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天国のめじるし ー聖餐ー

「天国のめじるし -聖餐-」
2011年7月3日
テキスト マタイによる福音書 第15章29-39節 
 【イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして、山に登って座っておられた。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたので、イエスはこれらの人々をいやされた。群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した。
 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。」】

 
 7月に入りました。教会の年度でも下半期の歩みへと導かれてまいります。6月は、伝道月間として伝道礼拝式を捧げていましたので、今朝は、一か月ぶりにマタイによる福音書の講解説教に戻ります。 
 今朝は、第一主日です。私どもの教会は、第一主日には、主イエスが教会に与えて下さった聖餐の礼典を祝って礼拝を捧げます。今朝、このテキストが与えられていることに、神さまの特別の摂理を思います。

 さて、今、主イエスは、ティルスとシドンの地、異邦人の地から、再び、ガリラヤ湖畔に戻られます。つまり、イスラエル、神の約束の民のもとに戻られます。しかし、湖畔に留まられないで、すぐに、山に登られます。大勢の群衆もまた、主イエスのもとに近づくために、山に登ってきました。しかも、彼らは今、自分たちだけではなく、「足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来」ました。足の不自由な人が目の見えない人、体の不自由な人、病人たちが山を登るということは、何を意味しているのでしょうか。そこには、自分の愛する家族、友人たちをなんとか癒して頂きたい、少なくとも、この人たちこそ、主イエスのそば近くで、主イエスの説教を聞かせてあげたい、できれば、主イエスと個人的なかかわりを持って頂きたいと言う切なる願いがあったからです。歩けない人は、担架に乗せて運びあげたのかもしれません。いずれにしろ、彼らを、山の上まで連れてくるには、大変な犠牲が払われたはずです。そして、主イエスは、そこで、この人々を癒されたのです。

 さて、この短い個所は、マタイによる福音書の著者マタイじしんが、言わば、これまでの主イエスの説教とみわざについて、おさらいをする、一度、ここでまとめておくという意味あいがあるのだと思われます。
 マタイによる福音書は、これまで、第4章において、主イエスの伝道の始まりとして「悔い改めよ、天の国は近づいた。」という招きの言葉を記しました。その意味は、こうでした。主イエスは、天国は、今、わたしがこうして伝道の働きを始めたことによって、あなたがたのところに近づきました。もう、天国は、わたしにおいて、この地上で始まっています。だから、悔い改めなさい。これまでの形式的な信仰生活ではなく、真実に神に立ち帰りなさい。これまでの宗教生活の在り方から方向を転換しなさい。つまり、わたしを信じなさい。」このようなメッセージでした。
 そして、主イエスは、天国が近づいたという事実を、言葉で告げるだけではありませんでした。何よりも、今朝の礼拝式の招きの言葉としましたイザヤ書第35章に予告されていた出来事を成就させたもうたのです。「神は来て、あなたたちを救われる。」そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。」
 新約聖書が、現代の私どもからすれば、いささか不必要にすぎるくらいに、主イエスが奇跡を起こされ、病を癒された出来事を記したのは、それが事実だからですが、何よりも、旧約聖書の預言の言葉が、イエスさまにおいて完璧に成就した事実を鮮やかに示すためです。

 さて、4000人の男性に主イエスが食事をふるまわれた物語に入りましょう。私どもはすでに、第14章で、男だけで5000人、つまり、ざっと1万人をはるかに上回る人々のために、主イエスが食事をふるまわれた奇跡の物語から学びました。ところが、マタイによる福音書そしてマルコによる福音書によりますと、この食事の奇跡は、実はたった一度起こされたのではなかったというのです。
 さて、ここで、群衆に食事をふるまわれるように行動を起こされたのは、主イエスごじしんの方からでした。主イエスは、こう語られました。
 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。」
 「かわいそうだ」と仰いました。私どもは、すでに、何度も、「スプランクニゾマイ」というギリシャ語を学んでまいりました。極めて重要な、激しい言葉だと学びました。ここでは、「かわいそうだ」と訳されています。5000人の給食では、「深く憐れみ」と訳されています。直訳すれば、「はらわたのちぎれる思い」となります。内臓が、はらわたが痛んでいるのです。痛みを伴うほどの激しい感情です。その感情とは、愛に他なりません。この言葉は、神の愛を表現するときの、特別の言葉なのです。今、再び、この言葉がここで用いられます。もとより、先ほどの癒しのみわざもまた、主イエスが、彼らを見て、「かわいそうだ。」とはらわたがちぎれる思いに駆られたからに他なりません。

