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「天地は滅びるとも、主の言葉は滅びない」

「天地は滅びるとも、主の言葉は滅びない」
                2012年9月16日
             マタイによる福音書 第24章32~34節
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

今朝は、予定を変更して、32節~34節までに集中して、主イエスの御言葉を聴いて、礼拝を捧げます。主イエスは、第24章において集中して世の終わりについて、教えて下さいます。言い換えれば、ご自身が再びこの地上に来られるときのこと、つまり、再臨についての教えが記されます。

さて、まず、この御言葉から学びましょう。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。」

もしかすると、いちじくの木でもぶどうの木でも何でもよかったかもしれません。人は、季節の移り変わりを、畑の色づき具合、木の葉の伸び具合を見ることによって実感できるだろうと思います。収穫の季節を、しるし、現象、出来事によって知るわけです。主イエスは、ご自身が来られる日が近づいていることを、そのようにして、お教え下さいました。具体的には、先回の説教、直前の御言葉によって明らかにされたわけです。主イエスは、そこでまさに、再臨がさし迫っていることを、宣言なさったのです。

しかし、私どもにしてみますと、主イエスが再び来られるのは、30年どころか、2000年近くになってもまだ、実現していません。しかし、前回の説教で学んだとおり、私どもこそ、今まさに、時が切迫しているというそのしるしを、これまでのどの時代に生きた人々より、はっきりと見ているはずです。まさに今この瞬間、イエスさまは、戸口に近づいておられるのです。戸口とは、扉を開ければ、すぐにそこにイエスさまがいらっしゃるということです。私どもは今朝、主イエスがまさに戸口に座っているのではなく立っておられるイメージをもって、この時代を認識したいと思います。

次に、これです。「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」当時のイスラエルの人々が、何と言っても誇りにしていたのは、エルサレムにそびえたった神殿であっただろうと思います。

そもそも、マタイによる福音書第24章に記された主イエスの説教は、まさに、そこで生まれたものでした。「イエスが神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。そこで、イエスは言われた。」彼らは、この壮麗な神殿、神殿を支える大きな石垣の城壁を仰ぎ見て、「確かに今は、ローマ帝国によって支配されて、苦しい生活を余儀なくされている。惨めな状態だ」しかし、自分たちは大丈夫だ。こんなにすばらしい神殿があると考えていたのです。彼らは、自分たちの民族、国家は、なお神殿がそびえたっている限り、大丈夫、安心だと思っていたわけです。しかし、問題は、まさにそこにありました。主イエスは、予告されたのです。「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」わずか40年足らずの後、現実のものとなったわけです。目に見える物に誇りを持っていたイスラエルの人々は、捕虜になるか、エルサレムを脱出し、まさに流浪の民となるしかなかったのです。

さて、21世紀の今に生きる私どもはいかがでしょうか。もしかすると3:11までは、なお多くの人々が、この世界の崩壊、滅びということを絵空事のように考えていたかもしれません。しかし、今や、聖書が2000年前から証し続けている「世の終わりの時代」がついに終わるというメッセージが現実味を帯びていることを否定する人は少ないのではないかと思います。むしろ、危機感をもつ方がむしろ当然になっていると言えると思います。

何より、既に20世紀に入って、世界戦争を二度行いました。先の戦争では、核兵器が広島長崎に投下されて、一瞬にして無辜の人々のいのちが奪われました。さらに、その後遺症は、世代に渡って苦難を強いてきました。これらをみれば、いかに人類が鈍感と言えども、聖書が予告した世界の崩壊という状況、先回の説教でも学んだ天変地異の現象ともあわせて、私どもの時代がどのような時代であるかについて、ある理解を持つことができるだろうと思います。

今を生きる私どもは、あらためて「天地は滅びる」と予告なさった主の御言葉をきちんと聴きとらなければなりません。つまり、この世界、造られた世界には終わりがあるという、単純明快な真理、事実です。そして、そこで、明らかにされることは、何でしょうか。私どもは、壮麗な神殿に安心することは、できないということです。目に見えるものを頼りにして生きることは、愚かなことであるという真理です。そして、それを積極的に表現すれば、こうなるはずです。私どもは、神の国を目指して歩む旅人であるし、旅人であらねばならないということです。当たり前のことなのですが、私どもは、いつかこの世界から離れるときが来るのですし、この世界が過ぎ行くことを、きちんとわきまえたい、わきまえた生き方をすべきなのです。

