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幼児虐殺とクリスマス

「幼児虐殺とクリスマス」
                      2011年12月25日
               マタイによる福音書 第2章13節~18節

 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。

こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

 予告しておりました本日の説教は、一昨日の燭火礼拝式で致しましたので、本日は、テキストを変更しています。したがって、説教の題も異なります。その大きな理由は、今年最後の礼拝式において、やはり、今年一年の日本を振り返ります。そのとき、最も記憶すべき事柄は、東日本大震災だと思います。わたし自身は、ただ単に大震災と言うよりは、3:11と表現する方がふさわしいのではないかと思います。2011年3月11日は、3月10日の次の日という理解では、おさまりません。歴史がそこではっきりと区分されてしまう、そのような時だと思うのです。その歴史とは、東北の歴史というより、日本の歴史だと思います。3:11を、そのような時、ギリシャ語で言えば、カイロスとしなければならないというのが、わたし自身の、最初からの認識でした。何よりも福島第一原子力発電の爆発事故のゆえに決定的になりました。日本全体、世界中に放射能、放射線を降り注いでしまっています。

その現実に対して一回の説教で取り扱うことなど、およそ不可能と思います。しかし、それを真正面から受け止めて行く必要が、教会には課せられているのだと思います。そして、教会は、聖書から聴き続けて、そこからの応答、メッセージを社会に発すべきだと思います。降誕祭主日に、まさに、このテキストから学ぶこと、それが2011年のクリスマスにふさわしいのではないか、そう思っています。

 しかし今皆さまとお読みした個所は、降誕祭ではほとんど読まれないテキストだと思います。クリスマスの物語は、基本的に、とても美しく、あたたかなものだと思います。したがって、あえて、ここまでは読まないのだと思います。

しかし、マタイによる福音書ははっきりと告知しています。主イエスの降誕に付随して、新約聖書の中でおそらく最も悲惨な事件が起こったというのです。ヘロデ王が、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させたというのです。何と言う悲惨なことが起こったのでしょう。

そもそも、ことの発端は、ヘロデ王が占星術師たちに、ひとつの命令を出したことによります。占星術の学者たちは、エルサレムまではるばる800キロの道のりをやってきて「ユダヤの王が誕生したので、拝みに来た」と言うのです。これを聞いて、だれよりもすばやく反応したのは、ユダヤの都エルサレムに住むヘロデ王でした。

彼は、ヘロデ大王とも呼ばれます。生粋のユダヤ人ではありません。むしろ生きた信仰など、ほとんどありません。妻や子どもですら、自分の立ち場を脅かすと思えば、殺してしまうほどの実に暴虐な王なのです。しかし、エルサレムの人々は、この王に対して、軽蔑しながらも、なお一定の評価を与えていました。何故なら彼こそは、バビロニアによって破壊されてしまったダビデ王の神殿を見事に再建したからです。さらには、この王が強大な権力を執行することによって、自分たちの暮らしの安全保障が保たれている事実があります。それ故に、この王の統治を受け入れていました。彼と戦おうとは、誰も思わないのです。

さて、ヘロデ大王は、東方の学者たちが、ユダヤの王子誕生の報せを告げに来た時、まさに、誰よりもすばやく反応しました。自分の王位が危険にさらされるからです。彼は、その占星術師たちに、ただちに聖書の学者たちに預言の言葉、聖書を調べさせて、その誕生の場所が「ベツレヘム」だと分かりました。
ヘロデはこう言ってのけました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう。」彼には、拝む気持ちなどまったくありません。とにかく、自分のしたいことを速やかにしたいだけです。つまり、その王子とは誰で、どこにいるのか、それを突き留めて、その赤ちゃんを、部下に命じて殺してしまえばよいだけのことです。

しかし、神の御使いは、占星術師たちにその危険性を教えて、「ヘロデのところへ帰るな」と告げられます。つまり、ヘロデ王の側から言えば、裏切られたわけです。騙されたわけです。ヘロデ王は、占星術師の報告を、「遅い、遅い」とイライラしながら待ったことでしょう。しかし、ついに騙されたと気づきます。マタイによる福音書は「大いに怒った。」と報告します。そして、悲劇が起こります。ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を皆殺しにします。惨劇と言ってよいと思います。学者によれば、その数は、20人から30人ほどであったであろうと言われます。お父さんとお母さんの嘆き、涙、憤りはどれほどのものであったことでしょうか。ヘロデ王の横暴を憎み、憤ったことでしょう。同時に、わが子を守れなかった自分たちの力のなさ、無力を嘆いたことでしょう。言葉にはできないほどの深い、悲しい、苦しい涙が流されたのです。何の罪もない赤ちゃんが、殺されたのです。犠牲になったのです。

それにしても何故、マタイによる福音書は、ここまで恐ろしい事実を、あえて、主イエス・キリストのご降誕、誕生のエピソードとして書き留めるのでしょうか。クリスマスの時には、あまり読みたくない、キリスト者であっても、そう思ってしまいます。

