過去の投稿2012年7月15日

7月15日

★  先週は、夜の祈祷会で、止揚学園(滋賀県東近江市)のスタッフ、○姉、○姉、そして○在住のご父兄が出席され、働きを分かち合って下さいました。50年前、知能に重い障がいを持つ4人の子どもたちと福井建雨先生によって始まった施設です。恐るべき差別と偏見を受けていた知的障がい者とその家族・・・。福井先生は、ご自身を加害者の視点で見つめ、共に生きるべく立ちあがられ、今日までの歩みとなりました。日本におけるこの面での開拓者、けん引者です。80歳になられたと伺いました。経営基盤は、厳しいと拝察致します。祈りをもって連帯させていただければと思います。スタッフのお二人の歌声を交えた、証は、夜の祈祷会に天からのそよ風を運んで頂いたように思いました。

☆  先週、ディアコニア支援室の会議を開き、第7回のディアコニアの概要を定めました。のぞみセンターでの「夏祭り」です。詳しくは、室長から・・・。尊い献金を、被災者の方々に有効に、との思いから、かなり過酷ですが、毎回、自家用車を利用しています。これからも基本線となると思います。しかし、今回、「新幹線」・・・と、呼びかけをさせていただきました。いつものように、行ける奉仕者と送り出す奉仕者が一つになってこそ、主にある、教会のディアコニアとして捧げられます。

★   先週の続き 第3回目 「豊明教会長老候補者のための学び」(2001年12月27日)のプリント。 

b 「牧師と共に神学(聖書・教理)を学ぶ長老」
     長老職務者は、「教会以外の人々からもよい評判を得ている人」(テモテへの手紙Ⅰ第3章7節)が求められています。これは決して、社会(世俗)的評価を優先しましょうということではありません。社会的立場だけで役員にすれば、教会の自殺行為に等しいです。神の教会を御言葉と御霊によらないで、建てよう、守ろうとするような企ては、神と歴史の審判の中で、衰退して行きます。たとい一時は、それで、「成長」したように見えても教会の成長とは言えません。木下牧師のこれまでの教会形成の戦いとは、その中心とは、おそらくこの一点にあったと拝察します。もっとも、およそ「真面目な」牧師であれば、誰もがこの線を譲れないと思います。

       長老は、牧師は世の中に疎いから、自分はその点をカバーしようと考えることは、決して悪いこととは言えないと思います。ところが、その善意が、しばしば、上記の譲れない線を侵害してしまうことも起こります。
政治規準8項には、「御言葉を教えることに努め、教会員に率先して伝道すること」とあります。ウェストミンスター【小教理】問答を教会員に教えることが、少なくとも日本キリスト改革派教会の長老に求められる能力です。ただし、牧師のように教えることを要求されているわけではありません。信仰の筋道、福音の教理の筋道をわきまえ、求道者と契約の子にも、会員にも勧めることができればよいのです。 

 c 「説教を良く聴く長老」
     御言葉が教会の生命であり、「教会員の模範」(第54条)となるためには、率先して良き説教聴聞者となることです。自分自身が御言葉によって造り変えられる人となって、それを見せる人になっていただきたいのです。牧師も長老も成長し続けることがその職務上不可欠です。精神的、肉体的にそれがかなわない時には、教会のために引退することが必要と考えます。

      教会によき説教聴聞者がひとりいれば、牧師はその奉仕を継続できるものだとわたしは自分の経験上思います。善き聴聞者とは、御言葉の説教すなわち神の言葉をまさに神の御言葉として生活、人生の糧そのものとして受け入れる人のことです。牧師との関係も、たとい、人間的な親しさがなくても、この一点において結ばれ、養われる、そのような緊張関係に結ばれるなら、教会は健全に、キリストを中心にして建てあげられてまいります。そのような御言葉を、キリストを中心とする教会、御言葉による交わり、キリストにおける交わりに生きる教会こそ、「慰めの教会」として形成されて行くはずです。