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福音にもとづく家庭生活

 「福音にもとづく家庭生活」
                 
2011年12月11日
テキスト マタイによる福音書 第19章1~12節 ②

「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」

弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

さて、本日も、先週に引き続いて第19章冒頭の同じテキストから御言葉を学び、そして神に礼拝を捧げます。

先週から学んでいますこの個所の内容は、私どもの家庭生活に直に触れる説教が語られていると思います。主イエスは第18章では、教会生活を正しく建てあげて行くための筋道をお教え下さいました。そして今ここで、このように語りなおされたと言うことができるだろうと思います。「わたしの愛する弟子たちよ、教会の交わりを建て上げて行くときに要となった、あの福音の真理、愛と赦しの共同体を建てあげるために七度の七十倍を赦す教えと実践とを、どうぞ、そのまま家庭のなかに持ち込みなさい。適応させなさい。夫婦の関係の中で実践してごらんなさい」

もとより第18章だけではなく、聖書に記された福音の教えのすべては、地上における神の国の中心的な現れである教会に生きるための教えです。しかし、それは、常に、教会の中だけに閉じ込めることのできるような真理では、まったくありません。教会における人間と人間とのかかわりにおける真理は、教会の外に対してあまねく及ぼして行くこと、そこにこそ、教会の課題、キリスト者の課題、伝道の課題があります。

さて、今朝は、第二回目の説教です。特に、弟子たちの本音、この本心を明らかにすることばに注目することから始めたいと思います。「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです。」彼らは、主イエスが語られる神が望まれる夫婦の関係、結婚のあり方に対して、はっきりと、こうつぶやきました。私どもに当てはめれば、男性のキリスト者が、こう言うことを言ったということになります。「妻が、不倫を犯しても、気に入らない言動を繰り返しても、離縁することが、許されないとするなら、妻などをめとらないで、独身生活をした方がましです。」と言うのです。

この発言の主旨を正確に把握するためには、当時の男女の関係を知っておく必要があります。私どもにとって、性の倫理について、学ぶとき、何よりも十戒の第七戒を思い起こすのではないでしょうか。

子どもカテキズムの十戒の解説において、このような言葉があります。
問55 第七戒は何ですか。答「姦淫してはならない」、です。
問56 第七戒で神さまが願っておられることは、何ですか。
答 神さまが、私たちに 結婚の祝福を与えてくださいました。ですから、男の人と女の人との関係を、 清く保たなければいけません。神さまは、結婚によって、 赤ちゃんを与えてくださいます。私たちは、そのときまで、性の関係を持ちません。」

つまり、教会の教えにおいて、男女の性的な関係は、結婚の制度のなかでのみ認めるということです。ところが当時のユダヤ人の理解は、そうではなかったと言われます。姦淫とは、結婚している相手と性の関係を持つことの禁止であって、未婚の異性との関係は、取り上げないというのです。だからこそ、弟子たちは、主イエスが、結婚生活の清さ、男女の関係の厳格さを語られた時、ファリサイ派の人々と同じように驚かされ、ひるんでしまったわけです。

そして当時の人々の理解では、離縁できるのは、男性の側からだけでした。その意味では、ファリサイ派も主イエスの弟子たちも、ずいぶん身勝手、男性中心、男性優位の社会常識の中にどっぷりつかっていたということがわかると思います。しかも、実にこの問題は、2000年の教会の歴史を振り返っても、まだ克服されてはいないと言わなければならないと思います。聖書の御言葉、その真理を男性中心に解釈しようとする間違い、誤解は、正されていない状況があります。ですから、今朝、改めて、本来あるべき男性と女性とのあり方を主イエスから、聖書から学びたいと願います。そしてそれは、とりもなおさず、人間とは何かを根本から問い直すことです。

主イエスは、こう仰せになられました。*「あなたたちは読んだことがないのか。」*主イエスは、先ず、読むことをお求めになられます。直接的には、創世記第1章そして第2章です。私どもの議論、人間とは何か、男と女の意味とは何か、そのような根本的に重要な議論は、創世記の第1章第2章をきちんと読むこと、理解するところから始めなければならないことが、ここで明らかにされています。

主イエスは、仰います。 「創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」この御言葉は、創世記第1章27節以下の引用です。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 

創世記は、先ず、人は、神ご自身にかたどって創造されたと宣言します。「かたどって」とは、「似せて」とも訳されます。あるいは、ご自身の「かたち」に創造されたとも訳されています。英語では、神のイメージで、という訳もあります。

いずれにしろ、人間こそ、神にもっとも近く、神の輝きが反射され、反映されている存在に他ならないという理解が求められています。そして、ただちにその人間とは、「男と女とである」、「男と女にある」と聖書は主張します。それは、神ご自身が男性の神、女性の神の二人が存在するということでは、まったくありません。人間とは、孤独な存在ではあり得ないということです。