 さて、それに比べると、弟子たちの反応は、いかがでしょうか。
 弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」 
 なんだか、他人事のような感じがいたします。自分たちとは、関係のないことではないか。そこまで、お世話をする必要はないはずだというニュアンスが漂っていると思います。
 しかも、わたしがいつもここを読んで不思議に思うのは、彼らは、すでに5000人の給食の奇跡を体験したはずです。自分たちの手の中で、神の奇跡が起こった、あの忘れられない奇跡の体験者、体験者どころか、自分たちが奉仕してはじめて奇跡がなされたと言ってもよいくらい、弟子たちの中で、とてつもなく大きな、しかも喜ばしく、誇らしい体験をしたばかりのはずです。
 それなのに、なぜ、このように消極的、否定的になっているのでしょうか。そこに、弟子たちの不信仰、不熱心、そこにキリスト者である私ども自身の課題を見るのは、わたしだけでしょうか。こんなにすばらしい神の祝福を体験しても、それに積極的に応答しない、感謝しない、そこに私どもの怠惰、恵みへの鈍感さ、自分を後回しにして、隣人を優先できない弱さ、罪を見るのは、わたしだけでしょうか。

 さて、主イエスは、三日間まったく何も食べなかったのかどうかは、分かりませんが、少なくともこの三日目、食べない一日を過ごしている彼らを、主イエスは激しく同情なさいます。このまま山を降りるとすると、体力が消耗して、倒れてしまうことを案じておられます。はらわたのちぎれるような痛みを伴う極めて激しい感情をもって、案じておられるのです。
 私どもは、ここで改めて、思わされます。いったい、主イエスは、どれほど、人間を、言葉を換えれば、人間的なありとあらゆる事ごとを、重んじて下さるのかということです。私ども一人一人の食べること、飲むこと、つまり、生活への配慮、衣食住に対するご配慮をなさってくださるかです。

 新約聖書の使徒言行録の第17章において、キリスト教が最初に、ギリシャの人々に伝えられた時の様子が記されています。そこは、ギリシャのアテネ、まさに学問、哲学の中心地でした。ギリシャの哲学者たち、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、まさに綺羅星のごとき哲学者を生みだした町です。そこでは、いつも、議論が戦わされ、新しい知識が披歴されていました。そこに、ヘブライ人、ユダヤ人である使徒パウロが福音を説教したのです。彼自身も哲学の素養があったはずです。
 しかし、彼は、福音を語ります。旧約聖書に証されている真の神、天地を創造し、時間を支配しておられる唯一の神を証します。そして、何よりも、その神の究極の啓示である主イエス・キリストを語ります。新約聖書の福音を大胆に語ります。天地の創造者なる神は、その独り子の主イエスを人間とならせ、私どもの罪を償うために、十字架で身代わりになって死んで下さったことを語ったと思います。そして、何よりも、使徒言行録は告げます。この十字架の上で、私どもの救いのために、贖いのために命をお捨てになられたイエスさま、死んで下さったイエスさまが、ご復活なさったと語ったのです。
 さて、そのときのアテネの人々の反応は、どうだったのでしょうか。『死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「聞かせてもらうことにしよう」と言った。』
 イエスさまの肉体が復活された。その事実が語られた瞬間、あざ笑う人が出ました。そこまでするのは、いくら文化の発達していないユダヤ人に対しても、いささか失礼だと思った人は、「それについては、いずれまた」と、非礼にならないように立ち去って行きました。何故でしょうか。それは、ギリシャの人々にとって、肉体のこと、肉体に関する事ごとは軽んじられていたからです。魂の問題、永遠の問題それらが高尚なことであって、肉体の問題をあれこれ議論するのは、知性が低く幼稚な議論だと考えられていたからです。
 あるいは、唯一神を重んじる宗教の根源となったユダヤ教、イエスさまが戦われたファリサイ派の人々のことをここで合わせて考えることも有効かと思います。あるいは、現代で言えば、唯一の神を徹底的に重んじるとするイスラームのことを考えてもよいかもしれません。
 彼らは、徹底的に神を重んじます。ところが、主イエスの御眼に映ったのは、神を中心にする、神を大切にすると言いながら、そこで、人間が軽んじられる。人間の生活が軽んじられていても、何もしない、しようとしない宗教家の姿でした。
 それに対して、ここで、イエスさまが、お腹がすいたままになっている人間の現実、この現実を決して、小さなこととは考えておられないということです。つまり、そこで何が分かるのでしょうか。
 まことの神は、徹底して人間に関心を持っていて下さると言うことです。体と魂と心を持つ人間、そのすべての部分が健やかで、恵みに満たされることを神が願っておられる、求めていてくださるということです。
 だからこそ、主イエスは、今、この人々を放っておけないのです。この空腹の課題、それは、イエスさまのせいではありません。貧しさの課題は、神が不正義であるからでも、神がいらっしゃらないからでもありません。人間自身の責任のはずです。しかし、主イエスは、ここで、身を乗り出されます。
 第一に、主はここで純粋に、空腹の人々を憐れまれますが、同時に、弟子たちに徹底的にご自身がどのようなお方なのかを、どのようなお心をお持ちなのかをお示しになられるのです。第二に、この奇跡を通して、神の国、天国がすでにここで、力強く始まっている。もはや、誰も否定できないほどまでに、力強く証されるのです。第三に、弟子たちに対して、やがてご自身が父なる神のいらっしゃる天に戻ったとき、弟子たちがどのような奉仕をなすべきか、それを明らかに示しているのです。つまり、教会は、ただ霊的なことだけに特化して人々に仕えるのではなく、人間の必要の全体に奉仕する道を示されたのです。それこそが、私どもが共に学び、共に考え、共に実践しようとするディアコニアの課題、奉仕の課題なのです。

