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天国の鍵を行使する教会

天国の鍵を行使する教会」 2011年8月7日
テキスト マタイによる福音書 第16章13~20節 ③

【 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
弟子たちは言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。】
 

 本日も、私どもの信仰にとって極めて重要なテキスト、名古屋岩の上教会にとってはとりわけ自分たちの教会の名称の根拠となっているテキストから御言葉を学んで礼拝を捧げます。本日で、三回目、最後の説教となります。

 いったい教会とは何か。もし、キリスト者が、教会とは何であるのかという、このことがしっかりと定まらなければ、地上にあって生きる、その方向性を見失ってしまいます。せっかく、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、神の子とされたのに、自分は何のために救われたのか。今、ここで何をするために生かされているのか。信じたわたしは、どう生きるべきなのか。これらのもっとも基本的、根本的なことが不明瞭になったままになってしまいます。

主イエスは、弟子たちに、ご自身をどのように考えているのかをお尋ねになられました。ペトロは、真っ先に、こう告白しました。「イエスさまあなたは、キリストです。生きておられる神の御子でいらっしゃいます」
すると主イエスは、喜びにあふれて仰います。「ヨハネの息子のシモンよ、あなたは幸いな人だ。何故なら、あなたの上に今、天国が開かれているからだ。あなたは、神の国、つまり、神の義と平和と喜びが支配する永遠の国を受け継ぐことができる人間なのだよ。本当に、あなたたちは、この上なく幸いな人だ。」
それなら、シモンや弟子たちは、この主のみことばをどのように聴いたのでしょうか。おそらく、夢見心地のようであったかと思います。「そうか、このわたしは、天国を受け継ぐ人なのか。嬉しいなぁ。」
しかし主イエスは、さらに、このように続けておっしゃいます。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」これは、彼らにとって、きわめて不思議なことばではなかったかと思います。
いったい、ペトロはもとより、まわりにいた弟子たちは、この主イエスのこの御言葉をどのように聞いたのでしょうか。おそらくここでは、夢見心地ではいられなくなると思うのです。彼らは、主のみことばを理解できたのでしょうか。正しく受け止められたのでしょうか。できなかったと思います。そもそも、ペトロにしろ、マタイにしろ、主イエスが教会と仰っても、教会はまさに、そこに誕生していなかったわけで、それが、分かったのは、イエスさまが十字架につけられご復活された後のことです。いへ、そこでもまだ、正確には分かっていませんでした。彼らが、このときのイエスさまの御言葉をしっかり悟ることができたのは、主イエスが天に戻られ、約束の聖霊を注がれたそのときでした。現実に、自分たちがキリストの教会とされて行く、まさにそのところで、このときの主の御言葉がいよいよリアルに、いよいよ確かなものとして思い起こされたはずです。そして、受けとめられて行ったはずです。
マタイによる福音書が書かれたこの時には、彼らは十二分に分かったはずです。何故なら、この時にはすでに教会は、地中海沿岸世界に点在していたからです。帝国の首都ローマにも教会が根付き始めていたのです。さらに、使徒パウロなどは、はるかイスパニア伝道を目指していたのです。つまり、紀元70年頃には、既に、当時の世界の果て、地の果てまで福音の伝道が展開されていたわけです。厳しく恐ろしいほどの迫害の嵐の中、すでに、揺るぎないほどの力強さで教会が拡大していったのです。

