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イエス、人間が聴き信頼し服従すべき唯一の言葉

「イエス、人間が聴き信頼し服従すべき唯一の言葉」

テキスト マタイによる福音書 第17章1~8節
2011年9月11日

【六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。
すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。」】

今日も、愛する皆さまと共に、主の日の礼拝式を捧げられることがゆるされました幸いを心から神に感謝いたします。なお健康の不安を抱えていらっしゃるかもしれませんが、ここに来るだけの健康が支えられております。様々な多くの仕事や用事を抱え、何よりも課題、難問を抱えながら、しかし、今朝、共に礼拝式を捧げることができますことの恵みを、お互いに深く覚えたいと思います。全力を尽くして、主を愛し、礼拝を捧げる皆さまの上に、主の恵みと平和が豊かにございますように。

この夏、私は、あらためて一つの書物、論文集を読みました。東北大学の政治学の教授であられた宮田光雄先生の「十字架とハーケンクロイツ」です。反ナチ教会闘争の思想史的研究と副題がつけられています。ナチスドイツの時代における教会の姿を研究した優れた成果が450ページにわたって記されています。
何故、あらためてこの書物を丁寧に読んだのか、それは、20世紀が生んだ、最高の信仰告白と称されるいわゆる「バルメン宣言」、正式の名称は、「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」について確認をする必要のためでした。このバルメン宣言については、いつか皆さまとも、ご一緒に学んでみることができたら、どれほどすばらしい学びができるかと思っています。
バルメン宣言は、六つのテーゼをもつ、ごく短い宣言です。その中で、やはりもっとも有名なのは、第一のテーゼだろうと思います。暗唱できたら、どれほど信仰の大きな力になるだろうかと思います。
「聖書においてわれわれに証されているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」
今朝の説教題は、余りに長いものになりましたが、このバルメン宣言の第一テーゼをそのまま用いているからです。しかし、何よりも、今朝のテキストこそ、その音源そのものとなっています。それは、この御声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。」
さて、ここで、天からの声が聴こえたのです。つまり、父なる神ご自身が、実にダイレクトに御言葉を語られたというのです。これは、まさに異例中の異例のことです。驚くべき出来事と言わざるをえません。
おそらく皆さまは、この父なる神の御声を聴き覚えておられるかと思います。マタイによる福音書第3章で、主イエスが洗礼をお受けになられたときです。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。」
今朝のテキスト、ここで、主イエスの地上のご生涯のなかで、特別のことが起こったということが分かると思います。主イエスの洗礼に匹敵する節目になる出来事です。そして、ここでも先ず、しっかり覚えておきたいことは、これらのすべては、イエスさまご自身のため、ご本人のための出来事であるというより、私どものための出来事に他ならないのだということです。主イエスがお受けになられたあのヨハネからの洗礼も、今朝聴きました、この光輝く栄光のお姿に変貌、変容されたことも、それらすべては、私どもの救いのためなのです。私どもの信仰を養い、励ます、そのために他なりません。

ここでは、三人の弟子たちだけが、立ち合うことが許されました。何故、三人なのか、それは、またいつか触れることがあると思いますが、ペトロが選ばれた理由は、簡単かもしれません。何故なら、この出来事の一週間前、彼は、主イエスから信仰を問われました。そして、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えているからです。そして同時に、その主イエスが十字架につけられることを、徹底して否定したからです。だからこそ、主イエスは、愛する弟子のペトロにご自身の本当の姿を垣間見せられた、そのように理解できるものと思います。しかし、その真のメシアでいらしゃり、神の栄光そのものでいらっしゃり、神の御子に他ならないこのイエスさまが、しかし、どうしてもその栄光の輝きをお捨てにならなければならない事実を示されるためなのです。この栄光のキリストが、貧しくへりくだられ、十字架にまでへりくだることがなければ、ペトロの救いはおろか、人類を罪から救いだすこと、魂の救い、永遠のいのちを与えることができないことを主イエスは、ここでペトロに明らかに示された、どうしても示してあげたかったのだと思います。
そしてそれは、今ここで礼拝を捧げる私どもの為でもあります。ニカヤ信条で賛美している通り、主イエスは、「光よりの光」でいらっしゃいます。「まことの神よりのまことの神」でいらっしゃいます。礼拝式で、このニカヤ信条の賛美の言葉をたたえるたびに、この礼拝堂に天からの光が射し込んで来る。わたしは、そのように思っています。時に、そのような体験すらここで与えられる、そのような思いがしています。そのような光なるイエスさまの栄光の輝きを、今朝は、ニカヤ信条によってだけではなく、この御言葉によって、その天からの光の輝きをいよいよ覚えることができる、できたら幸いです。

