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信仰の内実

「信仰の内実」 

                      
2012年3月25日
マタイによる福音書 第21章18節~22節

 
「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

私どもは、先週まで、3回ほど、3:11大震災の前後に、この震災から教会が問われていること、また、教会として問うべきことを巡って、御言葉から学びました。私どもの被災地へのディアコニア活動が、神の御言葉に即したものとなるようにと心しながら、礼拝を捧げてまいりました。今朝は、一か月ぶりに、マタイによる福音書講解説教に戻ります。

さて、今朝、与えられたテキストを皆さまはどのようにお読みになられたでしょうか。とても、興味があります。わたし自身、率直に申しますと、この個所を読んで最初に思ったのは、ここからどのような説教をすればよいのだろうかということでした。しかも、まだ求道中の方や、あるいは今朝、はじめて教会に来られ、説教を聴かれる方がいらっしゃれば、いったい、その方々にとって、今朝の御言葉は、どのように解釈されるのでしょうか。どのような感想をお持ちになられるのでしょうか。とても、心配になります。正直に申しますと、一瞬ですが、説教においては、むしろ、この個所を飛ばしてしまった方が、良いかもしれないとすら思いました。

いったい、人間がそばにいて、いちばん、やっかいな人、困ってしまう人とはどのような人でしょうか。それは、おそらく、自己中心的な人、わがままな人ではないかと思います。いつも、自分勝手に物事を言ったり、考えたり、実行したりする。相手に気配りができないばかりか、人の心を傷つけてもそれに気づかない人。言葉だけではなく、行いも横暴。これは、大人でも子どもでも、およそ、人間としてなりたくない人物像ではないかと思います。

何故、そのようなことを申し上げるのか。それは、他でもありません。今朝のテキストを深く考えたいからです。いったい、何故、マタイによる福音書は、わざわざ、このようなイエスさまの言葉とふるまいを、書き残したのでしょうか。不思議に思われないでしょうか。素朴に考えてみますと、ここに描き出されるイエスさまの御姿は、今、わたしが申しあげた、言わば、最悪の人間像の
典型とすら思えるからです。

「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。」

実は、これは、マルコによる福音書にも記されています。しかも、マルコによる福音書では、イチジクの実がなっていなかったのは、その季節ではなかったからだと言っています。つまり、イチジクの木に実がなっていなかったのは当然のことのはずなのです。それを、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」ここまでまいりますと、もはや、わがままだとか自己中心の次元ではすまされないように思えてしまいます。

さて、しかし、もとより、主イエスがわがままでいらっしゃるなどということは、あり得ないことです。確かに、この個所だけを取り上げて、イエスさまについてあれこれ、言うのなら別です。しかし、マタイによる福音書を通して、主イエス・キリストの言葉と行いをここまで学んだ者たちであれば、そのようなことを、まさに、ほんの少しでも考えることはできないはずです。主イエスは、徹底的に神中心の生き方、ご生涯を貫かれたお方です。つまり、徹頭徹尾、神を愛し、隣人を自分のように愛したのが、主イエスさまでした。常に、自分を後ろにして、人を思い、相手に気を配り、人々の魂、そして健康に配慮し続けたお方でした。先週の仮設住宅で説教したのは、イエスさまが、柔和で謙遜なお方だということでした。イエスさまは、優しさに満ち溢れたお方です。昔、説教で、イエスさまのことを、「優しさのチャンピョン」という表現を使ったことがあります。

さて、それだけに、そのような主イエスさまが、ここで、まさに突拍子もない言葉を語られたこと、強烈なメッセージ、明快なメッセージがあるのだと思います。

確かにこの個所の解釈は難しいと思います。しかし、そのような時こそ、あらためて基本的なことを確認するよいチャンスでもあります。聖書は、聖書全体によって解釈するという基本です。聖書の一つの個所の解釈が困難な場合、他の個所を調べるということも大切です。何よりも私ども改革派教会のまさに幸いであり、強みである、教理の全体像からその部分を読み説くということです。教会の教えの全体像が把握されているかぎり、少なくとも、聖書を間違って読むこと、自己流に読む事、自分の考え、好みにひきよせて読むことから守られます。

ここで、参考になるのは、おそらくルカによる福音書第13章のイチジクの木の譬え話だと思います。ある人が、ぶどう園にイチジクの木を植えていました。そして、実を探しに来ます。ところが、実がなっていませんでした。彼は、言います。「三年もの間、実を探しに来ているのに、実らせない。そんなイチジクの木なら、土地がもったいない。切り倒せ。」しかし、園丁は、答えます。「今年だけ、ご猶予ください。何とか、手入れをします。肥料をやります。もし、それでもだめなら、切り倒してください。」