今、わたしは、「世界が過ぎ行く」と申しました。実は、主イエスがこの直前に、おっしゃった「これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。」の御言葉について触れておきたいと思います。「この時代は決して滅びない。」「時代が滅びる」という表現は、どこか日本語としては不自然かと思います。昔のある翻訳では、時代が「過ぎ行く」「過ぎ去る」とされていました。実は、「滅びる」という翻訳のニュアンスは、「過ぎ去る」に近いのです。天と地が滅びるはぴたりと来ますが、時代は過ぎ去るの方がぴたりと来ます。

もし、過ぎ去ってゆくものでしかないものを、何か、永遠不滅であるかのように誇りにし、頼り切って生きて行くとすれば、それは、愚かな生き方になってしまうはずです。私どもは、「天地は滅びる」と語られた主イエスの御言葉を深く受け止め、悟らなければなりません。この目に見える世界は、いつまでも永遠に続く世界ではないということです。

さて、しばしば歴史についての考え方として、比べて考えられるのは、仏教の歴史観とキリスト教の歴史観です。仏教の歴史理解は、この世は、未来永劫、続くものとされます。「輪廻転生」の繰り返しです。円環の世界観、歴史観です。繰り返しのサイクルです。一方で、聖書の歴史観は、言わば直線的です。始まりがあって終わりがあるというものです。そして、今日の歴史学、歴史の教科書は、ほとんどがこの聖書の歴史理解をベースにしていると言っても言い過ぎではないと思います。日本人は、明治時代になって、そのような歴史を学校で学ぶこととなりました。世間では、今でも、アダムとエバとは、言わないで、アダムとイブという言い方をしばしば耳にします。これは、聖書から学んだのではなく、昔の学校の教科書の名残なのだと思います。

さて、しかし、聖書をベースにしながらも、その肝心要となる部分つまり、神による天地の創造、人間の創造とそして主イエスの再臨による世界史の完成については、当然かもしれませんが、学校では教えてくれません。その意味で、聖書によって神の救いの歴史の全貌を教えていただいたキリスト者、それを信じる信仰を与えられたキリスト者は、どれほど幸いであるかを思います。同時に、その責任、その使命を覚えさせられます。

神による天地の創造、そして人間の罪による天地の破壊、主イエス・キリストの十字架とご復活による天地の回復、そして主イエスの再臨による天地の完成という、聖書の救済の歴史を信じ、その中で生きることができるキリスト者の幸いを思います。まさに、この聖書の歴史理解によってのみ、人間にとって根本的に大切な問い、究極の問いに対する決定的な答えが、私どもには与えられているわけです。つまり、「人間は、どこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えです。私どもは神から来て、神へと行くのです。父なる神さまの愛の中で生まれ、御子イエス・キリストの愛の中で生かされ、そして天のお父さまとイエスさまの愛の世界へと進み行くのです。主イエスが、このマタイによる福音書でも教えて下さった根本的なメッセージ、福音とは、「神の国は近づいた。悔い改めなさい」ということでした。私どもは、神の国から来て、神の国の地上における最高のあらわれである場所、つまり教会に生きて、そして、完成された神の国を目指し、あるいは、天国と言ってもよいわけですが、天の故郷を目指して旅を続けるのです。

一昨日のミギワさんのコンサートで、演歌「北国の春」が歌われました。皆さんも口ずさみました。被災地でのリクエストは、演歌が多いからです。コンサートの後で、家内が「『あの故郷に帰ろうかな』、は、天国の故郷・・・としても聞こえますね。」と言いました。なるほどと思いました。故郷は、私どもがそこで生まれた場所のことです。そして、それは、聖書によれば、神ご自身の懐に他なりません。私どもは、神の懐から来て、神の懐に教会に生きて、そして神の懐に戻れるのです。それは、ただ、主イエスの贖いの御業のおかげです。

 さて、「天地は滅びる」と言うことを巡って、学び続けていますが、ここで、明らかにされることは、天と地も神の被造物だということです。つまり、それは、決して神ではなく、神にかわるものでもなく、造られたものであるということです。そして、まさにそこでこそ、私どもキリスト者には、聖書から学ばされていることがあるはずです。それは、この天地に対して、人間には「責任」が与えられているということです。人間は、この世界の言わば最後に創造されたのです。この世界は、人間が生きる場所として、舞台として与えられたのです。したがって、この場所を「ふさわしく管理する責任」です。この場所に存在するいきとしいけるすべての生物の「いのちを大切にするという責任」です。その責任を担わせられたのが人間にほかなりません。「天地は滅びる」という御言葉は、決して、地球や地域社会の環境など、宇宙など、どうなってもよいと、責任を放棄させる思いや行いをとどめる御言葉なのです。

