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ひとりの兄弟を得るために-教会形成と教会設立-

「ひとりの兄弟を得るために-教会形成と教会設立-」

2011年11月6日
テキスト マタイによる福音書 第18章15-20節①

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 

先週は、教会全体研修会を開催いたしました。とても有意義なよき時を与えられ、心から感謝しています。冒頭、委員からの発題を伺いました。ひとりの委員が、冒頭にこのように語られました。

「開拓当初からの教会員として、20代前半から主の養いを受け、17年経ち、教会設立実現を目指す今、立ち止まって祈り考える時が与えられ、岩の上教会の愛唱讃美歌である“こころを高く上げよう!”の三節が浮かんできました。そうです、私ども岩の上教会は、この17年間大きな恵みを主から受け続けてきました。そしてその恵みを受けた今、その恵みを再び主に捧げるときが教会として来ているのだなと感じます。再び主に捧げるためには、まずその受けた恵みを思い返して、感謝することが必要です。」

私どもがどれほど大きな恵みを受けて来たことか、教会に生きて来た方、信仰をもって奉仕を重ねた方であればあるほど、まさに、とてつもなく大きな恵みを私どもの教会は受け続けて来たことを、認めることができるはずなのです。そして、あらためて、どれほど、この教会の会員とされていることを感謝すべきであろうかとの特別の祝福を思わざるを得ないと確信しています。

先週、八事伝道所の献堂式に出席しました。ひとりの委員からこのようなメールを頂きました。「献堂式に出させていただき改めて励ましをうけ、神に仕える喜びと大切さを感じることができました。岩の上には8年前、この土地に相応しい教会堂が与えられました。私たちもこの感動と志を失うことなく天の御国を目指したいものです。」実は、わたしも同じことを思っていました。あの日、120名を越える方々が出席してくださいました。そして、そこで、私ども会員一同は、献堂の決意を、声をそろえて朗読しました。その時の喜び、決意、献身の思いを思い返したのです。同時に、会堂建築の業そのものによって、ひとりの兄弟が教会に導かれ、洗礼を受けられました。ありそうなことですが、しかし、わたし自身は一度も聞いたことのない特別の祝福でした。一つ一つを思い起こせば、40分ではまったく足りません。名古屋岩の上教会の歩みは、祝福に満ちた歩みなのだと、改めて思わされたのです。そして、それは、まさに、会員が奉仕を束にし、祈りを一つにしたからなのだと確信しています。

 この霊的な事実にいよいよ眼が開かれ、なお一歩一歩、誠実に、堅実に前を向き、上を仰いで皆さまと共に神の教会の形成のために、前進し続けたいと願います。神の民のひとり一人の上に、また、そこへと招かれています求道中の皆さま、すべての皆さまに、主の恵みが今朝も満ち溢れますように。

さて、今朝与えられました主イエスの説教も又、私どもがどのように教会の生活、教会を共に建て上げて行く信仰の生活をするべきかが示されています。先週も教会設立の意義、目的を神学的に学びました。信仰の課題として学びました。それは、この世的な知恵に基づくものではなく、神の真理に基づくためのものでした。先週、予告しましたが、今朝の説教は、まさにその課題に直接に繋がっている個所に他なりません。

これは、日本キリスト改革派教会が直接担っている働きではありませんが、CRCメディアミニストリーというラジオ伝道の働きがあります。東部中会の山下教師がその責任者であり、東部、東関東を中心に多くの教師たちが説教しています。私どもには、その機関紙「ふくいんのなみ」が毎月届けられております。

