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「自己正当化を破るための学び」

「自己正当化を破るための学び」
2012年4月25日(水)
賛美歌21 515番「君の賜物と」

「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。』 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」
イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
聖 書 ルカによる福音書第10章25-29節

ご入学おめでとうございます。金城学院大学での学生生活と学びが豊かに祝福されますように。

ある優れたキリスト者がこのような言葉を残しました。
「変わろうとすることを止めるとき、そのとき、人は死ぬ」
そもそも、生きているということは、動物であれば細胞の分裂を繰り返すこと、言わば、その肉体が変化しているということだと思います。ただし、このキリスト者が言おうとしたことは、肉体のことだけではなくて、むしろ、人間にとって最も大切な心とか精神とか魂のことなのだと思います。「変わろうとすることを止めるとき、そのとき、人は死ぬ」どうぞ、皆さんは、変わること、変えることを恐れないで下さい。今こそ、日本と日本人は、変わらなくてはならない、そのような危機を迎えているからです。

今朝は、聖書の中でもとても有名なイエス・キリストの譬え話「善きサマリア人のたとえ」の前半の個所だけを読みました。

ここにひとりの律法学者、つまり聖書の学者が登場します。イエスを試そうとして、上から目線で、こう質問します。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

「さすが、学者!」と思います。彼は、聖書の太い流れ、その全体主題を「永遠の命を受け継ぐこと」つまり、まことの救いだと、その本質をきちんと把握しています。

するとイエスは、こう語られます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。」
ところが、彼はドキッと動揺します。おそらく心に思ったのです。「たしかに、自分は、聖書の知識はちゃんと持っている。人に教えてもいる。しかし、神の御言葉をきちんと守り、行っているだろうか」そこで、この学者は、言い逃れようとして言います。「先生、実行するのは、かまいません。そもそも、わたしは、神を愛し、人を愛し、神の御言葉に従っている立派な信仰の指導者です。ただし、わたしの隣人とは誰のことなのか、そこが、今一つ、はっきりしないのです・・・。」

ルカによる福音書は、この発言を厳しく批判して、こう記します。彼は、「自分を正当化しよう」とした。実は、このような自己正当化のことを、聖書は罪と呼んでいます。それは、神さまに、「ごめんなさい、わたしを赦してください」と言わないかたくなな心と態度のことです。

私は、現在、他大学で、キリスト教学を担当しています。残念ながら、このような学生さんがいます。それは、「キリスト教は、世界史をみれば、戦争をしてきたではありませんか。現代を見れば、宗教が戦争や紛争の種になっているのではありませんか。自分は、そんな宗教には、深く関わりたくはありません。」この問いかけには、確かに聞かなければならない問いがあります。しかし、ここで考えてみたいのは、その学生が、その先入観にたてこもってしまって、キリスト教を、ひいては、宗教そのものをも、全否定してしまう態度についてです。その人たちは、自分には、キリスト教を拒否する正当な理由を持っているのだと考えてしまうのです。

私は、単に、キリスト教の牧師で、キリスト教学を教える者だから、どうこう言いたいのではありません。私は、もしかすると、その学生は、他のことでも同じようなことをしてしまって、人間としての豊かさ、本当の教養を身につけられないままで終わってしまわないかと心配になってしまうのです。もちろん、人間は、誰でも先入観を持っています。自分の知識を自分の都合のよいように整理して、蓄えようとします。しかし、そのような固い姿勢、かたくなな態度を保つなら、その人の人間としての豊かな成長はできるのでしょうか。人間としての深まりは、望めるのでしょうか。

もちろん、この問題は、単に学生たちだけの問題では決してありません。むしろ、律法の専門家に代表される教師の方にこそ、根深い問題になっているのだと、聖書は指摘しているのです。

どうぞ、あなたも、自己正当化と戦って下さい。先入観を一度、カッコの中に入れてしまってください。真理の前に、心を開き、柔らかな心で、自分を変えて頂くように、学んで下さい。それこそが、本物の学びです。

最後に、主イエスは、この学者に向かって、なんと仰ったのでしょうか。主イエスは、こう呼びかけられます。「他人に、無関心にならないでください。関わりを持ってください。共に生きて行きなさい。」つまり、愛しなさいという命令です。それが、隣人に「なる」と言うことなのです。

そのように命じる主イエスご本人は、既に、自己正当化を貫こうとする傲慢なこの学者のために、貴重な時間をお割きになられます。つまり、善い隣人となっておられるのです。そればかりではありません。この人のその罪を赦すために、ご自分のお命を十字架に捧げて、死んで下さったのです。実に、この主イエス・キリストというお方こそが、善い隣人そのものなのです。しかも、主イエスは、今、この金城学院大学を通して、あなたの親しい隣人となっていてくださいます。それなら、どうぞ、私たちもこのイエスさまに、心を開きましょう。自己正当化の殻の中から飛び出しましょう。そして、イエスさまによって、自分を変えて頂きましょう。

祈祷
天の父なる神さま、私たちの先入観を取り払ってください。素直な心で、あなたを、聖書を通して知ることができますように。大学での学びを通して、私たちをよい隣人として成長させてください。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。