そもそも、神に似せて、神にかたどって、神のイメージで、という、神のご存在のあり方、神ご自身こそが問題としなければなりません。聖書において示された神とは、どのような神でいらっしゃるのでしょうか。それは、父なる神と子なる神と聖霊なる神が、三者としてご存在しながら、ただ一つの交わりをもってご存在しておられるということです。それを教会のことばでは、三位一体と申します。あるいは、三一の神です。繰り返して申しますと、三一の神とは、父と子と聖霊なる神が、それぞれまったく別のご存在、それぞれに別のご人格をもったご存在でいらっしゃるということです。しかし、その三者、言わば、三人は、一つの交わりをもっていらっしゃるということです。しかもこの交わりは唯一の交わりであって、離れることがないのです。いわんや、反発したり、憎んだり、戦ったりするなどということがまったくあり得ず、むしろ、完全な愛において分かち難い交わりをもっていらっしゃるのです。

この神が、人をご自身にかたどられるからこそ、人は、「初めから」男と女として創造されたのです。初めから、孤独な存在ではないということです。共同体をつくる、対話する相手がある、いるわけです。

ただ、素朴に申しますと、このような疑問も当然出てまいります。歴史の順序から言えば、造られたのは男性が最初だったと聖書は言っています。最初の女性であるエバは、神によってアダムのあばら骨からとられ、アダムを「*助ける者*」として創造されました。その意味では、エバが存在していなかった時があったということになるはずです。つまり、神が初めに創造されたのは、アダム、男だと言う議論が成り立つのです。そこから女性とは、男あってのものだという議論が始まってしまいました。そうなりますと、もしかすると、イエスさまこそ、創世記をお読みになっていらっしゃらないという批判を受けることになるかもしれません。いうまでもなく、違います。

主イエスは、ここで、人間とは、その最初からアダムとエバという、二人で生きる存在とされていて、人は、もともと孤独で生きることはできないということを明らかに示そうとなさったのです。人は、共同体の中で生きるとき、人となることができるという主張です。

そして、どうしてそうなのか、それが、それこそが、聖書のメッセージです。それは、神が愛の交わり、いのちの交わりを持っていらっしゃるお方だからです。三位一体の神さまのご存在にこそ、人間が男と女になっているという理由があるのです。そうであれば、そこで何が明らかにされるのでしょうか。それは、神が父と子と聖霊の愛の交わりをもっていらっしゃるように、人間も相互に信頼し合い、愛し合い、一つの交わりをもって生きることができる、暮らすことができるという真理です。人間とは、絆を結ぶ自分以外の誰かを必ず求めるものなのです。人間には、絆を結びあう誰かが必ず必要なのです。人間とは、もともと共同体としての存在なのです。あるいは人間性とは、共同体性を持っているということです。ひとりぼっちで生きること、それは、異常なこと、異常な姿であります。そもそも、人間は、ひとりで生まれて来るのではなく、父と母から生まれて来るのです。

神はアダムをご覧になっておっしゃいました。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」人間がひとりでいるのは、よくないのです。人間にふさわしくないと言う意味です。神は、そこで、彼に合う助ける者を造られました。それが、エバです。そこでも、残念ながら歴史的な誤解を正さなければならないと思います。いつの時代のキリストの教会も、当然のことですが、その時代の思想の影響を受けます。しかし、問題は、そこでしばしば悪い思想、悪い考え方、悪い習慣の影響を受けてしまう事実があります。ここで言えば、それは、女性差別の問題です。男性優位の思想を、実に、聖書から取り出して来たという悲しい事実があると思います。

それは、エバがアダムのあばら骨でつくられた助け手なのだという先入観です。そこでの助け手とは、助手という意味で解釈されてしまったのです。教授がいて助手がいる、あるいは、介護が必要な方にヘルパーさんがつくというと分かりやすいかもしれません。しかし、当然、男性にとって、エバとは、そのような存在では決してありません。

「彼に合う」とは、「彼にふさわしい」とも訳されます。それは、向かい合うとか対応すると言う意味です。アダムに向かい合う存在と言う意味は、アダムに劣っているという意味では、決してありません。そもそも、対応する存在には、上下関係はないはずです。

アダムは、神さまによって造られた自分以外の生き物に呼びかけられたと聖書は言います。呼びかけるということ、これが大切です。アダムが呼びかけても、自分に合う助ける者はを見つけることができませんでした。何故、自分に合う、助ける者がを見つけられなかったのでしょうか。それは、アダムに対等に呼びかけて来る相手がいなかったからです。アダムは、エバによって初めて、自分に呼応してくれる人を発見するのです。ここでの「合う」とは、自分に響き合う、自分に呼びかけて来る者という意味です。つまり「助ける者」とは、自分が自分でいるために、アダムがアダムでいるために必須の存在と言う意味です。ヘルパーではなく、パートナーなのです。

