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「立派な信仰 -正しく主を知り、自分を知る-」

「立派な信仰 -正しく主を知り、自分を知る-」
2011年5月29日
テキスト マタイによる福音書 第15章21-20節 
【イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。】

先週は、エルサレムから主イエスのお働きを査察するために律法学者やファリサイ派の人々が駆けつけてきた物語を通して、主を礼拝しました。彼らは、主イエスと弟子たちの働きを阻止するために、はるばる駆けつけてきました。しかし、主イエスは、彼らの企みに対して、むしろ、「偽善者よ」と呼びかけ、徹底して対決の姿勢を鮮明にしました。まさに、いのちをかけて、律法学者たちの律法主義、いつわりの宗教に抵抗し、彼らの偽りを暴き、真実の信仰を明らかになさいました。今朝は、その続きの物語です。主イエスは今、地中海沿岸のティルスとシドンの町、ギリシャ人が住む町、つまり異邦人の町にいます。マタイによる福音書は、「イエスはそこをたち」と記しています。宗教指導者の偽善、宗教的権威のいつわりと決別する、あるいは、足のちりを払い落すかのようにして、彼らと逆の方向へと、さらに歩みを進めて行かれる主イエスのお姿を描き出そうとしているのです。

さて、物語は、ひとりの女性、カナン人、つまりユダヤ人ではない異邦人の女性の叫び声から始まります。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」彼女は異邦人ですが、ここで、イエスさまを「主よ、ダビデの子よ」とお呼びしています。この呼びかけは、まさに、イスラエルの信仰の真髄をあらわす告白となっていることに驚かされます。聖書の神、まことの神の救いの約束は、イスラエルに与えられるものであり、しかもそれは、ダビデの子孫から生まれる人が、救い主となるというものでした。ダビデの子孫から、聖書によって予告生まれること、与えられるというものでした。実に、このカナンのご婦人は、まったく正しく、イエスさまを、ダビデの子孫である救い主と認識しているのです。そして、主、つまり、神と呼びかけているのです。これは、実に驚くべき呼び掛けです。すでに、この呼びかけの中に、イエスさまへの正しい知識に基づく、正確な信仰を認めることができるのです。

彼女は、心の底から叫びます。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」彼女には、娘さんがいらっしゃって、その娘は、今、病気で苦しんでいるのだと訴えています。悪霊に苦しめられるという当時の表現は、病気だという意味です。

ところが、マタイによる福音書は告げます。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった。」なんと、主イエスは、何もお答えにならなかったのです。この対応が、彼女にとって、どんなに厳しいものであるか、誰でもすぐ分かるでしょう。何もお答えにならない。つまり、無視されたということです。

もしかすると「無視しているつもりはないのだ」と、弁明することはできるかもしれません。しかしおそらく、このときの彼女にとっては、何も答えてくれないというその事実だけでもう十分だったはずです。主イエスのふるまいは、彼女に、「ああ、無視された」と理解されても仕方がなかったはずです。いじめは、いじめている側に、いじめているという自覚がなくとも、いじめられている人にとっては、その事実があります。それは、いじめになります。そういうことです。

したがって、当事者のこの女性に限らず、この物語の読者は、驚かざるを得ないはずです。先週、ひとりの求道者の方から、聖書に関するご質問を受けました。既にマタイによる福音書第10章で、主イエスが、「わたしは平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来た」という個所です。「イエスさまのイメージがわからなくなってしまいます」というご質問でした。マンツーマンでお答えさせて頂きましたから、すぐに、納得していただけました。

わたしは、マタイによる福音書第15章のこの物語もまた、それに負けず劣らず、もしもひとりだけで読んでいれば、質問したくなると思います。誤解を生じやすいはずだと思います。

いったい何故、ここで主イエスは、お答えにならないのでしょうか。最初にこう申し上げることは、よくないかもしれませんが、結論を申し上げますと、わたしは、この問いに対する、完全な解答を得ることは、断念しなければならないと思っています。私どもが、主イエスのお心のその全部を知りぬくことはできないと思います。

しかし、そこが大切なのです。そここそが、実は、ここで最も大切な真理なのです。もしも私どもが、万一にも私どもが、主イエスのお心の全部が分からないなら、主イエスを受け入れないと言うなら、主イエスを信じられないと言うなら、結局、そのような態度では、信仰を受けることはできないはずです。

