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「何のために生まれたの?」

「何のために生まれたの?」
2011年6月12日 ファミリー礼拝式
テキスト ルカによる福音書 第15章11-24節
【また、イエスは言われた。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、
『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。】

本日は、ようこそ教会にいらっしゃいました。心から歓迎いたします。教会は、神によって結びあわされた者たちの共同体です。聖書では、神の家と言ったり、神の家族と言われています。

さて、3月11日起こりました巨大地震による東日本大震災は、3か月がたちましたが、今なお、震災後とは言えません。震災中です。少し古くなった情報なのかもしれませんが、避難場所での生活を余儀なくされた方々は、ラジオを楽しみにしておられることを伺いました。元気になる曲をリクエストされ、その中でも大変多かった曲の一つが、「アンパンマンのマーチ」でした。日本が生んだ世界に誇るアニメのヒーローです。大変、ユニークなヒーローなのです。作詞は、アニメの作者ご自身の、やなせたかし氏です。

実は、わたしは、被災地の皆さんを勇気づけるこの曲の歌詞のことは、それ以前から、大変注目しておりました。このような歌詞です。

「そうだ、うれしいんだ生きる喜び  
たとえ胸のキズが痛んでも
なんのために生まれて、なにをして生きるのか?
答えられないなんて、そんなのはイヤだ
今を生きることで、熱い心燃える  
だから君は行くんだ微笑んで
そうだ、うれしいんだ生きる喜び
たとえ胸のキズが痛んでも
ああアンパンマン  やさしい君は 
行けみんなの夢守るため 」

 これをリクエストしたのは、子どもたちではなくて、ご父兄たちでした。子どもたちを元気づけたいという大人たちが多かったわけです。ところが、むしろ、この歌を聞いた大人たちの方こそ勇気づけられ、号泣なさる方もいらっしゃったそうです。

「そうだ、うれしいんだ生きる喜び。なんのために生まれて、
なにをして生きるのか? 答えられないなんて、そんなのはイヤだ。
  なにが君の幸せ、なにをして喜ぶ? わからないまま終わる・・
そんなのはイヤだ」
 
今朝の説教題は、「何のために生まれたの?」としています。アンパンマンのマーチの歌詞からとらせていただきました。今朝、聖書を通して、このファミリー礼拝式の説教を通して、この問いを、自分自身の問いとして、神に、聖書に問うてまいりましょう。そこで、取り上げた聖書は、ルカによる福音書第15章、おそらく聖書の中で、もっとも有名なお話ではないかと思います。放蕩息子の譬え話です。

さて、ここに父親と二人の息子が登場します。最初に登場するのは、弟です。この弟とは、いったい、誰の譬えなのでしょうか。最初に、明らかにしたいと思います。それは、われわれ、現代人、日本人の譬えです。私ども、ひとりひとりの現実を映し出す譬えに他なりません。

この弟は、こう言います。「『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」彼は、遺産の相続を求めます。いったいこれは、何を意味しているのでしょうか。遺産を譲り受けるには、条件があります。それは、関係者が死亡しているということです。生死が不明であれば、相続の手続きができません。
ということは、この弟がしたことは、何を意味しているのでしょうか。それは、親殺しです。ただし、親は、ちゃんと生きています。ところが弟は、死んだことにしてしまうのです。

「そのような親不孝をする息子など、もはや我が子ではない」と、お父さんは、下の息子に、財産を分けてあげなくてもよいはずです。むしろ、「親不孝者!この家を出て行け!」と憤るのが普通ではないでしょうか。ところが、お父さんは、分けてあげるのです。本来なら、人間が、神に対して、おそるべき罪を犯したのですから、人間に災いと呪いとを及ぼしてよいはずです。ところが、それをさし控えられたのです。実に、その背後には、神の犠牲的な愛が、あまりにも痛ましいまでの神の犠牲の愛があることを、私どもは知らなければなりません。今朝は、触れられませんが、十字架のキリストです。

