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「信仰と勤勉」

信仰と勤勉」
                2012年10月14日
             マタイによる福音書第25章14~30節

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」 

再臨のたとえ話を学び続けて、礼拝を捧げています。先々週は、「信仰と忠実」。先週は、「信仰と賢さ」と言う題で、学びました。今朝は、最後のたとえ話を学びます。「信仰と勤勉」です。この三つは、深く結び合わさっています。今朝のたとえ話は、その意味で、これまでの二つを総合する教えと理解することができるだろうと思います。
このたとえ話もまた、主人が旅立つことから始まります。主人とは、神さまのこと、何よりも、十字架についてご復活された主イエスをあらわしています。つまり、主イエスは、まさに近い将来、弟子たちのもとから目に見える形では、遠くに行かれるのです。地上での救いの御業、十字架と復活の御業を成就したならば、ご自身が来られた場所、つまり、天の父なるがいらっしゃる場所に、その右に戻られるのです。そして、地上には、主イエスの弟子たちが遺されます。置いてきぼりにされてしまうというのでは、まったくありません。地上に遺されたとは、派遣されたということです。その目的は、主イエスが地上でしてきたことを、弟子たちに代行させるためです。ここでは、旅立った主人が、家に戻るその日までに、教会が何をしなければならないのか、その役割、使命について教えられているのです。

さて、この主人は、ものすごく裕福な主人です。しかもその家は、普通の家ではありません。商家です。しかも、小さな商いをしているのではないようです。時代劇に出てくる越後のちりめん問屋より、はるかに大きな商家です。むしろ、今日で言えば、世界を相手にした商社に近いかもしれません。いずれにしろ、莫大の富を持っている主人、オーナーなのです。そして、その家には、言わば、社員がいます。僕たちです。このたとえ話は、教会生活のお話ですから、ここに登場する僕たちは、教会員であり、奉仕者たちです。私どもの教会の現実に引き寄せて言えば、執事に近いと思います。日本風に言えば、番頭さんたちと言っても良いかもしれません。

主人は、旅行に出かけます。それは、おそらく観光旅行ではありません。主人もまた、自らの仕事をするために、旅立たなければならないのだろうと思います。そこで、主人は、自分の財産を執事、番頭さんたちに預けます。何のために、預けたのでしょうか。彼らに、主人の代わりに商売をさせるために他なりません。

ここにタラントンと言う貨幣単位が登場します。それは、6000デナリオンです。一人の人が一日働いてもらえるお金が、1デナリオンです。ですから、6000日分です。今日で言えば、ざっと6000万円と考えても良いかもしれません。

さて、登場する三人の執事、奉仕者には、それぞれに、お金が預けられます。最初の人には、五タラントンが預けられます。ざっと3億円です。二番目の奉仕者には、2タラントン、1億2千万円です。そして、三番目、最後の人には、1タラントン、6000万円です。

いったいなぜ主人は、この三人に、まったく違ったお金を預けたのでしょうか。主イエスは、仰せになられました。15節「それぞれの力に応じて」です。つまり、主人は、この三人の奉仕者たちのことを、よく知っているのです。なるほどよくご存じなのだろうなとすぐに、思わされる言葉があります。5タラントン預かった人は、「早速」「出て行」くのです。ボケッとしていないということです。ただちに、主人の意図を汲んでいます。主人の家は商家です。つまり、商売するために、自由に商売をしても良いと、お金を託してくださったのだと、わきまえたのです。ですから、行動が早いのです。しかも、もしかすると、これまでとは違った商売にも挑戦したのかもしれません。主人は、彼がそのような能力を持っていることを、見抜いていたわけです。ですから、3億円を託したのです。そして、なんと、彼は、その5タラントンを元手に、なお5タラントン儲けました。この人は、実に、大胆な人だと思います。勇気がある人だと思います。今風に言えば、リスクを恐れず挑戦する人です。

次に、2タラントン預かった人は、最初の奉仕仲間に刺激を受けたかもしれません。自分もまた、主人が何のために、1億2000万円を預けてくれたのかを考えて、行動に移します。そして、彼もまた、それを倍にして儲けたのです。

さて、三番目の奉仕者が登場します。この譬の主人公は、まさに、この三番目の奉仕者に他なりません。最初の人も二番目の人も、このたとえ話のメッセージを強調するための言わば、脇役です。
1タラントン預かった人は、なんと、穴を掘って、お金を埋めて置きました。これは、当時の人々が、財産を管理するとき普通に行っていたことだと言われます。つまり、泥棒に盗まれないように、自分だけが知っている場所に埋めて、隠しておくわけです。つまり、この奉仕者は、主人が財産を託した意図、その深い御心を自分勝手に解釈してしまったということです。

