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岩の上に立つ人生

「岩の上に立つ人生」2011年6月26日

テキスト マタイによる福音書 第7章24-29節 
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

 本日の伝道礼拝式の説教の題は、実は、すでに一カ月以上前に定めておりました。それは、東北関東大地震、それに伴う大津波に流された被災地を見たことが、決定的な要因でした。津波が、町や村落を根こそぎ押し流し、破壊しつくしてしまう様を目の当たりにしました。津波という巨大な力がどれほど甚大な災害をもたらすものなのか、わたしは初めて知りました。特に、仙台の沿岸部を見たときの恐怖感は忘れられません。もうひとつは、余震が続いていましたから、今ここで地震が起こったらとドキドキしながら、車をUターンさせたときのことです。はるか高台に位置する仙台中心部、高層ビルが林立する光景を見ました。その余りのギャップにも深い印象を与えられました。もとより、仙台教会に宿泊させていただきましたから、礼拝堂の内壁が剥がれ落ちて、強い余震があれば、危険ではないかという緊張感もあるほどに、地震そのものの被害も少なくありませんでした。ただしかし、沿岸部と高台とに暮らす人々のへだたり、津波が押し寄せた場所とそうでない場所との余りの差には、愕然とさせられました。
 実は、伝道説教のためにお祈りし始めた時、ほとんどただちにこのテキストが示されました。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」このような大震災を体験している私たちだからこそ、このイエスさまの御言葉を本当に深く聴きとらなければならないと思わされたからです。

 今回の大震災を機に、新たに防災計画の見直しが叫ばれていることは、不幸中の幸いと言えるかと思います。自分たちの暮らしているこの町、名古屋もまた、巨大津波が押し寄せたとき、大変な被害が発生することが明らかにされました。名古屋駅にまで津波が押し寄せるというシュミレーションには、正直に暗澹たる思いが致しました。けれども最悪のことを考えることが防災の鉄則なのだとも思わされます。
しかしもしかすると、この個所を、少しへそ曲がりに読む方がいらっしゃるかもしれません。「砂の家に家を建てても構わないではないか。大きな災害がしょっちゅう降りかかることもないではないか。その時はそのとき、仕方がない。」主イエスがここでおっしゃった真理は、防災のこと、その心得についてではありません。どのような家を建てるのか、確かに主イエスは大工をなさっていらっしゃったと言われていますから、建築については一言お持ちでいらっしゃったかもしれません。これは、譬え話です。つまり、人間が生きる上で、人生の土台を堅固に据える必要が不可欠であるのだということです。堅固な土台の上に人生を営むことが、絶対に必要であるということです。
 人生には、必ず、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」ときが来ると主イエスが宣言なさるのです。ただしそこでも、ある方はこう解釈、いへ、誤解されるかもしれません。「必ずかどうかは分からないけれども、確かに、事故や災いには思いがけず出合ってしまいます。だから、わたしは、保険に入っている。いざという時に、くずれないような保障を確保している。何よりも、安定した経済生活が大事。健康が第一。また、人間関係も大切だ、友達を多く持とう。人生には、楽しみが必要だ。趣味を持とう。人生には、共に生きるに値するよい伴侶が必要だ。人生には、揺るぎない思想、哲学、考え方も重要だ。」おそらく堅実に、先々を考えていらっしゃる賢い方々は、これらのことをすべて否定なさらないと思います。お金、健康、家庭生活、友人関係、趣味、そして生きがい、人間が人間らしく、心豊かに暮らして行くためには、おそらくこれらを否定する人は少ないと思います。