主イエスは、私どもに、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」とお招きくださいます。この主イエスが語られた御言葉を聴いた一週間後、この山の上での体験があります。私は、ここにも主イエスの恵みふかさ、憐れみ深さを思います。私どもは、天から、つまり天の父なる神さまから、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」とのご命令を受けることによって、「そうだ、やっぱり、イエスさまのご命令、御言葉、招きに従おう。そうだ、自分の十字架を担って歩む以外に生きる道はない。いのちに至る道を進むことはできないのだ。」と、確信と勇気と喜びが沸き起こるのです。

先ほどご紹介いたしましたバルメン宣言の第一テーゼをもう一度思います。「聖書においてわれわれに証されているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。」
ここでは、聖書とは、イエス・キリストを証する文書であること。この聖書において証されているイエスさまだけが、唯一の神の御言葉だと言うのです。そして、この御言葉は、聖書を通して、今も豊かに語り続けておられるのです。したがって、キリスト者とは、このイエスさまの御言葉に、生きるにしろ死ぬにしろ、ただ信頼し、服従する者のことを意味します。私どもの信仰とは、単純なことです。信仰生活は、ごく単純素朴です。要するに、神の唯一の言葉、人となられた神の言葉でいらっしゃる主イエスに従うことです。
したがって、私どもが信仰の生活を送るとき、単純素朴にこう祈り、願うのみです。「そのようなイエスさまを、もっともっと確かに知りたい。信じたい。」それなら、私どもは、いつ、どこで、どのようにして、このイエスさまを正しく深く知ることができるのでしょうか。
それは、イエスさまの本当のお姿を見るときです。イエスさまのお姿を見ることによってです。
ここで、主イエスは、山に登られます。何のためでしょうか。祈りをするためです。ルカによる福音書によれば、主イエスは、しばしば、ただお一人、弟子たちからも離れて、父なる神と交わりをなすために祈られたのです。高い山とは、特別の場所です。主イエスと天のお父さまとの、言わば秘密の場所とでも言い得るかもしれません。祈りとは、父なる神との交わりの手段です。神と言葉を通して交わりをなす、絆を深く結ぶ愛の行為です。神の御声を聴いて、それに言葉をもってお応えするのが祈りです。その意味では、祈りとは、大変、プライベートな行為であるとも言えるのです。
確かに教会では、皆さんと共に祈りを捧げます。その意味では、公的な祈りであり、共同体の祈りになります。しかし、キリスト教の言わば特質だとも言えるでしょう。キリスト者は、隠れところにおられる天の父なる神さまに祈るのです。それは、イスラームのように、何時になったら、どんな場所でも祈るという掟は、キリスト教にはありません。むしろ、基本的には、祈りは、ひそやかなものだと思います。繰り返しますが、誰よりもまた主イエスご自身が隠れた祈りをなさっていらっしゃったのです。
しかし今、三人だけでしたが、彼らがそのプライベートな場所に、天のお父さまと二人きりになるその場所へと呼び出されたのです。なんと、うらやましく、なんとすばらしいことでしょうか。いったいどうして、何故、そのようなことをなさったのでしょうか。それは、彼らもまたついに、神の御子を信じた故に、神の子とされたからです。つまり、神の御子なるイエスさまの弟たちだからこそ、ここに招待されているのです。

さて、そこで考えましょう。この高い山、その特別の場所に招き入れられる、いったいこれは、何を意味するのでしょうか。ここでもまた、私がいつも申し上げている通りのことを、改めて覚えて頂きたいのです。
この驚くべき出来事は、申し上げるまでもなく、歴史上、ただ一度かぎりのことです。しかし、単純にそう言いきることもできません。なぜならこの驚くべき出来事は、繰り返され続ける体験でもあるからなのです。
つまり、聖書に記された神の救いの物語、出来事は、常に、今ここに生きる私どもに繰り返されるのです。聖書は、単に、昔の記録ではありません。この記録文書を通して、そこからイエスさまが、父なる神が、絶えず、繰り返して語りかけて下さるのです。言わばスピーカーのようなものです。いったいどういうことなのでしょうか。

ここで、エリヤとモーセが登場します。この二人が主イエスと話し合っている光景を目撃します。まさにすごい光景です。何故なら、モーセは、エジプトからイスラエルの民を脱出させたイスラエル民族の偉大な信仰者、ヒーローです。何よりもイスラエルの人々は、このモーセが、旧約聖書の律法の書を書いたのだと考えているのです。
さらに、エリヤとは、誰でしょうか。14節で出て来たばかりです。エリヤは、モーセの次に偉大な神さまの預言者だと考えられていた人なのです。バアルの預言者たちとひとり戦って、勝利した英雄です。メシアとは、エリヤの再来だと、当時のイスラエルの人々は誰しも考えていた、そのようなヒーローなのです。
つまり、マタイによる福音書は、読者に、この二人がここで登場したことの意味を悟ってもらいたいのです。つまり、この二人とは、旧約聖書の代表を意味します。旧約聖書は、ごくごく大きく分ければ、第一に、律法の書、最初の五つの書、いにしえからモーセ五書と言われたこの部分と、イザヤ、エレミヤなどのいくつもの預言書、この二つから成り立つのです。つまり、この二人がイエスさまがお話をしているということ、それこそがまさに、旧約聖書のまことの主人公は、このイエスさまでいらっしゃるのだということ、それこそが、ここで明らかにされたと言う意味なのです。つまり、旧約聖書と新約聖書を貫いて、まことの主人公は、このイエスさまでいらっしゃるということです。結局、私どもが聖書を読む、そこから神の御言葉を聴きとって、従うということは、このイエスさまの御言葉、いへ、イエスさまそのものにお従いするということに他ならないということが分かるのです。

