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「なぜ、互いに赦しあうのか」

「なぜ、互いに赦しあうのか -主イエスの仲間-」
2011年11月27日

テキスト マタイによる福音書 第18章21-35節②

「そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 

先週の礼拝式に引き続き、今朝もまた、マタイによる福音書の第18章の結びの個所を学んで礼拝式を捧げます。先週は、21節と22節に焦点を定めて学びました。今朝は、23節以下の譬え話に集中して学び、私どもの神の恵みと愛を心から賛美し、礼拝してまいりましょう。

ここに、ひとりの王が登場します。この王は、家来たちにお金を貸しているというのです。実に、不思議な王です。そもそも、そんな王が、この地上にいるだろうかと思います。そうです。これは、譬え話であるということを先ず確認しておきましょう。主イエスが用いられた譬え話によって、伝えようとする大切なメッセージとは、神の国に生きる人々の考え方、天国に生きる人々の生き方、つまり、神の真理です。主イエスは、譬えを通してこそ、はっきり、くっきりと描き出されるのです。

それなら、この王とは誰の譬えでしょうか。それこそ、父なる神さまの譬えです。次に、ここでの家来とは、誰の譬えでしょうか。それは、神との関わりにおける我々人間のことです。ただし特に、焦点を絞れば、教会に生きる人々、キリスト者のことだと言ってもよいのです。

イエスさまはここで、「ある王が」と話し始められました。この御言葉によって、神の真理の事実を告げられます。聖書を初めて読まれる方は、いつも、そこで驚かされるのです。何かと申しますと、聖書は、いつだって突然、「神さまが、神さまは」と語り始めるからです。聖書は、神がいらっしゃるかいらっしゃらないのか、などというのんきな議論をまったく知りません。興味がないのです。しかし現代人には、特に、日本人には、そこが分からないことです。そこでまず戸惑うのです。聖書のどの個所を開いても、神さまがいらっしゃることを説明することばがありません。ただ神の言葉とそれによって起こる神の御業の事実だけを告げます。

次に、貸した金の決済です。これは何を意味するのでしょうか。最初に申しましたように、王さまは、家来にお金を貸しておられます。これは、私たち人間は、神さまから借りている存在なのだという事実を告げる言葉です。それなら、何を借りているのでしょうか。それは、わたしたちの命、生命です。ここに、人間にとってのまさに基本的な認識があります。いのちは授かりものなのです。人間にとってまさに大前提、必須の認識です。「人間は、生きているのではなく、生かされている。」のです。したがって人は誰も、「じぶんの命なのだから、じぶんのものだ。自分の思うがままに、自分のよいように使っていいのだ」とは言えないということです。いのちを始めとして、人生つまり時間、そして能力、さらに経済など、すべては、神さまからお預かりしているものなのです。本来は、神のものなのです。ですから、誰一人の例外もなく、最後の審判、決算のとき、神の前に、その報告をなすときが備えられています。

譬え話の中身に入りましょう。その決算の日が、突然来ます。ひとりの家来は、なんと、1万タラントンものお金を王さまから借りていたというのです。いったい、どれくらいの金額でしょうか。ちなみに、タラントンとは、ギリシャ世界の通貨単位です。1タラントンは、6000ドラクメに相当します。そして、このドラクメとは、1日の平均給与と言われます。計算が難しいので、1万円とすれば、1タラントンは6000万円になります。その1万倍です。10倍で6億円、100倍で60億円、1000倍で、なんと600億円。1万倍では、6000億円です。最近、世間を騒がせている会社の例では、元会長が、100億ものお金を不正に持ち出して会社に損害を与えたと言うことで、特別背任罪で告訴されている方がいます。しかし、ここでは、桁違いです。何よりも、ここでは家来が王から正式に貸して頂いているのです。

6000億円ものお金を貸したのは、王さまです。この譬えで明らかにされるのは、もともと私たち人間とは、誰でも、お金に換算すれば、数えることすらできないほどの巨額のお金を借りているということです。しかも、単にお金のことだけではありません。聖書のこのタラントンの譬え話から、タレントという言葉が生まれました。意味は、能力です。その人の能力、賜物です。つまり、人間には、ひとり一人には、とてつもないほどのタレント、能力が神から与えられているということに他なりません。

さてしかし、彼は、支払えません。無駄に使ってしまったということです。そこで、王は、こう言います。「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。」

先週の夜の祈祷会でこの個所を読んだひとりの若い姉妹が、こんなことを言いました。「王さまだからと言って、本人だけではなく、妻も子も売ってしまって返済しなさいって言うところは、ちょっとやりすぎではないか、怖いと思う。でも、同時に、ただ、口先で返済しますと言っただけで、全部赦してしまうわけだから、優しいわけだし、そのあまりの落差に戸惑ってしまう。」なるほどと思いました。