その今月号のキュウアンドエーは、まさに、本日のテキストそのものが扱われております。いささか長い引用になりますが、ご紹介したいと思います。

問い「具体的には書けませんが、わたしにはどうしても赦せない友人がいます。その友人というのは、まったく自己中心的な人間で、自分勝手な行動で多くの人を傷つけてきました。もちろんわたしを含めて、人間は大なり小なり自己中心的な存在ですから、だれも傷つけずに過ごすことはできないことは分かっています。しかしその友人はあまりにも酷いのです。いったいその人のせいでどれだけの人が迷惑をこうむり、傷ついてきたことでしょうか。その友人の数々の行動を思い起こすと、本当に赦せない気持ちになってきます。こんなひどい友人でも赦さないといけないのでしょうか。赦すというのはどういうことなのか、良いアドバイスをいただければ幸いです。」

わたしじしんは、この質問者は明らかにキリスト者ではないかと思わされました。そして、そのご友人も又、キリスト者なのでは?さらに申しますと、もしかすると同じ教会員かもしれない・・・そのように思いました。その理由は、普通の友人であれば、それほど酷いことをされたら、もう、付き合いをやめてしまえばよいはずだからです。

さて、山下先生は、こう記されます。前置きを飛ばして読みます。「悪いことは悪い事として告発すべきです。是認したり、妥協したりすべきではありません。罪を告発することは、その人を赦さないということにはならないのです。その人を放置しておけばますます被害が拡大すると思うのであれば、その悪い行動を指摘し、告発することは、少しも「罪を赦す」ことと矛盾するものではありません。この点は、誤解してはいけないと思います。主イエス・キリストはマタイによる福音書18章15節以下で、罪を犯した兄弟には先ず忠告するように勧めています。その上で罪を赦し、その兄弟を受け入れることが問題になるのです。もっとも、罪を告発すると言いましたが、これとても守るべきルールがあることは言うまでもありません。キリストは、先ず二人きりのところで本人に直接忠告するようにと勧めています。」さらに答えは続きますが、一応、ここで中断します。

第18章18節「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」この御言葉は、まさに第16章19節の引用、繰り返しにほかなりません。天国への扉に鍵をおろして閉ざしたり、反対に鍵をあげて開いたり、いわゆる、天国の鍵の権威、鍵の権能がここでも、繰り返しイエスさまによって約束されているのです。そして、それを正しく執行しなさいとの厳かなご命令でもあるのです。したがって、もしも、教会が、鍵を開ける権能を行使する際に、「誰でも洗礼を受けることを拒否しないのなら、どんどん授けましょう」と言って、気軽に洗礼を授けるのであれば、教会は、道をそれて行くでしょう。また、反対に、鍵を閉ざす権能を行使する際に、「まあ、誰でも罪人です、失敗があります。ここは一つ、水に流しましょう」等ということが教会で言われたり、実行されるなら、それはキリストを主とする共同体ではなく、日本的な共同体になってしまうのではないでしょうか。そのときには、まさに、洗礼も聖餐も、何よりも説教が、まさにありとあらゆる教会の働きが、いい加減なものとなるでしょう。キリストを主と告白する教会として真の教会の形成とはならないことを確認したいと思います。

さて、ここでの主イエスの真剣な説教の一つの警告、結論的な命令はこれです。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」これは、そのまま言わば素直に読み、理解するなら、教会の忠告、あるいは指導、あるいは決議を拒否するなら、その人を教会の交わりから切り離しなさいということです。

ここで、先ほどの山下先生の答えの続きを読みます。「また、同じ18章では忠告を聞き入れない兄弟に関しては、もはやこれ以上のかかわりを持つ必要がないと記されています。そのような取り扱いは、少し冷たい印象を受けるかもしれません。しかし、わたしたちにできることには限界があることも知っておく必要があると思うのです。いえ、このような限界を設けてくださっていることに感謝しなければならないかもしれません。その友人の方は自分のしていることを悪いと思っていらっしゃらないようですね。そういう人まで聖書は赦すようにと、わたしたちに求めていないのではないでしょうか。もちろん、罪を裁くも、赦すも神さまの手にゆだねるよりほかはないのです。」

この個所は、私どもの教会のまさに特徴として呼びうる戒規について直接に語られている明確な個所です。教会の戒規これを積極的に申しますと、訓練となりますが、消極的に申しますと、戒規、戒めの規則と書きます。