さて、この時、またもペトロが、ここで口をはさみます。割り込んで来ます。とても、感動したからでしょう。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
仮小屋とは、テントのことです。これは、かつてイスラエルが荒れ野を旅したとき十戒の石の板を入れる箱を安置するために幕屋を設けました。この幕屋が、言わば、エルサレム神殿以前の神殿礼拝の場所となりました。

ペトロは、興奮してこの幕屋を建てると申し出ます。確かに、その気持ちは分かります。しかし、モーセとエリヤのためにも建てるというのは、私どもには、かなり違和感があります。何故なら、彼らは人間に過ぎないからです。そのようなことは不必要であり、厳しく指摘すれば、偶像礼拝になりかねません。
ここで、マタイによる福音書の直接のメッセージからは、離れますが、しかし、こう考えます。ここには、ペトロとヤコブとヨハネが登場いたします。この三人は、今でもなおユダヤ人にとっては、モーセやエリヤに比べることもできないほどのただの人間、無名の人でしかありません。しかし、キリスト者にとっては、違います。初代教会のまさに土台となった人々、キリストの使徒なのです。彼らは、自分たちが、すばらしい光景と思っていますが、本当の事を言えば、モーセやエリヤよりもっとすばらしいのは、自分たちであるはずです。何故なら、自分たちはこのキリストの弟子とされたからです。直弟子です。確かに人間的に言えば、能力の面から言えば、エリヤやモーセにはるかに劣るかもしれません。しかし、彼らは、ただ、キリストの直弟子となったということ、使徒とされたことによって、エリヤもモーセも、はるかに及ばないほど光栄な器とされたのです。いったい、すばらしいのは、どっちの方なのでしょうか。

さて今、キリストの弟子とされている私どもは、ここで、何をしているのでしょうか。主イエス・キリストを通して、聖霊によって父なる神を礼拝しているのです。信仰の眼で私どもの現実を捉えるとき、いつも、見えて来るのです。今朝、私どもは主イエス・キリストによって、ここに連れて来ていただいたという事実です。父なる神が、「わたしの愛する子よ」と名前を呼んで、お招きくださったという事実です。あの三人の選ばれた弟子たちのように、山の上ではありませんが、主イエスが、ここ名古屋岩の上教会に連れてきて下さったのです。つまり、主イエスは今朝、私どもをこの素晴らしい秘密の場所、救いの場所恵みと光溢れる教会にご招待下さったということに他なりません。

ペトロが、仮小屋の話をしている途中、まさに、父なる神が、彼の話に口を挟まれます。「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。」
これは、父なる神が、ペトロの話を遮られたと理解できます。私は、ここに、神さまのユーモアすら感じます。「そんなことを言うものではないのだよ。そのような必要はないのだよ」と、否定されたと理解します。「光り輝く雲が彼らを覆った。」聖書によれば、雲とは、神の臨在のしるしなのです。神さまのご臨在が示されます。そこで、こう続きます。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。」 そもそも、聖書によれば、神を直接見た者は、滅びるという理解があります。これは預言者イザヤの言葉にもあります。第6章です。預言者イザヤが、神殿において神さまの衣を見る体験をするのです。そこには、天使がいて、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」という賛美の声を聴きます。そのとき、彼はこう叫ぶのです。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
 人間が、まことの神を、聖なる神を知るとき、同時に、自分自身の真実の姿をも知ることになります。つまり、聖なる神の御前に出るとき、人は、自分の汚れ、罪深さをまざまざと知らされる以外にないのです。そこで、ひれ伏すしかない。顔を挙げることもできないのです。わたしは滅ぼされる、災いだと叫ぶしかないほどの、厳かな体験なのです。

