過去の投稿2011年10月28日

教会のディアコニア・オリエンテーション

⑤ ディアコニアの領域(食卓への奉仕)
四つの福音書に、共通して取り上げられている奇跡は、5000人の給食の物語である。主イエスは、霊的な飢餓を満たす説教とともに空腹にも心を配られたのである。霊的配慮とともに肉体の糧への配慮がなされるのである。そこに、教会の福音の宣教とディアコニアとが有機的に関連付けられるべきことが分かる。ちなみに今日、キリスト教界では、「伝道」と「宣教」とをきちんと分けて考えることが主流となっている。そこでの「宣教」とは、伝道とディアコニアをあわせて理解するのである。
(ここにある問題は、今回は取り上げない。)

主イエスは、この「食卓のディアコニア」のために、弟子たちを召しだされる。彼らをこの務めの奉仕者として召しだし、訓練を与えられた。主の食卓に奉仕するとき、どれほどの大きな実りを結ぶこととなるかを体験させていただいた。この物語は、弟子たち以外には、主の奇跡によるものであることは、分からなかった可能性もある。群集は、どこかに準備してあったパンと魚にもてなされたと考えたのかもしれない。

教会が食卓の奉仕を重んじて来たのは、この弟子たちの原体験にまでさかのぼることができる。我々もまた、昼食当番や愛餐会の準備の奉仕を重んじている。

※  東日本大震災から半年。浜松伝道所も岩の上伝道所も被災地に寄り添うディアコニアを継続しています。岩の上は、これまで、献金と何より献品を合わせるなら少なくとも70万円余はディアコニアのために用いているかと思います。

3月11日の翌週から、ほぼ毎日、物資支援のために働きました。5月には、教会として現地入りしての炊き出し。そして8月、9月と支援物資の送付他を重ねました。つまり、被災教会と一般の被災者方への物資支援を担いました。今なお、物資を求める声が届きます。

浜松伝道所のディアコニアの目的、理念とどうよう、私どもも、もとより福音を証し、キリストによる新しいアイデンティティを得て立ち直って頂くことをこそ、祈りの目的に据えています。しかしなお、物資支援をやめることもできません。

主イエスが給食のもてなしの奇跡をなさったこと、これが、私どものディアコニアの聖書的な典拠です。ただしなお繰り返します。あのとき、群衆の眼差しは、主イエス・キリストに注がれました。私どももまた、キリストを指し示すディアコニアとなるべきことを常に、切に祈り求めなければならないでしょう。

⑥ 癒しのミニストリー 【教会とカウンセリング】
「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」マルコ第1章34節
「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。」                   ルカによる福音書第10章8-9節

主イエス御自身は、ありとあらゆる病を癒された。それは、神の国の到来の「しるし」、約束された「人の子」到来の「しるし」を公にするためであった。しかし、単に、それだけにではないのではないか。新約聖書の中に、神の愛をあらわす特別の言葉に注目したい。それは、「憐れみ」と訳される「スプランクニゾマイ」である。これは、「はらわた痛む」と訳され、「内臓に激痛を生じさせるほどの感情のほとばしり」を意味する神の人への愛である。(マタイによる福音書だけを記す。5:7、9:13、27、36、12:7、14:14,15:22、17:15、18:27、18:33、20:30.31、34 一つひとつていねいに読まれたい。)

主イエスにとって、目の前に病に苦しむ人々がいれば、はらわたが痛まれ、癒やしの奇跡を必然化される。そのような父なる神とご自身の憐れみの御心が、病める者への癒しの勤め・奉仕・ミニストリーとなる。また、このミニストリー(務め)は、弟子たちにも委託され、その権能をもお与えになられた。ルカによる福音書10章1節~

 今日の教会が、この「癒しの務め・ミニストリー」をどのように果たすのか。かつて、病院の機能を果たすため設立された修道院がある。そこから、近代病院のシステムが整ったとも言われている。キリスト教主義の病院の伝統は、聖書にさかのぼることができるものなのである。

 今日、心の病を患う人々は、急増している。スイスの神学者は「現代のペスト」であると言う。(この表現が適当であるとは言い難い・・・。猛威をふるうが感染しない・・・。)どの教会にも、心の病を病む方は少なくない。多くの新来者が、すでに心の病と戦っておられるのが、現代の教会の状況である。そうであれば、特に、教会(会員)は、心の病について無知であってはならない。【初歩的な】知識、カウンセリングの手法などを磨くことも、ディアコニアの技術をあげるために必須なのではないか。また、教会がそのような病の癒しの場となることを目指すべきではないか。