 さて、最後に、私どもの聖餐の礼典のために、与えられたテキストとして、今朝の御言葉を深く味わいましょう。
 イエスが「パンは幾つあるか」と言われると、弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。
 主イエスは、ここでも、5000人の給食のときと同じように、「感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。」
 5000人の給食におけるわたしの説教を今一度、おさらいしておきたいと思います。あのとき、5000人の給食の奇跡は、やがて、世々の教会、2000年の教会が、祝い続ける聖餐の礼典を示す原型になったと申しました。
 ここでも、主イエスは、この山の上でのパンの奇跡において、天国とはどのような場所なのかを示して下さいました。天国のひな型、モデルが示されたのです。天国においては、主イエスさまがまさに主人となられて、私ども神の民に、豊かないのちの食卓がふるまわれるわけです。それは、いのちの喜びの祝宴、祭典に他なりません。天国の食卓、その喜びの祝宴の地上におけるモデルが、このパンの奇跡において明らかにされたのです。そして、それは、後の教会において、まさに礼拝式の度か、もしくは私どものように月に一度か、いずれにしろ、聖餐の礼典において、引き継がれたのです。聖餐の礼典において、この主イエスのもてなしの出来事を、誰よりもこの弟子たち、そして、私どももまた、思い起こすことが許されるのです。
 5000人の給食の説教では、「食べて満腹した」という御言葉にも注目しました。それは、空腹だからと言って我先に、パンを奪い合うようにしたのではなく、お腹をすかせた自分たちどうし、同じ憐れみの心を分かち合うような思いで、少しのパンを分かち合うようにして食べたから、だと申しました。お腹が満たされただけではなく、心も満たされた、それが満腹だと申しました。