しかし、そこでこそ、そもそものお話をしなければならないと思います。私どももまた、しばしば聖書を読み損ない、そのようにして、しばしば神さまと言わば、すれ違ってしまう理由がそこにあります。我々は、しばしば、「神は、なぜそんなひどいことを許したのか、正義の神であるなら、全智全能というのであれば、そんなひどいことが起こらないようにするべきではないか。」こう考えてしまうのです。それは、結局、私どもの方が、神の上に立って聖書を読んでいるということです。神を上から目線で考えることがあるのです。上とまでは、言い張らなくとも少なくとも神と同じレベルで、考えてしまうのです。

しかし、間違えてならないのは、このあまりにも悲惨な、残虐な行為の責任は、イエスさまにも、父なる神さまにも、まったくないということであります。マタイによる福音書が、ここでわれわれに告げていることは、神の正しさと神の愛とが、我々、罪にまみれた世界の中に提供され、明らかにされるとき、それは、おおいに喜ばれるのではなく、むしろ反対に、このような反応、応答を引き起こす、引き起こしたということであります。マタイは、その歴史的事実をここで事実として告げているのです。

そしてまた聖書は、人類の歴史の中で、実は、そのような理不尽な死を死ななければならなかった人々がたくさんいるということを、明らかにしているのだと思います。60数年前の日本は、まさに、そうでした。お国のために、天皇陛下のために、子どもたちは死んで行ったのです。しかも、喜んで死んでゆくように、教育されてしまっていたのです。その暗黒さは、ヘロデのこの虐殺の比ではないかと思います。

確かにヘロデは、最初からこの幼子を殺そう、抹殺しようとします。そこに明らかに、神の救いのご計画に抵抗しようとたくらむ悪魔の存在が見て取れます。サタンは、権力の魔力に囚われているヘロデ王を思う存分操るのです。ヘロデは、やすやすとサタンの道具となりました。サタンもヘロデも、要するに幼子イエス、神の御子を地上から追放したいのです。それは、自分が王であり続けたいからです。自分を、中心に世界を、人生を動かしたいからです。そして、聖書は問うのです。ヘロデは、確かに極悪非道の王と言っても言い過ぎではないでしょう。しかし、そこまでしないものの、私たちもまた、これまでの人生を、生活スタイルを変えたくないと考えてしまう。そのとき、もしかするとキリストの存在を無視したり、主イエスの御心をないがしろにしているのではないか、その問いが残ります。

しかし聖書は、高らかに告げています。サタンのこの巧妙な作戦は、神の救いのご計画を、破壊することはできませんでした。神は、御自身の御子の命を守られました。つまり、いかにサタンが策略を凝らしてみたところで、決して主イエスのお命は、奪われるはずがないのです。サタンがどれほど、人間の自己中心の罪を働きの場所として、縦横無尽に人間を従わせたとしても、神の救いのご計画を阻んでみせたり、転覆させることなどできないのです。そのようなことは、サタンに許されていないのです。つまり、サタンと神とが、同列で戦うことなどありえないわけです。そのような考え方は、キリスト教ではなく、どこかの宗教の世界観です。神の救いの勝利、恵みの勝利は、地上に何が起ころうとも揺るがないのです。

これは、今年、東京で開かれた説教に関する神学会で、伺ったお話です。うろ覚えなところがありますが、大筋はこのようなお話でした。

北欧の方であったと思うのですが、ひとりの牧師夫人の物語です。彼女は、幼いころ幼女に出されました。やがて結婚しました。しばらくして、どうしても両親に会いたくなって、行方を調べ始めました。すると、母ははるか昔に、亡くなりましたが父はまだ生きているということがわかりました。しかもその父は、昔、アフリカに宣教師として出かけて行ったというのです。ところが、何かの理由で、今は全く神と信仰を捨ててしまったというのです。

いったい何故、父親は、信仰を捨ててしまったのでしょうか。結婚したばかりの父と母は二人で心を一つにして、アフリカで何年も熱心に宣教したそうです。ところが、救われたのはわずか数名だけでした。しかも、最愛の妻が、あまりの激務がたたって、病に冒され、亡くなってしまいます。そのときです。父親は、何故、主イエスを愛し、神を愛している自分たちに、最愛の妻すら神は助けて下さらないのか、なぜそのような残酷なことをなされたか。父親は、絶望してしまいました。「私はなんて無駄な生き方をしてしまったのだろう。もう、キリスト教も信仰もあるものか」こう叫んで、なんと、幼い彼女を現地のアメリカ人夫婦に託してしまって宣教師を辞め、ひとり、アフリカを去ってしまったというのです。

彼女は、父親の居場所の足掛かりを得るために、いろいろ調べましたが、分かりません。ある日、イギリスに行きました。そこで、ある教会で開催された宣教大会に、たまたま出席しました。そこでは、ひとりのアフリカの牧師が、証をしていました。その牧師は、こう証されました。「自分は、ひとりの宣教師によって福音を聴いた。そして、信仰を与えられた。その宣教師は、その後、信仰を捨ててしまった。しかし、自分は、彼のおかげで主イエス・キリストを信じることができた。」彼女は、その牧師の証を聞いている内に、その宣教師こそ、自分の父親だと、確信しました。彼女は思わず会衆席から「その人は、わたしの父です。」と叫んだのです。