さて、改めて聖書の御言葉に戻ります。いつものことですが、先ず、御言葉を正しく聴きましょう。主イエスは、ここでこう仰っています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」つまり、誤解されやすいかもしれませんが、ここでは、教会生活を共にする兄弟が、教会の生活の全般に対して罪を犯したということを知ったときのことでは、ありません。あの兄弟があなたに罪を犯したという、極めて具体的な事例、個別の場合です。

そして、いささか驚かされますが、ここでは、罪を犯した人本人は、それについて無自覚なのです。ここが大切なポイントです。彼は、「ごめんなさい、わたしが悪かったのです。赦してください」とお詫びしていません。

しかし、それが、どんな罪なのかまったく記されていませんが、それは罪なのです。そしてこのこともごくごく基本のことですが、今一度、確認しておくことは大切だと思います。ここで問題にされているのは、罪についてです。それなら、聖書の言う罪とは、何かです。聖書の罪とは、いわゆる犯罪とかのことをさしていません。罪(ハマルティア)とは、神さまとの関係のことを言うのです。もともと、ギリシャ語の罪には「的外れ」という意味があります。神さまとの正しい関係を壊して、御言葉に背いているということです。神に背中を向け、御言葉を破ることです。

さて、いったいどんなことが想像できるでしょうか。主イエスは、その具体的な罪については何も語っておられません。おそらく、ここでは、たとえば、お金を貸しても返してくれなかったというような犯罪行為ではないのです。騙して損失を与えたということでも、盗んだということでもないように思います。はっきりしていることは、それが、信仰にもとる行為だということです。

ひとりの兄弟が、その人に向かって信仰に生きることを邪魔する発言、行動をしたということなのでしょう。そして、そのとき、その兄弟を決して、放っておいてはならないと主イエスは仰います。我慢しなさい、あるいは、忘れてあげなさいとおっしゃっていません。ちゃんと忠告しなければなりません。何故でしょうか。理由は、はっきりしているはずであります。彼を愛しているからです。彼をキリストとの正しく深い交わりの内に取り戻すためです。

ただし、山下先生の答えにあるように、イエスさまが設定されたルールがあります。「二人だけのところ」です。他の人がいてはならないのです。二人の間の中で起こった相手の罪です。それを、誰かに告げてはならないのです。

主イエスは仰います。彼が言うことを聞きいれたら、兄弟を得たことになる。兄弟です。教会の会員のことを私どもは兄弟姉妹と呼びます。キリストが長男で、私どもはキリストの弟、妹たちです。キリストにある兄弟を得るとは、兄弟の交わりが続くということです。神の家族であり続けるということです。

ところが、主イエスは、こうも続けておっしゃいます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。」つまり、いつでも取り戻せるわけではなく、そこには失敗することもあるということです。何故、失敗したのかと言えば、罪を犯したその相手が、自分の罪を認めないということです。「罪を犯したのは、自分ではない。むしろ、あなただ」と言うことになってしまったのでしょう。反撃、反論されたということなのでしょう。

主イエスはその場合は、他にもう一人、あるいは二人に中に入って頂きなさい。そのようにして、他者の目で、信仰の判断をしてもらって、彼の罪をはっきりと認識させ、そして聞きいれるように、つまりは、悔い改めて、主にお詫びすること、信仰に立ち帰るように促すのです。

さて、ここでもごくごく基本的なことを、確認してみたいと思います。悔い改めとは、何でしょうか。それは、何も、顔を暗くして、涙を流して、ごめんなさい、わたしが悪かったのです。わたしを赦してくださいと、罪を犯したその本人に謝ることではありません。謝るのは、神さまに対してです。何故なのでしょうか。罪とは、神との関係だからです。このことは、おそらく未信者の方には理解できないと思います。「ごめんなさい」を、言うのは、目の前にいる相手であって、何故、そこで神さまにごめんと言うのか分からないと思います。

