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「小さな者の隣人となられた主イエス」

「小さな者の隣人となられた主イエス」
                2012年11月4日
             マタイによる福音書第25章31~46節②

「「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
 

先週に引き続いて、第25章31節から46節までを朗読いたしました。わたしは、主イエスがここで語られた御言葉が生み出したひとりのキリスト者のことを思います。それはノーベル平和賞を受けたことでも広く有名になったマザー・テレサさんです。彼女は、コルコタの道端に倒れ伏して、今まさに死んで行こうとする人を、「死を待つ人の家」という自分たちの施設に連れて来て看取ります。病院ではありません。その路上で、誰にも顧みられず死を待っているその人に、「あなたは決して一人ぼっちではあるなせん。「あなたは、神さまに愛され、造られた尊い、かけがえのない人です。」こう語りかけ、かたりかけずとも、心を込めて看取ることによって伝えています。もっとも小さな人の隣人となっておられるのです。彼女は、まさに死んで行こうとする人を、もっとも小さくされているその人を、イエスさまのように見なすのです。その人の中にイエスさまが共におられることを見て、主イエスに仕えるかのように、その人に仕えるのです。

いったい、彼女をつき動かしたものは何か、あるいは、マザーテレサさんをマザーテレサさんたらしめたものは、何であったのでしょうか。もとより、それは、主イエス・キリストのご存在です。しかし、主イエスの語られた御言葉の中でただ一つだけを挙げるのなら、まさに、今朝、お読みした主イエスのこの御言葉、これこそが、彼女を突き動かし続けたものだと言ってもよいと思います。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

わたしは、このイエスさまの御言葉を真実に理解できたら、そして実践したら、まさにこの世界は音をたてて変わるのではないか、少なくとも、教会は変革される、改革されることを信じています。今朝、この御言葉に集中し、心を開いて向き合いたいと思います。

さて、今朝の説教は、マタイによる福音書において極めて重要なものです。明らかな一つの理由は、この説教は、マタイによる福音書にだけ記されているからです。マタイによる福音書が記して来たこれまでの主イエスの説教の総まとめ、あるいは主イエスのお働きの秘密、その核心になるものがこの説教の中に込められているのだろうと思います。福音の奥義が語られているのだと思うのです。私は、もしかすると、地上の歩みを終えるまでここで明らかにされた福音の真理とキリスト者としての課題について、問い続けなければならないのではないかとすら思います。しかし、同時に、ここで主イエスが語られた真理こそ、福音のまさに基本そのものであり、初歩と言ってもよいものだとも思うのです。

これまでマタイによる福音書を学んで、だんだんと分かってきたと思われることは、使徒マタイによれば、信仰とは、ただ御言葉を聞くだけのことではないということです。そして信仰に生きる人間とは、聞きっぱなしの者ではないということです。マタイは、そのような人は、「砂の上に家を建てた、愚かな人に似ている」との主イエスの御言葉を記しています。そしてついに、ここで主イエスがその説教の最後に語られたこと、集大成のように語られた真理もまた、天国に入るということ、主イエスの右に選び分けられ、主イエスの羊とされること、つまり救われるということは、御言葉を実践した人なのだということの実例として理解できると思います。つまり、マタイによる福音書が告げる救いの道とは、徹底的に、御言葉を実践するというところにあるわけです。しかも、ここで主イエスが語られたのは、信仰者は、御言葉を実践するのだ、しなければならないのだというある特別の緊張感とか、ある特別の高揚感と言いましょうか、そのような特別な意識すら持たないで生きている人のように、この説教から読みとれるように思います。

つまり、最後の審判のとき、天国に入れられた人たちは、自分が何か特別に優れたことをしてきたのだとか、主イエスさまに特別にお仕えしたのだという心当たりがないように思うのです。知らない間に、気づかない間に、神とイエスさまに奉仕し、神に喜ばれていたというような感じです。それは、まさに信仰の極地と言えるかもしれません。それなら、いったい、どうしてこの人たちは、気づかない間にすばらしい信仰の業、行いをすることができたのでしょうか。それこそが、今朝、私どもがはっきり悟りたいポイントです。

