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たった一人を捜す神

「たった一人を捜す神」

2011年10月30日
テキスト マタイによる福音書 第18章10-14節

「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。  
(†底本に節が欠落 異本訳「人の子は、失われたものを救うために来た。」
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
 

ただ今、聴きました主イエスの御言葉は、先週の主イエスの説教のまさに続きとして理解すべきです。主イエスは、ここでも「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。」と、重ねて小さな者の重さ、尊さ、尊厳を私どもに心を込めて訴えてくださいます。

そもそも、この一連の説教は、第18章の1節から始まるものでした。弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いのか、イエスさまが実現する御国において、自分たちの中で誰が一番高い位につくことができるのか、そのような議論、言い争いが起こっていたのです。そこで主イエスは、ひとりの幼子を彼らの真ん中に立たせて、こう宣言されました。「はっきりと言っておこう。よく聴きなさい。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天国に入ることはできない。」「天国に入るには、自分を低くして、この子どものようにならなければならない。その人こそ、天国で一番偉いのだ。」つまりは、天国は、子どもしか入れないということです。その時の子どもとは、ただ単に弟子たちの目の前に立たされている幼子、年齢が若い赤ちゃんのことだけを言っているのではありません。人間は、何をどう努力しようが、過去に戻れません。年齢を若返らせることはできません。ですから、主イエスがここで語られた「子どものようになりなさい」とは、神との関わりにおいての「子ども、乳飲み子」であるという意味です。

そして、そこでの結びの言葉はこうでした。「わたしの名のためにこのようなひとりの子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」主イエスは、ここで決定的に重要な真理を明らかに示されました。主イエスご自身が、この幼子を、ご自身そのものとして、誰よりも先に受け入れておられるという真理です。それゆえに、このイエスさまにならって、イエスさまの故に、この幼子を受け入れる人は、イエスさまご自身を受け入れるということです。また、「わたしの名のために」とここで言われています。主イエスの御名を信じているこの信仰者という意味です。つまり、キリスト者のことです。つまり、キリスト者を受け入れるということは、キリスト・イエスご自身を受け入れるということを意味するのだとおっしゃったのです。

さてしかし、私は、今朝のこの10節を、文字通り、つまり年齢の意味での幼子、子どもとして読むことも許されていると思っています。
最初に、マタイによる福音書にしか記されていない御言葉に注目したいと思います。主イエスは、こう語られます。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」この御言葉は、極めて不思議な言葉です。

おそらく私どもは、「天使」とか「御使い」とか言われても、ほとんど実感が湧かないように思います。丁寧に説明する暇がありませんが、私ども改革派教会の教理においては、ローマ・カトリック教会のように天使論を大きな主題として掲げること、いわゆる「守護天使」の存在などについて語ることはほとんどありません。これは、正しいことであると信じます。

しかし、主はここで、子どもたちのためには、天使たちがいつも天の父なる神の御顔を仰ぎ見る仕事をしているのだと、はっきり告げておられるのです。子どもたちのために、天では彼らに先立って、天使がお祈りしている。父なる神の御顔を仰ぎ見て、礼拝していると説明しておられるのです。

実は、今月のお絵かき教室ピカソに来ている子どもたちに、このお話をしました。ピカソに来ている子どもたちは、ほとんど地域の御子さんたちです。「皆さんには、天使がついていてくれています。その天使は、天国で、皆さんの代わりに神さまの御顔を向いて、お祈りしていてくれています。だから、皆さんも、神さまにむかって、ちゃんとお祈りしましょう。」このように呼びかけました。

地域の子どもたちにさへ、こう呼びかけたのですから、教会の子どもたち、私どもの教会の言葉で申しますと契約の子どもたちは、少なくとも間違いなく、彼らの天使たちが天でイエスさまの父なる神を仰ぎ見ている、だから、お祈りしようと呼びかけるべきだと思います。

主イエスは、なぜ、私どもの教理から申しますと、すぐには理解しがたい事をおっしゃったのでしょうか。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」この表現、このレトリークから私どもは何を悟り、何を信じるべきなのでしょうか。