確かに犯罪であれば、その通りでしょう。しかし、繰り返します。ここでは聖書の言う罪が問題になっているのです。罪とは、神との関係を破ることなのです。したがって、悔い改めとは、神になすものです。そして、それが真実であれば、その実りとして、相手への謝罪へと結ばれて行くのです。しかし、何度でも、理解して頂けるまで繰り返すべきでしょう。罪とは、神に犯すことなのです。ですから、悔い改めるのは、神に向かってなす行為なのです。

さて、主イエスは、さらに続けます。それでも、客観的な証人の口で、確定されてもまだ、罪を犯したのは、自分ではなく、相手だと主張するとき、主イエスは、宣言されます。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」ここで遂に教会が出ます。それなら、ここでの教会とは何を意味するのでしょうか。この解釈を巡っては、様々に意見が出るのです。その意見によって、教会は監督主義教会、会衆主義教会そして私どものような長老主義教会としての教派、教会政治にあり方が定まります。今朝は、この学びを繰り返す暇はありません。

私ども長老主義教会は、ここでの教会とは、教会員全員と理解しません。長老たちの会議と理解するのです。教会の長老たちに訴え出ることが命じられるのです。そして、そこでの判定、決議が最終的です。そして、私どもは、それを、小会、中会、大会と段階的に進めて行くシステムを持っているのです。

さて、教会の言うことを聞き入れないなら、どうなるのでしょうか。これが、天国の鍵の権能の消極的な執行になってしまいます。聖餐の食卓を止めるということです。罪を悔い改めるようにと、聖餐の食卓にあずからせないということが起こるわけです。それを陪餐停止と申します。その前の戒規、究極の戒規について、ここで学ぶ暇はありません。

これが、聖書の指示です。私どもの主にして救い主なるイエス・キリストがご制定なさったのです。これは、好き嫌いとか、ゆっくりと教会員の中で議論を重ねましょうとか、あるいは、これは昔のことであって、現代では通用しないとか、この世的ないかなる解釈の余地もありません。万一、そんな聖書は、おかしい、うけいれられないと言って、捨て去ってしまうなら、そのようにして、自分のいのち、自分の存在を捨て去ってしまうことになります。

私どもは、断固、聖書の御言葉に愚直に従うしかありえません。聖書の指し示す真理、ただ神の喜びを満たし、神の栄光をあらわすキリスト者の歩みを保持するのみです。これは、多数決でもありません。

主イエスの宣言を聴きましょう。私どもはこれをどのように読み、聞くのでしょうか。「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」
さて、私どもは先週の説教をここでも思い起こすべきです。先週の夜の祈祷会、わたしは、東京から戻って、出席しました。最初は、間にあわないと思っていましたので、司会を委員にゆだねていました。わたしが不在のとき、原稿を皆さんであらためて輪読し、そして、それぞれが感想、受けた恵みを分かち合いました。それを聴いておりました。とてもよいときでした。

主イエスは、語られました。*「これらの小さな者を一人も軽んじないように気をつけなさい。」*こう勧める主イエスだからその後で、たった一匹を探し出すために、99匹を野原に残す、父なる神の御心を主イエスがお教え下さいました。そして今朝の説教は、その直後に置かれています。

つまり、ここでも、主イエスが私どもに明らかになさるのは、ただ、この御言葉です。「これらの小さな者を一人も軽んじないように気をつけなさい。」しかし、そのイエスさまごじしんが、「異邦人か徴税人と同様にみなしなさい」と命じられるのです。これは、単純なことではないと思います。

さて、そこでそもそも、考えたいのです。この福音書の著者は誰でしょうか。マタイです。マタイとは誰でしょうか。もともと、この人は徴税人でした。第9章で、マタイは、自分がどのようにして主イエスの弟子とされたのかを物語りました。あの時の説教で、マタイによる福音書の読み説く重要な鍵になるのは、著者が徴税人であったということだと何度も強調しました。

