過去の投稿2012年2月8日

キリストの奉仕とキリスト者の奉仕

「キリストの奉仕とキリスト者の奉仕」

                        

2012年2月5日

             

マタイによる福音書 第20章17節~28節

 

「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
  
そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」

ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

今朝の説教では、主イエスの最後の御言葉から聴き取りたいと思います。主イエスは、こう結んでおられます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」私自身、これまで何度もこの御言葉を読んでまいりましたが、今さらながら、空恐ろしいと申しましょうか、スゴイ御言葉だと、しばし呆然とさせられました。もう一度、朗読してみます。*「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」*ここでは、他ならない主イエスの弟子たち、つまり、ここにいる私どもに向かって、実に、人の子、つまり主イエスと同じように、行動しなさい、生きなさいと命じられているのです。はっきりと宣言されているのです。

もしかすると、私どもはどこかで、こんな思いを持つことがあるのではないでしょうか。「たしかにキリスト者とはキリストの弟子だ。けれども、キリストのように生きることなど、できない。少なくとも、ただの信徒、普通のキリスト者である自分には、できっこない」

あるいは、むしろ教理を学んでいる方であればあるほど、主イエスのご発言に対し、むしろ、イエスさまをいさめなければならない、少なくとも、著者のマタイを批判しなければならないのではないかとすら、考えるのではないか、そう思うほどです。極めてショッキングな言葉だと言わざるを得ないと思うのです。もう一度、読みます。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

ここで、キリスト教の救いの教えの初歩、基本をおさらいしてみましょう。イエスさまは、私どもの罪を償うために、身代わりになって十字架で、父なる神に命を捧げて下さいました。私どもが罪の世界、罪の牢獄の中に閉じ込められ、罪の奴隷、囚人であったのに、ご自分のお命を身代金にして、私どもを、神の世界、神の愛の支配のなかに買い戻して下さったお方、救い主でいらっしゃるからです。十字架で、全人類を、私どもを救うことのできる救い主は、ただこのイエスおひとりのはずだからです。これが、救いの教え、このキリストのみわざをただ信じるだけで、救われるというのが、私どもの教会の根本的な信仰告白です。

ですから、ここで、主イエスごじしんが、ごじしんのまさに十字架のことを引き合いにだされて、「わたしがあなたがたを贖ったように、同じようにしなさい」とおっしゃる言葉に衝撃を受けるのです。正しい教理から言えば、間違っているのではないでしょうか。なぜなら、私ども人間は誰も罪人だからです。たといどれほど優れた人であろうと、聖人と呼ばれるような人であろうと、たとえばマザーテレサさんだろうが、ボンフェッファーだろうが誰であろうが、いずれにしろ罪人でしかない人間が、人間の救いにかかわるような行為を、わずかでも担うことなどできるはずがありません。そのようなことを考えるだけでも、許されないようなこと、神への冒涜ではないでしょうか。しかし、これは、確かに主イエスご自身のご発言、御言葉なのです。
今朝、この説教を通して、ご一緒に思いめぐらしてみたいと思います。

さて、今朝から、ついに、マタイによる福音書も言わば、最後の局面に至ります。主イエスがエルサレムへ上って行かれるのです。十字架につけられる最後の一週間の始まりです。まさに、「受難週」の始まりです。

 そこで、主イエスは今、12人の弟子たちだけを集めて、言わばそっと語られます。しかし、それは、これまでも語られてきたことでした。最初は、16章21節以降で、ペトロが、「あなたは生ける神の子、キリストです」と信仰を告白したときでした。次に、17章22節、主イエスの御姿が栄光の輝きに変貌したあとです。そして、ここで、三回目、最後の受難の予告がなされます。

少し脇道に入りますが、キリスト教の世界では、しばしば受難と言われるとき、直接には、十字架のこと、あるいは受難週と呼ばれるように、最後の一週間のことを思い起こすことが多いかもしれません。確かに、それも間違いではありません。しかし、私どもがそこで決して忘れてはならないのは、そもそも、主イエス・キリストの公のご生涯は、受難であったということです。お苦しみのご生涯だったのです。主イエスは、ここで、ご自身のおそるべき死の予告をなさったにもかかわらず、これをきちんと聞こうとする者がいません。弟子たちの主な関心は、イエスさまにではなく、自分たちにあります。上の空で聴いて、まったく理解していません。理解しようともしません。ここに既に受難があるのです。弟子たちからの無理解という受難です。少なくとも、主イエスが愛し抜かれた弟子たちにさえ、通じないのです。このときの主イエスのお姿は、孤独です。悲痛なまでに孤独です。まさに既に今ここで苦難を受けていらっしゃるのです。

