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心ひとつに祈るとき-罪の赦しに生きる教会-

「心ひとつに祈るとき-罪の赦しに生きる教会-」
2011年11月13日
テキスト マタイによる福音書 第18章15-20節②

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

本日も、先週に引き続きましてマタイによる福音書第18章15-20節からの御言葉を学んで、礼拝を捧げます。この個所からの2回目の説教ですが、本日は、特に、18節から20節を中心に学びたいと思います。

先週の説教の題は、「ひとりの兄弟を得るために」でした。新共同訳聖書には、小見出しがついていて、確かに便利です。ただし、うっかりするとその小見出しに引きずられて、その個所を間違って読んでしまう危険性があります。ここでの、小見出しは、「兄弟の忠告」となっています。それは、15節、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行ってふたりだけのところで忠告しなさい。」に基づいているのだと思います。ここでは、まさにこの「忠告」という言葉を正しく理解できるかどうかが、決定的に大切になります。

ここでは、「忠告、証人、異邦人か徴税人として扱え」と下級裁判から上級裁判へと段階的に進んで行くための、やりとりが出ているわけです。確かに、教会裁判のルールについて記されていると読むことができますし、世々の教会は、そのように解釈してまいりました。ただし、一般の方が、教会裁判と聞かれたら、もしかすると、中世の魔女狩りのような教会裁判をイメージされるかもしれません。それは、とんでもない誤解になります。教会裁判とは、罪の処置を巡ってなされるものです。しかし、それは、何のためにするのか、何を目指しているのか、それが決定的に重要です。それを、明らかにするために、先週の説教の題を「ひとりの兄弟を得るために」としたわけです。

さて、もとに戻ります。忠告についてです。これは、決して告発ではありません。「あなたは、罪を犯しましたね。それでは、ダメです。わかりましたか。わかったなら、私に対して、お詫びをしなさい。」そんなことではまったくありません。ここでの罪とは、単なる人間関係のことではないのです。犯罪のことではありません。神との関係のこと、神の前に的外れな思いや言葉や行い、つまり、生き方をしていることです。それを、忠告するのです。忠告は、激しい愛に基づいているのです。はらわたを震わせるほどの、痛みを伴うような愛です。感情を抑えきれないほどの激しい愛に基づくものです。神の愛に迫られてするものです。

この忠告とは、もとの言葉、ギリシャ語では、エレンコーと言います。それは、「光にさらす、明るみに出す」という意味もあります。何のために光にさらすのでしょうか。そこでも、また、一般の方々は、誤解される場合が少なくないと思うのです。例えば、このようなイメージです。泥棒が、暗闇に隠れている。そこに、ライトを当てて、現行犯逮捕する。しかし、第18章でイエスさまが心を込めて語って下さった御言葉を学びとることができたのであれば、そのようなイメージを持つことはできないのではないでしょうか。

主イエスは、ここで、一人の兄弟を、何としてでも、失いたくないとの父なる神の御心を語っておられます。そして、その兄弟こそは、5節の「ひとりの子ども」です。6節の「小さな者の一人」です。10節の「これらの小さな者の一人」なのです。そして、まさに結論となるみ言葉がこれです。第14節、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」もはや、明らか過ぎることだと思います。罪を犯した兄弟に何故、忠告するのか、忠告しなければならないのか、それは、この罪を犯した兄弟を、小さな者、そのたったひとりの滅びをものぞまない父なる神の光にさらすこと、照らしてあげることです。つまりは、赦しの神の御前に、さらして、兄弟の罪を赦していただくためです。そのようにして、兄弟を神の家族、兄弟として取り戻すためです。

使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙で、言いました。エフェソの信徒への手紙第5章でこう言いました。「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。『眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。』」

神の光を浴びたら、その人は光となると言うのです。自分で光を放つわけではありません。光とされてしまうのです。そして、死者の中から立ち上がるのです。つまり、復活するのです。神の前に肉体的には生きていても、霊的には死んでいた人が生き返るのです。これが福音です。これが、私どもの主イエス・キリストの父なる神です。神の光とは、そのような光以外のなにものでもありません。どうぞ、もしも、キリスト者であって、洗礼をお受けになられても、この点において、なお、クリアになっていない兄弟姉妹がいらっしゃれば、今朝の礼拝式こそが恵みのときです。光のときです。

