過去の投稿2011年10月28日

教会のディアコニア・オリエンテーション

Ⅳ ディアコニアの源泉とその姿勢
① 教会のあらゆる営みはキリストにのみ規定され、行われる。
下記、「バルメン宣言」は、ヒトラーとの戦いにおいて教派を越えて集まった福音主義教会の信仰の宣言である。(ドイツ福音主義教会の現代の状況における神学的告白《第二次世界大戦下》)20世紀を代表する教会の信仰告白となったこの宣言の特徴は、イエス・キリストから始められ、主イエス・キリストへと向かう徹底的にキリスト中心の構造を持っていることである。

第一項 「聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。教会がその宣教の源として、神のこの唯一の御言葉の他に、またそれと並んで、更に他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。」

第二項 「イエス・キリストは、われわれの一切の罪の赦しについての神の呼びかけであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼はわれわれの全生活に対する神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に充ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が興えられる。われわれがイエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう誤った教えを、われわれは斥ける。」

我々がこの宣言から学ぶべきことは、教会のあらゆる営みは、徹底的にただ主キリストから生じるということである。キリストに根ざすことのない教会の使命、働きは存在せず、してはならないのである。

②新約聖書におけるディアコニア  -キリストの王職との関連で-
そこで、我々にとって「キリストの三職」をあらためて確認する必要があるはずであろう。キリストの三職とは、「預言者・祭司・王」である。そして、教会のディアコニアは、王なるキリストの職務に対応するものである。

問27 イエスさまの王としてのお働きは何ですか。
答 私たちの王さまとなってくださることです。弱い私たちが悪に滅ぼされないよ うに戦い、私たちを従わせ、治め、お守りくださいます。この王さまこそ真の王さまです。ですから、私たちは心をこめて従います。(子どもカテキズム)

主イエスは、我々を守る王である。そのあり様は、この世の王の形態とは正反対であった。つまり、キリスト・イエスは、「僕(仕え人・奴隷)としての王」であられ、事実、「王としての僕」として生き抜かれたのであった。
王なる僕イエスさまが、ご自分の到来の目的と姿勢を際立たせて明らかにされた御言葉を見よう。

・「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。「 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」                           マルコによる福音書第10章

・「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。」                               ヨハネによる福音書第13章

ディアコニアを考える上で決定的に大切なこととは何であろうか。それは、主イエス・キリストのご生涯と十字架の死とが「仕えるため」つまり、「ディアコニア」として表現されているということである。主イエスは、実に、ご自身の命を捧げるために来られたのである。

また、弟子たちの足を洗われ、弟子たちが互いに仕えあうべきであることを身をもってお示しになられた。ここに、教会のディアコニアの姿勢が鮮やかに示されたのである。

今朝の説教のテキストは、ルカによる福音書第10章の、「善きサマリア人のたとえ」であった。この「ディアコニア・オリエンテーション」のためのオリエンテーションの意味を込めているのは、言うまでもなかろう。「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」「行って、あなたも同じようにしなさい。」
ここでは、既に多くのことを学び取れたと思うので、重複を避ける。まことの善きサマリア人、私どもの隣人として私どもにかかわってくださったお方から、「あなたも同じようにしなさい!」と命令されているのが、ディアコニアなのである。そうであれば、キリスト者とは例外なしに、ディアコニアへと召しだされた者ということができる。

ちなみに、この後に続く、マルタとマリアの物語にも、接待・給仕のディアコニアが記されている。両者の相互関係を丁寧に学ぶことが、ルカによる福音書の重要なメッセージなのであるが、今は、その暇はない。しかし、ここでの固有のメッセージは、マルタの給仕のディアコニアとマリアの御言葉を聴聞するディアコニアとが対比されていることにある。説教(神の言葉)を聴くディアコニアこそは、ディアコニアの基本の中の基本、大前提なのである。この「聴く」ディアコニアなしに、キリスト教ディアコニアは成立しないのである。このことは、まさに決定的、根本的に大切な点であり、我々が常に立ち戻るべき原点となる。

いずれにしろ、ルカによる福音書が描き出す主イエスは、病む者、悩める者、虐げられている者、社会の周辺へと追いやられている者(たといそれが本人の「自己責任!」であったとしても)つまり、「罪人の友・仲間」となられる。我々の主イエスこそ、全きディアコノス(仕え人)、その人に他ならない。キリスト御自身が、もっとも弱い者と「連帯」し、「同化」してくださったことの中に、神の民のディアコニアの必要性、方向性が明示された。下記、マタイが記す主イエスの御言葉は、我々キリスト者の常識を絶えず揺り動かし、覆すのではないか。

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」    マタイによる福音書第25章35-40節

少なくとも、我々の教会は、この世界において、どこを見、誰に向いているのか、この主イエスの生涯と説教によって常に問い続けなければならない。我々こそ、神の正義と憐れみを受け、最も小さい者として、ディアコノスなるイエスの奉仕によって、癒され、救われた者である。