三年もの間とは、まさに主イエス・キリストの公のご生涯、活動期間を象徴しているように思います。主イエスが、実らせようと懸命に働かれたにもかかわらず、実りが結ばれない。それは、切り倒される。裁かれるということです。

これは、譬え話です。しかし、主イエスの奇跡の行為もまた、行いによるメッセージ、行為による説教と言われます。つまり、ここでのふるまいとは、譬え話を、実演されたということになるはずです。

それなら、いったい、イチジクとは何を意味しているのでしょうか。しかし、先ず、主イエスが、三年もの月日をかけて繰り返し語り、呼びかけられた説教を思いだしましょう。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これが、主イエスの説教、活動の骨格なのです。中心なのです。マルコによる福音書は、丁寧にこう記します。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これは、完璧な主イエスの説教の要約です。マタイによる福音書では、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と、悔い改めることが優先され、呼び変えられています。そして、この主イエスの説教は、何よりも第3章に記されています、洗礼者ヨハネの説教とほとんど同じなのです。ヨハネは、このように説教し、イスラエルの人々に、このように呼びかけました。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。~斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」

我々から見ますと、ファリサイ派の人々もサドカイ派の人々も、わざわざヨルダン川に来て、ヨハネから洗礼を受けているのですから、よほどまじめな信仰者だと思われます。それにもかかわらず、実に厳しい説教であり宣言です。ヨハネがここで、心を込めて訴えたのは、悔い改めにふさわしい実を結ぶことです。

あらためて問います。イチジクの木とは、何を意味しているのでしょうか。それは、神の民であるはずのイスラエルの人々のことに他なりません。神の民、神を信じ従う共同体のしるしなのです。

たとえば、ぶどうでもみかんでも、実のなる木でありながら、実がならないと、がっかりします。丹精込めて手入れをしながら、実らなければ本当に、がっかりしてしまうと思います。丹精した果樹であれば、空しさすら覚えるだろうと思います。ところが、神の民イスラエルの人々は、表面上は、神を信じているふうでありながら、実際は、そうではなかったということです。そのことが、この出来事を通して、明らかに示されたわけです。

主イエスは、何故、これほどまで、激しく、イチジクの木を、つまり、イスラエルの人々、その中心にある律法学者、祭司たち、ファリサイ派の人々、つまり、宗教的指導者たちを叱責されるのでしょうか。それは、単純なことです。つまり実りを結んでいないということです。

それなら、その実りとは、何でしょうか。それもまた、単純なことです。悔い改めることです。それなら、悔い改めるとはどのようなことでしょうか。それは、神へと心を向き直すことです。ギリシャ語では、メタノイアと申します。方向転換です。自己中心から神中心へと生き方を転換することです。心の向きを変えることです。

しかし、よく考えてみますと、彼らは、イスラエル、ユダヤ人。神の民、信仰の民族です。つまり、彼らから信仰を取ってしまえば、もはや、何の価値もない。アイデンティティーを失ってしまう。存在意義を失ってしまうほどです。ユダヤ人は、信仰に生きるからユダヤ人。イスラエルなのです。それにもかかわらず、洗礼者ヨハネが、何よりも主イエス・キリストが悔い改めなさいと呼びかけた意味は何でしょうか。それこそが、今朝の核心部分です。

いったい、信仰とはどのようなものなのでしょうか。神信仰とは、いかなるものであるべきなのでしょうか。ここで、示されたことは、信仰とは、決して表面的な行為ではないということです。

主イエスは、その朝、激しく空腹を覚えておられました。それは、単にお腹がすいたと言うこと以上のことを暗示しているわけです。たとえば、ヨハネによる福音書において、主イエスが十字架の上で、「わたしは渇く」と仰ったことを思い起こしてみたらよいと思います。つまり、ここでの空腹ということもまた、霊的な空腹の意味に他なりません。主イエスが、どれほど、イスラエルの人々に信仰を求めておられたのか。信仰に生きることに飢えていらっしゃったのかということです。

葉が茂っていながら、つまり、イスラエルの人々、とりわけ宗教指導者たちは、表面上は、信仰的なふるまい、行為、活動に励んでいながら、しかし、主イエスの御眼には、それは、実りなき行為だったのです。つまり、神の前には通用しないものだったということです。

いったい聖書の示す信仰とは、いかなるものなのでしょうか。主イエスは、すでにその信仰のイメージを第17章で、はっきりと描き出されました。芥子ダネ一粒ほどの信仰という表現があります。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