私は、これまで、ニカヤ信条を唱える素晴らしさを何度も語ってまいりました。この信条は、特に、聖餐の礼典を執行するとき、つまり礼拝式において唱えられるようにと、整えられ、用いられてまいりました。そこで、私どもは、イエスさまをこのように賛美します。「光よりの光」。光なる父なる神から放たれ、私どもを今ここで照らしておられるのが、光なるイエスさまでいらっしゃいます。このいのちの光、あたたかな光に照らされるとき、私どもはいかなる罪人であっても、どんな罪を犯そうが、悔い改めることができるのです。信じることができるのです。赦されるのです。この光は、誰もが、浴びることができるし、私どもは今まさにここで、浴びているのです。

さて、そこでこのようなすばらしい救いの出来事が自分自身のものとなる、神の恵み、そのすごさに驚かされ、圧倒されるためには、大前提があります。それは、自分が罪人であることを知ることです。そして、その罪は、神の怒りを受けなければならないことを知ることです。神の義、神の怒りが分からなければ、光に照らされることの恵み、喜び、何よりも必要性が分かりません。自分自身が、小さな者、迷い出た一匹であることを認めなければ、第18章のイエスさまの説教はからまわりです。その人には、ほとんど、意味がないのです。自分は、じぶんの力でやって行ける、そんなみじめな、小さな人間、幼子ではない。わたしは、大人だ。自分の力、努力、まじめさでここまでやって来たのだし、これからだって、こうして生きて行ける。そのように、暗闇のなかに閉じこもって、自分の本当の姿をみようとしない限り、どこまでも、ここでのイエスさまの説教は、心に響きません。心に入りません。

さて今朝、ここに呼び集められた方々の多くは、既に洗礼を受けていらっしゃいます。又、洗礼入会を願って学んでおられる求道中の友もいらっしゃいます。私どもは先週も、説教で、聖書の言う罪について確認いたしました。私どもは、既に、自分自身が神さまの御前に罪人であることを、悟らせて頂いた者たちだと思います。

そして、一週間の旅路を振り返るだけでも、私どもはいつでも、意気揚々として、礼拝堂に集うというわけには行かないのではないかと思います。主の日と水曜日の祈祷会、この二つの集会に、いつでも顔を挙げて来ることができたら、まことに幸いです。しかし、時に、失敗があります。「あんなことをやってしまった。あんなことを、言ってしまった。明らかに自分の間違いだ、明らかに、キリスト者としてふさわしくないあり方だった。悪いのは、わたしなのだ。」そして、それが高じるとき、教会への足取りが重くなることもあります。

とりわけ、洗礼を求め、洗礼入会の恵みを求めて学ぶときには、この壁にぶつかりやすいと思います。試みる者がやってきて、こう耳にささやきます。心の耳にささやき、問いかけて来ます。「あなたは、本当に、そんな生活ぶり、心の持ちようで、そんなちっぽけな信仰で、一生涯、キリスト者としてまっとうできるのか。キリスト者の信仰と生活を貫けるのか。」男性なら男性の、女性なら女性の、若い方なら若さゆえの、ご高齢ならその年齢故の誘惑があります。弱さがあります。そこを、悪魔はついて来るのです。「おまえは、本物の罪人だ。おまえほどの意思の弱い、心の弱いやつは、教会など行ってもだめだ。」「あのこと、このこと一つでも、克服できないお前が、教会生活を営むのは、100年早い。」ありとあらゆる、誘惑があるでしょう。そして結局、自分の罪深さにだけ、焦点を、悪しきスポットライトを当ててくるのです。これは、まじめで誠実なキリスト者であれば、あるほど、陥りやすい一つの罠だと思います。