 主イエスは19章28節で、このように仰っています。「新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従ってきたのだから、十二の座に座って、イスラエルの十二部族を治めることになる。」12弟子が、ひいては、キリスト者たちが王座、権力の座につくことが約束されています。おそらく弟子たちは、主イエスのこの御言葉を聞いたばかりですから、遂に、バラ色の人生が始まろうとしているのだと誤解したのだと思います。自分たちの自分勝手な思い、先入観にいよいよ凝り固まるのです。肝心かなめの主の受難、殺されること、ご復活することなどということは、すべて左の耳から右の耳へと聞き流されてしまったのです。

 
そして、それを際立たせることになるのがこの物語です。お話それじたいとしては、あまりにも分かりやすいと思います。わたしは、この物語を読むたびに、つい「マザコン」という言葉を思い出してしまいます。ゼベダイの息子たち、つまり、ヤコブとヨハネの母が、イエスさまに、このようなお願いをします。二人の息子を右大臣、左大臣のポストに就かせて下さいとそっとお願いするのです。いい大人のヤコブとヨハネです。

ただし、先入観で、理解するのは、危険です。この二人の母親は、主イエスを愛し、弟子として従っているのかもしれません。主イエスの教えを信じたからこそ、神の都エルサレムに入城なさろうとする今こそ、イエスさまの王国が打ち立てられる時なのだと期待し、興奮しているのかもしれません。何よりも私は、信仰者の母であれば、自分の息子たちを、神さまに重用してほしいと願うのは、親心として当然のことだと思います。

 丁寧に読みましょう。こうあります。「ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。」つまり、彼らは、ストレートに口に出してお願いしてはいません。もじもじしながら、ひれ伏しているだけです。もとより、主イエスは、彼らの心の中をご存じでいらっしゃったはずです。だからこそ、イエスさまの方から、助け舟を出して下さるのです。「何が望みか」と、尋ねて下さるのです。
 
母親は喜んで申し出ます。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」主イエスの約束を獲得しようとするわけです。右大臣、左大臣は主イエスの両側にいて、補佐しつつ統治する役職です。

 これに対してのお答えは、こうです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」ここでも注意したいのです。それは、主イエスが、「あなたたちはなんと間違ったこと、愚かなお願いをしているのか」と、叱責なさってはいらっしゃらないと言う点です。むしろ、その願いそのものは、決して退けられていないということが分かると思います。

 この後での主イエスのご発言になりますが、このように主は語っておられます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」いかがでしょうか。主イエスは、偉くなりたい、いちばん上になりたいという願いそのものを拒絶しているわけではないわけです。言わば、大統領、総理大臣のようなイエスさまの次官になりたい、補佐官になりたいと願うことは、むしろ、肯定されていると思います。

 私どもが問題とすべきことは、これです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」わたしの左右に座るということが、どのような道を通って、実現できるようになるのか。そのためには、どのような苦しみを通らなければならないのか、そのことが、分かっていないと指摘なさったのです。ですから、このように問いかけられたのです。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」これは、26章36節から始まるゲツセマネの園での祈りの物語を思い起こします。主イエスは、そこで、「この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」と父なる神に祈られました。つまり、杯とは、苦しみの杯、十字架の苦難に他なりません。

 さて、ヤコブとヨハネは即答します。「できます。」そこで、主イエスは、ただちに、こたえて言われます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。」これは、ヤコブとヨハネの将来の予告です。この時には、本人たちには分かっていません。実は、ヤコブ、この使徒の名は、やがて、まさに殉教者としての光栄のもとに教会に記憶されることとなります。実に、聖書にその名を記されているのです。使徒言行録です。第12章にこうあります。「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした」つまり、このように言うことも許されるのではないでしょうか。母と本人たちの願いは、確かにかなえられた。ヤコブだけではなく、ヨハネもまた、晩年、パトモスの島に流されています。おそらく、最後は、殉教したのではないかと考えられています。

 しかし、主イエスは、仰います。「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」つまり、彼らがそのような教会の指導者、奉仕者、仕え人になったのは、ひとへに、父なる神の決定、お定めだということです。