先週は「信仰と賢さ」という題で、説教をしましたが、実は、ここでもその賢さが問われています。その賢さとは、なんでしょうか。最初に登場した能力のある奉仕者は、まさに賢いのです。どこが賢いのでしょうか。3億円を元手に3億円ものお金を稼げたからでしょうか。違います。彼の賢さとは、主人の意思、お考えを瞬時に悟ったことです。確かに、商売の能力やその賢さがあることは否定できません。しかし、ここで大切にされているのは、ひとへに、主人のお考え、お心を瞬時に悟ること、そして行動するその賢さが問われているのです。

時々、神の導き、神の御心という言葉を乱暴に用いる人がおられると思います。神の御心を理解すること、そしてそれに応答することが信仰の生活に他なりませんから、信仰にとって、決定的に大切なことです。そして神の御心とは、きわめて簡単なことであり単純なことであるはずです。そして同時に、きわめて複雑で深いことでもあるだろうと思います。神の御心やお導きを、乱暴に用いるとは、自分勝手に、自分に引き寄せて、自分の都合のよいように取捨選択するということです。ただしそれは、厳密に言えば、信仰とは呼べないはずです。確かに、この世の人々は、自分の利益になることであれば、賢さをただちに発揮することが多いと思います。それを競い、結果が出れば、あの人は賢いとか、あの人は良くできるとか、言ったり言われたりするわけです。しかし、聖書は、その自分の利益を求めるための賢さをまったく評価しないのです。

1タラントンあずかった奉仕者は、地中に埋めてはならないのです。たとい商売に失敗してもかまいません。もしかすると、元金のすべてをなくしてしまう危険性もあるでしょう。しかし、主人は、このお金を用いて、商売をしなさいと託されたのです。主人のお心は、単純明快です。「最低、何割の儲けを出しなさい」とはおっしゃいません。「絶対に、損失を出すな」とも言われていません。とにかく、商売をすること、これだけです。

ところが、彼は、商売をしません。地中に埋めて、保管していました。もしかすると彼は、心に思っていたかもしれません。「自分は、主人のお金を大切に保管していた。褒めていただけるはずだ。」しかし、当たり前のことですが、褒められるはずはありません。

旅から戻った主人は、最初の奉仕者も、二番目の奉仕者も大いに喜ばれました。生み出した利益の差は、歴然ですが、主人の喜びと評価の言葉は、いかがでしたでしょうか。まったく同じなのです。ここがポイントです。能力の差は、歴然としています。しかし、主人の評価は、同じです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」ここで、明らかに示されていることは、主人、つまり、私どもの父なる神そして主イエス・キリストは、戻ってこられたとき、完成された神の国において、奉仕者たちに喜びにあずからせようという御心、究極の目標があることです。神は、私どもの地上での商売、つまり、信仰の生活、教会生活、教会を通して生きてゆくキリスト者の人生に、その報いを用意しておられます。それは、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」この神の評価とこの天上の喜び、神の喜びに共にあずかることです。人生の究極の目的は、忠実な良い僕だ。よくやった。と言って下さる父なる神、主イエスと共に喜びに生きることです。私どもには、何はなくても、この約束、この明日が約束されているのです。そして、私どもは、その評価と喜びをすでに、ここで、この礼拝式の場で、豊かに味わい始めているわけです。

神は、私どもに働く喜び、そして苦しみをも味あわせておられます。ここでは、苦しみのイメージは、ほとんどありません。しかし、聖書を読めば、地上で主のために生きることは、十字架を負って主イエスに従う道以外のなにものでもないことは明らかのはずです。十字架の道行きは、確かに、喜びと感謝にあふれた生活ですが、主の十字架を担うことなしには、あり得ません。私どもの人生の時間、能力、財、家族、自分自身の全存在、命もなにもかも、すべては、神からお預かりしたものです。神の賜物です。端的に言えば、神のものです。神からお預かりしているのです。自分も、自分の子どもも、何もかもが、神さまからの恵みの贈り物です。

そして、それは、生かして用いる責任が、与えられています。自由に使ってよいのです。ただし、神さまに対して、責任があるのです。報告の責任、そして義務です。決して、地中に埋めてはならないのです。神の御心を悟り、教会の業、奉仕、伝道であり、愛の業であり、証に励むこと、ディアコニアに生きることそこに、私どもの教会生活、信仰生活があります。

また、この譬から学べるのは、一人ひとり任された重さには、差があるということです。これは、神の神秘です。しかし、主イエスは、差があることを当然視されていることに注意しておきたいのです。2番目の奉仕者が、主人に、何故、わたしには2タラントンしか預けて下さらないのですかと問いただしません。当たり前のこととして受け入れるのです。私どもも、それぞれに差があります。特技や能力をいくつもお持ちの方がいらっしゃいます。すばらしいと思います。羨ましいなと思うこともあります。しかし、それを比較する必要はありません。神ご自身もまた、あとで触れますが、同じように扱ってくださるのです。