実は、ここには、私どもが、聖書の御言葉、福音の真理を正しく聴きとるために、極めて大切なことが指摘されているのです。それは、この王が、「返済せよ」とお命じになられたことの正しさです。素朴な事実ですが、借金とは、返済しなければならないものなのです。契約は、履行されなければならないものなのです。これが、大前提です。絶対の前提です。つまり、王さまのこの要求は、圧倒的に正しいのです。返すのは、当然すぎるほど当然の義務です。

彼は、とっさに、ひれ伏します。そしてこう言います。「どうか待ってください。きっと全部お返しします」彼は、何度も何度も、お願いしたのです。自分が牢屋に入るだけではなく、家族の人生まで台無しにしてしまうことを、彼は、本当に悔いたのだと思います。何としても、それだけは、赦して頂きたいと願ったのだと思います。しかし、普通に考えてしまいますと、6000億円の借金をつくったこの人が、この天文学的な数字の借金を個人として返済できるはずもないのだと思います。どれほど、涙を流して、「きっと全部お返しします」と言われても、いへ、全部返済しますと言う、それがむしろ、「あざとい」と言いましょうか、無理なことを自分でもわかっているのだと思います。しかし、とにかく、赦してもらいたかったのです。あるいは、そう言わなければ赦してもらえないとでも考えたのでしょう。彼は、自分ができるかできないかを顧みず、とにかく、「きっと全部お返しします」と約束を繰り返して願ったのです。

私は、普通の王であれば、彼が、願えば願うだけ、むしろ、こう応答すると思うのです。「このうそつきめ。全部返済するなんて、まだ調子のよいことを言うのか。お前の口先だけのことを、誰が信じると思うのか。」そして、「ひっ立てよ。牢に入れよ」こう対応すると思うのです。それが、常識と思います。

ところが、この王は、異常な対応をするのです。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。」
実に、このイエスの譬え話こそ、これまでのマタイによる福音書における主イエス・キリストと父なる神からのメッセージの言わば結論であり、要約です。

「憐れに思う」この一字、この一文字にこそ、この王の存在のすべてが現れているのです。繰り返しますが、この王こそ、神でいらっしゃるのです。主イエス・キリストの父なる神でいらっしゃいます。憐れに思うとは、ギリシャ語では、スプランクニゾマイ、はらわたがちぎれるほどの痛みを伴う激しい感情を意味する言葉です。今、この王さまは、この愚かな、ふとどきな家来が、お赦しくださいと願い出たその行為に対し、憤りを持っていらっしゃらないのです。

王さまが赦されたのは、彼の言葉を信じたからではないはずです。返済できると信じたからではないはずです。それなら、赦そうとなさる理由はどこにあるのでしょうか。根本的に重要な真理はこれです。この家来が赦された理由は、この家来にはないということです。これこそが、この譬えの要です。彼が、赦される理由は、ただ、王さまの心にしかないのです。そして、この王は、こんな男の、こんな願いに対して、一方的に、はらわたをちぎれるようにして、かわいそうにと憐れむお方、愛の御心に満ち溢れているのです。

この王は、たとい6000億が戻ってこなくても、どれほどの宝、能力が失われたとしても、そんなものは、どうでもよいとすら思われる、そのようなお方なのです。私どもの神は、私どもが、ご自身から離れてしまって、罪とその責任を負うだけの悲惨な現実、人生を送ることを、一方的に憐れんでくださるのです。放っておけないのです。この王は、惜しまれるのは、お金でもなければ、能力でもなく、この家来との関係が切れてしまうこと、この家来が自分の家来として生きることができなくなること、それだけなのです。つまり、私どもが、この神、主イエス・キリストの父なると離れ離れになることを、憐れんでくださるのです。

さて、借金を帳消しにしていただいたこの家来は、無罪放免、解放された喜び、嬉しさに溢れて小躍りするように外に出ます。ところが、すぐに、100デナリオン、ほぼ100万円貸している仲間に出会います。彼は、ただちに、血相を変えます。だっと走り出して、捕まえてしまいます。首を締めて、「借金を返せ。」と迫ります。

そこで、この仲間は、ひれ伏して、心の底からお詫びします。「どうか待ってくれ。返すから」それは、たった今さっきの自分の姿に他なりません。しかも、その借金の額は、けた外れに小さなものです。ところが、彼は、「承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。」とあります。彼が、ここで何にこだわっているのかが、明らかです。それは、返済です。お金です。しかも、もっともっと恐ろしいことは、返済を求めながらも、彼を牢屋に入れてしまったことです。いったい、ここで何が最大の問題になるのでしょうか。それは、この家来が、借金を返せない仲間の家来に対して、その仲間どうしの関係を、完全に切ってしまうということを意味しているわけです。牢屋に入れるということは、もはや仲間ではいられなくなるということです。ここに、彼の最大の問題があるのです。それをこそ、罪と言わざるを得ません。