ただし、この病は、病である。そうであれば、教会は自分の限界をよくわきまえ、しかるべき医療機関へと橋渡しをすることが大切である。教会で、この病を悪化させる事例もまた少なくないのである。ある精神科医は、教会へ行かないようにとアドバイスするのだそうである。信仰によってただちに癒されるとの理解や、間違った知識や的外れのカウンセリングによって悪化することも起こりやすいからであろう。カウンセリングは、専門的かつ高度な技術が求められる。ただし、キリスト者は言わば、カウンセリングマインド、寄り添う心、憐れみの心を与えられている。現代カウンセリング論や技法ではなく、むしろ、寄り添う心を磨き、実践すればよいのではないか。

⑦ 礼拝行為としてのディアコニア  
信仰の論理・多様なディアコニア・第一義としての御言葉のディアコニア
・ 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ 12章1・2節)

 この御言葉は、私どもの献金(奉献)の前に、朗読される一部である。名古屋岩の上伝道所は、主日礼拝式に全力を注ぐ教会であろうとの志において、揺ぎ無く歩んで来たつもりである。しかし、同時に我々は、「神礼拝」を、主日礼拝式に限定しない。主日礼拝式にあずかる我々が、もしも、生活の全領域において神礼拝に生き、それを展開することがなければ、真実の礼拝式を捧げてはいないことを照らし出すものである。それだけに、礼拝行為としてのディアコニアが我々のディアコニアのすべての源となり、規定するのである。もしも、神への奉仕(礼拝・リタージ〈ラテン語〉)の後に、隣人への奉仕(リタージ)へと繋がらないのであれば、その礼拝の「真実性」を問うこともできるし、しなければならないであろう。我々のディアコニアとは、ここでも霊的、信仰的、礼拝的な行為に他ならない。

 そこで、このテキストが重要となる。・「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」 ローマの信徒への手紙第12章6-8節

我々のディアコニアとは、どこまでも礼拝行為の延長であり展開である。残念ながら、我々の新共同訳聖書の「信仰に応じて」の訳は、ほとんど誤訳に近い。これは、「信仰の論理(尺度)で」「信仰に基づく考え方で」という意味である。施す者も、慈善する者も、牧師のように教える者も、それぞれの信仰の「レベル?程度?度合い?」でしてはならないということである。つまり、「自分は信仰の程度が低いのでこの程度でよしとさせてもらう・・・」という意味に誤解してはならないのである。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。」(ヘブライ人の手紙第11章6節)とあるように、信仰によらないいかなる業・行い・ディアコニアも、神に喜ばれることはない。つまり、ディアコニアとは、「信仰の論理」つまり、「神礼拝の論理」以外でなされてはならないのである。繰り返しになるが、徹底的に霊的な業なのである。
 同時にあえて逆説な言い方をするが、このディアコニアは、「律法ではない」のであるから、その「業」を一つもしなくてもかまわない。前述どおり、我々は、善い業なしに、ただ恵みによってのみ救われるのである。万一にも、神以外のまなざし(ひけ目、負い目)を感じて、「何かをしなければ・・・」と思う必要はない。

ディアコニアは、徹底して、神の前での決断としてなされる業である。この点が確立すれば、ディアコニアは常に隣人に向かう具体的な業となるが、それは、究極的には、「神へと捧げられる奉仕」であることも明らかになろう。我々のディアコニアは、どこまでも神奉仕、神礼拝として性質、本質を有するのである。

また、ここで、同時に、きちんとわきまえるべきことは、教会員は、誰でもが同じディアコニアをなすわけではないということである。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」とある通りである。我々は、唯一の神から「異なる賜物」を受けている。したがって、もし預言・教え(教師=牧師)の賜物を受け、その務め(御言葉のディアコニア)に就いているのであれば、「施し・慈善」のディアコニアの業に「従事」する責任はないのである。むしろ、もしもその召しをないがしろにして、他の務めをするなら、召された方と召しの務めに対して不誠実といわざるを得ない。

ここでやはり強調すべきことがある。教会における「御言葉のディアコニア」の「優位性」は、際立っているのである。使徒言行録第6章1~7節を丁寧に読まれたい。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」

もとより、施しや慈善をしない、あるいは関心がない預言者(牧師)もまたいるはずもない。そのような彼らだからこそ、食卓の世話(ディアコオニア)の重要性を知っている。だからこそ、7人を選び、また、御言葉からディアコニアの重要性を教え、励まし、ディアコニアに生きる教会の形成を指導するのである。その際、やはり、使徒の全存在が、教えを語ると同時にそれに生きていること、そうであればこそ、教会が動いたことを、我々、御言葉の仕え人は、深くわきまえなければならない。