 しかし、聖書は言います。私たちの人生の、人間のいのちにとって本当になくてならない土台、まことの土台とは、経済的な安定でもなければ地位でもなく、健康でもなければ家庭でもない。伴侶や生きがいや、思想や考え方でもない。それは、「岩」だというのです。この岩、それ以外のものを土台にしてはならないというのです。一体、その岩とはいかなるものでしょうか。
 そもそも、何故そう言えるのでしょうか。確かに、人生いろいろ、人それぞれです。人生80年、大きな病気をすることもなく、事故や災いに遭うこともなく、会社勤めを大過なくなし終えて、老後の暮らしも快適という方がいらっしゃるかもしれません。しかし、誰の人生にも必ず押し寄せる嵐があるのです。それは、言うまでもなく死、死の問題です。しかし、それでも少なくない方々は、その準備もちゃんとできていると仰るかもしれません。その時がくれば考えます。そもそも、誰しも死ぬのだから、あれこれ悩んでも仕方がないことだ。その時が来るまでは、考えなくてもよいだろう、とそのように達観している方も少なくありません。そして、事実、じたばたせずに、亡くなる方もいらっしゃるわけです。ただし、はっきりと申し上げなければなりません。聖書は、はっきり告げています。死が私たち人間の究極、人生の真実の終わりではありません。
 聖書は言います。主イエスはこう警告されます。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」誰の人生にも必ず押し寄せる嵐があるのです。この嵐とは、肉体の死やその瞬間のことではありません。その後の問題なのです。神によって与えられた私たちの命は、神の前に、どのように生きたのか、時間と能力を用いたのかという責任が与えられているのです。神の前に報告の責任があるのです。神による決算があるのです。ここから、逃げ出せる人は誰もいません。神などいないことにしていた大勢の方々は、そのときこそ、驚かざるをえないでしょう。しかし、時すでに決定的に遅いのです。
 主イエスが、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」と仰ったのは、単に、災害に遭う備えをしなさいとか、死ぬ瞬間のことを指摘なさったのではありません。この試練が襲いかかるのは、最後の審判のときなのです。神によってなされる最終報告、神さまの法廷に立たされるときです。そのとき、営々と築き上げた人間のあらゆる誇りは、その輝きを失ってしまいます。いかに人々から褒めそやされ、キラキラと輝くような勲章も宝も、称賛や栄誉も、何の意味もなく、一瞬にして押し流され、言わば瓦礫となってしまうのです。
主イエスが警告なさったのは、まさに、最後のときに、取り返しのきかないそのときに、そのようになってしまう生き方です。そして、それが、砂の上に建てた人生にほかならないのです。そのような砂の上に建てた人々を愚かな人と主イエスは指摘されます。しかし、この世の基準からみれば、砂の上に建てた人の中には、まさに学者の方々、知恵ある人、教育のある人、学歴のある人々が大勢いるはずです。主イエスの見方は、私たちの見方とは、違っています。どれほど人間からの高い評価を受けた方々であっても、神さまの前には、ただそのままでは何の意味もないどころか、むしろ、愚かなことなのだと仰るのです。

 サンテクジュペリの「星の王子様」という小説の中の最も短い章にこのようなお話があります。第18章です。
「王子さまは砂漠を横切って行ったが、出会ったのは一輪の花だけだった。花びら3枚だけの花、ただそれだけの花…。
「こんにちは」王子さまが声をかけた。
「こんにちは」花が答えた。
「人間はどこにいるんですか?」王子さまは礼儀正しくたずねた。
 花はいつか、キャラバンが通るのを見たことがあった。
「人間? 6、7人ならいると思うわ。何年か前に見かけたことがあるの。でも、どこにいるかはさっぱりわからないわ。風に飛ばされちゃうんだもの。根っこがないなんて、人間はずいぶん困るでしょうね」
「さようなら」王子さまが言った。
「さようなら」花も言った。