わたしは、今、何を言いたいのでしょうか。教会の愛する皆さまは、わたしの気持ち、わたしの考えを全部は知らないはずです。「何故、牧師は今、こんなことを言うのだろう。何故、今、こんな風にするのだろう。」そのような問いを持つとき、持つ方もいらっしゃるでしょう。私の、心の思いを全部知っている方は、ひとりもいません。これは、断言してよいはずです。委員方も知りません。もとより、教会設立を目前にしているわけですから、今や、どんどん、知って下さり、理解して下さっています。しかし、それでもなお、委員方ですら、牧師の信仰的な認識、教会に対する認識、神学的な認識のすべては分かっていただくことはできないだろうと思います。家族も、おそらくは、家内もそうでしょう。しかし、それは、当たり前です。わたしもまた、委員の心の内のすべて、子どもたち、家内のこと、それをすべて、正しく知ることは不可能だと思います。

しかし、もしもそのとき、「ああ、分からないから、もう、ダメだ。もう、信用できない。もう、ついて行けない。」そんな風に考えるでしょうか。そのような会員がいらっしゃれば、まことに不幸なことです。そのような方はいらっしゃらないと信じています。

この当然の真理を、ここで考えて下されば、ここに当てはめて下されば、主イエスのこのふるまいで躓くことは、起こらないのではないでしょうか。少なくとも、キリスト者であれば、そんなことでは、躓きようがないはずです。確かに、聖書をまだ深く読んだことのない人、聖書の全体を読んだことのない信仰者でない方でいらっしゃれば、躓かれるかもしれません。なんと、いやな男だという風に、実際に読む人もいらっしゃるでしょう。無理もないと、わたしは同情いたします。かつてわたし自身が、まさにそのように誤解し、躓いたからです。

わたしは、最近も、聖書を初めて読んだ大学生の、率直な文章を読む機会がありました。イエスへの誤解、躓きを抱く学生もまた少なくないのです。「イエスという人間は、どこか上から目線のところがある」このように福音書を読む学生もいます。そのような部分に関心が集中する学生もいます。確かに、今朝のこの個所などは、そう読まれる個所の中でも、三本の指に入るかもしれないようなテキストでしょう。「偉そうな男。同じ人間のくせに。」そう読む、未信者の方は少なくありません。

けれども、キリスト者は、そうではないのです。いったい何故でしょうか。それは、たとい今は、聖書の全部のことが分からなくても、主イエスへの信頼がその人に与えられているからです。主イエスの愛を受け入れている人、神に信仰を与えられた方は、今、何故、主イエスがこの女性を無視なさったのか、その理由が分からなくても、だからと言って、イエスさまを否定することなど、できません。分かるまで、待てるのです。待とうとするはずです。いへ、地上にいる限り、全部が分からなくても、なおゆだねて、心から主イエスを愛し、信頼して生きることができるのです。それがまことの信仰なのです。まことの信頼なのです。

さて、ただし、この女性は、私どものように聖書の読者ではありません。まさに、自分じしんが無視されているのです。彼女にとって、まさに危機です。彼女の信仰の危機です。自分の愛する娘が、悪霊に苦しめられています。病気です。その意味で、既に、人生の危機に瀕していると言えるでしょう。しかし、それにもまさる決定的な危機を今、迎えています。つまり、最後の最後の頼みの綱、主なる神、ダビデの子から無視されてしまうのです。もはや、絶望です。言葉の真実な意味で、絶望しかなくなってしまいます。神に見捨てられるということだからです。神に見放されてしまおうとしているのです。そうなれば、後は、悪霊の餌食になるだけかもしれません。主イエスが何もお答えにならない限り、彼女は、もはや、最後の最後の望みを失う危機の中の危機に陥ろうとしているのだと思います。私は、彼女が、あまりにかわいそうだと思うのです。

しかし、彼女はなお、主に向かって、叫びます。マタイによる福音書は、こう告げます。「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」弟子たちは、主イエスのお心を悟っていません。彼らは、彼女のことを、まるで「キャンキャン、ほえてまとわりつく犬」のように感じています。わたしは、おそらく、子どもの頃の体験に根差すのだと思いますが、犬好き、猫好きの方には、大変、申し訳ないのですが、あまり近づきません。きらいではありませんが、何か、距離感があります。特に、犬にほえられるのは、苦手です。わたしは、このときの弟子たちの振る舞いを、子犬や猫を「シッシ、あっちに行きなさい」と追い払うような感じがします。

ここで、遂に、主イエスは、彼女に答えて言います。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」さて、この答えは、弟子たちの対応より、はるかに、誠実であり、真実です。主イエスは、真剣に彼女に向き合って下さったからです。ただし、タダシ、その答えの内容そのものは、絶望のがけっぷちに立つこの女性を、最後に突き落としてしまうだけの内容、言葉ではないでしょうか。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」

もしも、短気を起こすひとであれば、「ああ、あなたの答えは聞いた。分かった。どうせ、わたしは、ユダヤ人ではありません。それは、隠しようもない事実ですし、仕方がないことです。あなたが、ユダヤ人以外には、神は憐れみを下さらないのだと、仰るのであれば、もはや、どうしようもない。さようなら。もう、結構です。」このように考え、あるいは言って、ここから立ち去る可能性は、あるのではないか、あったのではないかと思います。