そのときの説教の後、ひとりの兄弟が祈祷会で、からしダネを実際に持ってきて、見せて下さいました。それは、まさに、ゴマよりもはるかに小さなものです。まさに粒です。しかしその粒が、地面に蒔かれて根付くなら、大きな木に育つのです。主イエスがそこで問われたのは、それでした。そこでした。それは、私ども自身の信仰が偉大であるのかどうかは、まったく関係がありません。そもそも、キリスト教信仰とは、そのようなものではありません。信じている相手が決定的な問題です。確かに、人を信じる、神を信じると言う行為それじたいも、尊いものだとわたしは思います。しかし、キリスト教信仰とは、信じる行為に注目しません。信じることは、何でもすばらしいということにはなりません。誰を、どなたを信じるのか、それこそが、大切なのだと主張するのです。主イエス・キリストの父なる神、主なる神を信じることです。何故なら、このお方と信仰によって結ばれるときだけ、まことの神の力が注がれるからです。

ここで、主イエスがおっしゃる悔い改めることとは、どのようなことなのでしょうか。それは、信じること、信仰と、ほとんど同じこと、一つのことだと言ってもよいのです。マタイによる福音書で、主イエスが呼びかけられたのは、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」だけです。つまり、悔い改めることは、信じることを含んでいるというわけです。しかもそれは、表面的なものではなく、実質的なものなのです。

内実という言葉があります。表面上のことではなく、内面、内側にあるものです。キリスト教信仰とは、その内実によって、はかられるものなのだと主イエスはここで明らかにお示しになられるのです。そして、その内実とは、まさに現実の生活において、実るものです。信仰とは、キリスト教信仰とは、現実を、現実の自分の生活を変革することなのです。それが、実りを結ぶということです。それが、信仰の内実なのです。

ここでなお丁寧に考えましょう。確かに信じることは、即、生きること、行うことです。これは、キリスト教信仰の要点です。しかし、その信仰とは、その人の思いの強さとか、実行あるのみと言う世界とは、まったく違います。

悔い改めるとは、神へと方向転換することでした。イスラエルは、信じていたはずです。ところがそこには内実がありませんでした。つまり、神さま、神さまと言いながら、みことばを順守しよう、厳守すべきだと言いながら、その内実において、関心が注がれていたのは、実は、神さまについてではなかったのです。それなら、何が彼らの関心だったのでしょうか。それは、自分のことでした。自分の家庭生活。自分の職業生活。自分の結婚生活。自分の現在と将来。自分の子どもの現在と将来。家族のこと。そのためにあるのが、信仰という理解です。神へと心を向けるのではなく、神を信じている自分たちの生活に心を向けていたのです。しかし、それは似ているようで、まったく異なります。実りがないのです。自分を中心にしているからです。

何のために、自分が信仰者として救われたのか、どこに向かうために、信仰が与えられたのか、何をどうするために、信仰生活が与えられているのか。その方向性が、ずれているのです。的外れになっているのです。それが、いちじくの木の物語です。

最後に、これまでにも学んだことがありますが、この御言葉に学びましょう。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

主イエスは、第17章で、からしダネ一粒の信仰があれば、山を動かせるのだと仰いました。ここでも、繰り返されています。何故、それほどまでに信仰には力があるのでしょうか。それは、信仰とは、まさに神の力を、受けとめる場所だからです。神のお働きを受ける器だからです。繰り返しますが、それは、自分の力ではありません。神からの力です。

そのことが分かれば、山に向かって、海に飛び込めと、命じる真のキリスト者は決していないことも分かるだろうと思います。これも、すでに17章のおさらいです。「山を動かす」ことができる信仰の内実とは、何を意味するのでしょうか。それは、ただ神の御心を求めるという一点に尽きます。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」この御言葉を誤解してはなりません。キリスト教の中でも、おかしなものがあります。こんなことを言うのです。「信仰が強ければ、あなたがのぞむ、どんなことでもできるようになります。だから信仰を強くしなさい。強い信仰を持ちなさい。」まるで信仰を、自分じしんの精神力とか意思とか、自分の手で、動かせるように理解するのです。しかし、そのような信仰なるものは、キリスト教信仰とは関係がありません。

主イエスは、このような表現を用いながら、弟子たちに悟らせられるのです。「信仰に生きる人は、必ず、あなたの父なる神の栄光を求める人となって行く。だから、その人の祈る祈りは、すべて、その通りになって行くのだ。だから、御心を知り、御心を祈って行きなさい。御心の天になるごとく、地にもなさせたまへ。わたしの信仰生活を通して、神さまの御心をなさせてくださいと、わたしが教えたように、お祈りし続けなさい。」

