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「聖書と神の力を知ろう」

「聖書と神の力を知ろう」
                2012年5月27日(聖霊降臨祭)
             マタイによる福音書 第22章23~33節

「その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。
「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
イエスはお答えになった。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。」

本日は、教会の暦においては、聖霊降臨祭の主日となります。私どもの教会もまた、この日を特別に覚えて、聖餐の礼典を祝います。ただし、いつものようにマタイによる福音書の講解説教を行います。今朝、与えられたのは、サドカイ派の人々と人間の復活についての議論の個所です。わたしはこのテキストが、聖霊降臨祭に与えられたことを、深く感謝しています。皆様にも同じ思いになって頂ければ幸いです。

先ず、ここに登場するサドカイ派の人々とは、どのような人々だったのでしょうか。簡単に申しますと、神殿に奉仕する祭司の集団です。ファリサイ派は、信徒のグループですが、サドカイ派は、言わばプロです。祭司を生業としています。彼らは、ユダヤ人のなかで、言わば貴族的な集団、特権階級でした。ローマ帝国ともある程度妥協しながら、自分たちの権益を保持する、体制側の人々です。彼らの思想、その宗教については、新約の使徒言行録第23章に直接、記されています。使徒パウロがユダヤの最高法院において、裁判にかけられている場面です。「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。」

サドカイ派は、復活も天使も霊も、否定していたわけです。このような主張に基づいて、主イエスの復活信仰をも否定しようと企てたわけです。そこで、このような議論をふきかけます。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』先ず、これについての説明が必要かと思います。これは、旧約において出てまいります「レビレート婚」と呼ばれる掟のことです。「レビレート婚」の掟とは、もしも、ある夫が、子どもを遺さずに死亡した場合、その弟は、兄の妻をめとって、子孫を残さなければならないという掟のことです。それは、古代の社会で女性が生きることの困難さへの神の愛の配慮として考えることができるはずです。神は、このようにして。極めて弱かった妻の立場を制度的に保証しておられたと思います。

彼らは、このように言います。「さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」申命記第25章にちゃんと示されたこの掟を否定するというのなら、彼らは、主イエスを攻撃する動かぬ証拠とすることも可能となるわけです。

さて、主イエスは、ここで復活についての教理、聖書の教えを語られます。先ず、この教えについて、主の御言葉を聴きましょう。私どもは、今朝も皆さまと共にニカヤ信条を唱えて、神に信仰を告白し、あふれる感謝を捧げることが許されました。本当に嬉しいことです。このニカヤ信条において明らかにされた信仰は、2000年にさかのぼる世々の教会、そして世界中にある諸教会において継承されてまいりました、まさに、使徒的な信仰の要約です。教会の信仰のまさに公的で、決定的な表明です。その結びの言葉は、こうです。「我らは死者の復活と、来るべき世の命とを待ち望む。アーメン。」

まさに、結びの言葉にふさわしい私どもの勝利の告白、勝利の希望の告白となっています。されそれなら、この体の甦り、死者の復活の出来事は、いつ、起こるのでしょうか。それは、既に、第二の条項で告白されています。「主は、生ける者と死にたる者とを審くために栄光をもって再び来たりたもう」まさに主イエスが再臨、再び地上に来られるその日に起こることです。それが、いわゆる世の終わりの日です。その世がまったく新しくされる救いの日には、すべての人間は復活させられます。誰一人の例外なしに、肉体が復活させられます。何のために、復活するのでしょうか。神が、そのときに生きている人と既に死んでしまった人とを、同時に審く為です。つまり、すべての人は、正義の神に審判して頂けるのです。

ついでながら申しますと、これが、地上で忍耐深く、コツコツと主の正義に生きる者たちを根本から勇気づける希望です。神さまはちゃんと分かっていて下さり、評価してくださり、この神の御前に生きて行くことが、キリスト者たちの倫理の力になるのです。

さて、主イエスはここでこう語られます。神は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」でいらっしゃると。これは、出エジプト記第3章において、神がモーセに自己紹介されたときの言葉です。この表現で、神がお示しくださったのは、信仰の父であるアブラハムも、その子どものイサクもまたその子どものヤコブも、等しく、神の豊かな顧みのなかで導かれたということです。つまり、永遠の神は、永遠の存在者として、アブラハムの子孫を、歴史を越えて導かれるお方でいらっしゃるということです。神は、その子孫のモーセに向かって、「あなたもまた、わたしの顧みの内にあるのだぞ」とおっしゃるのです。