信仰に生きている人間、信仰者の存在を明らかにする鍵になる一つの言葉があります。ここでもう一度、取り上げたいと思います。それは、スプランクニゾマイ、マタイによる福音書の講解説教を通して皆さんに覚えて頂いたかもしれない、ギリシャ語です。その意味は、「憐れむ」です。そして、それは、はらわたを痛めるほどの激しい感情を伴う憐れみの心、かわいそうにと思う激情をあらわす激しい意味が込められています。注目したいのは、この御言葉は、常に、神のお心の内をあらわすためだけに用いられるということです。つまり、特別の言葉なのです。スプランクニゾマイとは、まさに、神の愛そのものを指す言葉なのです。そして、主イエスは、天国に入れるのか、それとも永遠の火、地獄へと通じるのか、それは、ただ憐れみの心を動かしたのかどうか、発動させたのかどうか、その心に突き動かされるかどうか、ただそれだけが、人間の永遠を左右することになるのだと教えられるのです。

そして、この憐れみの心をもってなす業のことを、奉仕と呼びます。ギリシャ語では、ディアコニアです。実は、主イエスから、「私から離れなさい」と退けられた人々が、主イエスにその理由を尋ねたとき、最後にこう尋ねています。「いつ、お世話をしなかったでしょうか。」この「お世話」がディアコニアです。つまり、飢えに苦しみ、渇きに苦しみ、心細い旅をして野宿になりそうになっていたとき、着るものにも事欠いて貧困のどん底の絶望と不安、病気になって肉体は痛み、社会から切り捨てられてしまって孤独の中にいる悲しみ、牢獄の中に閉じ込められて、すべての人から見捨てられ、死を待つだけの孤独の極みに追いやられた人に、スプランクニゾマイ、憐れみの心を動かし、具体的に行動を起こしたかどうかなのです。つまり、ディアコニアを実行したかどうかです。

さて、ここでやはりもう一度、先週のおさらいをしたいと思います。私どもは、救われるためには、ただ主イエスを信じるのみだと確認しました。ただ神の恵み、その選びによるのだと確認しました。天国に入る条件に、何かの善行、宗教的修行その他一切、必要ありません。善い行いによって、天が開かれることなどできません。信仰による救い、キリストによる救い以外に、ありません。これが、福音です。

ただし、私どもは、そこですべてを終えてしまうことはできません。つまり、自分が、救われたのは、何のためなのか。何のために、何を目標にして、救われた者は生きるべきなのか。キリスト者が、もしも、自分の人生の使命についてわきまえることがなければ、罪からの救いは、宙に浮いたものとなってしまいます。キリスト教が単なる人生の飾り、生活を潤す道具、精神安定剤になってしまうかもしれません。恵みのみで救われたのは、私どもが主と共に生きるためです。隣人と共に生きるためです。神を愛して生きるためです。自分を愛するように隣人を愛して生きるためです。

しかも、そこで誰の隣人になるのかということが問われています。それは、その人とお付き合いをすると、自分に利益がある人のことではありません。むしろ、逆です。その人に、自分の食事を分けてあげる必要があります。貴重な水を分けてあげなければなりません。着物を分けてあげなければなりません。時に、自分の家を解放することも求められます。その人のところへ訪問することも求められます。つまり、自分の居心地のよい場所に留まっていてはならず、外に出かけて行くことも求められているのです。そのとき、必ず、犠牲を支払います。人間的な言い方ですが、得をしません。むしろ、損をします。しかし、主イエスの右にいる人々は、だからと言って、かわいそうに思う心を封じ込めることができなかったのです。だから、思わず、してしまったのです。そうせざるを得なかったのです。掟だからとか、それをしないと天国に入れないからとか、そのような思いからも自由になっていたのです。いったい何故、そのような憐れみの心が爆発し、憐れみの心を行ったのでしょうか。

わたしは、主イエスに救われて30年余りになります。信仰の生活を振り返ってしみじみと分かることは、ここで、主イエスがご自身にしてくれたと言って喜ばれたその行いの数々とは、実は、この弱く、小さく、苦しみの中にいる私に対して、主イエスしてくださった御業であるということです。飢えているとき、渇いているとき、明日の暮らしの見通しを持てないとき、病気で孤独のなかにいて、神さまからも人からも見捨てられてしまったかと悲しみと絶望に落ち込んだとき、主イエスは、わたしのところにも隣人となって、尋ねて下さったのです。だから、救われたのです。そして、30年余り、そのように主イエスが、わたしを見て、スプランクニゾマイ、はらわたを痛めてかわいそうにと憐れみ、そして、実際に憐れみ、助けだし、救って下さったのです。そしてその究極が、十字架について下さったことです。十字架から降りないで、わたしの罪のための全責任を身代わりに背負って、死んで下さったのです。犠牲をしはらってくださったのです。まだ敵であったときに、信じていないそのときに、神は御子を十字架につけて、わたし自身を赦し、和解を与え、救いの道を開いて下さったのです。ここに、わたし自身の、キリスト者のすべてがあります。したがって、主イエスに救われたわたしにとって、これからの人生とは、主のために生きる以外の選択肢はなくなってしまいました。使徒パウロは、Ⅰテサロニケの信徒への手紙でこのように語っています。「キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。」キリスト者とは、さめていても眠っていても主と共に生きる人間なのです。主イエスが、わたしたちのために死なれたからです。主イエスが、さめていても眠っていても私どもと共にいてくださるからです。