教会の改革者、マルチン・ルターの有名な言葉の一つにこのようなものがあります。「大胆に罪人であり、罪を犯しなさい。だが更になお大胆に信じなさい。」ルターが同じ教会の改革者、牧師であるメランヒトンに送った手紙の一節です。この言葉を丁寧に正しく説き明かすことは、簡単なことではないと思います。しかし、このようなことです。

主イエスは、兄弟があなたに罪を犯したら、二人だけのところで忠告しなさいとお命じになられます。もしも忠告しないのなら、その人もまた、彼の罪に加担することになるからなのです。そして、兄弟の罪をしっかりと指摘しなければなりません。はっきりと、本人に認めさせなければなりません。

それは、言わば、彼の犯した罪を大きくすることだと言ってもよいと思うのです。本人がこれは、小さい、取るに足らないと思っているかもしれない罪、あるいは、罪は犯していないと思っているまさにその問題を、その問題の大きさ、重さを悟らせることです。

たとえば、具体的に申しましょう。牧師は、信徒や求道者の皆さまに、罪を大きくする、大きくしなければならないわけです。説教こそまさに、その一つの代表的、中心的行為です。説教において、聖書を説き明かし、神の言葉を宣言します。「あなたは、そのままでは、神さまの前に隠れていることになります。あなたは、そのままでは、まことの信仰の道を進み行くことはできません。」そう告げるのです。告げてあげなければ、わたし自身が罪を犯すことになります。

さて、しかしそこで、こう言うことが実際に起こると思います。それは、そのことで、良心の呵責を覚えて、がっくりして、落ち込んで、教会に赴く足が重くなるということです。

さて、そのときです。そのとき、牧師じしんか、あるいは誰か長老か、執事か、私どもで言えば、伝道所委員が、その方により添ってこう告げるとしたら、いかがでしょうか。「まあまあ、どうぞ、それほどまでに落ち込み、悩み、苦しむことはないはずですよ。もう、十分、苦しんだのでしょう。もう十分、反省しているのでしょう。だったら、もう、忘れてしまいましょう。心を明るくして、他のことを考えましょう。」

いかがでしょうか。それは、まったくの間違ったアドバイスです。それが、まさに、ここでの罪を犯すということに、当てはまるはずです。罪とは、神の前に犯した行為でもあります。具体的には、十戒を破り、御言葉をないがしろにしてしまったことです。そして、それは、その何一つとして、軽いものはないのです。

ルターは、その手紙の中で、むしろ、罪を大きくする、大きくしなければならないというのです。それが、「大胆に罪人であり、罪を犯しなさい。だが更になお大胆に信じなさい。」ということです。

いったい何故、ルターは、このような深い聖書の真理を語れるようになったのでしょうか。今朝は、この一点だけに、注目したいと思います。ルターの戦いは、当時の福音の真理から逸脱したローマ・カトリック教会だったというこことです。

皆さまは、ローマ・カトリック教会の礼拝堂に入堂されたことはおありでしょうか。すぐに、私どもとの違いがわかると思います。その一つに、ローマの礼拝堂にあって、私どもにないものがあります。それは、「告解室」です。それは、礼拝堂の後ろにある小部屋です。信徒は、一年に最低一度は、司祭である神父さんとそこで向き合って、告解を受けなければならないのです。それはなにかと申しますと、自分の犯した罪を、神父さまに告げることです。一年に最低一度、これをしないとカトリックではないのです。毎週でもよいのかもしれませんが、少なくとも年に一度とされています。その小部屋では、互いに向き合っていますが、顔が見えないように、隔てがあったり、ベールが下がっています。余計な心配かもしれませんが、小さな教会であれば、声を聴いただけでどなたかは、わかるでしょう。しかし、わたしは、このことは、基本的には、実にすばらしい行為だと考えております。わたし自身これまで、いったい何回、「何かあれば、牧師のところに来て下さい。何もなくても、個人的に祈りましょう」と呼びかけてまいりました。キリスト教の歴史をひもとけば、この罪を告白し、それを聴いてあげる、そのような罪の処置の仕方がどれほど大切であるかが見えてくると思います。そして、明らかな事実です。それだけに、ローマ・カトリック教会は、そのための部屋を必ずもうけていますし、それを教会の規則としたのです。ローマ教会の言わば教会訓練です。ちなみに、教会訓練のことを、ある方は、「教会生活のしつけ」と訳されました。人間にとってしつけは大切、いへ、必須のことでしょう。

