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神の子としての自由に生きる

「神の子としての自由に生きる」

2011年10月2日
テキスト マタイによる福音書 第17章22~27節

【一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
  一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。
ペトロは、「納めます」と言った。
そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。
「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」
ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。
「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」】

さて、今朝は、朗読したテキストの順序を逆にして、マタイによる福音書だけが記している24節からの出来事から学んでまいります。弟子たちは、カファルナウムに来ました。この場所は、主イエスが、最初に伝道された町です。慣れ親しんだ場所だと思います。
そこに、エルサレム神殿に納めるべき税金の徴収者たちが訪ねて来ました。神殿税とは、ユダヤ人であれば、必ず、納めなければならない税金です。税金というよりは、ユダヤ人であれば、全収入の最低十分の一は、神へと捧げることが常識とされ、御言葉によって定められていました。
福音書には、しばしば罪深い人間の代表、典型的人物として徴税人が登場します。忘れてならないのは、マタイによる福音書の著者マタイその人も、徴税人だったわけです。しかし、この徴税人マタイとは、自分たちの敵国に他ならないローマ帝国に納める税金を徴収したのです。ユダヤ人にとっては、まったく腹立たしく、これほど悲しいものはなかったのです。しかし、神殿税は違います。エルサレム神殿は、ユダヤ人の誇りそのものです。ですから、この税金を拒むとか、嫌がるというのは、基本的にはありえません。これは、その意味では、税金などと呼ぶことは、違っているかもしれません。むしろ献金です。ユダヤ人であれば皆、喜んで捧げたのだと思います。
それなら、神殿税とは、どのくらいの額の献金なのでしょうか。先ほど、聖書によれば、十分の一以上ということを申しました。しかしここで請求された税額は、銀貨一枚です。これは、当時の日当の1週間分ほどのようです。つまり、ここでは、二人分の神殿税が銀貨1枚なのですから、3日分ということになるかもしれません。今の日本で、ざっくり言えば、年間、3万円ほどでしょうか。神殿税は、貧しい人であっても裕福な人であっても、一律3万円のようです。おそらく貧しい人には、厳しいかもしれません。しかし、ユダヤ人にとって、この社会、ユダヤ人共同体を維持することは、いやいやするのではなく、必要なことだったはずです。これを捧げなければユダヤ人社会、共同体を破壊することになるのだろうと思います。

さて今、神殿税を集める祭司たちはペトロのところに来て、こう言います。「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」この問いかけから、逆に考えますと、弟子たちは、神殿税を納めていなかったのかもしれません。少なくとも、今年分は、まだ納めていなかったのでしょう。「まさか、納めないつもりではないでしょうね。きちんと、納めてもらいたいものですね。」そのようなニュアンスを、私どもは感じ取ります。
ペトロは、「これは、まずい」と思ったのではないでしょうか。もしかすると、ペトロは、「イエスさまが殺される」なんておっしゃった、それが、耳に残っていたのでしょう。こんなところで、つまらない、いざこざを起こすなんて何の得にもならない。これは、ミスをした、こちらからエルサレム神殿に出向いて行って、納めておけばよかった、そのように心に思ったかもしれません。
ペトロは、ただちに答えます。「納めます。」そこで、ただちに、家に入ります。これは想像ですが、弟子たちの会計責任者は、イスカリオテのユダでした。この際、ユダに、弟子たち皆の分を、きちんと納めてもらおうと思ったのかもしれません。

ところが、どうでしょう。このことを、傍らでお聞きになっておられたのでしょうか。主イエスの方から、質問されます。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロは、ここでも即答します。「ほかの人々からです」民主主義の国家であれば、税金は誰でも納めなければなりませんが、絶対君主が統治するのであれば、君主、王さまのその家族は、取り立てる側ですから、必要がないのです。また、神殿税においても、祭司じしんは、税を納める義務はありません。ですから、ペトロは、このきわめて簡単な質問に即答します。すると、こんどは、ただちに、主イエスが、お答えになられます。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」この御言葉は、何を意味しているのでしょうか。これは明らかな答えです。ペトロは、主イエスが、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問われて、「あなたは生ける神の子、キリストです。」と信仰を告白しました。主イエスは、それを受け入れ、喜ばれました。当たり前のことですが、主イエスは、正真正銘、神の御子でいらっしゃり、わたしどものキリストでいらっしゃるからです。
しかし、ペトロは、ここで大きな矛盾を犯していることに気づいていないようです。エルサレム神殿は、他ならないこの神の御子イエスさまのお父さま、天の父なる神の家のはずです。神を礼拝する施設のはずです。祭司が神殿税を払わないで済むことと、比べられません。神の御子、神の皇太子でいらっしゃるイエスさまが税金を納めなければならない、いわれは、まったくないはずです。したがって、主イエスが、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」と仰せになられた通りなのです。生きておられる神の御子なるイエスさまが、神殿税を納めるべきいわれは、まったくない、あり得ないことのはずです。
もし、ペトロ自身が、きちんとそのことをわきまえていれば、彼は、祭司たちに、こう答えるべきではなかったでしょうか。「我々の救い主なるイエスさまは、神の御子でいらっしゃいます。ひかえおろう。そのお方に税金を納めよとは、何事ですか。」本当は、このように応えるべき、こたえてよかったはずです。
しかし、ペトロは、ここで、もめたくはなかったのです。弟子のペトロは、ここで、逆風にさらされるのを回避しています。そうして、十字架への道から、イエスさまと自分たちとを回避させようとします。

