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「教会ってどんなところ?」

教会ってどんなところ?」
             ファミリー礼拝式 2012年7月15日
★説教テキスト マタイによる福音書 第18章18~20節
「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
★暗唱聖句   マタイによる福音書第4章17節
 「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

今朝は、ファミリー礼拝式として、礼拝を捧げています。私たちの教会は、毎年、この日と明日にかけて、子どもの教会のキャンプをしています。しかし、今年は、できません。そのかわり、今日は、教会でお泊まり会をします。そして、今日は、教会全体研修会の日でもあります。夕方には、バーベキューもします。

さて、今日は、「教会ってどんなところ」というお話をして、神さまを礼拝しましょう。小学生のお友達にも分かってもらえるようなお話ができれば、とてもうれしく思います。また、今日は、教会全体研修会の日ですから、大人の人たちにもイエスさまの御言葉を深く分かってもらえたら嬉しいです。

6月のファミリー礼拝式では、「聖書ってどんな本?」というお話をしました。今日もそのときに歌った讃美歌484番を歌いました。「聖書は言う、イエスさまは、愛されます、このわたしを!」これが、一番大切な真理、教えなんだよとお話しました。聖書は、僕たち私たちにイエスさまのこと、僕たち私たちをいのちをかけて、まことの愛をもって愛し続けてくださっていることを教えてくれる本です。で、神さまは、その大切な聖書を教会に与えて下さいました。神さまは教会で聖書を読んで、先生の説教によって、僕たち私たちに語って下さるのだとも学びました。

 今朝は、その続きのお話です。今、マタイによる福音書の御言葉を読みました。イエスさまが、最初から最後まで、一番大切なこととして、人々に語り続け、叫びつつけ、いのちをかけて伝道なさったことは、何でしょうか。それが、今日の暗唱聖句、第4章17節「悔い改めよ。天の国は近づいた。」これです。イエスさまが、語り続け、教え続けて下さった福音、つまり、嬉しいお知らせとは、「天の国は近づいた。」ということです。

実は、「近づいた」という言葉は、日本語にするのはとても難しいです。日本語では、近づいたと言えば、まだ来ていないということになります。「電車が近づいたので、白線の内側にお下がりください」と、駅員さんがアナウンスするのは、電車がまだホーム入っていない時です。ところが、イエスさまが、「天の国は近づいた」と仰ったのは、もう、言ってみれば、「電車は今、到着しました」というアナウンスなのです。つまり、「天国は、もう、ここに始まった!」という宣言なのです。英語の聖書の中には、「アットハンド」という翻訳もあります。これは、手元においてあるということです。携帯電話は、多くの人が持っていますが、ふつうは、手元においています。つまり、いつでも触れるところ、まさに携帯しているのだと思います。イエスさまは、この地上に来られて、朝も昼も夜も、語り続けて下さいました。「天国は、もうここに始まったよ。始まっているよ。目の前に、手を伸ばせば届くところに始まったのだよ。

どうでしょうか。これは、飛び上がるくらいに嬉しいお知らせでしょうか。あまりピンと来ないでしょうか。それもそのはず、この言葉を最初に聞いた人たちも、ただそれだけでは、ピンときませんでした。最初は、みんなよくわからなかったのです。

この天国が地上に始まったから、イエスさまは、最初に、「悔い改めなさい」と語られました。「悔い改める」ということは、どんなことでしょうか。それは、自分の心を、きっぱりと切り替えなさいということです。自分のこれまでの考え方、人生、生き方を正反対の方向にシフトしなさい。チェンジしなさいということです。顔の向き、見る方向をかえることです。何故、向きを換えなければならないのでしょうか。向きを換えて初めて、イエスさまが見えて来るからです。そうして、天国に入れるようになるのです。だから、悔い改めるということほどすばらしいことはありません。とっても、嬉しいことなのです。

 それなら、いったい天国ってどんなところなのでしょうか。これが、ポイントです。天国というくらいだから、そのような国がどこかにあると思いやすいです。世界地図を開いてみると、日本という国がちゃんとあります。見つけられると思います。隣には、韓国と言う国があります。中国という国もあります。それなら天国という国があるのでしょうか。どんなに大きな地球儀で捜しても、どんなに大きな世界地図を開いて捜しても、天国という場所を発見することはできません。あるいは、宇宙に行った宇宙飛行士さんに聞いてみたらどうでしょうか。「宇宙には天国がありますか。」きっと、こう答えるはずです。「ありませんでした。もしかすると、もっと遠くまで行けば、あるかもしれません。」