 さて、ここで、先週のおさらいを、いくつかしてみたいと思います。主イエスは、ペトロの信仰告白にたいし、こう仰いました。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」つまり、この救いの信仰、ご自身への信仰、その認識は、決してシモンじしんからわき起こったものではないということです。自分の内から起こったのではなくて、外から、天の父なる神から明らかにされた結果なのです。それを、啓示と申します。漢字では、啓(ひら)き示すと書きます。隠れていたものが明らかにされる。閉ざされ、隠されていた事柄がオープンにされるという意味です。今や遂に、天のお父さまは、イエスさまがどなたでいらっしゃるのか、その本質の部分、真実のお姿が、弟子たちに明らかに示された。現わされたわけです。だから、ペトロは、信仰を表明できたわけです。ここに、キリスト教信仰のまさに真髄があります。信仰は徹底的に神から来ると言う真理です。イエスさまをキリストと信じる信仰、救いの信仰、神の子とされる信仰とは、天のお父さまによって、聖霊を注がれることによって与えられるものだという真理です。だから、奇跡、だから尊い、だから揺るぎなきものなのです。
次のおさらいです。主は、ただちに、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」と宣言されます。主イエスは、こう力を込めて強調されました。「わたしは、わたしの教会を、わたし自身が建てるのだ」しかもその教会には、ペトロが必要とされます。ペトロが不可欠とされるのです。これもおさらいですが、ここでキリストの教会が建てあげられて行くためには、当然ながら、ペトロ一人が用いられるわけではありません。12人の弟子たちだけでもありません。イエスを、「キリスト、神の子、救い主」と告白するすべての会員、キリスト者が教会とされて行くのです。ひとり一人のキリスト者は、キリストの体なる教会を構成する部分、神の家を建てるその一つの生きた石とされて、教会として建てあげられて行くのです。
さらに、おさらいします。ここでの、「この岩」とは、イエスさまをキリストと告白するその告白そのもの、信条を意味します。今朝も、私どもはニカヤ信条を告白しました。どれほど、この信条が教会にとって大切であるか、おわかりいただけるのではないかと思います。この信条を礼拝式で、しかも説教の前に告白するということの意味について、あらためてここで確認しておくことも大切かと思います。
ごく簡単に申しますと、ニカヤ信条を受け継ぐ教会のことを、まことの教会と申します。ここで告白された聖書の教えをアーメンと告白する教会であれば、まず、安心してキリストの教会であると認めることができます。何故なら、ここに明らかにした信仰こそ、世界中の、歴史をまたいで存在する全教会が唯一、一致して受け入れている信条だからです。
わたしは、この信条に規範されて説教を語ります。教会員の皆さまは、この信条に即して説教者が説教しているかどうかを、判定する責任があるのです。説教者と皆さまは、そして皆さま同士もまた、このニカヤ信条によって、キリストにある一致、その絆を客観的に確認することができるのです。ですから、毎回、喜びと感謝をこめてニカヤ信条をもって神を賛美し、信仰を告白し、主イエスとの絆を、お互いの絆を喜びあうのです。
最後のおさらいです。何よりも大切な真理は、「この岩」とは、キリストご自身を意味します。つまり、先週の説教で、この岩には、まさに折り重なるように深い意味が込められていることが明らかにされたわけです。
さて、しかし実は先週は、この一つのことは、はっきりと語りませんでした。一言で申しますと、「この岩」とは「聖書そのもの」をも意味すると考えられます。先ほど、父なる神さまが、ペトロにイエスさまを明らかに示された出来事を「啓示」と言うと学びました。それなら私どもは今、この天のお父さまからの啓示を、神の啓示をどこで見ることができるのでしょうか。改革派は、それを明瞭に発音しました。それこそが、聖書です。私どもは、主の日の度ごとに、聖書の朗読と何よりも聖書を説き明かす説教を聴くことによって神さまとここで出会い、礼拝しているわけです。この意味でこそ、教会の岩、土台とは、イエス・キリストご自身だということも、いよいよ説得力を増すのです。なぜなら、私どもの主イエス・キリストこそ、神の生ける言葉そのものなるお方でいらっしゃるからです。「初めに言葉があった、言葉は神であった」とヨハネによる福音書の冒頭にあるとおり、イエスさまこそ、言葉なる神さまでいらっしゃるからです。
本当は、ここでさらに掘り下げて考えるべきだと思います。今週の夜の祈祷会で、丁寧に、教会と聖書との関係について、教会と聖書と信条との関係について、さらに教会と聖書と信条と説教の生命的な相互関係について、ご一緒に、ホワイトボードを使って、学びたいと考えています。

 さて、主イエスは、そのような教会の姿をこう明らかにされます。「陰府の力もこれに対抗できない。」陰府とは何でしょうか。天国の反対です。地獄とほとんど同じことです。しかし、ここで主イエスが意図された事柄をはっきりと発音すれば、死の力となると思います。死こそは、人間にとって究極の敵です。人類は、この究極の敵の前に、飲み込まれて行きました。これに抗えた人は、誰もいません。つまり、地上にあってもっとも恐ろしい力をもつ存在ということです。しかし、教会は、この死の力ですら対抗できないのです。このことについて話を始めれば、教会の歴史をひもとけば、何日かかっても語りつくすことなど不可能です。日本におけるキリシタン迫害の歴史、いへ、それより先ず、マタイによる福音書が生み出された当時の迫害の歴史を顧みるだけで、十分すぎます。まさに、ローマ帝国から、ユダヤ教社会から、地上に存在する場所がないくらいに、激しく厳しい迫害を受けていたのです。しかし、ローマ帝国は消え去りましたが、結局、教会はこの地上に、かつてのローマ帝国の広がりをはるかに凌駕するほど、世界中に広がっています。権力者は、意に添わないキリスト者を殺しました。
彼らの武器は、剣でした。武器でした。死に至らせる拷問でした。しかし、歴史は証言します。教会に対抗できなかったのです。何故でしょうか。それは、キリスト者になる人は特別、勇猛果敢な人だからでしょうか。違うと思います。違います。教会は、キリストご自身の教会でだからです。つまり、真実に戦って下さるのは、キリストご自身だからです。そして、このキリストとは誰でしょうか。「ヨナのしるし」のことはすでに学びました。十字架で殺された救い主です。死の力に飲み込まれたお方です。しかし、死の力は、主イエスを吐き出さずにおれませんでした。陰府に留められないのです。イエスさまが神さまだからです。永遠のいのちそのもののお方だからです。主イエスは、墓に葬られて三日目にご復活されました。父なる神が、御子を死人たちの中から甦らされました。この十字架で私どもの罪を償うために死なれたキリストの上に立つ教会、この復活者キリストの上に立つ私どもは、私どもに備わった力によってではなく、この上からの力、天からの力によって、立つことができるのです。
私どもは、地上にあっては、まことに弱い存在です。葦のように折れやすい存在です。ひとり一人を思えば、その弱さはさらに深刻かもしれません。人生は、常に、思いもかけないことが起こってまいります。まさかこの私に、この私がということも、一度ならず経験するのかもしれません。しかし、私どもはキリストの教会の会員なのです。教会のメンバーです。ひとりのペトロでもあるのです。キリストの体の一部分ということです。今朝は、このテキストからの説教だけではなく、聖餐の礼典を祝います。キリストの体を意味する、あらわすパンを食べるのです。そのようにして、あらためてキリストと一つの交わりに生かされている人間、自分の心も魂も、いへ、体全体がキリストの体へと結合させられ、そのようにして兄弟姉妹たちとキリストの体において一つの交わりに生かされていることをあらためて示して頂けるのです。