さて、ここで、この小さな御言葉に注目しましょう。「子供たち」についてです。昔の翻訳では、「子ども」と単数に訳しているものがあります。なるほど、神の御子はイエスさまただお一人ですから、「子ども」で良いのです。しかし、私どもの新共同訳では、「子どもたち」です。そして、実は、多くの翻訳聖書では、ここは、子どもたちと複数に訳しているのです。
それなら、この「子どもたち」とは誰でしょうか。それは、主イエスを信じる者たちのことです。つまり、弟子たちです。もとより、このシモン・ペトロも含まれています。主イエスを信じる者たちは、皆、神の子とされます。つまり、ここにいるキリスト者たちは、皆、神の子たちです。主イエスが、ここではっきりとそう語られているのです。
わたしは、主イエスはここで今、まるでペトロの肩を抱かれるようにして、このように語られたのではないかと思うのです。「あなたと私とは、神の子どもたちだね。わたしはあなたが告白した通り、神の御子なのだ。そして、あなたは、私を信じたので、あなたもわたしの兄弟となっているのだ。天のお父さまは、あなたのことを養子として、受け入れて下さる。よかったね。」そして、それは、ペトロのことだけではありません。今ここにいる私どもにも、肩をいだいて、「あなたもわたしの故に神さまの子どもですよ。良かったね。」そう語る主イエスを仰ぎ見ます。

さて、主イエスは、ここで、「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」はっきりと語られました。わたしは、とても余裕のある言い方、どこか、ユーモラスな言い方だなと思います。「わたしも、ペトロよあなたも、神殿税を納めなくともよいわけだね。」この「しなくてもよい」と訳された言葉の直接の意味は、「義務がない。自由である。」です。神殿税から自由だということです。
これは、ただ単に、神殿税だけのことなのでしょうか。違います。自由という言葉は、キリスト教信仰を言い表すまさにキーワードの一つです。私どもが救いを言い表すときの、重要な鍵の言葉です。救われるとは、罪の奴隷であった私どもが、その罪の支配、縄目から解き放たれることを意味します。そのようにして、何よりも、この世の価値観、考え方から自由にされるのです。この救いの恵みは、どれほど強調してもし過ぎることはありません。
私どもは、主イエスを信じれば、誰でも救われると、その事を聖書から教えられ、体験しています。しかし、確かに誰でも救われますが、この地上においては、やはり、歴然とした差があります。それは、歴然としているのではないでしょうか。それなら、その差とは、いったいどこにあるのでしょうか。それを計る基準となるのが、この自由です。私どもが、どれほど、この世の考え方から自由になっているかという点です。
自由になるとは、神の言葉に服従するそのこととまったく一つのことです。したがって、この自由を生きることは、キリスト者であれば、徹底的に追及しなければならない課題でもあるのです。御言葉に従うことが、自由なのです。従っていない人は自由になれないのです。福音を味わい損ねるのです。主イエスの恵みの浅いところだけしか知らないということです。