モーセにとって、アブラハム、イサクそしてヤコブたちは、自分たちの父祖、先祖です。しかし、はるかかなたの歴史上の人物です。ところが神は、そのような表現をもって、実に、アブラハムもイサクもヤコブも、単に歴史上の人間ではなくて、神さまにとってこの三人は、今も生きているということです。彼らは今、天にあってご自身と結ばれた状態にあるということです。丁寧に言えば、彼らは、今、イエス・キリストに結ばれて、神とともにあるのです。つまり、死んだけれども死んでいない、消滅していないのです。肉体の生命は終わりましたが、それで彼らの存在が消滅してしまったわけではないのです。

「子どもカテキズム」にこうあります。「死んだ後はどうなりますか。答、死んで終わりではありません。私たちの魂は完全にきよめられ、天の国に入れられます。私たちの体はイエスさまと共にあり、イエスさまが甦られたように、再臨の日に朽ちない体に甦り、魂と一つにされます。死ぬまで、そして死んでからも、イエスさまと私たちは一つです。救われた私たちは、永遠に神さまを喜ぶことができるのです。」

死んだ後、私たちは天の国に入るにふさわしく完全に聖化されます。肉体は、既に遺骨となり、土に帰ってしまいましても、復活させていただく肉体は、イエスさまとともにあるのです。確かにこれは、神秘です。そして、ここが極めて重要なのですが、子どもカテキズムは、これ以上にアレコレかいていません。他の歴史的な信仰問答も同じです。聖書も、コリントの信徒への手紙Ⅰ第15章を他にしては、復活についての詳細な議論はありません。しかも、それを記した使徒パウロであっても、天上におけるキリスト者の生活や、その後に与えられる復活した体における生活のあり様については、ほとんど何も記していません。つまり、神の啓示は明瞭にされていないからです。

復活の体におけるあり様について、旧約聖書においては、未だ決着がついていないというわけです。それほどまで、死後の世界については、神の啓示は、ごく限定されています。そして、結論的なことを申しますと、新約聖書においても、完全には明らかにされてはいません。だからこそ、今日も、さまざまなキリスト教の異端が登場し、ああだこうだと、見て来たようなことを言うのです。あるいは、他の宗教でも、そのような死後の世界を見て来たかのように言う人がいるわけです。

しかしいずれにしろ、聖書は、この事実を単純明快に告白します。それは、人間は、死んで終わりではないということです。消滅しません。千の風になることも、光になることもまたありません。また、生まれ変わって昆虫や動物になることもありません。別の人格に生まれることもありません。しかもそれは、霊魂不滅のギリシャの哲学者の教えでもありません。死んだ後は、肉体から解放され、霊魂、魂だけの存在になるわけでも決してありません。旧約においても、何よりも新約において明らかにされたのは、人間は肉体と魂とで人間であるということであって、肉体が復活するということです。

さてただし、そのときに、ある問題が生じるのは事実だろうと思います。だから、ここでの議論が生じるわけです。肉体が復活するということであれば、結局それは、もう一度、地上に生きていたその肉体の生活を、繰り返すことになるのかという問いです。これに対して、主イエスは、ここで決定的な答えを出されました。それは、肉体の復活とは、単にこの地上の肉体がそのまま復活するということではないということです。もし、それが分からなければ、このレビレート婚の問題だけではすみません。わたし自身も、まったく分からないことがあります。それは、肉体が復活するときの肉体とは、いったい何歳の肉体なのかという問いです。私どもは時間の中で生きています。物質としての生身の体を持っています。そして、およそ物質は、すべて時間の経過の中で変化して行くものです。劣化すると言ってもよいかもしれません。生物であれば、まさに、耐用年数がほとんど定まっているはずです。しかも、生物は、ひとしくその言わば耐用年数まで生存できるかと言えば、ご存知のようにそれは、違います。病気や事故によって、いつ何どき、肉体が損なわれ、生命が停止させられるか誰も分かりません。そうなると、20歳で亡くなった人、90歳で亡くなった人、一体、その人は、何歳の体で復活するのでしょうか。これもまた、レビレート婚を問う問いと通じているかと思います。

そうなれば、その答えは、何となるでしょうか。最初に申し上げると、聖書には記されていません。しかし、その答えはないのでしょうか。

私は思います。決定的な答えとして、それは、「分からない」ということではないでしょうか。そして、私は、この問いを真剣に問われる方に、このように質問させていただきたいと思います。「分からなくては、困りますか?」と。そのように、問い返して差し上げることが大切だと思います。つまり、死後の詳しい状態について、分からなければ、神を信じ、御言葉に従うことができないのでしょうか。違うはずです。もし、できないのであれば、神は、必ず、このことに対しても明瞭に、明白に明らかにされたはずです。つまり、ここに聖書の答え、神さまの答えがあるわけです。

