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「愛の掟に生きるとは」

「愛の掟に生きるとは」
                2012年6月3日
             マタイによる福音書 第22章34~40節
「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」

今朝も主イエス・キリストの恵みと父なる神の愛と聖霊の親しい交わりが愛する皆さまの上に豊かにありますように。皆さまと共に礼拝を捧げる光栄を心から感謝致します。

先週は、サドカイ派の人々が、主イエスを攻撃しようとして失敗してしまった出来事から学びました。それを聞き及んだファリサイ派の人々は、今度は、自分たちが、尊敬する律法学者、聖書の学者を立てて、主イエスを批判し、攻撃しようと企てます。

こう始まります。「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」彼らは今、聖書の解釈を巡って、主イエスを試そうとします。つまり、イエスが、どれほど、聖書を理解しているのか、聖書の奥義をわきまえているのか、それを問うのです。律法学者の意図したことは、まったくいただけません。ただし、彼らが、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と問うたことは、さすが学者と言わざるを得ないと思います。

主イエスは、このようにお答えになられました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」」
神を愛し、隣人を自分のように愛しなさいというこの掟は、主イエスが旧約の掟の真髄をまとめたものとして、たいへん有名です。しかし実は、これは、イエスさまだけがこのようにまとめられたのではありません。例えば、有名な善いサマリア人の譬え話において登場するひとりの律法学者もまた、永遠の命を得るためには、神を愛し、隣人を自分のように愛することが最も大切なのだと、発言しているからです。つまり、旧約聖書をきちんと読んで理解すれば、神を愛し、隣人を自分のように愛することが、神の掟の精神、真髄であることは、分かるものなのです。

ただし、そこでこそ、問わなければならない根本的な問題があります。先週の主イエスが、サドカイ派の人々を叱責された御言葉をまさにおさらいしたいと思います。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから思い違いをしている。」あの見事なまでに正しい答えを言ってのけた律法学者です。確かに彼は、隣人を自分自身のように愛することを否定しません。しかし、彼は、隣人を愛さなかったのです。

つまり、聖書の教えが頭で理解できれば、聖書が分かったというわけではありません。神の御言葉を信じ、それに従うこと、これこそが、まことの意味で、聖書が分かるということです。今朝、志を新たにして、心の底から、このように神に祈り求めましょう。「聖書と神の力とを本当の意味で分かるキリスト者にならせてください。」

さて今朝は、この御言葉を深く考察したいと思います。神は、旧約においても新約においても人間に「愛しなさい」と命令されます。さて先ず、根本的なことをわきまえておきましょう。聖書の神は、私どもに不可能なことを命令するような神なのでしょうか。違います。神が愛することを命令するのは、私どもが神を愛し、人を愛することを諦めておられないからです。神が、神ご自身を愛しなさいという命令は、人間は神を愛することができるのだという神ご自身の人間への信頼があるからなのです。つまり、神は徹底的に人間を信頼し、愛し続けておられるのです。
さてしかし、もっと考えを掘り下げてみましょう。

そもそも愛するということは命令されてできるものなのでしょうか。命じられてするような愛は、もはや愛の本質から言ってまことの愛とは呼べないのではないでしょうか。たとえば、どんなお金持ちでも、権力者であっても、たったひとりの女性でさへ、自分を真実に愛させることはできないはずです。愛とは、相手の自由な心の思い、その純粋に基づくからこそ、尊いのであって、すばらしいものです。

そうであれば、おそれ多い言い方ですが、たとい神さまであっても、まさに愛を強制することはできないのではないでしょうか。その通りです。この事実は、根本的に重要な理解です。神と言えども、いへ、真の神だからこそ、人間に愛を強制することはできないし、そのようなことをなさらないのです。

何故なら、神は、我々人間を霊的な存在として創造されました。それは、霊でいらっしゃるご自身に向き合い、まさに自由に応答できる存在として創造されたということです。つまり、理性を持ち、人格を持った存在として創造されたということです。そのような神だからこそ、人間の尊厳を、言い換えれば人間の自由を徹底的に重んじてくださるのです。人間とは、自動的に神を愛する存在ではないのです。簡単に言えば、神は、人間をロボットようには創造されず、またペットのようなものとして向き合われるのではありません。人は、霊的な存在、主体的にご自身と交わることができる存在とされているのです。したがって、自らの決意によってのみ、つまり、自分の自由の判断、意思に基づいて、神を信じ、従うことができるのですし、そうしなければならないのです。だからこそ、愛は尊いのです。