わたしは、先日開催されました、中部中会信徒研修会のペ・ギョンホ牧師の伝道に対する講演を伺いながら、本当に思いました。先生は、ご家庭の初穂でした。その後、兄弟が救われ、両親が救われ、結婚して子どもたちが与えられ、子どもたちも信仰を継承し、現在は牧師になってと、まさに家族中に救いが及びました。先生は、聖書の原則通りに生きようと熱く訴えられました。これは、当たり前すぎることです。しかし、その当たり前のことを先生は、実践なさったのです。すると、力強い神の御業を次から次へと体験してきたと証されました。
もう一人の日本側からの講演者の小野牧師は、私どもが繰り返し学び続けています、戦時下、日本のキリスト教会、日本基督教団の代表者が神社参拝を韓国のキリスト者に強制した歴史の事実を挙げられました。彼は、神社参拝は、国家の大日本帝国の儀礼なのだ、すばらしい天皇のおかげで、自分たちも、そして朝鮮人も天皇の臣民とさせていただけたのだから、神社参拝のどこが悪いのか、そのような、聖書を素朴に、正しく読めばあり得ない論理を駆使して、迫ったのです。余りにも、愚かな論理です。彼は、いへ、彼に代表される日本のキリスト教とは、そのようなキリスト教でしかなかったのです。
それは、あまりにも不自由なキリスト教です。国家の支配の中に抑え込まれているキリスト教という意味です。しかも、その事実をきちんと見つめるなら、自分たちの立場が崩れてしまうことを恐れて、さまざまな理論をこねくりまわしたのです。こうして、自分たちの立場を正当化したのです。そのおぞましい罪のせいで、隣国の主にある兄妹たちを苦しめ、殉教へと追いやったのです。
私ども日本人キリスト者は、自由ではなかったのです。それは、国家に屈服させられていたから自由ではなかったというのではありません。そうではないのです。何故、不自由だったのか。答えは、明瞭、単純です。それは、生きるときも死ぬ時も聞くべき、信頼すべき、服従すべき唯一の神の言葉、イエス・キリストに服従しなかったから、ただその一点です。私どもにとって、大切なことは、ただ、神の与えて下さった自由を生きることです。守ることです。その意味で、キリスト者は、もはや、神殿税に縛られる必要はないのです。

ところが、主イエスは、最後にこう語られます。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」主イエスは、税金を支払われます。しかも、ここを読みますと、まさにユーモラスな感じがしてなりません。銀貨一枚ほどなら、ユダの金袋、お財布にちゃんとあるはずです。一銭も持たないということではなかったはずです。しかし、漁師であったペトロに漁をさせます。働かせるということでしょう。そして、結果は、ここに記されていませんが、間違いなく、最初に連釣れた魚の口に、銀貨一枚を加えさせるのです。こうして、働かせた実りとして、ペトロと主イエスの分を納めさせるわけです。

いったい何故、そのようなことをなさったのでしょうか。これも、極めて重要です。キリスト者は、救われています。この世の悪い、おかしな習慣とか、考えとか、制度とか、法律とか、そのようなものに、縛られてはならないのです。しかし、一方で、キリスト者ではない方々は、自由が分かりません。法律を破るのが、自由だ、などと履き違える犯罪者もいます。しかし、キリスト者のはそのような意味での犯罪者ではありえません。あってはなりません。
何故か、それは、私どもの自由で、つまずかせないためです。一気には、分かるはずがないという理解なのです。誰でもが、理解できるわけではないからです。理解できない人々に、突然、ペトロが、わたしは、神の子としていただいたのだから、税金を納めないと言っても、一般の人々の理性、あるいは良心を傷つけてしまうからです。

主イエスは、救われた者、キリスト者が高慢な思いで、上から目線で、あなた方はまだ、そのようなくだらない習慣、古い生き方、考え方に縛られているのかと、主張するなら、それは、キリストの救いから遠ざけることになるのです。それが、躓きです。
しかし、聖書において、躓きとは、ただキリストの十字架と復活だけであるべきです。それは、決して取り除けませんし、決して取り除いてはならない、躓きです。しかし、それ以外のことは、まさに、神の自由の中で、自分の自由を制限することもキリスト者ならできるのだと、主イエスは、ここできちんと教えて下さったのです。

どうぞ、誤解しないでください。これは、妥協ではありません。この世に妥協することではありません。それは、罪です。それは、不自由です。自由に生きるキリスト者の姿の正反対です。先ほどの戦時下、また戦後の日本のキリストの教会の、とりわけ指導者たちのしたこととはまったく違います。主イエスが、ここでなさったこと、そうして、私どもにお教え下さったことは、こう言うことです。私どもキリスト者とは、自分の自由を、相手の救いのために、制限できるし、すべきことがあるということであります。それがここで主イエスがお教え下さった福音の真理です。ここにこそ、まことの自由があります。高度な自由と言ってもよいでしょう。深い自由と言ってもよいでしょう。本物の自由です。