さて、そこで、こう続きます。「仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め」とあります。ここで、仲間たちが、非常に心を痛めているという譬えも、極めて重要です。彼らは、このひとりの憐れな仲間を、牢屋に入れられた仲間を、返してほしいからでしょう。前のように共に生活すること、仲間としての絆を結びながら、共に生きることを願っているのです。そこで、主君にことの次第をすべて説明します。何のためだったのでしょうか。わたしは、単に告げ口をして、この人を懲らしめてもらおうとするためでは決してないと思います。彼らは、とにかく、自分たちの仲間を、取り戻したいのです。そして、同時に、主君がこの仲間を憐れんで下さることを信じている、あてにしていることが分かります。こういう心があったのではないでしょうか。「王さま、まったく申し訳ございませんが、どうぞ、100デナリオン、立て変えて頂けませんでしょうか。私たちで、返済しますから。」何度でも確認したいのです。このように彼らが、願った理由は、ただ一つです。この仲間を失いたくないからです。

いわゆる処罰感情というものがあります。被害者が加害者に対して抱く、その意味では当然の感情だと思います。しかし、この主イエスの譬えの中では、この仲間たちは、1万タラントン赦された仲間への処罰感情のゆえに、報告したのではないはずです。心を痛めたのは、牢屋に入れられた仲間に対してです。

さて、ここで王は、この赦してあげない家来に対して、言います。「『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」これが、王のとった最終的な態度です。

いったい、王の心からの願いとは、何でしょうか。それは、王さまが彼を憐れまれたように、彼もまた自分の仲間を憐れむことです。赦すことです。そして、繰り返します。赦すとはどのような意味でしょうか。それは、仲間になり続けるということです。仲間でい続けることです。それを、最優先することです。

神が、私どもに求めていらっしゃることは、自分じしんが、神さまの前に赦されざる罪を赦され、罪をすべて帳消しにされて、家来としてつまり、神の子どもとして生かされている喜びと感謝に生きることです。そして、父なる神は、私どもに自分の仲間を赦すことをも求めておられるのです。兄弟を赦すことです。

第18章で学び続けましたが、赦すとは、その人の罪を見て見ぬふりをすることでは決してありません。我慢して、やり過ごすことでもありません。聖書の言う罪とは、本来、神との関係を壊すことに他なりません。その意味では、罪は神に犯すものなのです。

しかし確かに、対人関係の罪があります。十戒の後半、第5戒を思いだして下さい。父と母を敬いなさい。殺すな。姦淫するな。盗むな。嘘をつくな。隣人の家をむさぼるな。これらは、対人関係の罪であって、禁止されています。

それは、何のために与えられているのでしょうか。処罰感情を満たすためでしょうか。違います。兄弟を得るためです。ひとりの兄弟を、仲間を、神の交わり、教会の交わりから離さないための掟なのです。神と共に生きる喜び、神を信じる仲間たちと共に生きる喜びをはぐくみ、守るための戒めなのです。

今も、洗礼入会志願者と学び会を続けております。洗礼を受けるとは、まさに、罪の赦しを受けることです。1万タラントンの借金を帳消しにされることです。何故、洗礼を受けるのでしょうか。確かにご本人が、それを求めておられるからです。しかし、そこで、洗礼入会の試問の折、わたしはお尋ねします。「それだけですか」と。そこで問うのは、「こんなわたしのことを、父なる神が赦して下さっていることを知ったから、それを求めていてくださるからです。」ということです。驚くべきことに神ご自身が、わたしの赦しを願っておられるとうのです。これが福音なのです。人間の世界では、異常なことです。赦されてはならないはずの私どもなのです。しかし、父なる神は、なにゆえか、そうです、ただ私どもを憐れんでくださる故に、神がただ愛でいらっしゃる故にのみ、私どもは赦されたのです。神がそれを喜んでくださるのです。

最後に、この譬は、読めば読むほど、私どもに、際限なく、恵みと戒めを与えます。厳しい警告もまた与えられます。いかがでしょうか。この結びの言葉は、まことに恐ろしいものと言わざるを得ないと思います。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」この家来は、借金を完済するまで、牢に繋がれてしまうこととなりました。もはや外に出て来れません。これは、永遠の滅びの譬えです。まことに恐るべきことです。

しかし、この結論に対して、もしかするとそこに大きな矛盾を指摘なさる方もいらっしゃるかもしれません。つまり、「イエスは、自分で、7度の70倍赦しなさいと語りながら、結局、この家来を赦していないことになる。これは矛盾ではないか。やはり、赦しには、限界があるわけだ」という批判です。