大切なこと、受け止めるべき事は、神がどれほど幼子のために、幼子の祈り、叫びに耳を傾けておられるお方でいらっしゃるのかという、神理解、神像を徹底的に持つことです。逆に申しますと、まさに、幼子たちは、徹底的に神に愛され、極みまで重んじられている存在だということです。

この御言葉は、特に私ども子どもの教会の教師に、子どもたちへの伝道へと、心をかきたてる御言葉の一つではないでしょうか。万一にも、賢い大人たちが「幼子は知的に劣っているから、まだ人生の深いところなど分からないから、宗教教育を施す意味がない、ほどこすべきでない」などと言うのであれば、それこそ、まったくの見当違いであって、神の御前にもっとも愚かな事になるはずです。

主イエス・キリストは、仰いました。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」だからこそ、幼ければ幼いうちに、福音を教える必要があるのです。そして、何より、実ることは容易なのです。

わたしのこれは経験ですが、いったい、天の父なる神さまのことを疑う幼子はいるのでしょうか。それほどまでに、幼子にとって神さまは近いお方なのです。思い返せば、わたしが通った幼稚園は、お寺の幼稚園でした。朝、幼稚園につまりお寺に行って最初にしたのは合掌だったかと思います。

神は、キリスト教世界の中では、まさに異教の国、日本、その日本の家庭に育ったわたしを牧師に召されました。その準備として、まさに偶像礼拝すら用いられた、そう理解することも、わたし自身は許されると思っています。もとより、だから偶像礼拝にも意味があると言いたいわけでは決してありません。キリスト教の幼稚園、教会の幼稚園があったらどれほど、近道だったか、言うまでもありません。

さて、私どもは、契約の子らに、「あなたには守護天使がついていてくださり、いつも天使が守ってくださっているのですよ」などと教える必要はありません。はっきりと発音してあげればよいのです。発音すべきです。「あなたには、イエスさまがいっしょにいてくださって、あなたを愛してくださっています。天において、いつもお祈りしてくださっていますよ。」

主イエスは、子どもたちを私のところに来させなさいと命じられました。主イエスはご存知です。幼子を愛しておられる天の父がおられることを。他ならない主イエス・キリスト御自身こそ、幼子を愛しておられるのです。だから、私どもは、子どもを愛するイエスさまを伝えるのです。イエスさまがどんな怖い力よりも強い神さまであるかを伝えるのです。イエスさまこそ、大人も子どもも従うべき神であることを伝えるのです。神の御子イエスさまは、かつて赤ちゃんでもあって、自分達と同じように過ごされたことも教えることができるのです。そのようにして主イエス・キリストへの愛を育むことができるのです。子どもたちと一緒に、またそれは天使たちと一緒になって礼拝することをも意味するでしょうが、彼らとお祈りする、礼拝するのです。このようにして、イエスさまを好きになる子に育てる、これが、幼子への伝道、教育であります。

先日、説教してくださった小川宣教師が契約の子が、「礼拝式に出席するのは、時には試練かもしれません。」と仰いました。大人の言葉で語られる説教、大人の論理で語られる説教を理解できないまま、座っているのは、まさに試練かもしれません。しかし、教会は2000年間、経験してまいりました。神の民は、幼子を含むのです。私どもは幼児洗礼を施して、彼らと共に礼拝共同体をつくっているのです。お寺での合掌ということすら、わたしが牧師になる決定的な妨げにならず、むしろ、深いところでまことの神を求める、言わば宗教の種がそこで発芽しはじめたのかもしれないのです。そうであれば、契約の子らに子どもの礼拝式は言うまでもありませんが、大人の礼拝出席を励ますことは、当然すぎることでしょう。

先日の中部中会の教師会の折、開会礼拝で、ひとりの教師が、まさにここから説教されました。それは、これまでの考察をさらに丁寧に掘り下げて行くとき、そのような解釈になるのだろうと、聴きながら思わされました。その牧師は、このようなことを語られました。彼らの天使たちとは、イエス・キリストご自身を指していると理解することも可能ではないか。わたしは、なるほどと思いました。