しかし、だからと言ってここで、それだけで済ますこともできません。主イエスが、この議論において明らかにしてくださった基本的な真理があります。それは、復活の体と今あるこの体とは、異なった体であるということです。今朝は、これ以上、深入りする時間はありません。あらためて祈祷会で、学んだらよいと思います。使徒パウロがコリントの信徒への手紙Ⅰ第15章:44節でこう言った言葉だけを、朗読します。「つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」霊の体に甦らされるとき、それは、今の朽ちて行く体とは、異なるのです。したがって、めとることも嫁ぐこともないのです。何歳の体に復活するという、地上の朽ちる体のイメージの中で、考えることはできないのです。天国のイメージもまた、どこまでも、地上の豊かさの投影、類推として考えるべきではないということも、触れておきたいと思います。

最後に、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」との主イエスの御言葉を聴きましょう。これは、とても深いです。先ほど、私は、神は、すでに死んでしまったアブラハムの神でもあると申しあげました。つまり、私どもの愛する肉親、先祖にとっても、聖書の神は、神として彼らをご支配の内においておられということです。人間、死んだら終わり、何もないというのではありません。

日本には、「自己破産」という制度があります。多重債務に苦しむ方が、人生を再スタートできるための助けとなる制度だと思われます。手続きを踏めば、これまでの債務、借金をゼロにできる制度です。何故、そのような話をするのかと申しますと、人間の死は、生前の言わば負債をゼロにする制度ではないということです。死んだらすべてがチャラになる。確かに、死んでしまえば、もはや取り立てられることはありません。ただし、死者もまた神の前では、生きている存在なのです。神の前では、姿を消し、隠すことはできません。死者の復活とは、生きている者も死んだ者も裁く主イエス・キリストの前に出ることです。人間は、地上にあっても死後でも、神の前に存在するのです。

さて、ここで主イエスが最もそして、ストレートに語られたメッセージを最後の最後に聴きましょう。「神は~生きている者の神なのだ。」

今、わたしの心にいくつもの祈りの課題がありますが、その一つは、ひとりのご婦人のことです。皆さまもよくご存じのご婦人のことです。すでに100歳を越えていらっしゃいます。昨年末には、私どもの被災地ディアコニアのために、毛糸の靴下をたくさん編んでくださった敬愛する大先輩です。今は、病床にいらっしゃいます。この方は、あの太平洋戦争で戦死されたご主人をお持ちの戦争未亡人です。今なお、ご主人への思いを貫かれていらっしゃいます。三輪委員の伝道によってすでに主イエスさまを信じておられます。子どもカテキズムをもう何回も読み続け、学ばれたのです。共に祈っておられます。が、しかし、洗礼を受けることはなさいません。その理由は、ご主人を裏切ることになるから、ご主人と違うところに行きたくないからというものです。これは、よく分かります。よく分かるなどと申しますと、かえって失礼かもしれません。しかし、お気持ちを想像できます。

しかし、今朝、主イエスがご自身は、やはり、この姉妹にも、こう優しく語って下さっていてくださいます。「天の父なる神は~生きている者の神なのです。」つまり、天のお父さまは、今、ここで生きている、そのご婦人の神さまでいてくださるということです。それは、何を意味するのでしょうか。それは、既に死んだご主人さまのことは、この天のお父さまにゆだねてしまって大丈夫だということです。天のお父さまに任せてしまいなさいという招きです。「今、生きているあなたは、わたしを神として、従って来なさい。それだけでよい。愛する方のことは、全部、私と私の父におまかせしなさい。」

わたしは幼いとき、父と死別しました。父は、確実に、キリスト者ではありません。しかし、わたしはキリスト者なのです。神の民の一員です。もはや、時計を逆に戻して、死んだ父に伝道することは、できません。死んだ父のために、わたしが、ここで代わりに信じることもできません。私どもは、ローマ・カトリック教会のように死者のために、ミサ礼拝を捧げません。その必要はありません。何故なら、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」でいらっしゃるからです。死者のことは、全部、任せて良いし、任せる以外にありません。大切なことは、神が真剣に問いかけていて下さることは、自分自身のことです。私どもが、今生きているこの瞬間を、生かされているこの自分の問題として、神に従うことを考え、決断すること、それこそが問われています。