ところがしかし、まさにそこでこそ、我々人間は、この自由を濫用しました。悪用しました。最初の人アダムとエバは、この与えられた自由、人間の尊厳をもってなんと神に反抗し、愛の御言葉を破ったのでした。その結果、アダムとエバは、初めにいだいていたはずのお互いに対する愛すらも、同時に失ってしまったのです。神の愛の御言葉に背いた彼らは、お互いに、罪の責任を転嫁しました。最初の美しい愛の関係、夫婦の関係を壊してしまったのです。

人間の罪とは、まさに、ここにあります。神を愛すること、唯一の主を主として信じ従うことにおいて失敗したのです。堕落したのです。ですから、愛の能力において、無能となっているわけです。これが、今の私ども、私たちの現実です。

私たちの愛とは、まことに自己中心的なものではないでしょうか。愛という環状が一度冷めてしまったら、どうすることもできなくなる場合が少なくありません。もはや、愛する値打ちなどないと考えた、感じた瞬間に愛は冷めるのです。そうすると、すぐに諦めが始まると思います。もうダメだ、終わりだと思うのです。親子でもそうです。子どもが、本当に自分の言う事を聞かない。何を言っても反発するだけ。もう、自分の子どもだけれど、もう、受け入れられない。そのようにして、自分の子どもに対しても、諦めが始まることもあります。学校の教師であってもそうです。自分にいちいち反抗してくる生徒に対して、イライラしてしまう。普通の精神状態でいられなくなる。無視してしまう。その内に、憎んでしまう。そのようなことも例外的なことではないように思います。つまり、私たちは、人を愛するということにおいてどれほど不誠実であり、なんと諦めが早いのかを思います。つまり、愛に乏しいのです。愛のない人間なのです。

それにもかかわらず、いったい、神が人間に愛を要求するということは、何を意味しているのでしょうか。ある人は空想するかもしれません。神さまは、寂しさを覚えているのだと。いったい神は、愛されることにおいて満ち足りていらっしゃらないのでしょうか。決してそうではありません。まったく間違いです。神こそは、愛に満ち満ちていらっしゃいます。父なる神と御子イエス・キリストと聖霊の交わりの内に存在していらっしゃる神は、交わりの神です。相互に愛し合って、離れることのないお方です。そのような愛そのものの神が、愛の不足を嘆かれることなどありえません。むしろ正反対です。神は溢れる愛を、人間にも分かち与えたくてしかたのないお方なのです。父と子と聖霊なる三位一体の神は、その存在そのものが愛でいらっしゃるのです。愛において無限、無量なのです。神の愛が少なくなることもありません。生きておられる神は、いつでも泉のように愛が溢れていらっしゃるのです。だからこそ、私どもは、このような反抗的で、素直でない、鈍感で、自分勝手、自己中心でいい加減な者であるにもかかわらず、神は、私どもの状態によらずに愛し続けて下さるのです。

それなら、いったい何故、神は、全身全霊をもって、徹底的に、ご自身を愛し、隣人を自分のように愛するようにと要求なさるのでしょうか。

第一に、神の命令の背後には、ご自身のうちに何一つとして、やましさを覚えることがないからです。私たちは、この世における命令のほとんどすべての中に、その命令が、命令する側の人にとって利益になるからだと思っています。そこに、何か、嫌なものを感じると思います。しかし、神が愛を命じられるのは、まさに純粋に神が人間を愛しておられるからなのです。つまり、神は、私ども人間を、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして」愛しておられるからです。しかも、神を愛さない人間、むしろ、神に敵対する人間を愛しておられるからです。

第二に、愛は、ひとりきりでは成り立たないものだからです。相手の愛を受け入れなければそこに実現しないのです。いわゆる片思いでは、愛が出来事として起こらないのです。だから、神は、私どもに愛を要求してくださるのです。「あなたの神である主を愛しなさい』という神の命令は、「わたしの愛を受け入れなさい!」との招きの言葉なのです。

