過去の投稿2012年7月22日

「仕える者となりなさい」

仕える者となりなさい」
                2012年7月22日
             マタイによる福音書 第23章1~12節②
「それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。
「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

今朝の説教は、先々週の続きとなります。この個所から、二回目の説教になります。当然のことですが、およそすべての文章は、文脈から読まれるべきものです。その意味で、今朝は、簡単なおさらいから始めたいと思います。

最初におさらいしたいのは、主イエスご自身から、キリストとは誰なのか、どのような存在なのかと、ファリサイ派の人々に問いかけられことです。まことの救い主とは、当時のユダヤ人が考えていた、かつてのイスラエルの最大の王としてのダビデの再来ではないということでした。つまり、軍事的な強大な国家、経済的に豊かな国家、文化的にも世界から認められる国家、そのような独立国家を力強く打ちたててくれる地上の王ではないということです。

まことの救い主は、神ご自身でいらっしゃったのです。しかもその人となられた神は、十字架につけられるという仕方でのみ、私どもをお救いくださる、そのようなご自身が犠牲を払い、苦しまれ、痛まれる、そのような救い主でいらっしゃることを、ご自身の身をもってお示しくださいました。

二つめは、前回の説教のおさらいです。最初のおさらいでは、イエスさまだけが、まことのメシア、唯一のキリストであることを確認しました。そして、今朝の個所からは、イエスさまだけが、唯一の信仰の教師でいらっしゃることを確認しました。この信仰の唯一の教師という意味は、このイエスさまご自身だけが、私どもに信仰そのものを与えてくださるからでした。そればかりか、私どもの信仰を今この時も導いてくださる方です。そして最後には、私どもの信仰完成してくださる、完全に仕上げて下さるからです。まさに、不思議な教師、唯一の教師でいらっしゃるわけです。

さて、今朝私どもは、この信仰の唯一の先生でいらっしゃるイエスさまの説教の結びの言葉に集中して学びたいと思います。主イエスは、ここで、このように説教を結ばれました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」今朝の説教題は、「仕える人になりなさい」としました。この信仰の教師のご命令をしっかりと聴き取りたいと思います。

先ず、この御言葉から学びましょう。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。」モーセの座とは、律法の書、つまり、旧約を教える権威ある立場のことです。主イエスは、決して、「律法など、もう旧いから必要はない。廃止しなさい。」などと仰いません。むしろ、主イエスこそが、本当の意味で、徹底的に、完全に、旧約の掟を実行なさったのです。マタイによる福音書第5章17節にあるとおりです。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」

ただし、主イエスがここで、強調なさったことは、むしろ、その後半部分です。「しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」御言葉の教師の行い、信仰生活そのものは、決して見倣ってはならないというわけです。何故なら、彼らの教えは、口先だけのものだからです。「そのすることは、すべて人に見せるため」だからです。

ここに「聖句の入った小箱」とあります。これは、少し、説明が必要と思います。申命記第6章4節以下に、もっとも大切な戒めが記されています。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」そして、そのために具体的なご命令が続きます。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」つまり、御言葉を暗唱すればよいのではないのです。自分の手に結び、額につけ、玄関の柱、門にも刻みつけなければならないのです。つまり、ここでの小箱とは、この御言葉を入れる箱のことです。律法学者が、この箱を大きくしているということは、掟を記した羊皮紙がたくさん入っているという証拠にしようとしているわけです。自分は、どれほど、御言葉を大切にしているのかということを、この箱によって認めてもらいたいわけです。みせびらかしているわけです。

また、「衣の房」とは何でしょうか。これも、旧約の掟にあるものです。男性の服には、房が付けられていたということです。自分たちは、着るものに至るまで、ちゃんと掟をまもっているのだぞと、見せびらかそうとしているわけです。

さて、いったいここで厳しく糾弾される「律法学者」とは、どのような人を指しているのでしょうか。これは、単に、当時の律法学者だけのことを指しているわけではありません。いわゆる律法主義者のことです。それなら、その律法主義者とは、どのような人のことを指すのでしょうか。