さて、神父さんは、懺悔を聴いた後で、「あなたの罪は赦されました」と宣言します。問題は、その後です。その後で、神父さんは、こう勧めるのです。あなたの罪を償うためには、「これとこれをしなさい。」具体的に指導するのです。これは、おそらく優しさなのだと思います。信徒は、それは、奉仕なのかもしれませんし、献金なのかもしれませんが、具体的なことをしたなら、「ああ、これで償われた、これで赦されたのは確かだ」と思うのでしょう。しかし、それは、はたして福音の真理に立つ行為と言えるのでしょうか。

それに対して、私どもは改革された教会は、基本的には、罪の懺悔と赦しの宣言を、主日礼拝式で行います。私どもは特に、牧会祈祷そして説教でそれがなされています。説教で、「あなたの罪は赦された」と宣言されます。そして、そこで終わるのです。その後、あなたの償いとして、あれとこれをしなさいと続きません。何故でしょうか。それは、神のみ言葉の確かさ以外に、頼らせないためです。私どもは、主イエス・キリストを通して、父なる神からの赦しの宣言を聴きます。あなたの罪は赦されたと聴きます。それで十分のはずです。それを信じること、それが赦しに必要なのです。信じること以外に、赦しは成り立ちません。自分で償うことによってもたらされる手ごたえは、信仰ではありません。信仰のない方々と同じことです。これは、かなり乱暴な譬えですが、交通違反をして、切符を切られて、罰金を納める、罰金を納めることによって、違反は免除される、罰金を払えば、それで完了です。あとは、すっきりできるわけです。神父さんがもしも、罪を犯した信徒の気持ちを和らげるために、そうするのであれば、それは、とても危険なことです。じぶんで自分の罪を贖わせてしまう誘惑がそこにつきまとうはずだからです。それは、結局、自分を義とする。自己義認になるからです。

そもそも、改革者ルターが再発見した福音とは、信仰によってのみ義とされること、信仰義認でした。つまり「罪を大きくする」と言うのは、罪の赦し主、イエス・キリストとその十字架を大きくすることに他ならないのです。「大胆に罪人であり、罪を犯しなさい。だが更になお大胆に信じなさい。」そうです。大胆に信じることへと導くことが、罪を大きくすることなのです。

次に進みましょう。第18節は、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」既に、第16章で学びました、いわゆる鍵の権能のことです。教会には、天国を開き、閉ざす権能が与えられているわけです。

聖書は、とても、深いです。じっくり読まなければ、その論理について行けないところが少なくありません。いったいマタイは、何故、ここで、突然のように、祈りについて言い始めるでしょうか。もしも、この繋がり方はおかしい、意味が分からないと言って、聖書を閉ざしてはならないはずです。

確かに、これを素朴に読みますと、神さまにお願いごとをすれば、何でもかなえられるということになるかもしれません。しかし、子どもの教会の教師方は、いかがでしょうか。子どもたちにそう教えられるでしょうか。わたしは、できません。むしろ、こう教えています。「お祈りをして、神さまにお願いしても、それが御心でなければ、かないませんよ。だから、神さまの御心を知るために、どんどんお祈りしましょう」

それなら、ここで、主イエスがはっきりおっしゃった「どんな願い事であれ」とは、どう言う意味でしょうか。さて、ここでも文脈が決定的に大切です。これまで、主イエスの議論とは、罪を巡ってなされたものでした。しかも具体的な罪でした。兄弟があなたに罪を犯すというのです。ということは、ここでの二人とは、まさにその二人ではないでしょうか。兄弟の罪を光にさらしたとき、悔い改めが起こるのです。悔い改めたなら、必ず、「神さま、天のお父さま、わたしの罪を赦して下さい」との祈りが起こるはずです。そのとき、忠告した人も、いっしょに祈るのです。どんな罪でも、まさにいかなる罪でも、赦されない罪はないということです。そのとき、求められているのは、心を一つにすることです。条件は、ただそれだけです。教会とは、心を一つにして、心を合わせて、罪の赦しが起こるように、神に祈る共同体、そのために奉仕する赦しの共同体なのです。