しかし、時間の関係で、短く触れる以外にありません。たとい、主イエスであっても、仲間になりたくないと思う人を力づくで仲間にさせられないということです。いへ、まことの神だからこそ、天国に無理に入らせることはなさらないのです。何故なら、それは、人間の尊厳を否定すること、破壊してしまうことだからです。神に創造された人間は、聖霊なる神に従う自由、そして拒否する自由、御言葉に従う自由と背く自由の両方を与えておられるからです。これ以上は、今朝は申しあげる時間がありません。何よりも、これは神秘です。神の真理です。しかし、私どもがこの譬えでわきまえるべきこと、大切な真理は、神の仲間になりたくない、神による救いなんてどうでもよい、神に赦されるなどどうでもよいと、拒否する人を、神は、そのままにされると言う事です。これこそは、まことに恐るべきことであって、恐れなくてはならないはずです。キリスト者こそが、この警告を、きちんと聴くべきです。そのために、譬え話が語られてのです。

さて、最後の最後に短く触れます。「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。」王は、彼を牢に入れます。わたしは、先ほどこのように、申しました。100デナリオンの借金の返済を迫って、牢に入れた家来を批判しました。しかし、王さまじしんが、最後にこのようにします。もしかすると、このように批判する方もいらっしゃるかもしれません。「牢屋に放り込んでしまったら、もはや、借金返済のめどは、まったく立たなくなるではないか。返したくても返せないから、矛盾ではないか」と言うことです。しかし、これは譬えです。それなら、これは、何を譬えているのでしょうか。私は、まさに、今朝の説教、この譬えを本当に理解できたかどうかをまるでテストされるかのような、問いだと思うのです。

そもそも、ここでの借金とは何を意味しているのでしょうか。ここでの仲間を赦さなかった家来の借金とは、いったい何を意味しているのでしょうか。それは、6000億円というお金の問題ではありません。赦しの問題です。つまり、この不届きな家来が、100デナリオンの借金を返済しなかった仲間を赦さないこと、それこそが借金の本体なのです。そして、それこそが罪なのです。これこそ人に対する罪であり、神に対する罪そのものでもあるのです。

私どもの教会は、慰めの共同体、慰めの家であることを祈り求めてまいりました。それがキリストの教会の姿だからです。言葉を換えれば、赦しの共同体、教会です。そのような教会は、第一に、人を洗礼へと招くことに全身全霊を注ぐ教会のことです。洗礼を施すことこそ、天国を開き、罪を帳消しにする救いのしるし、だからです。
第二に、洗礼を受けた者たち、私どもキリスト者が、聖餐の食卓にふさわしくあずかれるように、教会の訓練を積極的に受け、互いに配慮し合う教会となることです。それがキリストの教会の姿なのです。そして、岩の上教会の姿であらねばならないし、ありたいのです。

主イエスが、この譬えを語り終えるとき、マタイによる福音書は、いよいよ主イエスの十字架への道行きが定まることを告げています。この1万タラントンの赦しは、いい加減なものではなく、現実のものなのです。赦されてはならないものを赦す時、それは、神が不正を働かれるのではありません。王なる神ご自身が、そこで、ご自身を犠牲にされるのです。ご自身の御子が、イエスさまが、この家来の代わりに罪の返済をされるのです。それなしに、赦しは成り立ちません。御子イエスさまが、人となられたのは、人間の身代わりに死なれるためでした。わたしの代わりに、罪を償い、そのいのちを犠牲にされたのです。

私どもは、このイエスさまの十字架の身代わりの死によって、罪を帳消しにされた者たち、そのようにして神の子、神の家来、神と共に生きる者とされたのです。だから、その仲間の一人のために、その仲間が、教会の交わりから離れて行かないために、私どもは赦すのです。お互いに赦しあうのはそのためです。それは、兄弟を永遠の命の交わりから、漏れ出させないためなのです。

祈祷

赦されることのないはずの私どもの罪を、御子の十字架の死、いのちの犠牲によって赦し、神の子として、永遠のいのちにほかならないあなたとの交わりの内に取り戻してくださいました、父と子と聖霊においていましたもう御神、御名を崇め、心から感謝、賛美申し上げます。あり得ない恵み、あまりにもおどろくべき赦しの恵みに言葉もありません。しかし、あなたは、その感謝を、具体的に、仲間を赦し、仲間を交わりに迎え入れるための労苦を引き受けることによって、現わすようにと招いておられます。あなたの御心によって救われ、今、あらためて知らされた者として、どうぞ、伝道に励み、教会においては愛の祈り、愛の業に倦むことなく励む者とならせてください。アーメン。