当時の律法学者、ファリサイ派の人々とは、神の律法を実行することで、自分は神に義とされているのだと「うぬぼれ」に生きる人間のことです。そこで、問題になるのは、神の前で、神の御顔の前で、正しいと認められているということを、二の次にしているということです。当時の律法学者は、もとより、神の言葉を語っているわけですから、一応、神さまを信じ、第一にしているわけでしょう。信仰の指導者を任じています。しかし、主イエスが、暴かれたのは、彼らの関心は、結局、神さまにないということでした。彼らは、自分で、自分を立派な人間、信仰者と考えるのです。そして、うぬぼれるのです。

主イエスは、律法学者やファリサイ派の人々を、掟を守っていないと厳しく断罪されました。しかし、彼らは、自分たちが、掟を守っていないなどとは、これっぽっちも考えていません。また、一般の人たちも、そうは思っていないのです。なぜなら、一般大衆は、律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが忘れてしまっているような小さな掟の一つでも、こだわって、それを実践してみせていたからです。

考えも見て下さい。ぶどう畑で、朝一番から夕方まで、仕事をしている人は、聖句の入った小箱、いえ、それどころか大きな箱を身につけて働くことはできるでしょうか。彼らは、一般のユダヤ人大衆が出来ないことを、見ていながら、知っていながら、「君たちは、なっていない。きちんと掟を守りなさい。」と、教えるのです。教えているというよりは、裁いているわけです。

主イエスは、「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と厳しく批判されます。何故、指一本も貸さないのでしょうか。それは、彼らが、自己中心だからではありませんか。言わば、自分と神さまのことだけを考えて、いるわけです。自分は、ちゃんとやれている。やれていないあいつらは、ダメだ。と思うのです。そして、もっとも主イエスが憤られるのは、その掟を守れていない人々のことを本当には、愛していないからでしょう。どうしたら、神の掟を共に守れるようになるのか、その愛の労苦をしないのです。むしろ、彼らは、自分の周りに線を引きます。何のために、線引きをするのでしょうか。それは、自分たちのことを神に認められる安全圏に入っている者なのだと、見せびらかしたいからでしょう。自分たちは安心安全だと思いたいからでしょう。さらには、「君たちは、神の恵みの外にいる。幸いの外にいる」と言って、見下したのです。つまり、人々から評価されること、褒められること、尊敬されること、それをもって自分の宗教生活の支えとしているのです。だから上座を好むのです。上席に着く努力を惜しまないのです。上座に座れば、皆から注目を浴びて、認められるからです。

これは、何も、ユダヤ教と言う一つ宗教の世界のことだけを言っているわけではないと思います。我々の社会もまた、まったく同じ構図が目の前にひろがっているわけです。世間で、偉いとか立派とか、儲かるとか言われている職業や立場にある方々は、そこに着こうと人の何倍もの努力を注いで、競争に勝った方々が多いと思います。遂に偉くなって、立派だと言われます。つまり、ここで言われる「上座」に座っているわけです。ところが結局、上座に座っていながら、肝心の、心に深い平和、平安が得られない方々も少なくないと思います。つまり、律法学者に代表される人々とは、結局のところ、神さまの眼差し、神さまからの評価だけを考えない人のことです。
 
さて、主イエスは信仰の唯一の教師でいらっしゃいます。だからこそ、律法を守られます。旧約を実践されます。正義と愛をもって、御言葉を生きて下さいました。主イエスは、私どもに与えられた唯一のキリストです。だからこそ、もっとも低いところへと下られます。神の栄光の位、その王座をお捨てになられ、人となって下さいました。人間が生まれる場所ではない、馬小屋で、馬のえさ箱をベッドにされました。そして、私どもの救いのために、全身全霊をもって、神の国を証されました。伝道されました。病める人々の隣人となられ、癒されました。ファリサイ派、律法学者たちから見下された人々の隣人となられ、共に食卓を囲まれました。彼らからまったく顧みられることがなかった、幼子たちの隣人となられました。この世界の中でもっとも苦しみ、悩み、虐げられ、低くされた人々、幼子、女性、病気の人、障がいを持つ人、そのような人たちの隣人となられました。

