過去の投稿2012年7月1日

7月1日

★  先週は、吉田隆牧師をお迎えして幸いな説教、そして午後の発題を頂きました。よき牧師が日本キリスト改革派教会に与えられていることを、心から神に感謝する者です。集会後、牧師宅にて、ゆっくりと交わりの時が与えられました。はっと気づけば、7時!最終の新幹線で仙台に到着されたとのこと。「よく整えられた集会で奉仕をすると、こちらまで力をいただけるものです。心地よい疲れの中で帰途につくことができ感謝でした。」とのメールを頂き、恐縮しきりです。

☆  私どもの存在が、日本キリスト改革派教会の中に、もし、よい影響を与えることができるとすれば、それこそ、加入の志の成就です。神の力強い導き、-摂理と申しますが-にこれからも喜んで服しつつ、一つのモデルたらんとの高い志を堅持し、歩み続けてまいりたいと、改めて、思わされました。

★  先生の発題の中で、わたしにとって、非常に、励まされたことは、東北におけるキリストの教会の存在についてでした。今、被災地にあって懸命にディアコニアに励んでいるキリストの教会を、地域の方々は、無視しておられません。心を開いて下さっています。むしろ、教会に親近感と信頼感、期待感を寄せておられます。
私どもの継続的ディアコニアは、亘理旧館、坂元中跡そしてナガワ工業の仮設入居者という、300世帯にも届かないわずかの方々の支援にすぎないかもしれません。しかし、確かに、受け入れられ、ある「支え」の一部として用いられているように思います。

日本の宣教の150年の歴史の中で、なしえなかったこのような教会に対する意識の変化が、この1年余りの中で、なされ「始めて」いるわけです。それは、極限まで苦しみ、痛んでいらっしゃる方々が、隣人となろうとする教会のディアコニア、主イエスのディアコニアを継承するキリスト者(しかも教派を越え、国境を越えています。)の奉仕に触れたからだと思います。

一般のボランティアの方々の関心と活動は、メディアに取り上げられる回数の減少と比例して減少しています。確かに、私どもは、初動時の体制と実行においては、一般のボランティアの方々と比べて、非常に弱かったかもしれません。しかし、大切なのは、「これから」なのです。これから、教会が自分の身を切るようにして、教会の外へのディアコニアに生きることができるかどうか。まことのキリストの教会として、存在しているのかどうか、それが問われるのだと思います。名古屋の地から、東北にある諸教会を、微力ながら、支援し続けることが出来ていますことは、まさに、光栄なことです。

☆  吉田先生を始め、仙台教会、東仙台教会他の奉仕活動は、自ら被災者でいらっしゃる奉仕者が中心的に担われています。9月に伺った時でさえ、亘理伝道所は余震で何度も揺れていました。そのような被災地で、奉仕を担う兄弟姉妹をはじめ教師の皆さんのストレスやトラウマの厳しさを思わざるを得ません。主が優しく支えて下さいますように。本日、大会執事活動委員会からの「共に生きる」また、中部中会ディアコニア委員会からの「ディアコニア通信」も配布しています。どうぞ、お読みください。祈り続けてまいりましょう。執り成しの祈りのディアコニアにまさるディアコニアはありませんから。

★ チラシを個別に配布された方々は特に、ある厳しい悲しみに直面されました。人々が、福音と教会になお無関心でいらっしゃることです。しかし、落胆せず、何度でも復活(=立ちあがる)しましょう。

★  教会設立を迎える教会への三つの言葉をいただきました。
1、教会役員には、忠実さが最も大切であること。
2、教会役員は、チームプレーを心掛けるべきこと。  
3、教会設立とは、牧師を招聘することができる教会であるということ。つまり、牧師(の生活)に対して責任を持ち、たとい牧師が一定期間、不在となっても乗り越えられる力を持っているべきこと。
わたし自身は、その中で最大のことは、チームプレーだと思います。教会は、個人個人の寄せ集めではありません!神の民、羊の群れ、キリストの体、神の家族です。与えられた賜物は、互いを建てあげるためのものです。私どもの教会は、これからも何度も語り続けるでしょう。「教会こそ、この世に宛てて送られた神の愛の手紙!」だということです。教会が、地域の人々に読まれるのです。わたし自身はただの牧師・・・。しかし、役員を中心に、会員がチームプレーで心を合わせるなら、教会は、陰府の力もこれに勝つことができません。その要に長老、執事どうしの信頼と尊敬と愛が問われるのです。