、語られた主イエス御自身が今まさに、ここで、この律法学者に対して実行しておられるのです。今まさに、この律法学者のよいサマリア人になられたのです。しかし、彼は、サマリア人を嫌ったかもしれません。軽蔑したのかもしれません。しかし、そこでこそ、彼は、心を開くべきでした。

主イエスは、この律法学者に対して、憐れんで下さったのです。はらわたを痛むほど、愛しておられます。確かに厳しく戦われます。厳しい批判がなされます。自分を幼子のようにさせるための、戦いです。しかしこれは単なる批判ではないのです。隣人となるためです。彼を救うためです。永遠のいのちを与えるためです。

そうであれば、私どもはすぐに思います。この憐れみ、この痛みとは十字架の痛みであった、十字架の御苦しみと痛みをたとえているということです。まさに、主イエス・キリストは、私どもの善い隣人となって、私どもの身代わりに十字架の上で死んでくださったのです。そのようにして、私どもに永遠の命を分かち与えてくださったのです。今や、私どもは、この主の憐れみ、神の憐れみによって、救っていただいたのです。神の憐れみとは、精神論や感情だけの次元ではなく、行いを伴うものなのです。

この物語、このたとえ話は、教会の奉仕、ディアコニアの手引きを指し示すことより、何よりも主イエス・キリストのご存在と目的を明らかに指し示すものです。そこで何よりも大切なことは、ここにいる私どもが、「善きサマリア人」である主イエス・キリストのお世話を受けていること、豊かにあずかっていることに気づくことです。すべてはそこから始まるのです。私どもの隣人となって下さったのです。今まさに、ここで、この礼拝式において主イエスは、私どもの隣人となり続けていて下さいます。

私どものディアコニア、奉仕とは、何もそれをしなければ永遠の命を受け継げないから、しなければならないようなものでは、まったくありません。しかしそのような私どもだからこそ、主イエスの言葉を新しく聴き直せるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは、私ども救われた者の歩みを導く道しるべの命令なのです。

主イエスは、これを聞いた律法学者に求めておられます。自己正当化、自己弁護をやめること。自分の中に憐れみの心が枯渇していることを認めること。主イエスが隣人となってくださっていることに気づくこと。そしてただ幼子のように憐れみにすがることを求めておられるのであります。私どもは、今、どれほど主イエスが、私どもを憐れんでいてくださるのかを知っています。今ここで、その憐れみにあずかっているのです。

主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と私どもに命じられます。そのようにして、私どもが救いの内、赦しの内に留まるようにと求めておられます。そしてまた、この命令によって、私どもが出来ることを信じておられます。確信しておられるゆでに、命じられます。「しなさい!」とは、「できる!」という宣言です。「あなたには、できる。だからしなさい。」そうでなければ、命じられるはずはありません。どの程度、それは、問われていないように思います。しかし、自分の出来得る限りをすることでしょう。そして、それは、成長して行くものです。これは、午後にも学びます。

主イエス御自身がなさったことは、このたとえのサマリア人をはるかに越えておられます。何故なら、サマリア人は、自分のできる限りをしただけです。彼もまた、自分の生活があります。憐れんでもいるのは、事実ですが、しなければならない仕事にも行くのです。その代わり、お金を用いて、人に頼みます。

しかし、主イエスがなされる自分のできる限りとは、この律法学者のためにも、御自身のいのちを十字架の上に捧げられるということでした。主イエスに敵対し、攻撃し、批判し、見下したこの専門家のためにも、十字架の上で苦しまれたのです。

ここに愛があります。ここに憐れみがあります。私どもは、この主の物語を語り続けたくてしかたがありません。主イエスの十字架の御業を語り続けたくてたまりません。今、希望を失いかけ、心折れかかっている方々の隣人となりたくてしかたがないはずです。そして、そうしなければならないのです。

祈祷
私どもを憐れみ、その命をもって永遠の滅びから救い出してくださいました主イエス・キリストの父なる御神。私どもの隣人となってくださった主イエス・キリストよ、あなたの豊かな憐れみを受けた私どもが、今なお、自己正当化の殻の中に閉じこもって、隣人になろうとしないのなら、私どもこそ、律法学者に他なりません。どうぞ、私どもを、自由にしてください。あなたを愛する愛に満たされ、そして隣人を自分のように愛する自由へとますます解き放ってください。愛において貧しく、助ける業においてまことに拙い者ですが、私どもを、あなたの憐れみの業の証人として整え、用いてください。また、午後のひとときを、豊かな学びと懇談、祈りのときとして下さいますように。アーメン。