 神が創造された天地は、神の栄光と、そして、実に神の憐れみのなかで、人間にとって見事なまでにすばらしい贈物に満ち満ちているのです。一昨日のコンサートでは、この礼拝堂の正面全体に、朝日や夕日、山々や海の映像が映し出されました。その美しさに、心が洗われる思いが致しました。美しさの極みであられる神の作品だからです。今日、あのエデンの園にははるかに及びませんが、しかしなおこの地球には、食べもの与えられています。エネルギーの源になるものが大地の中に、太陽に、風に、水に、与えられています。したがって、私どもは、主イエスのご再臨によって宇宙が、地球が新しい天と新しい地として完成されるまで、正しく手入れをしなければなりません。主イエスが教えて下さったように、世界は神の畑なのですから、人間は言わば、その農作業に勤しまなければなりません。

 ところが、20世紀そして21世紀の今、この美しい世界を、人間の手で滅ぼしてしまう「可能性」があります。今朝、原発問題についてくわしく語る余裕はありません。しかし、福島原発は今なお収束などしていません。今も、放射能が大気に、また海水に放たれているのです。

 NHKのテレビ番組で、フィンランドで建設中の、原発の放射性廃棄物処理場をテーマにしたドキュメンタリーを見ました。原子力発電所から排出される、放射能物質を含む放射性廃棄物が生物にとって無害になるには、実に、10万年以上の歳月がかかると言われます。そのために最も安全な方法は地中に埋めることだということです。そこで、 フィンランド政府は、自国の放射性廃棄物を地中に埋めることを決めました。ヘルシンキから西に240キロの島の地下500メートルに貯蔵施設を造っています。しかし、この穴を掘って完成するだけでも、実に100年かかるそうです。しかも、完成した施設は、放射性廃棄物が生命にとって無害になる10万年、誰も近づけません。考えれば、10万年という途方もない単位は、人類をはじめ地球そのものがどうなっているのかも分からない先のことです。つまり、人類は、自分たちの世代はおろか10万年先まで解決を先送りにするしかないようなものを、造り出してしまったのです。これ以上の環境破壊、愚かさがあるでしょうか。しかも、日本は、廃棄物の処理の問題はほとんど何も進展していません。これは、自然への凶暴な攻撃ではないでしょうか。いへ、これは、まさに神に対する挑戦、罪と言うしかありません。主イエスは、語られました。 「天地は滅びる」のです。だから、私どもは、天地に対して責任があるのです。

三番目に、ここから確認できるさらに重大な真理があります。これは、まさに奥義と言っても良いと思います。この天地を滅ぼすのは、実は、人間ではありえないということです。この天地を過ぎ行かせるお方、滅ぼすことがお出来になるのは、ただ創造者なる神のみだという真理です。

ここでも人間は思いあがってはならないのです。同時に、このことによって私どもは過剰な恐怖にとらわれることもないのです。何故なら、天地の主権者は、人間ではないからです。人間は、この主権者の許しのなかで、この大地、天地に置かれた被造物に過ぎないのです。人間は、決して、世界の主権者でもありません。確かに、人間は、核兵器という恐るべき破壊力をもたらす兵器をつくり出し、それを、電気エネルギーに変換する技術をつくりました。しかしそれだから人間はすばらしい、人間は賢いと、昔の人なら言えたかもしれませんが、今やそのような愚かな話は通用するでしょうか。兵器も原発も、人間の賢さの極みではなく、むしろ、愚かさを示す極みのはずです。したがって、この主を畏れ敬うことのない人間を、聖書は、最初から愚か者、罪人と呼ぶのです。創造者なる神、父なる神を、畏れ敬うことは、人間の知恵の根拠、前提、根本なのです。

最後に、学ぶのは、結びの宣言です。これこそ、時間をかけて語るべきです。しかし、同時に、それは、毎週、語られ続けている真理に他なりません。「はっきり言っておく。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
今朝の礼拝式の招きの言葉で、イザヤ書を朗読いたしました。第40章の御言葉です。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」ここで主イエスが高らかに宣言されたみ言葉は、イザヤの預言の言葉と響き合っていると思います。「わたしの言葉は決して滅びない。」