さて、この弟は、お父さんに言います。「お父さん、これまでお世話になりました。けれども、もう、あなたが死ぬのを待っていられません。率直にもうしますと、わたしにとって、あなたは、死んだも同然です。あなたなしでも、ちゃんと生きてゆけます。あなたと一緒に生きる必要はありません。自分らしく、自分に正直に、自分のやりたいようにやります。ただし、財産だけは、今、相続させてください。」これが、息子の態度です。そして、これこそは、われわれ科学技術で武装した多くの日本人、現代人の神に対する態度ではないでしょうか。

神が生きていらっしゃるから世界は存在し、人間が存在し、自分自身が存在しているのにもかかわらず、その造り主なる神、親なる神を否定したのです。神を死んだものとしたのです。

こうして、「遠い国へ旅立ち」ます。もう、説明の必要はないかもしれません。要するに、父親から離れるということ、父親とのかかわりを断ち切るということです。つまり、神さまとのいのちの関係を自ら断ち切るということです。それが、われわれの現実の姿だということです。

ところが、彼は、ちゃっかりと、父なる神から与えられた財産は、頂いています。それなら、その財産とは何でしょうか。それは、この宇宙であり、太陽であり、地球でしょう。この地球の中にある、かずかぎりなく存在する、すばらしいものです。おいしい海の幸、山の幸、お肉もあります。食べるもの、着るもの、飲むもの、住まう場所、これらすべては、神から受けたお恵みです。これは、単に自然と呼ぶべきものではなく、神の被造物、造られた存在です。そのような被造物を与えられ、何よりもじぶんじしんのこのいのち、肉体のいのち、存在こそ、神から受けた恵み豊かな幸です。

下の息子は、すぐに財産を現金化してしまいます。土地や建物はもとより、調度品や洋服や、ありとあらゆる「もの」を売り払ってしまいました。彼は、そうすればするほど、どんどん麻痺して行きます。神から頂いた恵みを見失って、お金、マネーしか見えなくなるのです。

マネーゲームという言葉があります。現実には、我々の市場経済のシステムにおいて、これは、基本になっているのかもしれません。主イエスの譬え話は、2000年前の人間であろうが現代人であろうが、およそ人間のありのままの現実をこのたとえによって暴露する、暴いて見せてくださるのです。

さて彼はその結果、「放蕩の限りを尽くし」てしまいます。放蕩とは、何でしょうか。主イエスご自身がそれを解説しておられます。「財産を無駄遣いしてしまった」つまり、無駄遣いです。それなら、無駄使いとは、何でしょうか。それは、正しい目的、目標から外れるということです。お金の使い道の正しい目的、目標からそれるということです。そして、これも譬です。つまり、お金とは、人生そのもの、自分のいのちそのものの譬えです。要するに、自分の人生を無駄遣いする。自分のいのちを無駄遣いしてしまったということです。

おそらく多くの日本人は、「自分は、このような愚かなことはしない」そう仰ると思います。そもそも今時、よほど大金持ちの息子さんでなければ、そのようなことはできません。そのような身分の人は、わずかだと思います。大方は、まさに爪に火を灯すようにして、無駄遣いをしないで、コツコツと暮らしていらっしゃると思います。

しかし、ここで主イエスが問うておられること、私どものために問いかけて下さる真理は、それよりはるかに深い事柄です。つまり、私どもがもしも、何のために生まれて、何のために生きるのか、分からないまま生きるなら、まさにそれこそが、無駄遣いということになってしまうのです。自分に与えられた時間の無駄遣いということです。
確かに、多くの方々は、自分の人生、その生活を、まさに、まじめに、コツコツと真剣にいきていらっしゃると思います。人の迷惑や、法律に触れることなどせずに、一生懸命頑張って生きていらっしゃると思います。ただし、もし、神がいらっしゃるなら、ただそれだけで、神の前に、父なる神の前に、それはそのまま通用するのでしょうか。「神よ、あなたから受けた、いただいたこのいのちを、この時間を、この能力を、この豊かな財産を、正しい目的のために使っています。」このように、告白できるでしょうか。そして、主イエスは、そこを問われるのです。わたしどもの人生、その時間、いのちは、神から与えていただいた授かりものです。責任があるのです。神の前に責任があるのです。