主イエス・キリストは、今、天で何をなさっているのでしょうか。主イエスは、きのうも今日もとこしえに変わらず、預言者、祭司、王として働き続けておられます。ここで語られた天使の働きそのものをしておられるのです。「彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」主イエス・キリストは、私どもの罪の贖いを成し遂げるために十字架について三日目に甦えられ、40日の後、天の父なる神の右に戻られ、天の王座に着座されました。愛するイエスさまは今、父なる神の右、玉座において毎日、毎時間、毎分、毎秒、私どものことを覚えて、父なる神に執り成しの祈りを捧げて下さっているのです。もしも、この主イエスの執り成しの祈りが今捧げられていなければ、ここで父なる神を礼拝することなど、礼拝し続けることなどまったく不可能なのです。私どもがここで礼拝を捧げることができるのも、信仰の生活が毎日成り立っているのも、まさに、ただひとへに、そう断言してもよいのです。ただ、主イエス・キリストが父なる神の御顔を常に、まっすぐに向いておられる、そのおかげです。この主イエスの祭司としてのお働きがあればこそ、私どもは、主イエス・キリストの父なる御神、それゆえに私どもの父なる御神を礼拝することができるのです。したがって、私どもは主イエスにならって本来であれば、主の日だけではなく、毎日、毎時間、毎分、毎秒、父なる神を礼拝すべきなのです。心を高く挙げるべきなのです。

さて、マタイによる福音書は、これまで学んでまいりましたが、この説教をある意味では、前置きとしてここに記した,と読むことができます。新約聖書の中でもとりわけ有名な「失われた羊」の譬え話が、ここで語られるのです。野原に100匹の羊の群れがいる。ところが、その中のたった一匹が迷子になってしまったというお話です。確認しておきたいのは、この一匹は、自分の責任で、つまり自分の過ちのせいで、最近の日本の危惧すべきあるはやりの言葉で言えば、自己責任で迷子になってしまった羊です。

主イエスは、さらりとこうおっしゃいました。「あなたがたが羊飼いだったら、99匹を野原に残して、一匹を捜しに行かないだろうか、必ず、その一匹を捜しに行くでしょう」主イエスが、弟子たちに問いかけられたのです。

しかし、この主イエスの問いかけは、我々の常識から言えば、あり得ない発言です。まさに、この世の常識を覆す主イエスの常識です。これこそまさに天国の価値観、天国の考え方と言ってよいでしょう。
おそらく幼稚園の年長さん、小学生になった子どもたちであれば、もう、ここでのイエスさまの常識について行けなくなるかもしれません。99匹と1匹を比べさせて、どっちが多い?そして、君ならどっちを選ぶときけば、おそらく「99匹の方」と言うだろうと思います。

主イエスは、この問いかけによって、我々に真っ向から挑んでおられます。1994年になるでしょうか、イラク戦争の折、日本人が人質にとられました。そのとき、世論の中から「自己責任論」が噴出したことを思います。自分の責任でそんな危険地帯に出向いて、たとい大変な目にあったとしても、それを救済するために日本の国益を損ない、税金を使う事はないと、バッシングが盛んに起こりました。自業自得という言葉も使われたりしました。あれこれ論評して、批判する必要は、私どもの間ではまったく不要であります。

主イエスは、すでにこの世にあって、天国が始まったことを宣言なさったのです。そして、それは、単なる言葉ではまったくありません。主イエスの宣言は、そのまま出来事となり、事件となり、ここで起こったのです。ここにキリストの教会が存在しているのです。

主イエスは、ここで、問いかけられながら、父なる神の御心、ご自身の御心を鮮やかに宣言なさいます。誰が何と言おうと、このわたしは、必ず、捜しに行くという断言、宣言です。主イエスは、必ず、どれほど困難であっても、どれほどご自身が犠牲を払おうとも必ず追いかけて、探し出して、連れ戻されるというのです。そして、それは、この一言を語るための譬え話なのです。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