さて、今朝の説教は、最初に申しました通り、テキストを前後して取り扱います。冒頭の御言葉を改めて朗読します。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」マタイによる福音書は、すでに第16章におきまして、主イエスのご受難の予告の御言葉を記しました。そして、第20章にも同じようにご受難の予告の御言葉を記します。つまり、マタイは、三回にわたって、主イエスご自身によるご受難の予告を記します。今朝は、その二回目になるわけです。このお苦しみになられる主イエスの予告の言葉は、三回だけしか記されていませんが、しばしば十字架の死を予告なさったのだろうと思います。
主イエスは、ここで、このように語られます。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」今朝は、聖餐の礼典を祝います。私どもが聖餐を祝うとき、必ず読み上げる御言葉があります。「制定語」と言われる御言葉です。そもそも、聖餐の礼典とは、イエスさまが制定してくださった礼典に他なりません。イエスさまが、私どもにお与えくださいました、恵みの手段です。目に見える神の御言葉と言い慣わされるものです。この聖餐を司るわたしは、制定の言葉を朗読します。これです。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは」さて、いかがでしょうか。こう続きましたら、おそらくすでに多くの兄妹は、次に続く言葉をそらんじることができるのではないでしょうか。「引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。」ここで、主はこのように語られました。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」人の子とは、イエスさまご自身のことです。そして、「引き渡される」と続きます。既にお気づきかもしれませんが、聖餐の制定語「引き渡される夜」と深く、響き合っているわけです。実は、この「引き渡される」というみ言葉は、キーワードとも言える言葉なのです。キリストの贖いの御業、私どもの救いの御業の恵みの真理を明らかにする鍵になる言葉です。
さて、ここで、丁寧にこの御言葉をについて考えてみましょう。ここで、イエスさまが、引き渡されるという受け身の形で語られています。主イエスは、十字架へと、死へと引き渡されるのです。何に注目したいのかと申しますと、これは、「父なる神が」、主イエスを人々の手に引き渡されるということです。つまり、「人々が」、主イエスを十字架に引き渡すわけでは決してありません。これは、極めて重大なことです。誰を主語にするのかという違いは、決定的に大きな違いです。つまり、イエスさまを本当に殺すのは、誰なのかということなのです。イエスさまを十字架へと引き渡されたのは、どなたでいらっしゃるのかということです。そうです。それは、他ならない、あの天からの声*「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」*と御声をお出しになられた父なる御神ご自身でいらっしゃるのです。主イエスの父ご自身が、御子を十字架へと引き渡されたのです。提供なさったのです。ということは、はっきりと発音しなければなりません。御子を十字架におつけになられて殺されたのは、この父ご自身に他なりません。
ここで、明らかにされることがあります。それは、人間のどれほどの悪知恵、どれほど絶大な権力、武力をもってしても、人間となられた御子、主イエスは、人の子と自称されましたが、その主イエスを「好きなようにあしらう」こと、ましてや殺してしまうことなど、あり得ないということです。主イエスを本当に十字架に引き渡され、殺されたのは、父なる神です。そして、父なる神は、罪のないご自身の独り子の上に、私どもの、人類のすべての罪を負わせになられ、これを罰したもうたのです。厳しく、限りなく厳しく裁かれたのです。この神の御子への審判による死、それこそが、私どもの贖いの代価とされたのです。私どもの救いの根拠なのです。「引き渡される」この御言葉こそ、キリスト教会にとって、救いを明らかにする鍵の言葉の一つなのです。
今朝も、ニカヤ信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、苦しみを受け」と告白しました。ローマ帝国の総督ピラトが十字架につけたと告白していません。彼の「もとに」つけられたと告白しているのです。彼の治世の下、時代のもとという意味です。繰り返しますが、主イエスを十字架に引き渡されたのは、ピラトでも、ユダヤ議会でもなく、父なる御神ご自身の御手によるものなのです。
そして、十字架で殺されたもうイエスさまは、三日目にご復活なさるのです。こうして、私どもの救いは、完全に成り立つのです。誰でも、どのように罪人でも、罪を犯しても、このイエスさまのおかげで、赦され、神の子とされるのです。

最後の最後に、確認しましょう。御子イエス・キリストが引き渡されたのは、何のためであったのでしょうか。私どもに神の子としての自由を与えるためにこそです。私どもを罪から解放し、この世の価値観から解放するためです。私どもを救うためです。そのために、主イエスは、御父に罰せられたのです。
そうであれば、もし私どもがこの自由を軽んじるなら、それは、結局、主イエスを軽んじることです。今、改めて、主の救い、神の子とされた救いの驚くべき恵みと幸いを思い、徹底して御言葉に従い、この自由に生きてまいりましょう。地上にあるかぎりこの自由をいよいよ経験してまいりましょう。

祈祷
父なる御神、今、私どもは、あなたの御子、私どもの救い主のおかげで、罪とその支配、この世とその支配から自由にされました。どうぞ、この自由をもっともっと体験させてください。主イエスを信じていながら、あなたを知らない人々とほとんど変わらない生活、生き方、考え方をしているなら、私どもは、不幸です。あなたの御前に罪を犯しています。どうぞ、今、私どもを自由の喜びへと進ませて下さい。御言葉に従って、一歩踏み出す信仰を今、強めて下さい。そして、いよいよ、あなたに仕え、そしてこの世に仕えることができますように、私どもの自由を、隣人の救いと幸福のために用いさせて下さい。真の自由を、さらに深く、味わわせて下さい。アーメン。