3番目の奉仕者は、主人に拒絶されます。ここでも天国に入れない人の譬として結論付けられます。そして、これを聴いているのは、誰でしょうか。これを直接に聞いているのは、マタイの教会、マタイによる福音書の最初の読者の教会員に他なりません。前々回の譬では、二人のうちの一人、前回の譬では10人の内5人が、天国に入れない部類として分けられました。ここでは、幸いにも三人の内、一人です。率の問題なのではまったくありません。とにかく、この譬をしっかり聞かなければならないのは、未信者の方ではありません。教会員、キリスト者です。私どもが、今、生かされているこの時、どのように生きることが、神と共に生きることなのか、神のために生きるとはいかなることなのかを、ここで教えられるべきなのです。しっかりとわきまえるべきなのです。

この譬の主人公は、3番目の奉仕者、番頭さんです。彼は、戻ってこられた主人にこのように報告しました。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』彼は、神の御心をわきまえません。何よりも、その神ご自身がどのようなお方でいらっしゃるかを、知りません。確かに神がいること、神の存在は、信じています。しかし、それだけでは、信仰とは呼べないのです。少なくともキリスト教信仰に至っていません。

私どもは、神を主イエス・キリストにおいて、知らされました。父なる神との交わりを与えられました。まさに、神を父として信じることができたのです。神が、単に厳しく、不公平で、有無をも言わさない絶対権力者であるわけはありません。しかし、彼は、そう考えている、信じているのです。それが、決定的な間違いです。そこから、父なる神の親心を悟らず、神のために奉仕に生きる生活の意味と喜びを知らず、与えられていた賜物、自分自身を無駄にしたのです。神のために、用いなかったのです。

不思議なことですが、ここで、主人は、彼の自分に対する認識の間違いを怒られませんでした。これに触れるいとまがありませんが、重大な問いでしょう。しかし、ここで集中的に問うべきは、間違った認識であろうが、重要なことは、だとしたら、なお一層、働くべきだと何故、考えなかったのかということです。主人は、徹底的に、預からせたお金の使い方にこだわられるのです。儲けられたかは、二の次です。今、6000万円を銀行に預けても、あまり利息は付かないのだろうと思います。しかし、わずかでもよかったのです。いへ、極論すれば、儲けるどころか、損失を出しても、天国に入れないということにはならなかったはずです。

最後に、このお金とは、自分じしんの全存在のことだと学んできました。私どもの持っているものはすべて、神さまからお預かりしているものです。その通りです。しかし、最後に、この地中に隠した信仰者とは、直接的には、律法学者、ファリサイ派の人々のことを指しているという解釈があります。そこで、隠していたのは、福音の恵み、神の御言葉だと言うのです。御言葉を受けたのに、それを、隣人を生かすために用いなかったというのです。これは、キリスト者が深く聴き取ってよいことだと思います。私どももまた、説教を聴いて、それを生かさなければ、この怠惰な僕の過ちと罪を犯していることになります。説教を聞いても、それを生かすことがなければ、神の言葉は、取り上げられてしまう、その警告を、この御言葉に聞き取りましょう。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

私どもは、もう一度、心新たにされ、父なる神の親心を悟りたいのです。そして、教会の使命、キリスト者の務めをわきまえたいのです。旅から戻られるご主人は、天国の喜び、ご自身の喜びの世界に私どもを招き入れ、あずからせたくてしかたがないのです。だから、私どもは、地上で商売に励むのです。つまり、主の奉仕に勤しむのです。与えられた賜物は、それぞれに差があるでしょう。しかし、これを忠実に用いた人に、施される主の祝福、労いの言葉は、同じです。差別はありません。私どもは、今週もまた、主のために、教会のために、私どもの商売、私どもの奉仕を、教会において、遣わされた職場、学び舎、家庭において、こつこつと、勤勉に、継続してまいりましょう。

祈祷
主イエス・キリストよ、あなたは、今も天において救いの御業を、わたしども教会を通して進めておられます。あなたが働かれるので、私どももまた、地上にあって、あなたが託してくださった務めに勤しみます。しかし、怠惰に陥りやすい私どもです。何よりも、自分勝手な奉仕、自分の都合のよい決断、判断を下して、これが御心だと勘違いすることさへあります。どうぞ、その罪と過ちからお守りください。託された尊い賜物、そしてみ言葉を、地中に隠してしまうことがありませんように。生かして用いることができますように。アメン。