第19節に続きます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」開拓伝道の一年目、その礼拝式のなかで、何度、この御言葉を用いて祈りがささげられたかと思うほど、教会にとって決定的に重要な御言葉の一つです。

先週も、読書会で、一つのことを学びました。教会の標識というのです。交通標識の標識、目印、マークです。どのようなことかと申しますと、そこに本物のキリストの教会が存在しているのかどうか、何が目印になるのか、目安になるのかという教会の改革者たちの議論のことです。めじるしは、説教と聖餐の二つです。そして、そこで、もっとも大切な、根本的な真理は、この二つが、キリストのご臨在を明らかにする神の恵みの手段だということです。要するにこういうことです。神の教会、キリストの教会がそこにあるかないか、存在しているのかいないのかの区別、目印になるのは、そこに本当に、キリストご自身がともにいてくださっているかどうか。キリストのご臨在があるのかないのか。ただ、その一点にかかっているとういことです。これこそ、まさに私どもの生命なのです。イエスさまが聖霊によって今、ここにいらっしゃらなければ、何百、何千人がここに集っていても、まったく空しい集いです。そこでは、救いが起こりません。礼拝が成り立ちません。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」二人または三人が、イエスさまの御名によって集まっていれば、主イエスはその真ん中に、間にご臨在なさるとのお約束です。それが教会です。実に、マタイによる福音書はその冒頭にこう記しました。「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと唱えられる。この名は、「神は我々と共におられる」と言う意味である。」そして、マタイの結びの言葉はこれです。第28章20節、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」つまり、マタイによる福音書にとって、神が共におられる、イエスさまが共におられるということこそ、私どもの救いそのもの、恵みそのもの、祝福そのもの、キリスト者のいのちそのものだというわけです。そして、私どもはいまここでいのちなるキリストの臨在によって、永遠のいのちの祝福に満たされているわけです。感謝あるのみです。

最後に、それなら、そのキリストの教会は、何のために集まっているのでしょうか。文脈からすれば、罪を犯した兄弟の罪の赦しのために、集まっているということでしょう。確かに、教会は、天国の門を閉ざすということをも、主イエスから命じられています。永遠の裁き、滅びにもかかわるのです。しかし、その究極のことも、結局は、ただ一つのことを目指してなされるのです。何としてでも、小さな者の一人を守ろう、教会に取り戻そう、天国へ取り戻そうという父なる神の愛の御心、一人でも滅びるのを悲しまれる父なる神の憐れみの御心に基づいてなすのです。

罪の処置を巡って、主イエスは、ここで丁寧にていねいに御心を示して下さいました。何故なら、主イエスが十字架につき、ご復活なさったのは、ほかでもありません。私どもの罪を処置するためなのです。つまり、私どもの罪を赦し、永遠のいのち、天国を開き、そこに招き入れるために十字架で死んでくださったのです。そのようにして、キリストが地上に獲得されたのが、教会、この名古屋岩の上教会もその教会のひとつなのです。

祈祷
教会をご自身の御子の御血をもって贖いとられました父なる御神、今、私どもが捧げるこの祈り、この礼拝式を受け入れて下さい。心を一つにして、私どもは罪の赦しを祈り求めます。私どもの赦されざる罪、そのすべての罪を御子の十字架の故に、私どもが御子を信じる故に、赦して下さい。御前で消し去って下さい。今、罪あるままで、私どもがあなたの光を浴びていることを、確信させて下さい。私どもが今、あるがままで光の子とされていることを信じさせて下さい。心から感謝いたします。私どもは、今、あなたの光に照らされて、光となっているからです。アーメン。