そして、主イエスは、この人々の隣人になられただけではありません。さらに驚くべき御業をしてくださいました。私どもの罪を贖うために、私どもの罪を処分するために、おそろしく苦しい状態へと降りて行かれます。主イエスは、彼らの友となられたのです。まことの友となって、彼らのために、私どものために十字架でいのちを捧げられました。主イエスは、私どもを、まるでご自身のように見ておられるのです。

マタイによる福音書第18章3節以下で、こう語られました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」

 当時の社会では、子供には、人権を認めていませんでした。いつ死ぬか分からない子どもたち、すぐには社会の役にたたない子どもたちは、大切にされていませんでした。また、女性の地位も、子どもたちと同じでした。まさに、男性中心の社会であり大人中心の社会だったのです。しかし、主イエスは、救われるためには、天国に入るためには、人はむしろ、この子どものようにならなければならないと主張されました。自分を低くしなければ、救われないのだと主張しました。救われるということが、神の前に正しい者、優れた者と認められる方法として、手段として、律法を守ろうと励んだファリサイ派の人々にとって、この説教は、まったく理解できなかったはずです。イエスさまの言葉は、ヘブライ語でありながら、外国語に聞こえたことでしょう。異なる言語です。意味が分からないからです。見ている方向性が違います。向かっている、目指している方向が真逆だからです。

 しかし、主イエスは、ご自身の弟子たちには、このように命じられます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」これは、敢えて言えば、主イエスの弟子たる者の条件です。子どものようになれとの救いの招きの言葉を学びましたが、ここでも同じ福音の真理が語られたわけです。子どものようになれ、自分を低くしなさい。つまり、自分は、この救い主によって信仰を始めて頂き、守っていただけなければ、立つことができない、歩むことができない、そのように小さな人間であることを認めることです。自分が最も小さな者であることを、受け入れることです。

 ただし、これは、決して甘えたような考えを持たせるのではありません。つまり、「自分は、小さな者であって、受ける側の人間だ。神や教会、イエスさまや周りの信仰者は、わたしを支え、配慮してもらいたい、その権利が自分にはあるのだ」、などと、考えさせないのです。それこそが、甘えです。そもそも、教会の中に、わたしは奉仕を受ける人間、あなたは奉仕をする人間というような区別があるわけがありません。確かに教会には、神は、役員を備えてくださいます。教会の特別の職務者たちです。彼らは、まさに奉仕者の中の奉仕者です。しかし、それは、彼らが会員に奉仕ができ、自分たちは受ける側というように、二つの立場を区切ることではありません。会員全員と共に、奉仕を担うための奉仕者にすぎません。

 私どもの教会は、ディアコニア委員会を、持っています。これは、現住陪餐会員全員が委員なのです。それなら、委員会とは呼べないはずです。しかし、私どもはあえて、そのような委員会を設置しているのです。キリスト者、教会員は、全員、執事的奉仕者だからです。皆がです。奉仕をまぬかれている人はいません。そこでも、受けるだけの奉仕というものが、ちゃんとあるわけです。現在は、そのような会員がおられません。しかし、病床で、死の床にあれば、受けるだけの奉仕者でしょう。祈られるだけです。しかし、これこそ、究極の奉仕となる可能性があります。

 逆に、私どもが、注意して、克服しなければならない重大な誘惑、過ちがあります。それは、自分が何か教会で具体的に奉仕の場、活躍できる場がなければ、自分の教会における存在意義を見失うという不信仰です。これこそ、信仰の深い問題になります。

 いずれにしろ、教会員のなかで、大きな者、強い者はいないのです。そのような人をつくりだしてはなりません。キリスト者とは誰のことでしょうか。ただキリストに頼るしか生きれない、小さな人間、それこそがキリスト者です。キリストの弟子なのです。おそらく、赤ちゃんは、親に対して、あなたは私を養い働くのは、当然だと開き直っていません。幼子は、そうして頂く以外に生きられないだけです。私どもは、父なる神の前に、まさに子どもなのです。子どもとされたのです。