天の父の御心、それは、私ども自身に他ならない、これらの小さな者をひとりも軽んじないように気をつけることです。そして、主イエスは、さらに強調されるのです。「これらの小さな者が一人でも滅びないこと!」
つまり、救われて父なる神のところ、イエスさまのいらっしゃるところに迎えることです。私どもを天国にお入れくださるということが、どれほどイエスさまにとって真剣なことであったのか、今更ながらに思います。

先週、そのためならあなたの片方の手、片方の足を切って捨ててしまいなさい。片方の目をえぐり出して捨ててしまいなさいと語られたことを、ここでも思い出さないわけにはまいりません。そして、何度繰り返しても飽きることはありません。私どもは、誰も自分の片足、片手、片目を切り捨てることもせずに、ただ主イエスご自身が、片足、片手、片目どころか、ご自身の「おいのち」そのものを十字架で捨ててしまわれたのです。そのようにして、私どものいのちがどれほど大切であり、尊いものであるのかをご自身のいのちをもって、明らかにお示しくださったのです。だから、今朝の説教へと繋がるのです。

ここでは、これらの小さな者たちは、羊にたとえられます。しかも、迷い出てしまった一匹の羊になぞらえられます。この羊飼いは、100匹もの羊を所有しています。言わば、豊かな羊飼いなのです。

しかし21世紀の世界の現実は、100匹ではありません。今や、70億匹です。つまり、神はこの地球上にこれほどまでに多くの人間にいのちを与え、養い育てられるのです。そして、父なる神の御心、それはイエスさまご自身の御心と同じですが、こう明らかになさるのです。「70億匹を野原に残してでも、わたしはあなたを探し出す。見つけ出して、救う。わたしの檻の中に入れるのだ」と。

21世紀、この主イエスの説教におそらく多くの人々は、心を動かさなくなってきます。むしろ、この論理、この主イエスのお考え、天国の価値観など、ばかばかしいと否定します。そのとき、私どもは、どのようにその人々と議論すればよいのでしょうか。そして論破すべきでしょうか。私自身は、そのような弁証の働きを否定しません。議論になれば、やはり議論するしかないでしょう。しかし、わたしは、結局、私どもがなすべきことは、聖書の使信、メッセージを伝えること、それを証すること、神の御言葉に立って、それを越え出ることはできないだろうと確信しています。主イエスは、ここで哲学的な議論を展開なさったり、議論を挑もうとしておられません。

昨年であったか、NHKのテレビ番組で「白熱教室」が話題になりました。ハーバード大学の政治哲学のサンデル教授が「正義」を巡って、道徳哲学、倫理学の議論を深めて行く、まさに受講者たちと白熱する対話に基づく講義が展開されて行きます。わたしも大変興味深く拝見しました。まさにサンデル教授の扱う学問であれば、まさに、このテキストを巡って、議論を戦わせることはありえるでしょうし、いったいどのような講義になるのか、そのようなことを思ってみたのです。

おそらく受講者たちはそれぞれの価値観に基づいて、議論を戦わせるはずです。しかし、聖書は、告げます。ここで語られた真理は、人間の議論の末に導きだされた尊い結論なのではまったくありません。人間の議論をしつくした末に、ここで語られるような結論が出るはずはありません。これは、神の御心なのです。いのちの源でいらっしゃり、天地の創造者なるお方の価値観なのです。そして、それがどんなに私どもにはありがたいことでしょうか。自分のことを、かってに大人つまり神の愛と憐れみ、慈しみと優しさなしに、生きれると考え、自分のことを能力があり価値がある、努力することのできるひとかどの人間だとうぬぼれる人たちなら、このような主イエスのお考えを否定するかもしれません。そして、そのような考え方では、この世界は成り立たない、そんなことは弱い人間、努力もしないダメな、堕落した人間だと主張する人々が増えてきています。しかし、小さな者たちにとって、このお方がいてくださることが、どんなに嬉しいことだろうかと思います。