 さて、物語は、ここで終わりません。問題は、この二人だけのことにあるのではありません。他の10人の弟子たちは、そのことを聞きます。すると、彼らは腹を立てます。「抜けがけするなんて、ずるいではないか。よくも、そのようなずうずうしいお願いをしたものだ。」そう怒ったのです。

 先々週は、ぶどう園の主人の譬え話を学びました。朝早くから来て、まる一日汗水たらして働いた労働者と夕方の5時から来て、ほとんど何もできなかった人たちに対して、主人は、最後から来た者たちから、しかも同じ賃金、日当の一デナリオンを支払いました。そのとき、朝から働いた労働者が、不当ではないか。不公平ではないかと、主人に文句を言いました。そのお話を思い出します。

ここで、主イエスの弟子たちとは、まさに朝から一番から働いた労働者の気持ちになっているはずです。「他の誰よりもイエスさまのために、神の国の拡大のために、働いたのは、自分たちだ。他の一般の人たちとは、比べられない。何よりも自分たちは、正真正銘、イエスさまに選ばれた特別の12人である。自分たちがたくさんの報酬をもらうのは、当然だ。」こう考えているわけです。しかも、今は、この12人の中での争いが始まるのです。一番偉いのは誰なのか。一番、優れているのは誰なのだ。一番の功績者は誰なのか。おそらく、10人の弟子たちの心の底に沈殿していた思いが、ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネの兄弟の母の行為で、外に現れ出てしまいました。考えていたことは、皆、同じであるということです。

そこで、主イエスは、この愛する弟子たちだけを呼んで、仰ったのです。最初に申し上げた、驚くべき命令です。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

先週の説教でご紹介しました。「福音書とは、単にある人物のことを描いた文書ではなく、新しい共同体の一員となるために必要な訓練のマニュアルである。」新しい共同体、それは、教会のことです。教会、それは、神の国の地上における最高、最大の現れです。地上に始まった神の国に生きる人々を訓練するマニュアルであり、あるいは、そこに生きる人々の憲法と言ってよいかもしれません。神の国の住人たちは、この世の王国とは違う生き方、考え方をするようになる。何故なら、神の国の王さまがイエスさまだからです。イエスさまのお考えが、父なる神の御心が絶対なのです。 

 この世の王さまのことを考えてみましょう。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。」異邦人とは、神さまを信じない人々のことを指していると思います。その世界の偉い人、つまり、王や側近です。彼らは、いつでも、権力を行使して、何かをします。その何かとは何でしょうか。それは、国民、臣民をして王を守らせることです。支配する人々に王の支配を貫かせることです。政権を安定させ、確立させることです。そのために、何をするのか。徴税と徴兵です。お金といのちです。いったい人類の歴史において、一兵卒のために、前線に赴いて、戦ってくれた王さまがいたでしょうか。いません。兵隊は、王のいのちと立場を守らせるために、かりだされるのです。
 

 主イエスは、今ここで、高らかに宣言されます。教会は、この世の考え方、この世の力関係、権力の行使のあり方、そのすべてを翻(ひるがえ)らせるのです。反転させるのです。逆転させるのです。

 主イエスは、偉くなりたいと願う者を退けられません。教会で、一番になりたいと願う者を、叱られません。それは、尊いことです。そして、ものすごくすばらしいことです。先週、伝道所委員に選ばれた方々もまた、その意味で、教会に奉仕させていただきたい、教会の重荷、悩み、苦しみを自分も、まさにそのど真ん中で担いたいという志を与えられたのです。そして、神と神の民に認められたのです。

 しかし、それは、仕える者、僕の道です。僕とは、もとの言葉では、奴隷です。奴隷の道なのです。この奴隷についても、丁寧にお話をすることが大切ですが、その暇はありません。ギリシャ語で、ドゥーロス、奴隷です。彼は、主人の足を洗う人です。何よりも仕える者とは、ギリシャ語で、ディアコノスです。このイエスの結びの言葉、これこそ、教会のディアコニアを考える上で、決定的に重要です。神の国では、教会では、みんながディアコノス、奉仕者なのです。仕える人なのです。神に仕え、隣人に仕えるのです。互いに奉仕しあうのです。この奉仕によって、ここに神の教会が、ここにキリストだけを主と告白する慰めの共同体が形成されるのです。