主イエスの語られた言葉、それは、滅びません。永遠です。それは、ただちに、イザヤが告げている「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」を思い起こさせます。つまり、主イエスは、ご自身の言葉が、神の言葉に他ならないということを高らかに宣言なさったわけです。そして主の御言葉とは、主イエスご自身をも意味するものです。くわしく語る暇はありません。しかし、「初めにことばがあった」とヨハネによる福音書の冒頭に記された御言葉を思い出して下さい。主イエスご自身が、神の言葉そのものなのです。

この世界は過ぎ行きます。しかし、神とその御言葉は永遠なのです。そして、私どもは今まさに、ここで、お互いに、このイエスさまの御言葉を聴いたのです。それは、いったい、何を意味するのでしょうか。何をもたらすのでしょうか。永遠に存在する神の言葉を聴く、信仰をもって聴きとる、信じて聴いて従う、その人は、どうなるでしょうか。その人も又、永遠の存在とされてしまっているということです。

わたしは、これを記したマタイによる福音書の著者のマタイじしんも、震えるような思いで、記したのではないかと思います。自分が編んだこの福音書もまた、その意味では、永遠に接続する。永遠のものとなると信じたと思うからです。

しかもそれは、ひとりマタイだけの思いではありません。すべての神の言葉の語り手、真実の説教者たちもまた、「わたしの言葉は決して滅びない。」との、神の言葉の権威を覚え、そのあまりの光栄に震えるような思いを抱きつつ、また誇りをもって、何よりも畏れおののきつつ、神の言葉を語ったのだと思います。

キリスト者とは、誰でしょうか。それは、この言葉を聴きとった人のことです。主イエスの御言葉を信仰によって聴きとった人です。従う人のことです。その人は、草花ではなくなりました。確かに被造物です。しかし、滅びない被造物、過ぎ行くことのない存在となっているのです。神の子どもです。永遠の神と共に永遠に生きる者とされているのです。

さらに、この神の子たちは、「わたしの言葉は決して滅びない。」という主の言葉を自分自身も語る人になれるし、なるのです。それは、教会の説教者だけの特権ではありません。

先週は、浜松伝道所の委員がここで御言葉を語られました。確かに説教卓で語るのは、基本的に説教者のみです。しかし、緊急のときには、信徒であっても説教卓に就くことを優先させるのが、私どもの教会の基本線です。ただし、信徒の皆さまが、滅びない言葉、永遠のことば、いのちのことば、キリストを語る現場は、他ならない、生活のただ中です。職場です。学び舎です。家庭です。地域社会のさまざまなサークルです。そこで、御言葉の語り手として召されたのは、教会の説教者ではなく、皆さん信徒です。滅びない言葉、それは、永遠の真理の言葉です。この言葉こそが、この御言葉だけが、人間を救い、生かすのです。私どもを生かす言葉は、私どももまた、語ってよいし、語るべきなのです。それは、説教と言う形にはなりません。ときに、これは、本当は、丁寧に言うべき事柄なのですが、「無言の証」ということも可能です。被災地支援の現場では特に、その力もまた著しいと言ってよいと思います。

私どもは確信しています。主イエス・キリストは、滅びていません。過ぎ去ってなどおられません。主イエスは、単なる過去の人、歴史上の偉人などでは、まったくありません。主イエスは、十字架について、死をもって死を打ち滅ぼし、その甦りによってご自身の主権を明らかにされました。今や、天に昇って、世界と教会の主として統治しておられます。当たり前のことですが、主は今、生きておられるのです。

この滅びない神の言葉そのものでいらっしゃる生けるイエスさまと結ばれたキリスト者、教会もまた、永遠の存在とされ、生きている。生かされています。そして、私どももまた、地上における神の国の祝福に抱かれつつ、完全な神の国の到来、主イエスの再臨を目指して歩みます。単に、歩むのではありません。この過ぎ行く天地、地上における社会的責任を果たしながら、信仰の責任を担いながら、信仰の善き戦いのなかで前進し続けるのです。

祈祷
造り主にして、主イエス・キリストの父なる御神、あなたは、人間を愛し、祝福しようとこの世界を創造してくださいました。しかし、私どもは、あなたの大地を汚し、破壊し、何よりも人間どうし互いに対立して、あなたを悲しませ、憤らせ続けています。この恐るべき罪を、懺悔致します。どうぞ、この大地を守ることができますように。同時に、この大地とそこにあるすべてのものは、過ぎ去る物であることをふかくわきまえさせて下さい。そして、永遠の御言葉の恵みの中で、神の国を待ち望み、それにふさわしく生きる教会とならせてください。アーメン。