最後に、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」を学びましょう。この御言葉は、後で第18章18節でも、同じ意味のことが語られますので、むしろ、その時に集中して語りたいと思います。教会には、「天の国の鍵」が主イエス・キリストによって授けられたというのです。死の力であっても対抗することができないのは、教会にこの天国の鍵が授けられているからでもあるわけです。
皆さまは天国の鍵と言われて、どのようなイメージを抱かれるでしょうか。おそらく、皆さんは、今もカバンかポケットの中に何かの鍵をお持ちでいらっしゃるかと思います。その鍵を鍵穴に差し込んで右に回す、そうするとドアがひらく、エンジンがかかるわけです。最近の車は、鍵に相当するモノを身につけて車に近づくだけで、施錠されていたドアが開くようです。セキュリティーの厳しい建物や大学の図書館などでは、カードを利用して入館させるようです。21世紀の人間にとって、鍵のイメージは、鍵穴に差し込むキイーではなくなって行くのかもしれません。
主イエスの当時、ユダヤ社会の鍵とは、どのようなものだったのでしょうか。専門家によれば、それは、今日の鍵ではなかったようです。今で言う、チェーンロックのようなものだそうです。鎖をもって扉を繋ぎとめるわけです。それをはずすと、扉が開放されるわけです。わたし自身、よく分からない部分もありますが、鍵を差し込んで開くというとき、そこでは、鍵を持っている人は、外にいます。しかし、鎖でロックしている場合には、すでに、部屋の中、家の中にいるイメージです。ここで、主イエスが用いられた鍵、当時の鍵のイメージから言えば、それを絶対化する必要はないと思いますが、しかし、教会は、すでに天国の中にあるわけです。教会が天国を開いて見せることのできる鍵を持っているというよりは、すでに教会は天国の中に入っていて、その教会が、まさに地上にある教会がその門にかけていたチェーンロックを外すと、開かれるのです。天国が開かれて、永遠の命が与えられ、神との究極の交わりが始まるということです。
私ども日本キリスト改革派教会は、創立60周年宣言で終末の希望についての信仰を告白しました。その中で、わたし自身とても大切にしたい言葉の一つは、教会のことを、天国の地上における最高の現れと表現したことです。天国は、教会において始まっています。教会において、天国が最高度の仕方で地上に表されたのです。教会はいうまでもなく、天国そのもの、神の国そのものではございません。しかし、主イエス・キリストが地上に建てあげて下さった教会、建てあげ続けていて下さる教会は、キリストがご臨在くださり、神の霊が宿っています。まさに、天と教会とはつながっているのです。今ここで礼拝式を捧げていますが、それは、天上で栄光の礼拝が今行われているということが根拠になっています。天の礼拝こそ、完全な礼拝、喜びと美しさと、楽しさと感動とが満ち満ちています。そして、神は、天の窓を開いて、地上の教会の私どもにその栄光を、今、垣間見せて下さいます。その天の礼拝をどれだけ反映できるのか、映し出すその量によって、教会の礼拝の素晴らしさが決まります。