 これだけの物語ですが、極めて深い内容がたたえられていると思います。人間には根がない、根っこがない。それは、主イエスがここで明らかにした土台がない人間の象徴だと思われます。岩に土台を据えていないと、風に飛ばされてしまうのです。風とは、おそらく、時代の思潮、思想、流行、価値観のことです。周りの、多数の人たちの空気、雰囲気です。雰囲気にのまれる、流されてしまうのです。一見すると、花の方が、自由に動けないので、不自由に思われるかもしれません。しかし、サンテクジュペリは、痛烈に批判しています。人間にとって本当に不自由な生き方は、根っこがないことだと。それは自分の考えがないことなのかもしれません。いや、誰しも、その人なりの考えがあるから行動していうのだろうと思います。しかし、それは、深く深く掘り下げて行くことなく、一瞬のこと、目先のこと、目に見える世界だけのこと、それだけしか考えない。刹那のことしか考えられない。それが、根っこのない人間の姿なのでしょう。根っこがあるかどうかは、外側だけしか見ない人や、うわべしか見ない人には分からない。そのような人は、「困る」のです。翻訳者の数だけ、さまざまな翻訳があるほどですが、「苦労」と訳したり、「不便」と訳したり、「不自由」と訳されます。わたしは、この不自由が一番ふさわしいだろうと思います。根っこがないから自由に生きられないのです。人間には、人間にとって絶対に必要な根っこがあるのです。
 星の王子さまは、かつて、この根っこを失ってしまった人間のことを、つまり、主人公の飛行士に向かって、こう激怒して語りました。「そんなのは人間じゃない、キノコだ!」
 人間は、この岩、つまりイエスさまに根を下ろす、根を張る、イエスさまと一つにされてのみ、不自由から自由へと解放されるのです。砂の上に家を建てたり、根っこを失ったりすることは、罪の不自由さです。それは、人間にとって異常な状態なのです。人間ではなく、キノコになりさがってしまうのです。

 主イエスは、この説教を、山上の説教の結びの言葉とされました。結論です。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」その時にもなお建ちおおせる人生、立ち続けることのできる人間、その人こそ、賢い人なのです。岩の上に建てた家なのです。そして、岩の上に建てた賢い人とは、主イエスの御言葉を聴いて、それを信じる人なのです。
 注意深く聴いて下されば、今のわたしの言葉に「あれ」とお気づきになられたと思います。主イエスが仰せになられたのは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」でした。聞いて行う者です。私が申しましたように、「聴いて信じる」だけでは足らないのです。しかし今、わたしはあえて、「聴いて信じる」と表現しました。それは、主イエスの御言葉を心で聴いて、聴きいれるということは、つまり、信じる以外に起こり得ないからです。
 イエスさまの肉声を聞ける人は、残念ながら世界に誰一人いません。今や、聖書の御言葉を通して、説教者、もしくは自分の朗読する声でもって聞く以外にありません。しかし、聞くということは、単に音声として耳に入るということではありません。主イエスがここで仰ることは、単に音声が耳に入ったということではまったくありません。心で聴くということです。そしてそのためには、信じるということが不可欠なのです。
 人間の真理、数字の真理ではなく、言わば人格的真理の場合は、その人のことを信頼する、信じるというそのような関係がなければ、把握できないのです。ですから、イエスさまの説教を聞くということは、正しく聞くということは、イエスさまを愛し、信頼し、聞き従うという覚悟、心の姿勢、心の態度をしっかりと整えることが不可欠なのです。そのようにして、主イエスの御言葉を聴くとき、つまり、信じて聴くとき、実は、イエスさまの御言葉は、私どもを突き動かす力にみなぎっているのです。それは、私どもに備わっている力とは別のものなのです。神の力です。神の御言葉の力、威力なのです。この力が、信じて聴く人々に働いて、行う人へと導かれて行くのです。これは、とても不思議な世界です。まさに、信じなければ体験しようのない不思議さです。