 確かに、イエスさまは、天国という言葉を使われました。しかし、イエスさまがおっしゃった言葉の意味を丁寧に言うと、こうなります。ご支配です。皆さんには、支配というのは、もっと分かりにくいかもしれません。

 たとえば、皆さんは、明後日は、それぞれ学校に行きます。でも、小坂小学校の小学生は、同じ小学校だからと言って、滝の水小学校には行けませんね。たとえ自分が3年3組の生徒であっても、滝の水小学校の3年3組の教室に行っても、自分の席はありませんね。友達も担任の先生もいませんね。 でも時々、皆さんは、教室の外に行くこともありませんか。そのとき、教室には、けれども学級、クラスは、そこにちゃんとあるはずです。

 天国とは、実は、教室というような場所のことではないのです。皆のクラスというのも、担任の先生がいて、先生のいうことをちゃんと聞いて、お友達もいっしょにいるから、クラスなのです。教室の中に入ったときだけ、クラスがあるわけではありません。家に帰っても、クラスの一員です。先生の言うことを聞けないと、学級崩壊ということになります。天国は、それに似ています。天のお父さまそしてイエスさまがいっしょにいてくださる場所、それが天国、神の国なのです。そして、イエスさまを信じて従う人たちがいっしょにいる場所のことなのです。

天国とは、土地だとか建物の中に限られた場所ではありません。イエスさまは、世界のどこにでも、信じる人と一緒にいてくださいます。イエスさまが一緒にいてくださる場所は、どこでも天国なのです。つまり、天国は動けるわけです。世界の中に、すでに、天国はいくつもいくつもあるわけです。教会とは、建物のことではないのです。建物のことは、教会堂と言うのです。
 
ここで少し、昔のお話をしたいと思います。よく聴いて下さい。わたしたちの教会は、ここにこの小さな礼拝堂を建てる前には、小さなビルの一室で始まりました。すぐに、そのビルの三階の部分全部を借りました。7年間、そこを教会の場所としました。その三階のすべての部屋は、この礼拝堂の半分くらいしかありませんでした。本当に小さな部屋でした。教会のことを知らない人たちの多いこの町では、「なんだか、怪しい」とか、「本物じゃないかもしれない」と思われていたようです。その時、教会員だった人たちは、そのような目で見られるのは、とってもつらかったのですが、負けませんでした。神さまのために、またこの町に住んでいる人たちのために、どうしても、教会を守り続けようとがんばりました。礼拝を一回も休まず、午後には読書会を行って、水曜日には、祈祷会をして、毎日のように一対一の勉強会をしたりしていました。やがては教会堂を神さまとこの町の人たちのために、捧げるのだと、ずっと神さまに祈り続けたのです。想像してみてください。もし、そのとき、先輩たちが、くじけて、教会をやめたりしたら、ここに教会はありません。だから、神さまに感謝して、そして先輩の皆さんにも感謝してください。そして、今度は、皆さんが、よい先輩になってください。神さまのために、この町の人たちのために、もっともっと、教会のために奉仕してください。皆で伝道しましょう。

 さて、教会のことを、聖書のもともとの言葉のギリシャ語では、「エクレーシア」と言います。この言葉は、もともとは政治について相談をする集まり、寄り合いのことを意味する言葉でした。「集い」「会合」のことです。そのような会合を開く時、いつも、「さあこれから、この町の政治の集会を開催しますよ。市民の皆さんは、あつまりましょう」という呼びかけがあったのです。当たり前ですね。偶然に人々が集まって、しらない間に会合を持てるわけがありません。全員、集合!集まれ!と呼ばれて集う集まりのことをエクレーシアと言うのです。つまり、もともと、キリスト教会とは、まったく関係のない言葉です。けれども、先輩たちは、自分たちのことをエクレーシアと呼んだのです。

どうしてか分かりますか。昔、エクレーシアという集まりに来れる人は、市民という立場の人たちだけでした。奴隷の人たちは、呼んでもらえませんでした。つまり、エクレーシアに集まるには、市民という資格を持つ、お金持ちの人だけでした。

それなら、いったいどうして、最初のキリスト者は、教会のことをエクレーシアと呼んだのでしょうか。教会の中には、市民もいましたが、もっと多かったのは奴隷だと言われています。お金持ちでない人たちが教会にはたくさんいました。イエスさまから集合!来なさい!と教会に呼び出される人たちは、どんな資格をもっていたのでしょうか。それは、神さまの子どもという立場です。そして、この立場は、自分でお金を払った買うことはできません。自分の努力で獲得することもできません。世界中のお金を集めても神さまの子どもの立場を買うことはできません。地上に始まった天国、つまり教会員になれません。