主イエスがマタイを弟子にしたとき、ファリサイ派の人々は、厳しくこのように批判しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」即座に、主イエスは、お答えになりました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」この主イエスの恵み、ご愛に触れたのがマタイなのです。そして、彼は自分にしてくださった主イエスの愛と恵みを福音としてマタイによる福音書において展開しているのです。

そうであれば、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」という主イエスの御言葉を、単に、異邦人や徴税人として、ファリサイ派のように完全に手を切ってしまいなさいという命令として聞きとってよいのでしょか。わたしは、違うと思います。

主イエスは、罪を徹底して憎まれます。神は、決して、罪を犯す者を、水に流しません。反省すれば赦されるなどと、聖書のどこを開いても書いていません。罪は必ず罰せられます。私どもの神は、罪をお怒りになられる神でいらっしゃいます。これが聖書の神です。旧約聖書の神も新約聖書の神も一人の同じ神です。旧約は厳しい神で、新約は優しい神だというのなら、それは、間違いです。

しかし、私どもは福音を知ったのです。主イエス・キリストにおいて神を知ったのです。つまり、この神の怒りは、私どもにではなく、御子イエス・キリストに直撃した、下されたと言うことです。神が、御子を十字架で裁かれたのです。神はその独り子をお与えになった、十字架でそのおいのちをお与えになられました。この神の愛、犠牲の愛これが私どもの救いなのです。神の聖なる厳しい怒りは、実に、私どもにではなく、ご自身の御子に下されたのです。そのようにして、私どもを過ぎ越して行ったのです。

こうして、私どもは、神の前に正真正銘の異邦人であり、また、具体的に徴税人でしかないのです。しかし、その徴税人の友となってくださって、徴税人の身代わりに十字架についてくださったのです。

教会は、この徴税人、罪人を友として得るために、悩み続けます。苦しみ続けます。牧師をはじめ長老とは、まさに、教会の中で、この罪を正しく処置する奉仕者に他なりません。主イエスにならって、異邦人、徴税人の友となり、悔い改めへと招くということです。もとより、すべての徴税人と罪人が主イエスの弟子になったとは、書いていません。全員が、イエスさまの愛に感動し、受け入れたとも書かれていません。少数者であったのだと思います。しかし、主イエスは、ユダヤ人から絶対につきあってはならないと断定された徴税人と罪人たちをご自身の食卓へと招かれたことを、教会は原体験としています。著者である使徒マタイの原体験なのです。

そして、それは、わたしじしんの原体験でもあります。聖書を鼻をかんで捨ててしまった罪人が、今や、説教者として用いられているのです。いへ、皆さまの原体験のはずです。私どもはかつて、「子どもカテキズム」で学びました。「あなたは罪人ですか」との問いを学びました。そして、「はい、わたしも罪人です。」と答えたはずです。応えることができたからこそ、悔い改めの恵みを与えられ、赦されて、洗礼を受けることができたはずです。私どももまた、一人の徴税人のようなものにほかなりません。しかし、イエスさまは、そのような者を愛し、そのような小さな者のひとりを救うため、神の子とするため、ご自身の兄弟とするために神の御怒りを十字架で代わって受けて下さったのです。

祈祷

教会の頭主イエス・キリストの父なる御神、主イエスが教会を愛し、教会の交わりを築くために、愛の真心を込めて、兄弟姉妹の間の罪の問題、その処置、解決の筋道をお示しくださいました。どうぞ、私どもの教会が人間的な思い、この世的な常識の中で右往左往することなく、福音の真理、天国の真理にこれまでのようにこれからもいよいよ堅固に立ち続けさせて下さい。私どもの耳を開き、心をまっすぐに高くあなたに向けて、もしも、自分に罪を犯す兄弟がいたときのために、長老たちを与え、共に乗り越える道を示して下さい。いへ、何よりもそのように罪を犯すことから、私どもをどうぞ、お守り下さいませ。