 しばしば、求道中の方々、まだ洗礼を受けたいという願いが起こされていらっしゃらない方々は、このように心に思われます。「こんな自分で果して、キリスト者として生活できるだろうか。イエスさまの言葉を、きちんと守って生きて行けるのだろうか。自信がない。おそらく無理ではないか。」しかし、そのような考えを抱いていれば、いつまでたってもそこに留まるしかないのです。逆に、「まあ、キリスト者の人たちもそれほど真剣に、イエスさまの御言葉を実践しようとしていないようだし、まあ、自分のレベルのなかで、ほどほどの信仰でもよいから、スタートしようか。」これでは、困ります。これでは、聖書の言う信仰にならなくなります。キリスト教、キリストの教えを自己流で受け入れて、おいしいところだけとか、自分にとって都合のよいところだけ、かじるようなものになってしまいます。いつまでも、深いところで、変化がないことになります。
 そうではなく、「自分には、まったく自信はありませんが、神さまにゆだねて行こう。自分でキリスト者らしくなるなどということはできないのだから、神さまに今あるがままで従い、神さまによって、イエスさまの御言葉の力によって変えて頂こう、それ以外にありえない。」こうやって、主イエスに、そのふところに飛び込んで行くこと、それが信仰なのです。信頼なのです。
 神の言葉を行う実力を自分で獲得できたと思うなら、それは、大間違いなのです。そのときまで、洗礼を受けないということも大間違いなのです。イエスさまの説教には力があるのです。神の御言葉そのものに力があるのです。御言葉を信じるとき、他ならないその御言葉が信じる私を動かしてくださるのです。これが、主イエスのここで語られる、明らかにされる真理なのです。
 その意味では、イエスさまは、私どもに大きな期待と信頼をよせておられるというよりも、それを否定することは決してできませんが、しかし、それよりもはるかにご自身を信頼しておられるのです。神を信頼しておられるのです。神、主イエス・キリストの父なる神、私どもの天のお父さまは、聖書の言葉を信じて聴く者たちを、必ず、動かして下さる。行う者としてくださるという信頼です。

 先週は、金沢伝道所の漆崎牧師が、主イエスの自己紹介を説教で語ってくださいました。主イエスは、「わたしは道、真理、そして命なのです。」と自己紹介なさいました。この道とは、天国に至る唯一の道に他なりません。イエスさまだけが、天国という真理、真理の中の真理そのものなのです。そして、イエスさまだけが天国のいのち、人間にとってまことのいのち、永遠の命をお持ちなのだと宣言なさったのです。イエスさまは、ご自身に自信をもっておられるのです。イエスさまが天国への道そのものでいらっしゃるから、イエスさまを信じる私どもは、真理を発見し、命を獲得できるのです。いのちを与えられたのです。
 主イエスは、今朝、こう宣言なさいます。「わたしの言葉を聴いて行う者は、岩の上に家を建てた賢い人に似ている。」これまで語ってまいりました「岩」とは、何でしょうか。ここでもまさにイエスさまの自己紹介に他なりません。つまり、主イエスは、「わたしこそが、岩です。あなたの人生の岩、土台、礎です。わたしを土台にしないと、流されてしまいます」と自己紹介とともに警告され、この岩、わたしの上で生きて行こうと招いておられるのです。
 既に、何年も生きて来た方であれば誰しもご承知の通りと思います。「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかる」ということは、死の時のことだけではなく、人生の折々で、体験せざるを得ないのです。人生の試練のときに、自分の生き方がどのようなものであるのかが、明らかになってしまう場合も少なくありません。思いがけず自分が病を得てしまった。思いがけず家族に災いが襲ってきた、誰でもうろたえると思います。今、この日本では、死を選びとる人々の内、大人が多いのです。年間、3万人以上、今年は、どれほど増えてしますのか、恐ろしく思います。
 率直に申しますと、わたし自身もまた、まさかという試練を受けたときには、まったくうろたえないでいられるとは限りません。しかし、力んで申し上げる必要はありませんが、告白したいのです。証したいのです。主イエスの御言葉を聴いて、信じることが許された時から、言葉をかえれば、生きていらっしゃるイエスさまにお会いしてから、あれは20歳のときでしたが、その時から、うろたえることがどんどん小さくなってまいりました。その揺れ幅が小さくなってまいりました。驚くべきことです。それは、イエスさまによって救われたからです。あの日から、主イエス・キリストと共に歩むことが許されたからです。