こうして、彼からの情報も受けて、いよいよ父親の居場所が分かります。そして、会いに行きます。ところが父親は、彼女に会っても、喜びませんでした。彼女が、牧師夫人になったということを聞いては、もっと喜びませんでした。それどころか、父親は、彼女に説得し始めます。「神なんかいるものか。お前は大事な母親を、アフリカで伝道しているときに、亡くしたのだぞ。それなのに何故、神を信じるのか。なぜ、そんなことをしているのだ」と反発します。

しかし、彼女は、ゆっくりと、父親に説明し始めました。どうして、居場所が分かったのか、イギリスでの出来事を告げます。ひとりのアフリカの牧師から、3000人の現地の人たちが洗礼を受けたことを告げます。そして、その彼こそは、お父さんが伝えて信じた、わずかの現地人のひとりなのだと告げました。

そしてとうとう、年老いた父親は、その日のうちに、これまでの不信仰を嘆き、泣きながら悔い改め、神に感謝と賛美をして信仰の再出発を遂げたというのです。

私どもの人生には、何故、こんなひどいことが起こるのか、何故、神を信じ、神さまのためにこんなに一生懸命、犠牲をはらって仕えているのに、なぜ、これほどまでにひどい目に遭わられるのか。そのようなことが起こるかもしれません。しかし、神は苦難や災害、病や死の創造者ではありません。しかし、神は、いかなる苦難も災害も、病も死も、迫害も、神の愛と祝福を破壊することができないことをご存じです。そして、サタンに私どもをどれほど、踏みにじらせるようなことを許容されても、私どもが、神から完全には離さないようにと、手綱を固くくくりつけていて下さるのです。絆を固く結んでいてくださいます。

ところがその神は、なんということでしょうか。ご自身が、究極の苦しみをなめられるのです。ヘロデの手から守られたイエスさまの尊いおいのちを、やがて、ご自分で奪われるのです。十字架の上で、この御子イエスさまを、裁かれたのです。罰せられたのです。死をもって、私どもの罪を償わせて下さったのです。主イエスを十字架に追いやって、殺されたのは、決してサタンではありません。父なる御神ごじしんが、私どもの罪を贖わせるために、私どもを赦して、神の子とするために、父なる神御自身の御手によって、主イエスのお命を十字架で奪われたのです。

マタイによる福音書は、こう告げます。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」

赤ちゃんを殺されてしまった母親の激しい嘆きの声、悲しみの声がベツレヘムの町中に響いたことでしょう。しかし、そのとき、誰が知っていたことでしょうか。その激しい悲しみ、嘆きの声を、神がしっかり聴いていて下さることを。いへ、それだけではありません。この出来事こそ、やがて神ご自身の嘆きと悲しみの叫びの予告であったと。
父なる神が、御子を喪ったその悲しみ、その痛み、その苦しみはどれほどのものだったのでしょうか。しかも、ご自身が、自ら罰する以外に、私どもの悲しみや嘆き、私どもの暗黒と滅びをまぬかれさせる道がなかった故に、ご自分でほふられたのです。まさに、想像を絶する苦しみ、痛みを覚えられたのです。

私どもの苦しみも嘆きも、怒りも絶望も、すべて、御子の十字架によって担われています。御子の十字架の愛によって、救われ得ない苦難も災害も迫害も何もない、私どもは、そう信じるのです。信じる私どもだからこそ、立ち上がるのです。自分自身、すぐに立ち上がれるとも限りません。時間がかかる場合もあるでしょう。しかし、この神の苦しみ、痛み、そこに込められた徹底的に私どもを愛する激しい神の愛へと、信仰の眼差しを注ぐ時、神の愛の絆に目をとめるとき、私どもは立ちあがれるのです。

今、洗礼を受けた仲間とはじめて聖餐の礼典を祝います。私どもは、神の愛の絆に既に結ばれています。そして、神の愛の力強い手綱によっていよいよ結ばれて、神の栄光を求め、神の救いの御業が拡大することを求めて、前進してまいります。

祈祷

ヘロデ王は、誰をも信じることができないまま死にました。天の父よ。今私どもは、この礼拝式で御子イエス・キリストとの交わりを与えられています。こうして、救いと祝福の中に巻き込まれ、招き入れられています。あなたのために生き、そして死ぬことができるものとされています。私どもの人生もまた、あなたの救いのご計画の中にしっかりと組み入れられています。地上にあっていかなる災いが起こっても、なお、それで世界が破壊し、歴史が終わることはなく、御子が再び地上に来て下さることによってこそ、世界は完成し、神の国が到来することを、いよいよ確信させてください。そして、いよいよあなたの御心に寄り添う者となり、御心を生きる者とならせてください。そのようにして、教会を通して、この悲惨極まりない罪の世界に、光を放って下さい。アーメン。