わたしは、ここにいらっしゃる多くの方々もまた、わたしと同じ立場の兄妹だと思います。自分一人で、信仰の生活を築いていらっしゃる方が少なくありません。しかし、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」でいらっしゃるのです。亡くなった愛する方のことは、いっさい神にゆだねてよいし、ゆだねるべきです。
しかも、そこで決定的な事実があります。神に、ゆだねている自分は、誰かということです。私どもは、天の父なる神さまの子どもです。神の子どもです。そうであれば、安心してゆだねられませんか。神の子どもであるわたしの父親や母親、そして、愛する夫や妻、そして子どもたち。すべて、わたしどもが思いわずらう以上に、この父なる神ごじしんが、愛のなかで、愛の眼差しの中で、顧みていて下さいます。

これ以上は、わたしは言えません。決して、言ってはなりません。自分がこの説教で語ったことを裏切ることです。いずれにしろ、既に亡くなった方々のことを、考えても分からないし、どうすることもできないことを、あれこれ空想しても、意味がありません。何よりも、私どもが、主に従うことを、止めさせる理由にはなりません。

私どもは先週、ここで、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの恵みと愛に満ちた慰めの言葉を聴きました。私どもは、まさにこの慰めの響きの中で、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」という宣言も聴きたいのです。死者に対するさまざまな思い、あるいは思いわずらいを主なる神に、天のお父さまにお返ししてよいのです。いへ、お返しすべきなのです。それを思いわずらっても、どうすることもできません。しかし、神は、事実、既に私どもを、天国へ、永遠の命へと導いてくださいました。

私どもの人生の終わりは、はっきりと示されました。体の復活の後、神の裁きを受けて、永遠に肉体と魂とが結ばれて、正真正銘のわたしじしんとなって、神と共に永遠に生きることです。この終わりの定めを心から感謝して、進み行きましょう。聖書を通して神の力を知る道がここにあります。聖書を信じて従うそのとき、キリスト者は聖書の力を知るのです。神の力を知り、これにあずかるのです。まさに、論より証拠です。論語読みの論語知らずではありませんが、聖書を読むとは、まさに、聖書を通して語られる神の御言葉を聴いて従うことです。そのとき、私どもは、神の主権的力、全能の力にあずかるのです。

今朝は、聖霊降臨の出来事をお祝いする日です。2000年前、神の力は、極めて小さな、極めて無力なキリストの弟子たちに、しかも極めて少数の弟子たちに注がれました。それは、彼らが主イエスの約束の御言葉を信じて、聖霊を待ち望んだからです。しかも、今もその群れは、存続しています。そればかりか、今や、もはや巨大と言ってもいいかもしれない群れになっています。

最も身近な実例があります。それは、私どもの開拓伝道の現実です。1994年から始まった開拓伝道です。今、ここに神の教会が存在しているのです。まさに、聖書と神の力の実例です。それは、私どももまた神の言葉の説教を聴いて、信じて、従ったからです。

実に、私どもにとって、神さまが生きておられることを証することができることこそ、福音の恵みの力を証することにまさって幸福な人生はありません。聖書の力を、自分の人生を通して証することができたら、これにまさる光栄なキリスト者の生涯はありません。そして、私どもは、まさに、日本キリスト改革派教会名古屋岩の上伝道所の会員とされた光栄とその誇りに生き続けて欲しいと願います。これからも、教会を通して、聖書と神の力を自ら知ってまいりましょう。

そして最後の最後に、教会に生きるということは、決して、皆さまひとり一人の名前が消えてしまうということではありません。そのとき、本当の意味で、皆さまひとりひとりの名前が際立つのです。イスラエルの民の中で、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、マタイの神と連綿と続いて、伸郎の神、皆さまの名前もまた残るのです。天のお父さまは、それほどまであなたの神となっておられます。そのようにして、神は、ひとりを大切に扱って下さるのです。永遠に、神のものなのですから、神の宝物として扱って下さるのです。そうであれば、いよいよ、終わりの日の体の復活を希望にして、勝利の日をのぞみ見ながら、聖書の力、神の力を証してまいりましょう。

祈祷
教会の頭なる主イエス・キリストよ、父なる御神よ、あなたは、きのうも今日もとこしえまで変わらないお方です。今生きておられるお方、やがて来られる救い主です。今地上で生きる私どももすでに天にある先輩たちも、あなたの御前で生きています。しかし、地上にあって、あなたの救いの御業に奉仕できるのは、まさに、私どもの特権であり、務めです。どうぞ、今生かされているこの瞬間、この日々を大切にしながら、あなたと隣人に仕える歩みを全うさせてください。信仰を告白しまいまま召された肉親を思います。恵みに満ち満ちたあなたにおゆだねします。アーメン。