ひるがえって私どもは、愛において諦めることがどれほど早いのでしょうか。たとえば、夫婦の関係です。いわゆる恋愛結婚で結婚したはずの夫婦が、どれほど、愛の関係において破綻してしまったことでしょうか。離婚はしなくても、内実において崩壊している夫婦関係は、いくらでもあると思います。

そのような愛に乏しい私ども、いへ、神と人とを愛する能力のない私どもは、いったい、どうすればよいのでしょうか。とても、単純なことです。第四戒に生きることです。「安息日を覚えてこれを聖とせよ。」です。神は、主の日の礼拝式において、繰り返して、「わたしはあなたを命をかけて、十字架の死の極みまで愛している」と語って、私どもに愛を豊かに注いでくださいます。この愛を受けることです。神の愛を受けることから、すべては始まります。

次に、第二の掟を学びましょう。『隣人を自分のように愛しなさい。』です。神の愛の第一の御心とは、まさに人間が神に愛される喜びの内に生きることでした。それなら、神の第二の御心とは、何でしょうか。

それは、人間どうしがこの愛を分かち合って生きる世界を造ることです。それもまた、人間を人間らしくするための要求に他なりません。つまり、神の掟とは、徹底的に人間の幸いを目指し、人間の喜びを目指しているのです。したがってそれは、神を愛し、人を愛する戒めとなるのです。そして、この愛は、二つで一つです。どちらが欠けても、人間が不完全になり、愛が不完全となり、健やかで、幸福な人間の生活、つまり、人間の共同体ができなくなるからです。

ここで主イエスがはっきりと示されたのは、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」ということでした。「律法全体と預言者」つまり全聖書にある掟は、すべて、この二つの愛の掟に基づいている、かかっているということです。この基づくという言葉は、もともと、扉を留める「ちょうつがい」を意味すると言います。まさに、ちょうつがいなしには、扉が機能しないように、すべての掟は、この愛を目指し、この愛によって命じられ、守られなければ、意味がないというわけです。すべての掟は、神への愛と人への愛に貫かれたものなのです。

神の掟は、私どもを神と人を愛するという言わば、二つの方向性へと動かします。今わたしは、二つの方向性と申しました。しかし、本当は、ただ一つの方向性です。神と人への愛は、二つで一つの愛なのです。確かに、ヨハネの手紙が言うように、「神を愛すると言いながら、兄弟を愛さない」ということが現実にはしばしば起こるのです。しかし、神と人への二つの愛は、お互いに反発し合う方向性にあるものではありません。右と左に引っ張りあうイメージではありません。イメージで言えば、この二つは、一つの的となっているのです。弓矢を放って神を愛するという的に命中するとき、後ろにある的、つまり隣人を愛する的をも射抜いてしまっているのです。

さらに、明らかにしたいと思います。真実に隣人を愛するという弓矢を放たれたとき、その矢は、自分じしんを愛するという的をも射抜いているのです。神を愛することも隣人を愛することも、神に愛されている自分なしには、成り立ちません。したがって、自分を愛するということが、必ず、伴うのです。私どもの教会は、改革派の伝道を自覚的に生きようとしています。カルヴァンは、悔い改め、自己否定ということを常に大切にいたしました。言うまでもないことですが、キリスト教にとって、その救いにとって、神の栄光を求め、福音を信じること、主イエスを信じ、愛し、従うことは、常に、自分自身に死ぬことを意味します。それは、古い自分です。自己中心の自分です。愛に生きることのない罪人の自分です。罪の自分が丸出し、エゴ丸出しで、神を愛し、人を愛することは、言うまでもないことですが、成り立たないはずです。

しかし、そこで注意したいのです。ここでの自己否定は、自分を軽んじることではありません。自分を憎むことでもありません。自分を憎むとそれだけ、隣人へと愛を向けることができるわけではありません。むしろ、反対です。主イエスが、自分を愛するようにと仰ったのは、当然のことなのです。

いったい、自分を愛する道とは、どのような道になるのでしょうか。それは、神に愛されている自分を深く認める道です。自分じしんを喜ぶことです。自分の存在を感謝することです。神を喜ぶことと自分を喜ぶこととは、ここでも一つのことなのです。

ただし、この順序は、順番は決して動かせません。第一のことは、神を愛することです。神の愛を受けることです。しかし、繰り返しますが、隣人を愛する第二の愛がないなら、それは、まことの愛ではないのです。