 いったい、何故、私どもはイエスさまを信じると、ただそれだけで救われることができるのでしょうか。何故、ただそれだけで、揺るぎない人生、自由に生きる人生を始めることができるのでしょうか。それは、イエスさまご自身が、ご自身で約束された言葉、語られた御言葉を守られたからです。主イエスが、ご自身の語られた言葉を文字通り実践してくださったからです。つまり、私どもが御言葉を守ったから、守るから救われたのではありません。そうではありません。主イエスが、神の御言葉を守ったから、私どもの代表として守りぬいてくださったからです。

 今朝、一つ一つの言葉を取り上げることはできません。最後に一つだけ、山上の説教、マタイによる福音書第5章44節です。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
 このイエスさまご自身の教えは、まさに他ならない主イエスご自身が行われました。十字架の上で、自分を憎み、妬み、殺してしまおうと企て、それを喜んだイエスさまの敵、イエスさまを迫害した人々のために、祈られました。敵である彼らを愛し抜いてくださいました。十字架の上で、神を信じ続け、人間を愛し続け、最後の最後まで父なる神に、私どもの救い、赦し、執り成しを祈られたのは、この人に他ならないのです。
このイエスさまの十字架の行為の故に、愛の行いの故に、私どもは、神の前に罪を赦され、永遠に罰せられない関係、神の子としていただいたのです。

 キリストの教えのすばらしさ、それは、イエスという人の存在そのものの素晴らしさのことなのです。そして、何故、そのイエスさまが素晴らしいのかと申しますと、その決定的な理由は、ご自身の教えとご自身の存在、生き方、行いとが100パーセント一致していらっしゃるからです。言葉と行いとが完璧に一致している人、だから、すごい。だから、イエスさまはキリストであり、神ご自身なのです。
私どもは、この岩を、もはや、世界中を旅して探しまわる必要はありません。万巻の書物を読みあさる必要もありません。なぜなら、私どもは今朝もう既に、この教会にいるからです。神の教会、キリストの教会の礼拝堂に座っているからです。しかも、この教会の名称は、実に、岩の上教会というのです。イエスさまを土台とする教会です。イエスさまを礎とする教会です。罪から解き放たれて、本当の人間らしさを取り戻すことのできる教会です。ここでは、神がかってしまったり、神秘的になってしまったり、不自然でかたくなな人間になってしまうのでもありません。まさに、いかなる人生の危機にも押し流されない、いかなるこの世の嵐にも吹き飛ばされない救いの道、救いの岩を経験することができる、生きておられる主イエス・キリストがおられる教会にいるのです。今朝、主イエスは、このように語って下さいました。「私が岩なのだ、わたしの言葉を聴いて信じなさい。そうすれば、あなたはわたしの言葉を生きることになる。行うことになる。あなた自身の力ではなく、わたしが与える岩の力によってそうなる。」
 どうぞ、今朝、私どもはこの岩、この人生の土台なるイエスさまを目の前にしています。ここに根を下ろしましょう。ここで共に生きてまいりましょう。主は既に今朝、皆さまをこの岩の上に、しっかりと置いてくださいました。ここに根を下ろす時、ついには、最後の嵐、神の審判にも立ちおおせるのです。

祈祷
 私どもの救いの岩、人生の土台でいらっしゃいます主イエスよ、この岩へと導き、この岩の上に私どもをしっかりと根付かせて下さいました父なる御神、そのような幸いな事実に気づかせて下さいました聖霊なる御神。地上には、人間にとってまことの土台、永遠の土台となるものが決してないことを、いよいよ悟らせて下さい。先に救われた私どもがこの岩の上にしっかりと立ち、主イエスの御言葉を信じて行うことによって、まことの救いをはっきりと示すことができるようにしてください。アーメン。