こうして、アダムはエバを神によって与えられます。そして、彼女を「ついにこれこそ、わたしの骨の骨。肉の肉。」心からの喜びを込めて、感謝を込めて呼びます。そして、創世記第2章は、「こういうわけで、男とは父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」と結論するのです。ここでの一体とは、一心同体です。そして、それに念をおすかのように、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。」と結びます。これは、素のままの自分、飾らない姿をお互いに見せあい、そしてそれを受け入れあうことのできる、愛の関係を保っていると言う意味です。それは、相手にとっても恥ずかしいと思わず、自分を偽り、隠すこともなかったばかりか、自分自身に対しても、あるがままの自分を受け入れ、いとおしみ、誇らしさを覚えていたということです。

主イエスは、ここで、神が最初に創造された人間の姿、男女の姿を思い起こしておられます。しかし、同時に、創世記の第3章において、アダムとエバとが二人で協力して、決して食べてはならない、必ず死んでしまうと警告されていた神の掟を破り、心を合わせて、神に反抗した事実についても、考えていらっしゃるはずです。そして、その結果、男性と女性との本来の関係が破壊されてしまったことを、深く悲しんでいらっしゃるのです。男性が女性を支配するという悲惨な現実です。人間が支配する者と支配される者とに分かれることの原因は、まさに、神との関係を罪によって破壊した結果であると創世記第3章は主張しています。

主イエスの生きておられた当時もそして驚くべきことにはそれから2000年後の今なお、多くの社会、国、民族において男性が女性を支配している姿があります。それは、支配の構造と言っても構いません。

私どもの深い祈りとしたいことの一つは沖縄問題です。週報の祈祷課題に常に掲げられている辺野古問題、基地問題でます。どれほど、私どもの教会がこのことのために祈っているのかは、深く問われるのですが、しかし、この一つの祈りの課題を継続して記しているのは、私どもが遣わされているこの日本という国、国家の罪がそこに象徴的に示されているからです。そこに教会は、抗わなければならないはずだからです。

先日、沖縄防衛局長が更迭されました。また、防衛大臣も問責決議を受けましたが辞任はしませんでした。この局長が、沖縄を女性になぞらえた発言をしました。礼拝式の場で引用することもはばかれる発言です。この方の発言の中に、まさに、これまでの日本の政府の本音が出ています。そして、それはまたただ単に、沖縄だけの問題ではありません。つまり、国家権力は、力のある者が力のない者を支配するのは当然のこと、さらに言えば、支配してあげるのだから、お前たちは、心から感謝しなければならないということなのです。

神は、エバに予告されました。3章16節です。「おまえは男を求め、彼はお前を支配する。」これは、男性と女性だけに当てはめるより、さらに広い視野で考えることができるし、しなければならないと思います。力の強い者が弱い者を支配する構造が、実は、洋の東西を問わず、歴史を問わず人類史の中で繰り広げられ続けてまいりました。しかも、それは、国家権力の問題だけではありません。会社において、家庭においてすら、小さな権力が持たらされるところ、そのような考えに転落する事実がいくつもあるのではないでしょうか。

主イエスは、まさにこの罪の問題と根本的に取り組むために、根本的に解決するために、この地上に来て下さったのです。主イエスはこのとき、夫が妻をもし何かの理由で気に入らなくなったら、離縁状を書きさへすれば、離縁できるとする当時の社会常識に鋭く立ちはだかっておられるのです。それだけでなく、むしろ、積極的に、そのような罪に堕ちた男女を、いへ、男女だけ、夫婦だけではなく、むしろ人間全体を、神のかたちへと取り戻そうとなさるのです。人間とは、互いに愛し合い、敬いあい、理解しあい、赦しあい、お互いを必要としあう存在である。それを、私どもに思い起こさせて下さったのです。

さて、それなら、我々、つまり互いに愛し合えなくなってしまった私どもが、どうしたら、本来の姿に回復できるのでしょうか。私どもは今、その答えを鮮やかに示されました。この説教を語られたイエスさまこそ、その答えそのものです。このイエスさまが、十字架にかけられて、私どもの罪を償い、私どもと父なる神との「絆」を回復してくださったのです。父なる神、造り主なる神との関わりを作り直してくださったのです。取り戻して下さいました。そればかりか、人間が愛に生きるべき事、神を愛し、人を愛することこそ、人間の人間たるゆえんだとその生き方を通して見せて下さいました。