ところが、彼女はあきらめません。私は、彼女がいるのは、もはや、崖の上ではないと思います。既に、崖の下にいるのだと思います。もはや、人生の絶望の淵、底にいるのです。しかし、彼女はなおそのどん底から、叫ぶのです。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。」

わたくしは、ここで、詩編を思い起こします。今朝の招詞は、詩編第130編を朗読しました。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」詩人は、どん底にいます。深い淵の底にいます。しかし、主に叫ぶことを知っています。彼女もまた同じなのです。「主よ、どうかお助けください」あの海の上を歩きながら、沈みかかったときのペトロの叫びと同じです。

ここで、注目したいことがあります。それは、「主よ、どうかお助けください」という叫びは、「神さま仏さま、誰か助けて」というものではないということです。

誰が助けて下さるのか、それを彼女は知っています。信じています。それは、ほかならない自分の目の前にいらっしゃるイエスごじしんなのです。このイエスさまこそ、主、ダビデの子、助けは、このお方から頂ける。誰か!ではありません。「わたしの目の前にいらっしゃる、あなたさまが助けて下さい。主よ、あなたが助けて下さい。」こう叫ぶのです。

まことに、教えられます。もう、これだけで十分とすら思います。何と言う信頼なのでしょうか。もう、心がいっぱいになります。もうこれだけで十分に、彼女から学び、教えられ、励まされます。

さて、それなのに、主イエスは、こう仰います。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」こうなると、キリスト者であっても、「イエスさま、それは、あんまりではないでしょうか」と、言いたくなるかもしれません。「イエスさま、お言葉ですが、いくらなんでも、人を、子犬と呼ぶのは、どうでしょうか。」と、いさめたくなる人もでるかもしれません。

しかし、子犬とは、愛情にあふれた呼び方なのです。わたし自身は、犬や猫を飼った経験がありません。兎と小鳥ならあります。それでも、兎が死んだとき、これは、これは、かなりこたえることでした。犬や猫が好きな人であって、長く共に生活していれば、まさに家族の一員のようになるでしょう。主イエスが、ここで、小犬と表現なさったことは、人種差別を意図していらっしゃるわけでは決してありません。丁寧に読めばその誤解は、解かれるはずです。そもそも、もしここで主イエスが、異邦人の女性を差別していらっしゃるとするなら、この物語の全体、そのメッセージそのものが、意味不明になってしまうはずです。ここでは、結論を申し上げれば、どれほど、彼女の信仰、異邦人である彼女の信仰がすばらしいものであるのかが明らかされているからです。

しかし、同時に、そこには、厳然とした区別があります。子どもと子犬とは、まったく違います。これは、注意して聞いて下さい。差別とは申しません。主イエスは、区別なさるのです。主は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになられます。そこでは、順序があること、順番があることが明らかにされます。(それが、「区別」という意味なのです。)

それは、歴史の順序という意味です。先ず、イスラエルから始まります。しかし、ご復活された主イエスは、弟子たちが全世界に出て行くべきことを告げられました。つまり、初めから、イスラエルだけの救いを目指していらっしゃったのではないのです。主イエスは、全人類の救いのために地上に来られました。しかし、先ず、旧約の成就が優先されます。神ご自身が約束されたからです。その成就のために、最初にイスラエルに伝道するのです。順序なのです。

人間が、時間と空間の中で生きる存在で、ここで生き、働く限り、これを飛び越えることはできません。一瞬に世界中に伝道することはできません。主イエスは、天に戻られる直前に、弟子たちにこう預言し、約束されます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」よいとか悪いとかではなく、時間と空間の中で生きる限りは、先ず最初に、ということになります。福音の伝道とは、ひとりからもう一人へと、伝えられて、広がって行くのです。

主イエスが、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と仰ったのは、歴史を見れば、明らかな事実です。異邦人伝道は、弟子たちの務めになりました。なぜなら、主イエスは、その前に十字架で殺されたからです。主イエスは、すでに、ここでそのことを、ご自覚していらっしゃることを明らかになさったと解釈してもよいのです。主イエスは、「わたしは十字架につけられる。つけられなければならない、だから、イスラエルの家、ユダヤ人、神の民でありながら、神と離れてしまっている羊、飼い主のいない羊、弱り果てて、まさに死なんとして、滅びようとする羊を、一刻でも早く、全員を探しだそう。」このようなみ心で働かれたのです。

しかし、そう仰るイエスさまは、今ここで現実には、エルサレムから離れて、サマリアをはるかに超えて、はるばるフェニキア地方にまで伝道の旅をなしていらっしゃるのです。実際には、このカナン人の女性と深くかかわっていらっしゃるのです。つまり、カナン人を異邦人として、軽蔑することなど、主イエスの御心のなかにはなかったのです。