さて、先週の説教も今日の説教も、私どもは自分のことをどれほど大切にすべきか、自分のいのちをどれほど重んじるべきかを、主イエスから渾身の説教を聴いたのです。

本日は、午後に教会全体研修会を開催します。「教会設立実現のために、今、ひとりひとりがなすべきことを」と言う主題です。先週の牧会通信に書きました。教会とは何か、キリスト者とは誰か、それを知れば知るほど、私どもは、自分の尊さ、神の宝物、宝石とされている自分を知って、キリスト者と教会は、自分の使命へと突き動かされると。

私どもは、ただひとへに、小さな者を慈しまれる神の愛の御心によって救われた者たちです。そうであれば、こんどは、ひたすらに、自分以外の小さな者を捜す旅へ、この一匹を捜しだす奉仕へと、突き動かされるのではないでしょうか。御言葉の証、伝道へと、外に出て行くことへと動かされるのではないでしょうか。

この主イエスの説教を聴く、正しく聴きとったかどうか、深く聴きとったかどうかは、自分がこの説教に服する、従うことと一つのことです。そのとき、「一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」この主イエスが問いかけられた御言葉、この挑戦に、「はい、私も、私どもの教会も、みんなで、捜しに行きます。今、捜しています。」こう応えることができるはずですし、応えるべきです。それ以外の応えのしようはあり得ないのです。

そのとき、主イエスは、神の喜びに私どもを招かれます。それは、父なる神の愛の御心が満たされることです。父なる神の愛の喜びが満たされることです。主イエスが要求なさることは、そのことです。父なる神は、どんなに、どれほどまでに、一匹の救いをお喜びになられることでしょうか。

今も、ひとりの兄弟と、洗礼準備をしています。たった一人の救いに、私も時間を惜しみません。何故か、一人の重さを、主イエスによって教えられたからです。自分の重さを教えられたからです。
主イエスは、語られます。「はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。」

教会設立もまた、この神の喜びを満たす道に他なりません。もしも、「わたしは、ただの信徒です。わたしは36人中の一人です、36分の1です。それだけの責任を担えれば十分です」このように考えたり、発言したり、いへ、発言しなくともそのような行いをするのであれば、主イエスの愛、憐れみを軽んじることではないでしょうか。私どもこそ、この世の常識に抗いましょう。それが教会なのですから。

私はかつて、しばしば現住陪餐会員はひとりひとりが教会の中心、柱ですと申し上げました。確かに、当時、会員が少なかったからという側面は否定できません。しかしそれは、会員が増えても同じことなのです。将来、長老や執事が備えられても同じです。いへむしろ、長老、執事が備えられれば、いよいよ、自分たちの責任は軽くなるのだと考えたら、大間違いです。彼らは、会員がどのようにしたらよりよく主と教会に奉仕できるのかを考え、指導し、具体的に配慮する奉仕者だからです。執事たちは、どのように教会が奉仕の家、ディアコニアの家として整えられるのかに心を配る務め人なのです。

自分じしんを神の価値観の中で捉えなおすとき、私どもは、自分の存在の責任、重さ、使命に目覚めます。先ほどは、外に向かう伝道と申しました。しかし、これらの小さな者とは先ず誰よりも共に生きる教会員のことです。そうであれば、先ず、会員のために生きるように促されるのです。教会設立、それは、このように神の喜びを満たす歩みの一里塚に他なりません。これまでも、いくつかの越えて行くべき壁、ハードルがありましたが、その延長線上に与えられているハードルです。祈りを一つに集め、神の喜びを満たすためになお励んでまいりたいと願います。

祈祷

小さな者のたったひとりの私どもを、いのちをかけて捜し出し、今こうして救いの内に、神の恵みのご支配のもとにお入れ下さいました事を心から感謝いたします。そして、あなたは私どもに御心を鮮やかにお示し下さいました。私どももまた、小さな者のたったひとりを捜す旅へ、小さな者のたったひとりに仕えるために召しだされています。どうぞ、あなたの召しに応える者とならせてください。私どもひとり一人をあなたの栄光のために尊く用いて下さい。