過去の投稿2011年9月14日

9月11日

 ―牧 会 通 信―

★   3:11からちょうど、半年を迎えました。被災地、被災者の悲しみと困窮は、深まりはすれ、軽減しないように思います。とりわけ、フクシマ原発からは、なお、放射能が拡散されています。

☆   先週は、礼拝式後、亘理へのディアコニア奉仕者の報告を短く受けました。事情によって、3名の奉仕者となりましたが、よき奉仕が捧げられました。直前まで、わたしはひとりの方に「今回は、見送られたら・・・」と強く申し上げたのですが・・・。50棟の方々から、物資の依頼をお受けすることができました。これを受け、 すぐに次週、22日~24日にも亘理に向かいます。経済的な負担も、決して軽くはありません。それだけに中身の濃い、奉仕にしたいと願います。そのためには、周到な計画も必要となるかと思います。 祈りを集めましょう。遠隔地からの寄り添い・・・、それは、「祈り」と「お便り」になるでしょう・・・。

★   先週から、朝の祈祷会を再開いたしました。ほぼ全員が出席することができ、心から感謝いたしました。酷暑の8月は、朝の祈祷会を休むことを続けてまいりましたし、これからもそうなろうかと思います。しかし、久しぶりに集まって、心を一つに祈ることができること、しかも、先週の時間の関係で、分団に分かれずに一つのテーブルを囲んで祈っただけに、祈りにおける一致を深く味わい、感謝いたしました。秋は、深まってまいります。私どもは、教会設立を果たし、力強く、教会形成を、教会の使命を果たすべく取り組んでまいりたいと強く神に願い求めます。

★   朝の祈祷会では、8月夜の祈祷会で学んだ、「グリーフケア」についての学びをいたしました。時間の関係で、これらを深めることはできませんでしたが、被災地と被災者をお訪ねする奉仕者だけではなく、キリスト者としての神からの務め、ディアコニア、小さい者として小さくされた人に寄り添うあり方を、そしてそのための確かな知識を得ること、それに加え、何よりも、愛の知恵を祈り求め、身につけることへと、出席者が強く促されたものと思います。25日の読書会の主題を確定していませんが、この学びを深めることは、教会の交わり、伝道のためにも、大切なことと思います。「ディアコニア支援室(ディアコニア委員会)と共同しての読書会」となれれば、最高です。

☆   「グリーフケアのための心得」のレジュメに、「自分の十字架を担うことは、隣人の十字架を担うことを含む・・・」と記しました。主イエス・キリストは、私どもの十字架(罪と罪責)を、あのカルバリの丘で肩代わりしてくださいました。キリスト者は、主イエスの十字架によって救われ、贖われた者です。こうして、私どもは、自分に架せられた十字架を担うことができる者とされました。そして、その自分の十字架とは、隣人の十字架すらも含むものでもあるのです。「自分のことで、いっぱい・いっぱい・・・。いや、自分のことだけでも、よくできもしないこのわたしが、いわんや隣人の苦難、試練、悩みなどまで、どうして担うことなどできるか。できるものか・・・!」そんな気持ちに傾くことが、あるでしょう。しかし、本当に、そうなのでしょうか。それは、真実なのでしょうか。それが現実なのでしょうか。

★   先週は、後藤先生の説教によって、よき礼拝式を捧げることができました。わたしも、生まれて初めて、 名古屋岩の上伝道所においてひとりの礼拝者として礼拝を捧げました。かけがえのない経験となりました。台風の嵐の中ではありましたが、明るさがありました。それは、礼拝堂の蛍光灯のせいだけでは決してありません。確かに、岩の上の礼拝、教会の内実は、いきいきとしているのだと、思わされます。皆さまには、他の教会の礼拝式と比較することなど決してお勧めいたしませんが、明らかなことなのです。(先週、○○兄は、名鉄が台風の影響で、不通となったためお近くの教会に出席されたと、学び会で伺いました。大きな歴史ある教会ですが、大きな違い、差というものを強く覚えさせられたとのことです・・・。)

☆   先週の子どもの教会もまた、大きな喜びでした。よき説教を聴くことができたことはもとより、キャンプに出席した子どもたちが多く集まってくれました。○○姉が葉書を一枚出すことによって、やはり、応答があるわけです。キャンプのつながり、ピカソ、英会話と・・・、これまでのつながりをいかに大切に育てて行くのか、それが地域の子らへの伝道へとつながることでしょう。しかし、思えばわずか数年前、地域の子らの方が、契約の子らより多くいたのです・・・。しかし、今や、契約の子が教師ともなっています。何より、今、わたしだけが説教していた時代は過ぎ、教師方がよき説教をしています。本日は、教師会。今回も、浜松出張のため、出席がかないません。どうぞ、皆さんでお支え下さい。そして、教師、補助者、皆で力を合わせ、信仰告白のため、地域の子らの救いのために、子どもの教会がなお用いられますように。