しかし、彼女は、主の御言葉をそのまま受け入れます。しかし、なお彼女は言います。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」受け入れながら、子犬もまた、待っていれば、おこぼれを頂けると、認識します。まことに驚くべき信仰です。主イエスは、立派と仰います。もとのギリシャ語は、メガスです。100万倍という意味のあのメガという単位のもとになることばです。

彼女は、自分のことを、子犬と謙遜します。それに対して、イスラエルは、神の民です。神の子らだと主イエスは仰せになられます。しかし、それは、何を意味しているのでしょうか。彼らイスラエルもまた実は、神の民となる資格はまったくありませんでした。神の子の資格は、全人類が、アダム以来失ってしまっているのです。それにもかかわらず、イスラエルが神の民、神の子とされたのは、ただ、神の一方的な選び、憐れみのおかげなのです。彼らは一切、誇るべき点はありません。ただ、恵みによってのみ、立っているのです。ただ恵みだけが、彼らを異邦人と区別しているのです。罪深いことは、異邦人と変わらないのです。ユダヤ人が倫理的に立派だから救われ、選ばれたとは、聖書には一言も記されていません。

 今朝は触れる暇は、ありませんが、子どもの教会では、今週からルツ記を学びます。ルツとは誰でしょうか。異邦人に他なりません。モアブの異邦の女性なのです。しかし、このルツの子孫からダビデが生まれるのです。つまり、異邦の女性ルツこそは、イエスさまの先祖となった女性なのです。

 したがって、本来、イスラエルもまた、子犬としての自覚を持つべきです。子犬から、しかし、子どもへと受け入れられたのです。そうであればイスラエルは、常に、謙虚であるべきです。謙虚にすべきです。ところが、先週、学びました。律法学者たちは、自分を子犬などと思っていません。もともと、子どもだと思っています。異邦人たちのことなどは、家族どころか子犬とも考えていません。何よりも、自分が律法を守っているから神の子、神の民とされているという、まったくの間違いを犯しているということこそ、問題なのです。彼らもまた、ただ恵みによって救われただけです。その恵みを自分の功績にすることほど、恐るべき罪はありません。

 この女性は、自分の功績を一切主張しません。何も、ないからです。いへ、それは、彼女だけのことではまったくありません。救われ、恵みを受け、憐れみを受けることができる資格だとか、功績などを持っている人間は、地上に誰にもいないのです。

しかし、彼女は、確信しています。「イエスさまは、わたしを憐れみ、助けて下さる」何故でしょうか。それは、自分を愛する神の愛を信じているからです。結局、信仰とは、ここに尽きるのです。神がこのわたしを愛したもう。驚くべき知識です。恵みの知識です。
 
主イエスは、こう宣言なさいます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。」あなたの願いどおり、わたしは、この御言葉を、こう理解します。それは、彼女の願いではありますが、結局は、いちばん大切なことは、それが主イエスご自身の願いであるということです。
祈りが聞かれるのは、私どもが、強引に、願うからではありません。なんでもかんでも、祈り倒す、などということはありません。神のみ心だけが実現するのです。そして、祈り願うとは、いかに神のみ心を知るかにかかります。わたしに関する神のみ心が実現するのです。

 彼女は、信じたのです。神は、わたしを憐れんで下さる。神は、わたしを愛しておられる。だから、主イエスは、喜んで、「あなたの願いどおりになるように。」と宣言なさるのです。そして、この宣言を受けた「そのとき、娘の病気はいやされた。」のです。

 彼女は、後で、娘の病が癒されたことを知ります。しかし、この宣言を受けたとき、もう、心は喜びと感謝であふれただろうと思います。なぜなら、結果を信じるより何より、自分も、そして娘も、神の愛の中に置かれていることが、はっきりとしたからです。「あなたの願いどおりになるように。」この御言葉を聴くのは、ひとりカナンの女性だけでしょうか。主イエスは、今朝、私どもにも、約束なさいます。あなたの願いどおりになるように。それは、主イエス・キリストが、私どもに願っておられることだからです。あなたが、救われ、祝福されること、家族が救われること、それは、他ならない主のお心だからです。

祈祷
 主よ、私どもを憐れんで下さい。傲慢になる私どもを憐れんで下さい。私どもこそ、罪人であり、罪人であるからこそ、救って頂いたこの福音の恵み、この真理を裏切らないように助けて下さい。謙遜に生きることは、しかし、信仰に生きることに他なりません。あなたの愛のみ心を確信し、隣人の救い、家族の救いのために、心から叫び、祈る者とならせて下さい。主よ、今、東北の地から、「誰か助けて」という呻きが聞こえます。主よ、私どもを用いて下さい。主なる神よ、助けて下さいと共に祈れるように、導いて下さい。アーメン。