過去の投稿2012年3月21日

3月18日

 

―牧 会 通 信―

 

★  本日、いよいよ、出発いたします。「不公平の神」(説教で学びました・・・)に従うこと、これが、教会への神の召命です。

☆  先週、仙台のミッション協議会の会議で、西先生から、「やまもと民話の会」発行の文集「語りつぐ-声なき声に寄り添う-小さな町を呑みこんだ巨大津波」第一、第二集を頂き、帰路、拝読しました。今回、奉仕される方々はもとより、皆様にも読んでいただければと思います。本当に、恐ろしい経験、悲しい経験をなさった方々が仮設住宅を中心(仮設に入居されない被災者のことも忘れることはできません)に、いらっしゃいます。

★  会議では、やはり、常駐してくださる奉仕者のことが、足かせです。内容についての議論が進みません。しかし、修繕は、急ピッチでOPC(アメリカ)の奉仕者グループの波状的な訪日で、着実に進んでいます。何としても、被災地支援のために、実質稼働させなければなりません・・・。

☆  会議に先立って、ナガワ工業団地仮設を、お便りとアンケートをもって、○○とお訪ねしました。自治会長さんの御宅で、状況をお伺いしました。キリスト教にとても好意を持っておられるご様子でした。集会室の使用も許可していただきました。しかも、仮設の皆さんは、「お話」を聞きたがっていらっしゃるとのこと・・・!これほどの、すばらしい「挑戦」があるでしょうか。福音を待つ人々が、ここに、いらっしゃるのです。

★  3:11、テレビから、リアルタイムの津波の映像が飛び込んで来ました。あり得ないような津波が畑や町や車を飲み込んで行く映像です。一週間後の19日の土曜日、臨時の伝道所委員会を開催して、大震災ディアコニア支援室を開設することが決議されました。それまでの一週間を、本当に、厳しい思いで過ごしていたのです。まさに一分一秒を争っているであろう被災地の方々への救援活動を、どうすればよいのか。中部中会として、どのように協力しあって動けるのか、何をどのようにすべきか・・・。中部中会として、初動としての救援活動を担うことができなかったのです。しかし、私ども名古屋岩の上伝道所は、とにかく自分たちで今できる限りのことを、力を合わせ、祈りを合わせて、進めるために動きました。

★  第一回、最初に教会として被災地でのディアコニアを担ったのは、5月でした。とにかく、亘理伝道所の前にある小学校、避難所に行かなければならない・・・。亘理伝道所の助け手となりたい・・・、という気持ちからでした。次週は、亘理町、山元町への第5回目の現地ディアコニアへと出発します。このような形で継続しているとは、私も皆さまも、おそらく最初の時点では考えていなかったかと思います。

☆  毎回毎回、新しい出会いの中で、小さな奉仕が捧げられます。私どもは、仮設入居者の方々の必要(物資)を聴き取り、それに応答することを基本としてまいりました。そして、名古屋の地から、できること、初動段階においては、この地の教会だからこそ、担えることがあることを実感しました。東日本大震災は、当初、東北関東大震災と称されたことにも分かる通り、関東エリアもまた、被災地となったわけです。毎日毎日、物資を集めることに集中し、とりわけガソリン携行缶などの物資のニーズにこたえるために、地域の人々にもチラシを配り、物資支援を呼びかけました。組織された支援室の記録によれば、物資の送付と避難場所の確保の二つを任務としました。その中で、前項においての(ⅴ)として、「地域住民との連帯をさぐる。多くの日本人が、助けたいと願っている。その受け皿となること。」とあります。

★  年末のチャリティーコンサートもまた、地域の方々との協働を求める試みでもありました。私どもの震災ディアコニアは、「クラッシュ」さんや「日本聖書協会」さんの物資支援なしには考えられませんでした。また現地のNPO「バンドエイド」さんの情報も感謝でした。そして、中部中会東日本大震災ディアコニア支援委員会の支援も忘れられません。その土台には、何と言っても東釜山老会よりお預かりした「罹災民の為の献金」があります。これなしにおそらく、この委員会も組織されなかったはずです。第4回からは、東北中会の会員との協働、他教会の牧師の参加へと導かれました。そして、今回は、愛知県立芸術大学の5名の学生たちが参加されます。わたしは最後の試験の前に、今回のディアコニアに参加したい学生がいれば、連絡してほしいと呼びかけました。率直に申しますと、応答は芳しくなく、期待することもなかったのです。しかし、彼らは、礼拝式にも出席し、誠実な準備をしておられます。神の御業の不思議を思います。