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「海の上を歩くキリスト者」

「海の上を歩くキリスト者」
2011年5月15日
テキスト マタイによる福音書 第14章22-33節 
【それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。
群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。】
 

先週は、主イエスが男性だけで5000人、つまり1万人をはるかに越える人々に夕食をふるまったという奇跡の物語を学んで、礼拝を捧げました。

今朝の物語は、その直後の出来事です。主イエスは、今度こそ、弟子たちを強いて船に乗らせて向こう岸に先に渡らせ、すぐに、群衆を解散させられました。そして、この人里離れた平原から山へとお登りになられるのです。何のためでしょうか。最初の目的のためです。今度こそは、父なる神さまの前にひとり静まって、お祈りするためです。どのようなお祈りであったのでしょうか。それは、まさに、天のお父さまと二人きりになって、ご自分がこれからどのように歩まれるのか、それは、あの洗礼者ヨハネが惨殺されたように、殺される、殺されなければならないという、主イエスの近未来に起こる、起こらなければならない十字架について、天のお父さまとご相談なさるためであったと思います。主イエスが、そのために、どれほど苦しまなければならないのか、その苦難を思って、主イエスもまた、ひとり静まる必要があったのです。
 
 さて、主イエス・キリストが一人寂しい所で祈っておられる間、舟は既に数百メートル沖に漕ぎ出していました。ところが、逆風が吹き始めます。波が高くなって、思うように進めずにいました。実は、ガリラヤ湖は、四方を山に囲まれた高台にあります。それゆえに、突風が吹きつけることがあるのだそうです。いかにベテランの漁師達が多い弟子たちにとっても、この特別の自然環境がもたらす風に、難儀を強いられています。

とても不思議なことですが、おそらくは、主イエスは、行き悩む弟子たちの姿をご覧になっておられます。そして、夜が明ける頃、なんと、湖の上を歩いて、彼らの所に近づいて行かれます。わたしは、急いで助けてあげようと願ってのことだと思います。

ところが弟子たちは、その光景を見て、叫びました。「幽霊だ!」マタイによる福音書は、これは、恐怖のためであったと告げています。彼らは、主イエスのことをなんと、幽霊と思って怖がったのです。これは、弟子たちにとってどんなに恥ずかしいことであったろうかと思います。尊敬し、愛するイエスさまのことを幽霊と指差して、叫ぶなどというのは、イエスさまに対して失礼すぎることです。ただし、聖書を初めて読む人なら、おそらくほとんどの人が、弟子たちに同情するでしょう。まだ明け染めない早朝に、人間が湖の上を歩いているのも見たら、誰でも、幽霊だと叫ぶのではないか、そう思われるのではないでしょうか。しかし、それでもやはり、弟子たちは、5000人の給食という驚くべき奇跡を体験したばかりなのです。親しいイエスさまを、幽霊と叫んだのは、いかがなものかと思います。 

ただし、今日の私どもキリスト者であれば、この主イエスの行為をそのまま、ほとんど何の違和感もなく受け入れることができるのではないかと思います。何故、主イエス・キリストが湖の上を歩かれたと言う驚くべき事実を信じ、受け入れることができるのでしょうか。それは、聖書の神が、天地の創造者であられることを知っているからであります。

何よりも、主イエス・キリストというお方を信じて、罪が赦され、救われたというこの事実によって、イエスさまが天地の主でいらっしゃることに、心の底から共鳴し、受け入れることができるようにされるからです。逆に、もしも、主イエス・キリストによる魂の救い、罪の赦しを受ける事ができなかったならば、福音書に記されている数々の奇跡の記事を信じることも、そもそも、キリスト教信仰、聖書の信仰は成り立たないと思います。聖書に記された奇跡を信じることができるようにされるということは、自分がイエスさまによって変えられたという、自分の体験があるからなのです。

それゆえに、私どもが、わきまえておきたいのは、聖書が我々に問う事とは、「あなたは人間が海の上を歩く事ができると信じますか」などと言うことなどでは全くないということです。「イエスは、海の上を本当に歩いたのだと信じることができますか。」ということでもありません。「あなたは、神さまが生きておられ、あなたを愛しておられることを信じますか」という問いなのです。「その神の愛が、イエスさまにおいて、あなたに注がれていることを信じますか」という問いです。このイエスさまの愛を信じるとき、私どもは、おのずから、「ああ、お弟子さんたちを愛されたイエスさまだから、海の上をあるかれたのだと」まったく納得できるようにされてしまうのです。そのとき、科学的な力がどのように働いたのか、それを、信じない人に、説明する必要もまったくないのです。そもそも、そのことは、私どももまた、まったく分からないのです。