私どもは、今、ただこのイエスさまを救い主として信じ、主として従うだけで、神との絆、すべての人間関係、人と人との絆を結び直す根本的な絆、絆のなかの絆を結ぶことが一気に、一瞬にして可能となるのです。

どうぞ今朝、この絆は、既に十字架において父なる神は、一方的に私どもに結んで下さった事を覚え、まだ、この愛の絆を信じていない。受け入れていない方は、ただちに主に祈り求めて下さい。そして、すでに、この絆に結ばれている私どもは、いよいよ深くこの神との交わりを深めることによって、自分自身の罪と戦い、そして社会の罪、不正義に抗ってまいりましょう。

最後に、主イエスは、ここで独身について触れていらっしゃいます。私どももまた、この教えから学びましょう。「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。

主イエスは、ここで、独身という立場で生きる人々の存在を三つにわけていらっしゃいます。一つは、「結婚できないように生まれついた者」です。解釈は、簡単ではないように思います。何かのハンディキャップのことを意味していると理解することがふさわしいかと思います。次に、「人から結婚できないようにされた者」です。これは、宦官のこと、つまり王宮にいる女性たちに仕える役人のことを指していると思われます。そして、何よりもここで、主イエスが最も語られたかったことの一つは、明らかに、最後の問題です。「天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。

もとより、主イエスは、これまでの議論の中で、決して結婚を消極的に考えていらっしゃらないことは明らか過ぎることだと思います。神がアダムとエバに「産めよ、増えよ」と語られたのは、結婚の祝福の宣言に他なりません。ところが、その神ご自身が、今のこの時を考えて、まさに敢えて、独身の道を選択する可能性について言及されました。それは、もとよりすべての信仰者に求められているわけでは、まったくありません。「これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」この言い方には、例外的なニュアンスがあると思います。しかし、その例外的な独身者のことを、主イエスは、きちんと位置付けて、この奉仕者を重んじるようにと、勧めているのです。それは、当時の男性が、まさに、結婚しないのは、「産めよ、増えよ」という神の命令に違反していると考える人々が多かったからです。

ご存じのとおり、ローマ・カトリック教会では、司祭になる人は、独身者の男性でなければならないという教会の規則があります。今朝、詳しく学ぶ暇はまったくありません。それなら、私ども改革教会はいかがでしょうか。ご存じのとおり、私どもは、教会の教師、牧師たちはむしろ、結婚することを奨励し、重んじたのです。それは、当時のローマ・カトリック教会への大変重大な異議を唱えたことになります。

結論だけ申します。私どももまた神の国のために結婚するのです。そうであれば、牧師の結婚相手がどのような人であるべきか、あらねばならないのか、いちいち議論する必要はないと思います。夫婦で力を合わせて、神の国のために働く。たとい伴侶が神学教育を受けていようがいまいがそれは、まったく関係がありません。どちらも献身者なのです。献身者でない伴侶はありえないと思います。

今、牧師夫婦のことに限定しましたが、キリスト者の夫婦も基本的にはまったく同じことです。夫婦で心を合わせて、神と教会に仕える、これこそ、キリスト者の家庭、クリスチャンホームの目的、特権なのです。こんなにすばらしい特権をないがしろにするなら、キリスト者の家庭の意味がないとすら言えるはずです。

今なお、家族の中で、ひとり信仰の道を歩む兄妹の方が多い私どもの群れです。その日を夢見ながら、信じ、期待しながら忍耐強く歩めますように。困難な戦いの中を歩む私どものことを、主イエスは、常に顧みていて下さいます。

そして、いずれにしろ、私どもは、神の教え、主イエスの福音によって家庭を営み、社会生活を営むように召されています。教会で教えられ、学んだ真理を、教会の外においても実践するように召されています。そのようにして、私ども神の民みんなで力を集めて、神の国の進展のために奉仕するように救われたのです。そのように召された皆さまの家庭生活、社会生活、そして教会生活が祝福されますように。

祈祷

人間をあなたと共に生きるものとして、また人間どうしを、共に生きる存在としてお造りくださいました主イエス・キリストの父なる御神、今、あなたの恵みと愛の顧みの中で、私どもは家庭の生活を営むことが許されています。既に、キリスト者の家庭とされた仲間たちは、いよいよ夫婦で心と祈りを一つに集め、神の国の拡大のために奉仕に励むものとならせて下さい。なおひとりで、教会生活を営む兄妹には、あなたの時を待ち望む信仰を、愛と赦し、忍耐と知恵を豊かに与えて下さい。結婚を祈り求めている兄妹には、あなたの御心の伴侶との出会いを真剣に祈り続けさせて下さい。そして、すべての兄妹たちが、今このように、神の家族の交わりの中で、教会の交わりの内に支えられ歩んでいることを忘れずに、共にその労苦を担いあわせてください。アーメン。