過去の投稿2012年9月16日

9月16日

★  昨晩(14日)は、シンバルさんとミギワさんをお迎えして、第二回となる震災チャリティーコンサートを開催致しました。実に、すばらしい賛美の歌声に心が高く引き上げられ、揺さぶられました。「のぞみセンター」での夏祭りにもお迎えし、その実力は、存じ上げていました。しかし、やはり、教会の礼拝堂での演奏は、音楽的に言えば、やはり、何倍もすばらしい音色でした。(夏祭りでは、外では、子どもたちが大はしゃぎでしたし・・・   )ただし、賛美そのものの「実り」は、被災地には、かなわないのかもしれません・・・。
一時期、声を失うという試練を経て、「神の栄光のための賛美」へと徹する信仰を与えられた、ミギワさんのご活躍を大いに期待し、祈ります。

☆  先週は、昨年、行われた福音主義神学会全国研究会議における講演を、「学会誌」に掲載するために、文章を整えました。全体主題は、「説教」でした。わたしの担当は、「何を説教するのか」という部分でした。 まさに説教の使信の内容を問う、本質の課題です。単純明快な定義として、説教とは、聖書の説き明かしです。聖書は福音を証していますから、神の福音を語ることです。そして、福音の中心は主イエス・キリストです。説教の究極の目標は、福音を語ることによって、教会を建て、御国を拡大、前進する神の奉仕に仕えることです。その中の一部分を抜粋します。    

ⅳ 説教および説教者と聴衆とのコミュニケーション

【説教者は、そのために聴衆と語られた言葉(キリスト)とのコミュニケーションを成り立たせることに最大限の努力を注ぐ。ここに説教におけるレトリークの位置と意義がある。ただしそれは、徹底的に聖霊の働きの筋道を整える神学的な作業であり、聖霊の主導によってのみ担われうるものである。それなしには、単なる人間的、つまり偽りのコミュニケーションに堕すこととなろう。

キリストと聴衆とのコミュニケーションを深めるために、説教者と聴衆との間のコミュニケーションつまり相互の信頼や愛などを軽視することはできない。そもそも、語り聞くべき福音の内容じしんが、説教者と聴衆をして共に一つの信仰の歩み、つまり、共なる信仰生活及び信仰共同体を形成させる。したがって、説教者と聴衆とが人格的関係にない、もしくは直接的関係を結びえない、たとえばテレビ・ラジオによる説教は、礼拝説教の代行にはなりえない。さらに、教会において「偽証してはならない」との掟がどれほど大切であるかも自明となる。とりわけ御言葉の説教者への「噂話」がなされ、放置されるなら、噂話をする本人はもとより、彼の話によってことばへの信頼が損なわれ、教会の交わりは破壊されて行くであろう。】

★  教会にとって(こそ)、「ことば」は、決定的に大切です。説教の言葉は今更言うまでもありません。お互いの言葉もまた同じです。いずれにしろ、毎週唱える第9戒が、共同体形成のために、神が与えて下さった掟として、どれほど生命的に重要であるかを思います。そして、この罪と真摯に戦い、悔い改め続けてまいりたいと願います。

★  本夕から、始まる信徒研修会。今年は、当伝道者が小学科の別プログラムを担当します。日韓協力開拓伝道が昨年に引き続く主題です。子どもたちと、平和について学びます。神の平和が、まず、個人に実現すること、つまり救われて神の子とされることが肝心要です。これなくして、何も始まりません。次に、神の子どうしの間の平和です。そこでも、神さまが中心です。最後に、国と国との平和です。そこでも、神さまが中心です。神なき、平和など、まったくのまやかしです。いわゆる「安全保障」でしかありません。
核兵器の量を競い合いながら、その恐るべき均衡の上に、安全が担保される・・・、なんと惨めなことでしょうか!しかしこれが、世界の現実です。なんと愚かなことでしょうか。これが人間の知恵の限界です。神の平和を、人間は破壊し続けました。サタンがもっとも好むのは、「神なき世界」です。そのためなら「安全保障」でも、彼は、与えるでしょう。しかし、ごまかされ、騙されてはなりません。神に服従しない国も民族も個人も、平和に生きることなどできるはずがないのです。ここは、どこでしょうか。ここは、神の支配する世界なのです。
この支配者を、脇に、隅っこにおいて、平和など実現するはずがありません。教会もまた、どこまでもキリストの主権と正義に服するところです。そこが、いいかげんであれば、教会の平和など実現しません。せいぜい、日本的な「和」でしかありません。
平和をつくり出す者こそ幸いなのです。主イエスがおおせになられました。「神の子と呼ばれるからです。」