さて、人生を船旅に譬えることはしばしばなされます。人間が海の上にいるということは、いつの時代でも、誰にとっても、基本的には恐怖だろうと思います。何よりも、聖書の時代の人々は、海には恐怖や不安、あるいは破滅とか死というイメージを強く持っておりました。たとえば、ヨハネの黙示録などでは、終りの時、主イエス・キリストが新しい天と新しい地を創造されるときには、海が消滅するとさへ記されています。これは、ただ字義通り解釈すべきではなくて、その時には、死も恐れも不安もなくなると言う事を表現しているのだろうと思います。

しかし、まさに主イエスが再びこの地上を歩まれるその時まで、私どもの人生は、誰の人生もまた、海の上を船で進む危険性、その恐ろしさが必ず付きまとうだろうと思います。まさかという突風が吹く事がしばしばであります。これが、我々が置かれている厳しい現実です。しかし、突風に吹きとばされそうになるまさにそのときに、主イエス・キリストは近づいて下さいます。そして、「安心しなさい」と祝福の言葉を告げてくださるのです。その時には、突風のままで、私どもに心の安心、罪の赦しに基く、神との平和がもたらされるのです。それは、突風が止むという事を必ずしも意味してはいません。 「安心しなさい」という言葉は、マタイによる福音書第9章の中で、あの中風の人に向かって、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と語られた言葉の、元気を出しなさいという言葉と同じ言葉が用いられています。さらに、22節の、12年間も長血の病で苦しんできた婦人に向けて、「娘よ、元気になりなさい」にも用いられました。勇気を出すこと、元気をだすこと、気を確かにもつこと、しっかりするということです。主イエスは、私どもに勇気を、元気を出すように招かれます。

次に、「わたしだ」と主イエスの声が響きます。「わたしだ」これは、普通の言葉、日常会話とは全く違った響きを立てております。弟子たちにしてみれば、湖の上を歩いて近寄って来られるのがイエスさまであることは、当然知っております。しかしここでの「わたしだ」と言う言葉遣いは、実は旧約聖書を知らないとその意味と重さは分かりません。「わたしだ」これは、あの、モーセの召命体験の物語を思い起こさせる言葉なのです。モーセは、神の山ホレブにおいて燃える柴の中から、神の語りかけを聴きました。彼は、そこで神に、「どうぞあなたの御名を教えてください」と懇願いたしました。そこで、示されたのが、「わたしはある。」でした。(出エジプト記第3章14節参照)神は、「在りて在る者」つまり、何者にも依存せずに、ご自身のみで存在されるただお一人のお方でいらっしゃるのです。

実に、主イエスがここで「わたしだ」と宣言なさったとき、それは、掘り下げて申しますと、モーセに明らかにされたあの神の御名の宣言そのものであったのです。つまり、「わたしこそ神、あなた方と共にいるあなた方が、勝手に進んでも、なおわたしはあなたたちを見捨てていない。」 という宣言なのです。
 
さて、ここでペトロが登場します。ペトロはここで弟子たちの代表となっています。そして、そればかりか、私どもキリスト者全員の代表としてここで彼はあることを体験させられます。そうです。彼もまた、主イエスと同じように、海の上を歩くのです。今、ペトロは私どもの代表として登場すると申しました。一体どういう意味なのでしょうか。それは、先ほども申しましたとおり、海とは、恐怖、死、危険の象徴であり、そのような人生そのものの象徴なのです。ペトロは実にその上を船で進むのではなく、自分の足で歩いて進む経験をさせられるのです。

 「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」なんと言う大胆なお願いでしょうか。どうしてこのようなお願いをしたのか、それは、分かりません。しかし、この時のペトロの中に、目の前でなされている主イエスの神の子らしい驚くべき奇跡に心が高ぶって、イエスさまがお命じになられたら、このわたしですら海の上を歩くようにしてくださることがおできになられる、そのようなお方であるとの信仰をもったのでしょう。あるいは、まったく素直な心で、すぐにこのイエスさまのお側近くに寄らせていただきたいとも思ったのかもしれません。

 すると、主イエスはお命になられます。「来なさい。」そしてペトロは、イエスさまを別にして人類史上初めて海の上を歩いた人間となります。

 それならそれは、どのような真理を私どもに明らかにするのでしょうか。それは、キリスト者とは、誰でも、このペトロの経験をさせられている者たちであるという真理、事実です。もちろん、私どもは狂信者でも、熱狂主義者でもありません。実に、海の上を歩くキリスト者、これは、私どもの地上の生活の象徴なのであります。 