「山を動かすことができる」それは、決して、自分の力で、自分の信仰の力で、現実にそびえる山を動かすことを意味しません。現代は、科学技術によって人間は幸福になるという神話がなお、しぶとく拡大し続けます。現代の日本の教会の戦うべき相手は、まさにこの科学技術信仰であり、神話だと思います。そして、自分の信仰心によって、「山を動かすことができる」と主張することは、科学技術信仰と、似たりよったりです。

山を動かされるのは、ただ神のみだと信じること、それだけが求められているのです。言い換えれば、こうなります。私どもの強い信仰が求められているわけではないということです。狂信的な信仰が求められているのでは、断じてありません。ただ、イエスさまを、主と信じることです。このお方に頼るなら、この地上を安心して生きて行くことができると信じることです。自分が愛され、祝福され、遂には、天の故郷へと完全なる勝利へと動かされることすらできるのだと、確信することです。私ども罪人が、何をどうやってみても、自分の努力によって天国に行ける資格を獲得することなど、不可能です。しかし、それを主イエス・キリストが十字架で成し遂げて下さり、ご復活して保証して下さったゆえに、この知識を認識する故に、信頼するのです。

最後に、主イエスが仰った、「疑わずに」との短い言葉を思いめぐらしましょう。主イエスは、おっしゃいます。「信仰には、疑いが入る余地がない。疑いを入れてはならない。」これは、極めて大切な聖書の真理です。

先週は、ヨブについて学びました。彼は、神と霊的に格闘しました。自分の生まれた日を呪い、自分の悲しみ怒り嘆きを、包み隠さず、神さまにぶつけました。激しくぶつけて格闘したのです。それは、神を疑うこととは無縁です。もし、ヨブが神を疑ったら、もはや、神と格闘することもなかったはずです。つまり、神の言葉を聴く人には、疑いを入り込ませてはならないということです。疑うなら、実りません。サタンが昔も今も企て、実行するのは、この疑いに他なりません。

人間どうしのことを考えても、まったく同じです。例えば、誰かの事を疑うとします。その瞬間に、どれほどその人が正しいこと、真理を語っていても、もはや、その人の言葉は聞いているその人には、実りません。聖書の御言葉はまさにそうなるのです。主イエスの御言葉を疑うとき、そのときは、御言葉の力は、失われるのです。説教のことばを疑ったら、説教の言葉は実りません。信仰の内実を深め、豊かにすることはできません。ですから、主イエスはここでわざわざ、「あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば」と念を押されるのです。信じることは、疑わないことなのです。

最後の最後に確認しましょう。私どもの主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた事は、何であったのでしょうか。まさに、山を動かしたことです。いへ、そのような事とは比べられません。罪に染まり、堕落し、神の形としての人間を損なってしまったその人間を、救うということです。罪を赦すということです。それは、天地創造をも、はるかにしのぐ巨大な出来事です。陶器をつくる人が、土をこねて、器をつくります。しかし、もし、気に入らなければ、たたき割って、もう一度、初めからやり直します。たたき割って割れてしまった破片を拾い集めて、元通り、いへ、さらに良いものにすることは、不可能です。

人間が、神の前に犯したことは、罪です。完成されたこの器を、自分で壊したのです。粉々にしたのです。すべてを拾い集めても、もとの形には戻りません。しかし、神がなさったことは、そのすべてを拾い集め、何よりも、その人間を、新しく創造なさるのです。再び創造なさるのです。第一の創造は、簡単です。しかし、第二の創造は、ほとんど不可能のはずです。しかし、その不可能を、神が人となられると言う仕方で、成し遂げて下さいました。人となられたイエスさまが、私どもの罪の身代わりに、十字架で死んでくださることによって、私どもの罪は赦され、きよめられ、新しくされ、再創造されたのです。これが、救いです。赦しです。新しく生まれることです。

つまり、山はすでに動いたのです。キリスト者の信仰とは、この主イエス・キリストが一方的にしてくださった十字架と復活の救いの御業を信じ、受け入れることなのです。

祈祷

主イエスよ、あなたは、私どもに信仰を、山を動かす信仰を、信仰の実り、内実を求めておられます。どうぞ、疑わずに御言葉に聴き、従う者としてください。あなたを畏れ、悔い改めの恵みを与えて下さい。そうでなければ、私どもは、空虚です。枯れてしまいます。どうぞ、説教を祝福し、日々の聖書を読み祈る生活を祝福してください。アーメン。