 さて、最後の最後に、主イエスは、「父なる神は、人間の衣食住、地上の必要のすべてを軽んじないで、その必要のために、心を配るお方でいらっしゃる」と申しました。まったくその通りです。ですから、わたしどもは、生きて、暮らす中での必要のすべてを、このお方に祈り求めてよいのですし、すべきです。学校のことも会社のことも、家庭のことも将来のことも、健康のこともレジャーのことも、ありとあらゆる人間的な必要について、神に祈り求めてよいし、求めるべきなのです。
 さて、しかし、そこで尽きるものでないことは、言うまでもありません。主イエスが見ておられるのは、羊にとっての羊飼いが全体に必要なように、人間にとって生きる上で、絶対に必要なのは、羊飼いなる神であり、神に導くことのできる人についてのことです。主イエスは、まさにこの山の上にいる群衆を、飼い主のいない羊のように弱り果てているとご覧になられます。だから、何としても、彼らを空腹のままで、それは、単に、肉体の空腹にとどまらず、人生の空腹、つまり、空しい生き方、空しい人生、つまり、生きるまことの目標を見失い、意味を見失っている人々に、そのようにして、弱り切っている人間を満たすために来られたのです。
 そのために、主イエスは、何をなさろうとしたのでしょうか。何をなさったのでしょうか。主イエスは、この奇跡を起こされた後、十字架へと赴かれます。そこで、ご自身の肉体を裂かれます。そのようにして、彼らの空腹、空しさの本当の原因である、神との交わりの喪失、命の源とのかかわりの遮断、つまり罪の問題を処理なさるのです。罪の赦しを与えるために、彼らの罪を十字架で償われるのです。そして、主イエスは、三日目に死人の中からお甦りになられます。
 聖餐の礼典とは、私どもに、主イエスご自身のいのちがふるまわれることです。「これはあなたがたのために裂かれたわたしの体である。これは、あなたがたのために流すわたしの血でたてられた新しい契約である。皆、この杯から飲め。」主イエスが制定された御言葉です。主イエスは、人間が地上にあって生きる上で、食べ飲むことが絶対に必要であるように、霊的ないのちを養い、まことのいのち、神から与えられる永遠のいのちを養われるためには、このパンと葡萄酒とが、絶対に必要だと、そしてそのパンと葡萄酒とは、主イエス・キリストご自身に他ならないことを、私どもに宣言なさるのです。もし、この聖餐の食卓にあずかれないのなら、それは、主イエスにとって、大変なことになるのです。かわいそうに思っておられます。はらわたちぎれる思いの中で、聖餐の食卓にあずかれない人々をご覧になられているはずです。
 したがって、今朝、既に洗礼を受け、キリスト者として、教会員として生きている者たちにとって、この聖餐の食卓に連なることができることは、最高の喜び、幸福、栄誉、特権、祝福なのです。
 そのことが分かった方は、洗礼を受けたくなります。洗礼を受けなければ、この食卓にあずかれないからです。今、その日を目指して求道していらっしゃる友がいます。学び会を続けています。洗礼を受けて、教会員とされるその時までは、あずかれません。それなら、その友は、キリストの恵みから、さえぎられているのでしょうか。まったく違います。既に、主イエスを信じる信仰が与えられていらっしゃって、祈祷会にも出席されています。けれども、教会の学びと訓練の中で、その時を待ち望んでおられるのです。その意味で、すでに、キリストに結びあわされた私どもの仲間なのです。
 これ以上のことは、また、別の機会に学ぶことができるでしょう。いずれにしろ、主イエスが、私どもをどれほど愛しておられるのか、そのことを、今朝、改めて心に刻みたいと願います。

 マタイによる福音書は、山の上で、主イエスによる癒しのみ業を見た人々が、驚くだけではなく、「イスラエルの神を賛美した。」と記しました。これが大切なのです。私どもは、彼ら以上の祝福と幸いに招かれているのです。教会の礼拝式とは、とりわけ聖餐の祝いとは、目には見えませんが、ここに、聖霊によって主イエス・キリストが共にいて下さる場所であるときです。聖餐の礼典にあずかるとは、私どもと共にいてくださるイエスさまを、キリストとして、救い主として受け入れ、賛美する行為なのです。そして、まさに天国が、この教会の上に、この教会において、始まっていることを、心から感謝する行為なのです。
 あの山の上で、人生のさまざまな悩みや苦しみ、悲しみや嘆き、生きることの諦めや怒りの中に閉じ込められていた人々でさえ、こう思い返したはずです。「いや、そうではない。自分たちは、イスラエルなのだ。つまり、神さまの民にされているのだ、神は生きておられるのだ。神は、自分たちを顧みて下さった。自分たちは、神に忘れ去られているわけではなかった。むしろ、神を忘れ、真実に信仰に生きることを怠ったのは、私たちであったのだ」そのような喜び、悔い改めの思いの中で、彼らは、「イスラエルの神を賛美した。」のだと思います。
 2000年後の私どももまた、同じです。自分たちのこれまでの考え方、生き方を変えられる場所、時がこの礼拝式、聖餐の礼典なのです。自分は、神に顧みられていた、愛されていたのだ、大丈夫、衣食住もまた、信じて、祈り求めて行けば、道が開かれる。また、与えられている者たちは、それを分かち合うこと、そのように、このとき、決心を新たにさせられるのです。
 神の約束、神の契約はすでにイエス・キリストにおいて成就し、十字架と復活のみわざは既に歴史の中で起こったのです。ですから、一日も早く、悔い改めて、神を信じて、神と共に生きるべきです。もはや何の躊躇もいりません。

 祈祷
 私どもは今、御子イエス・キリストがはじめて下さった天国の地上における最高の現れ、天国のモデルとなる教会の礼拝式に招かれました。主イエスのいのちの御言葉を聴いて礼拝し、あなたの愛のみ心を悟り、今ここで、あなたにどれほど愛され、守られ、またこれからも地上のすべての営みを守られて行くことを再確認することができました。心から感謝致します。どうぞ、今ただちに祝う、聖餐の礼典を祝福して下さい。あなたを賛美し、感謝することができますように。そして、それを、私どもの生活においても、告白させてください。どうぞ、奇跡を体験した弟子たちがなお怠惰な思い、不熱心な思いで、群衆を冷たく見てしまったように、私どもの心が冷たくなりませんように。アーメン。