 政界、官界、財界の上席にいらっしゃる多くの方々は、人から「先生、先生」と褒められているでしょう。そのためなら努力もいといません。もしかすると、彼らは、私たちのように上席につきたかったら、私たちのような能力を身につけ、競り上がればよいだけだ。そんな風に思っていらっしゃるのかもしれません。しかし、そのような公平な社会にしようと、指をかしているのでしょうか。遂に、上座について、心に平和があるのでしょうか。神との平和を求めなければ、まことの平安はありません。だから、見下す相手が欲しい。裁く相手を求めるのではないでしょうか。自分が、上の立場にいることを、彼らによって確かめられるからです。

確かに、私どももかつては、上席、上座を目指していました。そこに人生の手ごたえ、自分の存在の重さを追求していました。しかし、今は違います。キリスト者は全員、一番偉い者という高ぶりの罪、その罠から、引きずりおろしていただいたのです。真実の自分の姿に気づかせられたのです。それが、小さな者としてのキリストの弟子の姿です。このようにして、キリストによってへりくだる者とされたのです。この十字架のキリストによって奉仕者、仕える者とされたのです。既に、私どもは奉仕者の中の奉仕者、唯一のディアコノス、奉仕者キリストのおかげで、仕える者とされているのです。もし、今から、心を改めて、仕える者となろうと考えるなら、未だ誤解のままです。

 私どもは、すでに、仕える者とされています。ただし、それは、始まったばかりなのかもしれません。うっかり主イエスから目を離せば、いつわりの人生、いつわりの上席、上座を求める生き方に逆戻りすることもあります。ですから、私どもは、もっともっと、仕える者となりたいのです。一生涯、奉仕者として小さくなり続けるべきです。キリストに結ばれた小さな者として、小さな人々の隣人となって行く歩みを重ねるべきです。

しかもそこで、私どもは人に見せるためにしなくて良くなっていることに、心から感謝したいと思います。何故なら、それをしているから、神さまに救われているということでは、まったくないからです。救われているから、するのです。ただし、くどいかもしれませんが、もし、主イエスから目を離せば、私どもも、人の目、人の評価を大切にする自分を発見してしまうはずです。
 
 さて、私どもは今朝、どこにいるのでしょうか。ここは、神の家です。キリストの臨在する祈りの家です。主イエスを皆で囲むように座っています。私どもは、既に、この教会で、地上にあって、神の評価を受けているからです。つまり、神の正義による審判を受けて、罪が赦され、神の小さな子どもとして受け入れられています。神のはらわた揺さぶる激しい愛の眼差しのなかで、受け入れられ、このように大切にされているからです。世界には、ここ以外の上座も上席もありません。人間にとってのまことの上座、まことの上席とは、天のお父さまとイエスさまといっしょに住むところだけなのです。つまりは、天国です。神の国に入り、そこに生きることです。それは、具体的に言えば、教会の交わりに生きることです。

本当の上座や上席に座るということは、神さまの愛の眼差しを注がれ、神の評価を受けているという確信に生きる人です。確かに、平凡かもしれません、人々から脚光をあびることもないかもしれません。しかし、神さまの愛の眼差しは、自分の上に注がれていると信じて生きることができる人こそ、まことの意味での上座に座っている人なのです。神と共に、神のために生きている人が、本当の上席に座っているのです。なんという光栄でしょうか。何と言う幸いでしょうか。

 ですから、本当の勝利者とは、神の子、王子とされた私どものことです。そして、だからこそ、主イエスは、厳かにお命じになられます。「あなたがたは、天のお父さまの恵みによって、このわたしの十字架のあがないの奉仕によって、この場所にいるのではないか。私が信仰の唯一の教師なのだ。だから、この私を真似して、あなたがたも私と共に仕える者となりなさい。」

祈祷
 私どもの唯一の救い主でいらっしゃり、同時に唯一の信仰の教師、そして、王の王なる主イエス・キリストよ。あなたこそ、すべての者から仕えられるべき王なる神です。それにもかかわらず、あなたは、人となられ、私どもに仕えて下さいました。十字架においてそのいのちまで捨てて、奉仕者として生き抜いてくださいました。それは、わたしどもをも神の王子とし、また、仕える者とするために他なりません。どうぞ、聖霊なる神よ、僕として従う信仰とその志を、支え、深めてください。今朝、もう一度、私どもをあなたのご命令に生きる者とならせ、隣人のための小さな奉仕者として用いて下さい。アーメン。