③ 旧約聖書におけるディアコニア
「教会のあらゆる営みはキリストにのみ規定されるものでなければならない。」と学んだが、もう一つの基本は、言うまでもなく、神の御言葉、聖書に他ならない。既に、新約聖書を取り上げたが、我々が、あらためてわきまえたいことは、我々神の民はいにしえより(つまり旧約聖書より)、ディアコニアに生きるべく命じられていたことである。

「主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。」  出エジプト記第3章7-8節

神は、ご自身の民が不正に苦しみ、虐げられるのを放置なさらない。このような神であればこそ、詩人は、「深い淵から」神に祈り、その祈りが必ず聞き届けられることを信じているのである。
「【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」 詩130編1-2節

「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」 申命記第15章7-11節

この他に分量が多いので記さないが、レビ記第25章の「安息の年とヨベルの年」も読みたい。
その他、「正義と憐れみの神」がご自身の民に正義と憐れみに生きるようにと命じておられる、無数の箇所を認めることができる。

毎週、唱えている十戒の第十戒「あなたはむさぼってはならない」は、十戒の掟のなかでその本質的な禁止命令であり、行動規範である。まさに結びの言葉として、すべての戒めにかかわっている。そこで神が、我々に求めてていらっしゃることは、与えることである。むさぼらない人間とは、施しに生きる人間に他ならない。

我々の神は、憐れみに富む神、憐れみがあふ出る父でいらっしゃる。つまり、与える神、施す神である。この施しを受けた者が神の民に他ならない。ここに旧約・新約を貫いて、神の民は、ディアコノス(仕え人)とされ、そうあらねばならないことが示されていることがわかる。

 06年のノーベル平和賞受賞者のバングラディシュのムハマド・ユヌス氏の実践それは、まさに出エジプト記第22章21-26節の実践に他ならないのではないか。

「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」
朝日新聞 天声人語(06年10月17日朝刊)

  「それまでの常識を覆し、貧しい人たちに無担保で金を貸す。額は少ないが、それはやがて人々が自らの足で立つ貴重な礎となった。バングラデシュの金融機関「グラミン(農村)銀行」と創始者のムハマド・ユヌス氏が、ノーベル平和賞を受賞する。」

④ 教会(キリスト者)のディアコニアが社会に影響を与える次元
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」       マタイによる福音書第18章

先月、名古屋キリスト教社会館の礼拝での説教において、この御言葉をテキストにした。世俗社会は、「大人」優位の社会である。そこでの大人とは、より強い力を持つ人、より多くのモノを獲得する人を意味する。目に見える数値で置き換えられるものを重んじる「賢い」価値観である。そのような社会の只中に、教会が置かれている意味は、極めて重い。救済にかかわる。上を目指し、見上げるもの。

名古屋キリスト教社会館の◎理事からの便りを抜粋して紹介したい。
「子どもようにならなければ天の国にはいれない」この聖書の言葉をもっともっと深く掘り下げ 私どもの実践に生かしていきたいものです。横須賀の阿部先生が言われた言葉に、『サービスとはキリスト教でいうところの礼拝であり、それは指し示すという意味が込められています。わたしたちが行う福祉サービスは、介護などのお世話を通じて、人としてどう生きるかを示すものでなければならない。』というのがありました。・・・・・『子どものようになる』それを指し示す福祉サービスの提供を心がけていきたいと思います。」

日本の福祉の第一人者である横須賀基督教社会館館長の阿部志郎先生は、キリスト者である。その福祉は、「人としてどう生きるかを指し示すもの・・・」と高い理念を掲げておられる。すばらしいことである。教会のディアコニアは、何よりも、その目的、その志において、礼拝の次元を持つ。つまり、仕える者の姿が、神を仰ぎ見ている者の姿となり、それを受けている者たちもまた、神を仰ぎ見る者へと促されることを目指すのである。

(余談であるが、阿部氏は、そこで徹底的に御言葉を語ることを抑制、あるいは排除しようとしておられる節がある・・・。もとより、ディアコニアも、社会福祉も、単なる「伝道(キリスト教の宣伝)」であってはならない。たとえば、名古屋キリスト教社会館の創設が伊勢湾台風の被災者支援のためであって、伝道のための救援活動ではなかったところに市民の共感を高い支持と共感を得ることができたと言われる。

ただし、「匿名の奉仕」(キリスト者であること、御言葉(=恵み)によって自らの存在が規定されていることを隠すようなあり方)にこだわることが「聖書的なあり方」であるのかどうか、深く問わなければならない。とりわけ、非キリスト教国であるこの国にあって、御言葉による福音の証を優先すべきことは、議論の余地もないのではないか。しかし、繰り返すが、どちらがよりよい成果を得られるかとか、効果をもたらすのかというような議論をすべきではない。聖書に即したディアコニアになるかどうか、これだけが、我々の関心である。

ちなみに、名古屋の社会館は、「キリスト教」の名称は保持しているものの、その実践、実質は、キリスト教とは、ほとんど関係がないと思われる。超教派のキリスト教団体とキリスト者によって出発したものの、おそらくキリスト者のスタッフを雇えないまま事業が急拡大した事よって、今日のようになったと思われる。                 
(※牧師は、09年、評議員を辞任している)