過去の投稿2012年3月26日

3月25日

 

―牧 会 通 信―

★  昨日は、お二組の婚約式を挙行いたしました。浜松そして名古屋。牧師の人生のなかで、おそらく、最初で最後ではないかと思います。しかし、このような喜びのときは、何度でも、経験したいものです。婚約式では、「結婚まで清い交際を守り・・・」と勧めがなされます。子どもカテキズムの「第七戒」に記されている通りです。この数年、芸能人の結婚報道では、「オメデタ」ではあるとかないとか、当たり前のように話題になります。この乱れを、もとに戻すことは、容易なことではないと思います。当然ですが、私どもは、いかなる点においても、現代という時代の空気に飲み込まれず、歩み続けたいのです。あらためてそれぞれの婚約されたカップルの上に主の祝福と力強い導きがありますように。

☆  先週は、礼拝式を終え、急ぎ、仙台へと出発いたしました。岩の上からは、○○委員、▽▽委員、△△委員、□□委員、**室長、++兄、そして・・君、##さんの9名です。そして、******大学の5名、あわせて14名でした。そして、横浜から○○長老ご夫妻、仙台の□□長老ご夫妻の18名で、心を一つにしてそれぞれの任務を担いました。おひとりお一人の感想、そして、全体の報告は、別になされるはずです。朝と夕の祈祷会でほんのわずかですが、分かち合われました。涙をこらえながら。

★  4月にはじめて被災地をお訪ねしてから、既に、8回になるでしょうか。教会の被災地へのディアコニアとしては5回目となりました。前回、願いながらかないませんでした、集会室をお借りしての初めてのディアコニアでした。○○委員のエプロンシアターと読み聞かせ、▽▽委員の押し花、□□姉の腹話術・・・。さらに、□□長老の包丁研ぎ、そして、お茶菓子のおもてなし。各個訪問。すべての賜物が有効に用いられました。学生たちの歌声も、幸いでした。何より、子どもたちとおもいっきり遊んでくれたことは、歌に劣らず重要な奉仕でした。子どもたちの中には、「遺児」もいます。口に出すと、声が詰まります・・・。

☆  集会室に来られた方は、圧倒的に女性、そして高齢の方々が中心です。二か所のコンサートも、ほとんど女性でした。男性へのアプローチを考える必要もあると思います。確かに、震災から半年の頃から、「カフェ」力を様々に伺ってまいりました。もとより、今回も、強く感じました。一方で、強く神に示されたのは、集会室に出かけられない方々も少なくないということでした。教会のディアコニアは、むしろ、出かけられない方々に届くものであるべきでしょう。

★  初めてのナガワ工業団地でのミニコンサートは、私語もまったくなく、本当に皆さんが堪能してくださいました。愛燦燦、川の流れのように・・・美空ひばりさんの曲を、仮設で皆さんが大きな声で歌われますと、わたしも涙がこぼれます・・・。歌い手は、泣いてはならないはずですが、けれども、仕方がありません・・・。それもまた、皆さんの心が響きあったときだったと思います。わたしは、ついに、15分ほど、伝道説教をしました。「聖書のお話をさせていただいてもよろしいでしょうか・・・」皆さん、率直に、首を縦にしてくださいました。

☆  帰ってから、6通のお便り(物資リクエストへの応答)を書きました。帰ってからも、ディアコニアは続きます。皆様にも、文通のディアコニアを分かち合いたいと思います。(土曜日に3件、追加。)

★  友人の牧師(教団の役員)が、教団機関紙にこのような言葉を書いていることを知りました。
【冒頭の聖句「弱い者を偏ってかばうな」は、隣人愛を説くレビ記第一九章の中の一節(新共同訳)です。  弱い者を善人と見なす傾向のある私たちキリスト者にとって、自らの隣人愛を探られる言葉です。弱い者を善人と見なすことは、弱い者を「受け入れる」ことと似て非なるものです。】つまり、この先生が仰ることは、 被災者の方々も私どもも同じ罪人であり、神の赦しなしに生きれない者としての理解が必須だということだろうと思います。そして、この理解は、私どものディアコニアの言わば「前提」だと思います。また、ディアコニアの特質とも言えるかと思います。つまり、「単なる同情心」ではないということです。それでは、おそらく、「継続」することは、困難かと思います。さらに言えば、そこには、どこか上から目線の臭いがあります。ただし、何もしないまま、自己弁護の議論に時を費やすのなら、まことに主の御前に、悪臭だけを漂わすことになると思います。主イエスは「隣人となれ!」と命じられました。私どもは、この戒めに生きてまいりましょう。それなしに、上記の議論もまた「から回る」だけです。