しかし、このとき、あのイザヤが体験した以上の体験を、彼らは与えられたのです。そして、主イエスは、そこで彼らにどのようなことをなさったのでしょうか。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。」主イエスは、近づいて、手を触れて、このように語って下さったのです。
「ほら、本当に、わたしの姿、本質を知ったなら、お前たちは、わたしに意見をしたり、文句を言ったりできないはずだ。ペトロ、お前がわたしに、いさめたあの一週間前のこと、思い出してごらん。今、わたしが本当に誰であるのか、見てしまった時、お前は、倒れるだけだろう。しかし、愛するペトロよ、さあ、起きあがりなさい。恐れることはなのだ。あなたもまた、わたしの十字架の死によって、罪赦され、神の子とされるのだ」
ここに、十字架に赴くイエスさまのお姿が、見事に現わされています。へりくだるイエスさまです。本当は、天の王位、王子なのですが、今や、十字架につく。誰よりも苦しむ。へりくだる。だから、ペトロもそして私どもじしんも主イエスを信じることができたのです。こんなにも親しく主イエスに近づき、今仰ぎ見ることができるのです。こうして、ここで主イエスの真実の姿を礼拝し、私どもの真実の姿も、罪深い人間でしかないそのあるがままの姿をあらわにされながら、しかし同時に、その罪を赦され、神に愛されている神の子としての自分の姿をも受け入れることができるのです。主イエスは、今、私どもに近づき、受け入れ、御手を触れて、愛して、離したまわないのです。

ペトロたちは、あの時、主イエスの王としての真実のお姿を、ほんの一瞬しか見れませんでした。垣間見ただけです。しかし、それで十分です。
私どもはこの半年、それまでほとんど聞いたことのなかったベクレルとかシーベルトという言葉を毎日耳にしています。放射線の量をはかる単位です。放射能は、まったく目に見えません。手で触れません。臭いもなければ、色もありません。しかし、防護服を着ないで、福島第一原発の付近で暮らしたり、あるいは原発内部に立ち入るなら、確実に死にます。死に至る病にかかります。放射線は、目に見えないから、大丈夫だと考える人はおりません。
私どもは、今ここで、神の言葉によって、このへりくだったお姿のイエスさまそしてご復活され、天に戻られた栄光のイエスさまのお姿を垣間見ること、仰ぎ見ることが許されています。私どもは、決して、毎主日ここでそのようなおどろくべき経験、恵みの体験を繰り返し与えられていることに無自覚であってはなりません。ニカヤ信条で、繰り返し、「光よりの光」と唱えるのは、この信条が、主の日の礼拝式で出席者たちが共通の光の体験を重ねて来たからなのです。
そして、それは、ひとり家で、自分の部屋で聖書を読むときにもまた与えられるものでもあります。それは、神の言葉の光です。詩編第119編130節にこうあります。「御言葉が開かれると光が射し出で/無知な者にも理解を与えます。」新改訳聖書では、「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とあります。聖書を祈りつつ読むとき、つまり、「御言葉を理解させてください、従わせて下さい」と祈り求めながら読むとき、聖書の方が戸を開くようにして、そこから光が放たれるのです。そのようにして、私ども自身も照らされて行くのです。暖かな、いのちの光を浴びて、暗闇の道であってもなお、恐れず歩むことができるようになるのです。
礼拝式では、現代の預言者である牧師、説教者を通し、神の民は、神の声を聴きます。しかも今朝は、説教だけではなく、聖餐の食卓においても、いのちのパンをふるまわれます。どうぞ、聖餐の食卓を信仰をもって自覚的に、深く味わい切りましょう。ここは、あの山にもまさって復活され、天に戻られたイエスさまが、聖霊によってご臨在しておられる神の家です。主イエスが、聖霊によって、いのちと愛、祝福と平和をこの食卓において、ひとりひとりにふるまってくださるのです。この地上における最高の幸せにあずかった者として、今週も、それぞれの課題を、日々の務めを真剣に、しかも軽やかに担いつつ、歩み続けてまいりましょう。

 祈祷
主イエス・キリストよ、私どもは生活の中で、うっかりすると人間の声ばかりを聞いてしまいます。人を貶(おとし)め、知らない間に、人間性を劣化させ、死に至らせる偽りの言葉、空しいから騒ぎの言葉ばかりを聞いて過ごしています。また、これこそが真理、これだけが正しいと、いつわりの情報に振り回され、靡(なび)かせられてしまうことすらあります。主イエスよ、あなたこそ、私どもがいついかなるときも聴くべき、信頼すべき、従うべき唯一の御言葉です。天の父よ、あなたは、私どもを生かし、支え、新しくし、あなたの栄光の器、救いの器として用いて下さるお方が、このイエスのみだと、宣言し、これに聴けと厳かにお命じくださいました。そればかりか、御子のすばらしい輝き、いのちの暖かな光を私どもに照らしてくださいました。心から感謝いたします。どうぞ、御言葉に服従する教会として、私どもを用い続けて下さい。御言葉に信頼し続けることによって、人間が聴くべきいのちのことばをお持ちなのは、イエスさまだけでいらっしゃることを、大胆に証させてください。アーメン。