神さまのエクレーシアに集うためには、必要なのは、言わば、神さまから招待状です。天の父なる神さまから、ひとりひとり自分の名前を呼ばれる必要があります。呼んで頂けなければ、入れません。そして、今朝、ここに来ているすべての人に、ひとり一人に、はっきりと覚えてもらいたいのです。信じてもらいたいのです。それは、ここに来た人たちは、神さまから名前を呼ばれたのだということです。

イエスさまは、おっしゃいました。「天国は、もうあなたの目の前に来ているよ。だって、天国の王の王、神さまに他ならないこのわたしが、ここにいるからです。だから、心をスパッと切り変えて、向きを換えて、わたしを見つめるなら、あなたは、天国に入っているのです。」イエスさまは、今朝、僕たち私たちにそう呼びかけて下さいます。
そこには、子どもたちも入っています。赤ちゃんもいます。まだ生まれてきていない、お腹の中にいる赤ちゃんもいるかもしれません。洗礼を受けている人も、洗礼を受けていない人たちもいます。自分は、まだ洗礼を受けていないから、来れない、そんなことはまったくありません。信仰告白していないから来れない、そんなこともまったくありません。天のお父さまがイエスさまによって、僕たち私たちをここに来なさいと呼んで下さったのです。

今朝、皆さんに覚えてもらいたい御言葉、暗唱聖句の一つは、これです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」二人でも三人でも、どんなに小さなグループであっても、イエスさまの御名によって集まるところには、イエスさまもご一緒にいてくださると言う約束の御言葉です。そこで、注意して聞いてください。実は、ある人は、教会というのは、自分たちが一生懸命、イエスさまの御名を呼ぶとき、イエスさまが天からその場所に来て下さるかのように考え違いします。しかし、人間が、どんなに熱心に、大きな声をだしてイエスさまをお呼びしても、その熱意にほだされて、イエスさまが来て下さるということではありません。僕たち私たちが、イエスさまによって集められたのです。だから、ここにいるのです。だから、僕たち私たちもまた、集めてくださった主の御名、イエスさまの御名を唱えるのです。賛美するのです。それが、この礼拝式となります。

 最後に、お話します。ここでもう一つ大切なことは、教会は、二人以上いないと、教会にならないということです。つまり、ひとりで聖書を読んでお祈りするだけでは、そこに教会はありません。教会にとって、何よりも大切なことは、自分とは違う人と一緒に、その違う人と心と信仰を一つに合わせることなのです。自分がイエスさまといっしょにいるためには、絶対にイエスさまを信じている他の人が必要なのです。だから、二人または三人なのです。やがて、二十人三十人、二百人三百人となって行くなら、本当に嬉しいです。
 
 最後の最後に、お話します。いったい、僕たち私たちがここに呼ばれたのは、何のためですか。何のために、集まったのですか。それは、ここで、神さまの愛、イエスさまのいのちがけの愛をあふれるほど受けるためです。そして、神さまを力の限り愛するためです。礼拝するためです。そして、見ず知らずの人を自分のように愛するためです。伝道するためです。神さまの嬉しいお知らせを力を合わせて、人々に伝え、イエスさまがして下さったように、隣人を愛すること、それが伝道です。また奉仕です。

教会は、地上に始まった天国です。天国は、神さまがそこにいらして、神さまのご支配、御取りしきりなさる場所です。皆で、イエスさまの言うことを聴く場所、従う人たちのいるところです。教会が、どんどん教会らしくなって行くと、世界中に、神さまの平和が実現されて行きます。広がって行きます。ですから、世界中で、教会ほど、大切なものはありません。教会がなくなれば、世界は滅んでしまいます。逆に言うと、教会がある限り、世界は滅びません。神の国は完成されます。

今朝、ここに呼び集められた一人一人が、神の民です。神さまに大切にされている人たちです。イエスさまに愛されている人たちです。向きをスパッと変えて、今、イエスさまを見ているように、今週も、日々、イエスさまの方に顔を向けましょう。その人は、天国の中に入っています。イエスさまと一緒に過ごしています。

 祈祷
天のお父さま、今、僕たち私たちをイエスさまのもとに集めて下さり、イエスさまに大切にされ、愛され、育てて頂いていますことを、ありがとうございます。何があっても教会から離れずに、教会と共に、教会のために、歩めますように。そして、世界が平和になって行くために、教会を用いてください。僕たち私たちを、平和の道具、天国の祝福をもたらす器としてください。アーメン。