わたしは、一度、夏のキャンプのときに、アーチェリーをさせていただいたことがあります。恵那市にある雀のお宿です。それは、なかなか難しいものでした。弓矢は、的を目がけて放たれます。目標は、的です。的を射ることが競技の目的です。どれほど、真剣にまじめにこつこつと力の限り弓矢をひいても、的がどこかわからないまま、しているとしたら、それは、競技としては成り立ちません。弓の無駄遣いになってしまうかもしれません。そして、そのようにする人は、ひとりもいないはずです。ところが、もしかすると、アーチェリーとは、比べられないほど、大切なはずの我々の人生そのものにおいては、実に、しばしばそのようなことをしているのではないでしょうか。そのようなことになってしまっているのではないでしょうか。

聖書には、しばしば罪という言葉が出てまいります。これは、神と私どもとの関係が正常ではない状態のことを意味します。法律を破るとか、犯罪を犯すという意味ではありません。罪とは、神との関係が断たれている状態のことです。そして、罪を新約聖書の言語、ギリシア語で、ハマルティアと申します。このハマルティアとは、もともとの意味は、的外れなのです。罪とは、的外れのことを意味するのです。つまり、人生のまことの目的、何のために生きているのかを知らずに、分からずに、そこから逸脱している状態のことです。

そして、その目的とは、まさに私どもの存在の源、いのちの源、世界の宇宙の存在の源なる神さまご自身のことです。我々人間は、この造り主なる神から、離れて生きようとするなら、企てるなら、無駄な人生、結局は、神との関係においては、誰でも放蕩三昧の人生になってしまうのです。

さて、しかし、この息子に、思いもかけない危機が訪れます。全財産を浪費したそのとき、その地方に大飢饉が起こったのです。彼は、食べるにも困り始めます。そしてとうとう、彼は、豚の世話をする職業に就きます。これは、ユダヤ人にとって、あり得ない職業でした。ユダヤ人にとって、牛や羊の世話をする職業に従事する人は、実は、社会的な立場で申しますととても低い職業とされていました。それは、動物の血に触れるということが、宗教的な意味から、遠ざけられていたからです。しかし牛や羊は、まだよいのです。絶対にあり得ないのは、豚です。なぜなら、豚を食べるのは禁じられていたからです。ユダヤ人の彼にとっては、まさに屈辱です。いへ、彼は、さらに追い詰められています。人間の食事が取れないのです。豚の食べる餌を食べてでも生き延びたいというそのような極限の困窮、過酷な立場に転落してしまいました。

この譬えは何を意味しているのでしょうか。それは、神との正しい関係を失った人間は、実は、人間以下になってしまうということです。牛も羊も豚も、それぞれのいのちに尊厳があるはずです。昆虫にも魚にも鳥にも、いのちは大切です。それぞれが、あるがままに生きているそのとき、牛も羊も豚も美しいのです。ただしかし、人間だけは違います。人間は、それらに比べられないほど尊い存在です。しかし、もしも人間が、神との正しい関係を失うなら、豚にも顔向けできなくなってしまうのです。動物以下の存在になるのです。

さて、彼は、ついに、我に返ります。我に返るということの深い意味を、丁寧に学びたいのですが、時間がありません。分かりやすく行ってしまえば、反省したということです。彼は、自分自身に言い聞かせます。つまり、「自分との対話」が始まったわけです。自分の心を掘り下げて、考えてみたのです。

「彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

ここで、息子は罪を犯しましたと言います。天に対してです。つまり、神に罪を犯したのです。その結果、地上にあっても、現実においても親不孝という罪を犯してしまったということです。彼は、自分がもはや、息子の資格を失っていることを認めます。自分のしたことを後悔し、嘆いています。今はただ、生き延びるために、雇い人の一人としてくださいと必死になって求めます。

さて、実は、ここからが、この譬えの中心なのです。しかし、時間がまったく足りません。来週、再来週と続けて来ていただく他ありません。譬えは、こう続きます。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」

お父さんは、遠く離れていても、なによりもヨレヨレの、ボロボロの姿になって帰ってくる息子を見つけます。どうして、分かったのでしょうか。それは、毎日、毎日、息子の事を考え続けたからでしょう。思い続け、心配し続けたからです。それは、行動にも現れたはずです。毎日、屋敷のベランダに出て、帰ってくる日を待っていたということです。だからこそ、息子が帰ってくるのを、ちゃんと出迎えられたのです。いへ、出迎えたという事では足りません。

お父さんは、帰ってきた息子に自分の方から駆け寄ります。そして、ボロボロに汚れ、臭かったであろう息子をがっしりと抱きしめます。なぜか、「憐れに思い」とあります。このみ言葉は、直訳すれば、「はらわたが痛む」となります。内臓がよじれるような痛みを伴う激しい感情を表現する言葉です。そして、新約聖書がこの言葉を使う時、それは、特別に神の愛を表現するときなのです。つまり、私どもの父なる神は、私どもが神から離れて生きている姿をご覧になられて、激しく心を、いへ、全存在を震わせて、憐れんでおられるのです。愛しておられるのです。これが、主イエス・キリストにおいて、明らかにされた神の真実なのです。神の愛なのです。私どもは、今この瞬間も、この神の愛によって愛され、見守られているのです。

最後に、だから、私どもはどうすべきでしょうか。私どもがすべきことは何でしょうか。安心してください。もう、ここにおられる方々は、皆さん、すでにしておられます。つまり、神の教会で、ここで、父なる神を礼拝することです。ここに帰って来ることです。そのようにして、神様との正しい関係をつくっていただくことです。私どもは、この神さまを知ることこそ、人生の目的となります。人生の意味は、この神さまを信じ、神さまとの関わりの中で、明らかにされるのです。そして、それは、必ず、間違いなく、生きる喜び、その喜びが爆発するほどに与えられるのです。

最後の最後に、「そして、祝宴を始めた。」とあります。父親は、喜びにあふれて祝宴を始めます。それは何を意味しているのでしょうか。それこそが、この譬えのゴールです。それは、この礼拝式に他なりません。主の日のこの礼拝式とは、神の喜びの祝宴なのです。神が、天のお父さまが、私どもをしっかりと抱きしめて、よく帰ってきてくれたと喜びにあふれて、お祝いして下さるのです。それこそが、キリスト教の礼拝なのです。こんなにうれしい時は、人生で他にありません。人生最高の喜び、それが、この礼拝式なのです。どうぞ、来週もまた、お越しください。そして、いよいよ、この礼拝式がどれほど、神の祝宴であるのかを、骨の髄まで知ることによって、皆さまの生活が、人生が、祝福に満たされ、生まれて来た喜び、神を礼拝する喜びにあふれますように。私どものいのちは、私どもの人生の最高の目的は、今朝のこの神を礼拝する、そのことのためにあるのです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの、わたしの天のお父さま。今、私どもの人生の目的、目標そのものであるあなたのおん前に出て、礼拝を捧げることができましたことを心から感謝致します。どうぞ、引き続いて、礼拝を捧げ、はっきりと、あなたの愛を信じることができるその日まで、あなたを求めることができますように。そして、全員が、あなたからわたしの愛する子と呼ばれている喜びを告白し、天のお父さまと、あなたに返事をする者とならせて下さいますように。アーメン。