フィリピの信徒への手紙第3章20節にはこうあります。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。」「キリスト者の国籍、本国は天にある」とは、有名は使徒パウロの言葉であります。私どもは、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、洗礼を施され、聖餐にあずかっています。それは、主イエス・キリストと結合している、一つとされているということであります。それなら、その主イエス・キリストの肉体は今どこにおられるのか、言うまでもなく、天であります。つまり、私どもは今、主イエス・キリストと結ばれておりますから、肉体は地上にありますが、魂においては、霊においては、天にいるのです。主イエス・キリストにおいてつながっているので、天上の礼拝式と私どもはつながっているわけです。この事実、もちろん目に見えない事実であります。しかし、事実であります。これが、私どもの現在の、究極の、現実の姿に他なりません。イエス・キリストを信じて洗礼を施されている者であれば、この確信において定まっていようがいまいが、それによって、変わったりするようなことではないのです。キリストがしてくださった事実なのであります。

だから、使徒パウロが涙を流して語りました。記しました。「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。~何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」海の上を歩くとは、現実のこの地上に生きながら、しかし、「この世」に縛られず、捕らわれず、パウロが言う、恥ずべきもの、つまり、この世が追求する価値観の虜にならないということです。ヨハネの手紙1、2;16が言うように、「肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。」ペトロが海の上を歩き始めてしばらくすると、「強い風に気がついた」とあります。つまり、それまでは、ただイエスさまだけを見て歩き始めたペトロが一瞬、その視線をそらしたということであります。言わば、この世の関心が湧いた、この世へと視線をそらしたということであります。その時に、彼は一気に沈没します。つまり、この海の上を歩くことは、ただ、主イエス・キリストをまっすぐに仰いで、この主に向かって生きている限り可能であるのです。キリスト者が信仰によって、この地上を旅することもまったく同じことであります。
 
もとより、私どもは、決して世捨て人ではありません。むしろ、改革教会の信仰は、この世を神の良き創造の秩序に立ち戻らせ、世界における神の恵みの支配を、生活のすべての領域で証しすることをはるかに目指す信仰であります。しかし、この世に遣わされるキリスト者、教会は、常に神の栄光のためにという志、方向を見失うと、結局、していることは、自己実現、自分の欲望、自分の計画の達成となります。そこで、本当に恐ろしい事は、おぼれかけていることに気づかなくなることであります。海でおぼれる人は、自分がおぼれているのかそうでないのか、自明のことです。しかし、信仰の歩みは、自明のことではありません。他人から見て、とても熱心な良い信仰者、教会人であると見られていた人が、実は、そうではなかったと言うような事件が例外ではありません。自分自身が、霊的な健康はどうなっているのか、体温計のように、すぐに調べられるわけではありません。だからこそ、私どもは、注意して、恵みの手段にあずかるのです。恵みの手段を用いるのです。礼拝式、御言葉と聖餐の恵みに固執するのです。それは、主イエス・キリストをまっすぐに仰ぎ見るためであります。

主イエス・キリストを天において仰ぎ見ている人は、天から、主イエス・キリストから支えられている人であります。主イエス・キリストの御手が私どもを天からつかんでいてくださるので、私どもキリスト者は誰でも、今、海の上、人生の海の上、嵐であっても凪であっても、変わらずに、進んで行くのであります。問われることは、お互いひとりひとりの人生の状況がどれほど、試練にあい、苦しみが続き、壁にぶつかり、将来が見えず、不安に慄くような現実であっても、私どもはその現実で沈んだりしません。天から握られているのです。上から捕まえられているのであります。

私どもは、天にまします御父とその右に座したもう主イエス・キリストを仰いでいるかぎり、捕まえられている事実に気づきます。しかし、万一、私どもの視線をそらして、この世の人達が追及するその道を、同じように追い求めはじめるなら、ただちに沈みます。

しかし、現実には、どれほど沈みかけたことがあったかと思うのです。そのような時に、わたしどもは、どうすれば良いのでしょうか。叫ぶことです。「主よ、助けてください」と叫ぶ事です。自分がどれほど惨めになっているかを、正直に認め、その惨めさに気付かせてくださった、天の父、聖霊のお働きに心の底から感謝し、「主よ、助けてください」と、主イエスに手を差し伸べても良いのです。その時、主イエスは、ペトロにして下さったように、すかさず、ただちに、手を差し伸べてくださいます。

そのとき主イエスはこうも仰るでしょう。「信仰の薄い者よ、何故疑ったのか」つまり、叱責のことばをも聴き取るでしょう。「疑ってはならない。わたしが共にいるかぎり、大丈夫だ。自分の手の力、自分の能力、自分の考え、自分の計画で自分の人生を完成させようとするな。わたしの前で、神の御顔の前で生きなさい」そのような主のやさしい叱責、励ましを受け止めるのです。