 地上でつなぐ、解くそれは、誰に洗礼を授けるのかということにおいて、決定的に行使されます。教会のなす決定、決断のなかでも最高度に重要な決定です。ちなみに、だからこそ、教会設立を急がなければなりません。この決定を、今なお、私一人で、教会会議、それを小会と言いますが、小会なしに、決定するのです。それが、聖書の教会の姿から言えば、どれほど、残念な状態であるかを思うのです。
教会が解く、つまりロックをはずすなら、天上へでもその人は入国できるということです。地上にあって、これほどの権威は、誰も持っていません。いかなる権力者であっても、この権威を帯びた人、与えられている人は誰もいません。しかし、父なる神は、主イエス・キリストによって教会にこの権威、権能を授けて下さいました。だから、 教会こそ究極の権威を受けたものなのです。
わたしは、ノアの箱舟を思い起こします。神が大洪水によって、神の正義をもってこの地を新しくされたとき、ノアに箱舟を造らせられました。そして、そこにすべての動物を入れられました。そして、その最後に、創世記はこう記しています。「神が命じられたとおりに、すべての肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」このとき、ノアは自分で戸を開いたり、閉じたりはできません。その権威、その決定は、神のみがなさったのです。
ところが、はるかに歴史が下って、私どもの教会に対して、神は、天国の鍵は、あなたがたに授けると、この権能の行使を、私どもにお授けになられたのです。ただし本当は、丁寧に、申さなければなりませんが、暇がありません。ざっくりと申しますと、私ども改革教会は、この権能を長老が行使する、代行すると理解しています。
ローマ・カトリック教会は、究極的には教皇がこれを行使します。そして、各地にいる教皇を支える司教と呼ばれる高い位の聖職者たちがこれを行使します。ローマ・カトリック教会で、一般の司祭が洗礼を施します。しかし、その洗礼は、司教様の代理として授けているのです。ついでに申しますと、洗礼を受けた方々は、司教さまの祝福を受けた後で、洗礼は完成されると言うのです。
プロテスタント教会の中には、全会員がこれを決定し、行使すると主張する教会もあります。それに対して、私どもは、長老たちの会議がこれを執行すると理解するのです。そこに長老主義教会が成り立つのです。洗礼を施す主体を問うとき、地上の教会の政治の在り方、つまり教派が生じるわけです。

さて、いずれにしろ、今や、神は、主イエス・キリストによって、誰かのために、天国を開き、閉ざす使命を授けたもうたのです。他ならない罪人の集い、赦された罪人である私ども教会に、この使命を託されたのです。
地上にあって、これ以上の権威もなく、これ以上に大切な仕事もなく、これ以上に光栄ある務めがいったいどこにあるのでしょうか。そして、私どもがこの使命の重みを理解したら、震え慄くのではないでしょうか。しかし、ここから逃げ出してはなりません。むしろ、喜んで担うべきです。そして、そのように立ちあがるキリスト者は、おそらくこう考えるはずです。「よし、間違いなくこの鍵の権威、洗礼を施せるようになろう。そのために、いよいよ、神の御言葉、聖書の教え、使徒の教え、教理を学び、身につけよう。」つまり、徹底して御言葉を学ぶ教会、キリスト者になるべく促されるはずです。もうひとつの動きも同時に促されるはずです。それは、徹底して外向きのものです。つまり、「よし、一人でも多くの人に、天国に入ってもらおう、入って頂けるようにお招きしよう」と、促されるはずです。つまり、伝道に生きる教会へ、伝道するキリスト者になることへと促されるはずです。

 今、教会に与えられたこの権威に基づいて、私どもはただちに聖餐を祝います。私が司式、挙行致します。委員が配さん奉仕されます。現住陪餐会員と他の教会の会員の方も共に、私どもは、今まさに天国の内にいるのだということがここでこそ、明らかにされます。そのことを自覚することこそ、聖餐にあずかる者に求められている「ふさわしさ」なのです。この天国の喜び、天国の愛、天国の平和、天国の幸いを味わいましょう。そして、そこから立ちあがって、御言葉を学び身につける方向性、ここから出て行って人々をここへと招き入れる方向性、この二つの方向性、しかし結局は、一つの方向性、つまり、神の栄光を表すこと、神に従う方向性へと進みたいのです。

祈祷
 教会の頭にして、まことの土台なる主イエス・キリストよ、あなたが、私どもにあなたご自身の権威に他ならない、鍵の権威を授けられました。どうぞ、この権威にふさわしい教会としていよいよ、私どもの教会を形成してください。同時に、この権威を大胆に行使することに励む教会として下さい。伝道にいそしむ会員ひとりひとりとしてください。家族のために、用いて下さい。私ども一人一人に、弱さがあり、課題があり、壁のように立ちふさがる困難もあります。しかし、今朝、あらためてあなたを見上げます。黄泉の力、死の力も対抗できないあなたの力の現実を、はっきりと見て、確信させてください。そして、いよいよ雄々しく歩ませて下さい。アーメン