⑧ ディアコニアの力の源泉としての「祈り」と執り成しの祈り(祈祷会)のディアコニア

 ・祈りにおいてこそ我々は、ディアコニアの拠点となる「自由」を得ることができる。何故なら、祈りにおいてこそ我々は、自己中心から神中心へと解放されるからである。人間的宗教、偶像への祈りは、自分にかかわるモノをどれだけ拡大し、獲得(ときには収奪)し、増加させることへと傾斜する。我々の祈りは、その正反対のものとされて行く。我々は、ただ神の栄光を求め、神の支配(神の平和・恵みと愛の支配)がこの世界をおおい尽くすようにと祈るのである。祈りにおいて自由になっているキリスト者、神の民こそが、ディアコニアの主体となりうるのである。我々は、祈りにおいて、ディアコニアの原動力を得ることができる。上からの力を着せられ、与えられなければ、キリスト者、教会のディアコニアは正しき実りを結ぶことはできない。
 
・ここでも、どうしても忘れられないのは、20世紀における一人の代表的キリスト者、女性の奉仕者、マザー・テレサである。彼女は、インドのカルカッタで、孤独に死に行く人々を看取る愛の業・事業を起こした。彼女は、福祉施設、福祉団体を創設しようとはしなかったし、今もその働きは単なる「福祉施設」ではない。彼女は、神の召しを受け、誰からも顧みられることなく路上で死に行く人のなかに、主イエスを見ているからだと言い続けた。それは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書第25章40節)の主イエスの御言葉を文字通り信じ、実践した教会史における代表的キリスト者であろう。

そして何よりも我々改革教会に生きる者たちが忘れてならないのは、彼女は、激しいまでの愛の業の中で、毎早朝、必ずミサにあずかっていたという事実である。彼女は、このミサのなかにこそ、自分たちのディアコニアの隠れた力、力の源泉があるという事実を常に証してはばからなかった。

ちなみに、ローマ教会のミサが「聖体拝領」であることと注目することも興味深いであろう。聖別され、聖変化したパンそのものをキリストの体と信じる聖餐理解は、まさに死なんとする人々の中に、キリストを見ることと深い関わりがあるのではないだろうか。

我々にとって、彼女にとってのミサに置き換えられる恵みの手段は、主日礼拝式における説教と聖餐であり、日々の祈りの生活であろう。この「霊性」の深みのないところでのディアコニアは、律法主義になるか、功績主義になるか、何よりも継続困難にならしめるのではないか。いずれにしろ、信仰の論理ではなくなるのである。
 ・ここで何よりも信じるべきことがある。我々は、祈りにおいて、神ご自身のディアコニアを直接に地上にもたらすことも許されているという驚くべき力の現実である。つまり、我々が実際に、現場に立ち、奉仕者として働くことができなくとも、神ご自身が顧みてくださるようにと執り成すことができるのである。その意味で、いかなるディアコネオー実践にまさって、執り成しの祈りのディアコニアにまさって力あるディアコネオーがないことを知る。そして、それを信じる者たちは、一人で、何よりも集まって祈るのである。

我々のディアコニアが徹底して霊的なものであるために、我々は主への執り成しの祈りのなかでこそディアコニアが成り立つことを知るのである。それが分かれば、たとい、我々自身が病や事故などによって、もはやいかなる行い、業をなすことがかなわなくなっても、なお我々は「ディアコノス」(奉仕者)足りえることを知ることができるであろう。直接的に言えば、病床でなお、ディアコノスの職務に生きることができるのである。さらに、祈ることすらかなわなくなってなお我々は、ディアコニアを受けることによって、教会共同体のディアコネオーを担っているのである。

・⑤「食卓への奉仕」の繰り返しになるが、我々は、「主の祈り」の第4祈願で、「われらの日用の糧を今日もあたえたまえ」と祈るように命じられている。主イエスは、人間のための祈りの「第一」のこととして「食糧」を、つまり人間が生存する上で最低必須のモノ(物質)を求めさせられる。どれほど、神の人間への配慮が、肉体の領域に及び、大切にされていることかを知らされる。そして、この祈りにおいて、我々が、常にわきまえなければならない事の一つは、この祈りが、「我ら」の祈りであることである。この祈りが捧げられるとき、常に、食べられない人々への配慮が求められるのである。主イエスの祈りは、祈る全ての者をして、隣人の生存、健康への配慮を求めさせるのである。

「食べられない人のためにごはんを送ってください。」これは、幼児の祈りである。ただし大人は、このように祈るとともに献金することが求められていよう。このような具体的な動き、かかわりなしに祈ることは、我々を霊的に不健康にしてしまうこととなるのではないか。

 ちなみに、我々の教会は、現住陪餐会員の全員が週日の祈祷会に「出席すべき」であると理解している。我々は、洗礼入会、加入の際に日本キリスト改革派教会の式文に即し、これを「誓約」した者たちに他ならない。