 しかも、主イエスは、まさに余韻を残して語られます。この余韻が大切です。教会が、キリスト者が思いめぐらし続けるためです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 教会の頭イエス・キリスト、神の国の王の王イエス・キリスト、このお方は、私どもを、この世の王のように仕えさせるためではなく、その正反対!仕えるために、地上に来て下さったのです。そして、王のために、命を献げさせるためではなく、その正反対!本当に罪に染まった、罪の奴隷でしかない小さな、まことに小さな存在でしかない私どものために、十字架でご自身の命を身代金として支払って、私どもを自由にして下さったのです。この自由は、何にも束縛のない、無重力のような自由ではありません。私どもを、キリストに、キリストご自身に結び合わせることによって、固定していただくことによって、くびきを負わせていただいて、自由にされるのです。いずれにしろ、主イエスは、私どものために、死なれるために、苦難の僕であり同時に苦難の王として来られたのです。

その主が、今、「わたしと同じように行いなさい」と呼びかけていらっしゃるのです。そうであれば、私どものディアコニアとは、十字架の救いと無関係のディアコニアではないのだということが明らかにされてくるはずです。私どもの奉仕とは、キリストの苦難と死を「なぞる」ようなものです。そのいわば典型となったのは、ヤコブです。彼はまさに殉教と言う形で、それをなぞりました。彼の生涯は、父なる神によしとされ、彼の願っていた通り、いへ、それ以上の深い、すばらしい立場へと彼を招き入れられたことを、私どもは知らされています。

私どもは、教会に生きています。説教の冒頭、キリストの十字架の意味が、込められるような奉仕など人間に可能なのかという問いを出しました。イエスさまの贖いのみわざにならうような奉仕などできるはずはないと、問いました。しかし、今、明らかになってくるのではないでしょうか。確かに、私どもが十字架についても、何の意味も何の効果もありません。それで、誰かの救いのための身代金を払えるはずなどまったく不可能です。しかしだからこそ、救い主イエスさまがすでに身代金を完全に支払ってくださったのです。そして、今朝、主イエスは語られます。「キリスト者とは、この贖いのみわざ、救いの事業、お仕事を、今ここで、担うこと、そのことはできるのだ」「キリスト者は、キリストの救いのみわざを担うことへと招かれているのだ」主イエスは語って下さいます。「あなたが、わたしに仕えるとき、つまり、隣人に仕えるとき、教会に仕えるとき、そのとき、あなたは、わたしの十字架を担ってくれているのだ。わたしの苦しみをいっしょに担ってくれているのだ。」だから、仕える者となれ、僕となって奉仕しなさい。ディアコニアを実践しなさいと呼びかけるのです。

だからこそ、キリスト者は主に仕えるのです。私どもは、キリストの奉仕を真似るのです。なぞるように真似るのです。そのとき、実に、私どもの奉仕は、まるでキリストの奉仕のように、人々の救い、魂の救いに対して、神に尊く用いられて行くのです。

私どもは、被災された家の泥かきや瓦礫の片づけはしていません。しかし、そのような奉仕もまた、人々の救いに対して用いられるのです。私どもは、献金によって、仮設住宅への訪問によって、お便りによって、何よりも祈りによって十字架のみわざを担うことができるし、既に担わせて頂いているのです。

もし、キリスト・イエスだけが、苦しみの道を進み行かれて、私どもが、その横で、頑張って下さい、応援していますと、指をくわえて見ているだけでは、いかがでしょうか。私どもの、どんなに拙く、小さなディアコニアであっても、もし、主のために捧げるのなら、主イエス・キリストの贖いのみわざを今、ここで広める、今ここで展開する、あの人、この人に運んで行くことすら可能なのです。ありえないようなすばらしい奉仕とされて行くのです。

誰の、またどのようなディアコニアが、どのように実って行くのか、それは、誰にも分かりません。いへ、分からなくてもよいのです。私どもは、自分たちが今担っているこの奉仕が、どのような効果をもたらし、効率的なものとなるのかと、そのようなことごとに、こだわらなくてもよいのです。私どもはただ、父なる神がそれを必ず用いて下さると信じるだけでよいのです。

祈祷

天の父よ、御子イエスが私どものために命をお捧げになられました。その尊い奉仕によって今、私どもは神の子とされ、あなたを父と呼ぶことが許されています。あなたは、私どもをして、この地上にあって、互いに仕え合い、奉仕に生きる教会、ディアコニアに生きる教会として形成していてくださいます。心から感謝いたします。どうぞ、私どもも、いよいよ、各々の賜物をささげあいながら、ここに神の教会を建てるために励む者とならせてください。教会の奉仕を通して、御子の救いをこの町に、日本に、世界に広げて下さい。アーメン。