それなら最後に、この神を愛し、隣人を自分のように愛する神からの愛の掟が、具体的に目指すのは、どのようなものなのでしょうか。あるいは、どのような人間なのでしょうか。それこそは、教会の形成に他なりません。そして、どのような人間かと言えば、教会に生きる人間、教会生活を中心に生活する会員に他なりません。つまり、この愛の掟によって、教会共同体は、この地上に誕生するのです。形成されるのです。これこそ、神の御心の中心なのです。

さて、最後に触れます。いったい、ここで命じられた愛を完全に実践された人間はいるのでしょうか。聖書は証します。主イエス・キリストただお一人だけが、この愛を完全に実践されました。主イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神に従順になられ、愛し抜かれました。それは同時に、人間への極みまでの愛に他ならなかったのです。一つの愛の方向性は、神と人を愛する愛の的を射抜くのです。あの十字架において、二つで一つの真の愛が完全に現わされたのです。確かに、十字架でご自分を犠牲にされた主イエスは、ご自分をお捨てになられました。しかし、それは、決してご自身を憎んで、嫌になっていわゆる「憤死」なさったのでは、まったくありません。どこまでも、ご自身の存在をとてつもなく重く受け止めてらっしゃったのです。つまり、主イエスは、ここでも真実の意味で、ご自身を愛されたのです。こんな自分が犠牲になっても大したことではないとは、決して自覚なさらなかったのです。だからこそ、そこに主の御苦しみも激しかったはずです。ご自身を愛するその愛を裏切らないで、しかし私ども罪人を愛されたのです。そのとき、まさに真実の意味で、主イエスは、自己否定をなさいました。自分を捨て、自分の十字架を背負って下さったのです。そして、それこそが神を愛することに他ならないのです。まさにあの十字架の上にこそ、ここで律法が要求するすべての掟が成就されました。完全なる愛、神と人への完全な愛が十字架において燦然と輝いたのです。こうして人となられた主イエスは、神の愛の掟を完成してくださいました。

したがって今や、どんな罪人でも、この十字架の主イエスを信じるだけで、罪が赦されます。そればかりか、神の愛を溢れるほど受けることができます。こうして私どもは、正真正銘、神の子とされたのです。だから、この父なる神の愛の中で、私どももまた、天の父なる神さまとお呼びすることができるのです。神を愛し始めることができます。

こうして、私どもは、神の愛を注がれる喜びのなかで、主日礼拝式を捧げるばかりか、この礼拝式をもって神への愛を心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、全身全霊をもって捧げるのです。それが、私どもの生きる最高の目的となり、喜びとなりました。

さらに、神からの愛を受けた私どもは、私どもをして隣人を愛する愛へと突き動かします。こうして教会はディアコニア、奉仕に生きる群れとなってまいります。福音を伝道する共同体になります。福音を伝道することにまさって、隣人を愛する行為を考えることはできません。

そしてその結果、地上には、キリストの体なる教会、神の民である教会が形成され、成長させられて行きます。お互いを愛し合う共同体がつくられて行きます。これが、聖書のいう新しい人類です。新しい共同体です。本来の人間の社会なのです。神の国とは、そのような新しい国なのです。

したがってまことの愛は、やがて国境を越え、民族を越えて行きます。こうして、世界中に一つの神の民が生み出されます。そして、その教会は、神の愛という絆によって結ばれ、愛の共同体へと育てられてまいります。それゆえ、人々から好意を得て、この世に、社会に奉仕する教会として形成、成長させられてまいります。
この掟が作り出す場所、そしてこの掟に生きる場所は、先ず、教会です。教会においてこの愛の労苦を避けて、目に見えない神を愛することは、あり得ません。あらためて、今朝、私どもは、このように祈り求めましょう。

祈祷
私どもを、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、十字架の極みの愛をもって愛して下さいました主イエス・キリストの父なる御神。あなたは、今この瞬間も、変わらない愛をもって、愛して下さいますことを心から感謝いたします。私どもは、幾度、あなたの愛の掟を破ってきたことでしょうか。主よ、赦して下さい。しかし、あなたの愛の中で、もう一度、私どもも、あなたを愛し、隣人を自分のように愛する愛へと私どもをつき動かして下さい。アーメン。