先週の説教で、弟子たちは、五つのパンと2匹の魚とを、主イエスのもとに持ってきなさいと命じられ、主イエスのもとに持ち運びました。ようするに、彼らがしたことはそれだけでした。今朝、ペトロは、主イエスから「わたしのところに来なさい」と命じられました。ここでも大切なことは、主イエスだけを見つめて、主イエスへと進み行くことです。私どもの信仰の生活、信仰の旅路とは、これ以外のなにものでもありません。

しかも、独りぼっちで、主イエスへと進み行くのではありません。神の民の祈りの家、この教会の仲間と共に、この教会のために歩むのです。皆が、お互いが手を出したいと願っています。それゆえに、互いの祈祷課題を分かち合うことが大切です。

その繰り返しの歩みの中で、私どもは、平安の日々が約束されています。「風は静まった」とあります。ただし現実には、いつまでも逆風が収まらない場合がほとんどかもしれません。しかし、さらに確かな現実があるのです。私どもは、主イエスが共にいて下さり、主イエスと共に生きるなら、人生逆風において、嵐のような社会生活においても、私どもがおぼれることはありえないということです。

主イエスは、この出来事を彼らから離れたところで、しかし、深い祈りのうちに見ておられました。マタイは、主イエスは、あの人里離れたところまで主イエスをおいかけてに来た群衆を、深く憐れまれたと、記しました。そうであれば、ここで、この弟子たちを憐れまれないはずがありましょうか。

主イエスは、今このときも、あのときと全く同じように、私どもを深く憐れんでいてくださいます。主イエスは、私どものために、天の父なる神の右に座して、今まさに、とりなし祈っておられるのです。私どものために、祭司として、王として、預言者としての職務を、まどろむことなく継続しておられるのです。だから、教会は、海の上を歩き続けることが許されてきたのです。

実は、このテキストからの説教は、かなり昔になってしまいますが、この教会堂を献堂するためのさまざまな戦いの最中に一度したことがあります。あのとき、会堂資金が未だ、十分には満たされていないという危機的状況の中で、建築はなされていったのです。まさに、ハラハラさせられる真っ最中の時でした。私どもの教会が、この土地とこの礼拝堂を取得するに至る一連の物語も、まさに海の上を歩く歩みそのものでありました。しかし今は、ここに建っているのです。最初から、このように新しい会堂を建てようと言うことではなかったのです。実に、主イエスの御業であります。心から感謝致しております。
 
私どもはあれから、すでに9年も歩んで来ました。しかし、私どもは、これからも海の上を歩み続けなければなりません。目に見えるこの不動産には頼らないということです。不動産、動かずと書きますが、それもやがては朽ち行きます。いや、土地すらも震われてしまうことが起こりえるのです。今起こっています。

先週、ひとりの兄弟から、仕事上、本当に厳しいところを通らされていることを伺いました。この世のただ中で信仰を生きるということは、まさに、その困難、苦しみのただ中で信じ、従う以外にありません。キリスト者として歩むからこそ、これまで以上に、悩みや戦いが増えることは、当然のことです。

しかし主イエスは、弟子たちに、そして私どもにも、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と宣言し、約束されました。この約束を信じるとは、いかなることを意味するのでしょうか。それは、「ああ、よかった、安心して眠ります。安心して、自分の小さな生活の安定を目指し、自分の自己実現、成功を目指します。」ということにはならないのではないでしょうか。恐れることはないと約束を受けた人は、勇気を出して、元気を出して、気を確かにもって、水の上に足を進めるのです。ただ、上からの握力を信じて、来なさいと招かれる主イエスを見つめて、困難な現実へと飛び上がる、跳躍して踏み込むのです。わたしどもお互いは、この世に根拠を置いて、この世に足場を固めて旅をするのではありません。言わば、天にある堅固な足場にしっかりと根ざして、主イエス・キリストによって上から捕まえていただきながら、海の上を、その一歩を踏みしめて歩き出すのです。私どもには、神と人とのために生きる新しい生涯が開かれているのです。

祈祷 
 主イエス・キリストの父なる御神、私どもが何を頼りにして生きているのかをあなたから、改めて問われました。主イエス・キリストとの交わり、霊的な養いを豊かに受けて、信仰によって生きること、海の上を歩き続けることができますように。あなたに対する新しい信頼を与えて下さい。服従の志を強めて下さい。自分の人生に対するあなたのご計画を信じ、認めさせて下さい。どんな時でも、主イエス・キリストを仰ぎ見て、魂の中に確信、平安、喜びが溢れる信仰者とならせてください。許されますならば、肉体も心も健康を与えられ、あなたと人々のために、あなたとあなたの教会のために奉仕に生きることが出来ますように。アーメン。