そして、ここでも福音の真理、聖書の真理が、教えの筋道がきちんと明らかにされています。「だから」「それゆえに」「したがって」と続くわけです。だから、キリスト者どうし、お互いに慰め合おう、相互の徳を高め合おう、こう命じます。キリストの共同体、体なる教会をそのようにして建て上げて行こうという命令です。それを上手にすること、そのために修錬を重ねてまいりましょう。

さて、このように、主イエスが、『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』と宣言なさったとき、主イエスは、先ず、このわたし、私どもを最も小さい者の一人として見ておられることを、悟ることができます。イエスさまの御顔の前で、「最も小さい者の一人」とは、他ならないこのわたしのことでもあるということが見えて来るのです。

主イエスは、わたしのためにわざわざ、犠牲を払って訪ねて下さいました。ところが、どうでしょう。わたしは、主イエスの愛に気づきませんでした。主イエスの守りと恵みに、感謝しませんでした。感謝するどころか、わたしは神などいないと、聖書を投げ捨ててしまい、神を恨んだのです。父なる神と主イエスを長く、無視し続けたのです。ところが、それでも、いへ、それだからこそ、主イエスは、この僕のことを、最も小さな者、罪人として憐れんでくださったのです。ですから、キリスト者がもしも謙遜さ、自分の罪深さ、弱さ、小ささ、愚かさをまさに自分のこととして認めなければ、それこそが、まさに偽善となるのです。

さて最後に、もう一度確認します。そうすると、弱く小さな者である私どもが、いったいどうして、隣人の弱く小さな者に仕えることができるのでしょうか。繰り返します。主イエスが、私を憐れんで下さったからです。主が憐れんで下さった故に、わたしもまた、主の憐れみの心に心が響き始めたのです。動き始めたのです。揺さぶられたのです。もう、自分の弱さ、小ささにこだわっている場合ではない。自分にはできないと言い訳することができなくなってしまいました。自分の弱さ、小ささを理由に、受けるだけの人生ではいけない、そのような思いが与えられたのです。

今朝、主は、説教と共に聖餐の食卓をもって、私どもをもてなして下さいます。今朝、この聖餐の食卓においてその主でいらっしゃるイエスさまが私どもに語られる御言葉は、今朝、お読みした御言葉です。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。』この御言葉は、主イエスがご再臨されるそのとき、主イエスの右に選ばれる羊たちが聴ける御言葉です。しかし、主イエスは、今私どもに、この礼拝式において、聖餐の礼典執行において、私どもにこのように宣言して、私どもの救いを保証し、その契約を更新してくださるのです。私どもは、天使創造の時から、すでに主イエスの羊とされていたのです。

マザー・テレサさん、ノーベル平和賞受賞者の中で、もっとも輝かしい人の一人です。ローマ・カトリック教会は、このひとりの女性を「特別の人」として、評価しています。しかし、マザー・テレサもまた、自分自身がひとりの小さな者としての自覚を深めたのだと、わたしは考えています。キリスト者とは、誰もが小さな者で、そして、だからこそ、主イエスに訪ねていただいたのだと申しました。それは、人生の具体的な局面で、何度も何度も助けだして下さる、下さったのです。しかし、彼女たちの日中の激しい仕事は、毎朝のミサによって支えられていることを、忘れることは決してできません。彼女たちは、日々の力を、ミサ、礼拝から受けているのです。つまり、毎朝、彼女は、ミサにおいて、主イエスが隣人となって、今ここに訪れて下さって、飢えを満たし、渇きをうるおし、元気づけて下さっていることを体験しておられるのです。

そしてそれは、決して、彼女たちだけの体験ではありません。私どももまた、今朝は、聖餐の礼典を祝います。まさに、この食卓でこそ、主イエスは、私どもの主人として、隣人として、私どもに奉仕してくださるのです。私どもは今飢えています。今、渇いています。しかし、まさに今ここで、主イエスは、私どもに命の食物、飲み者をふるまって下さるのです。主イエスの憐れみ、神の愛を注いでくださり、恵みと救いをあふれるほど、注いで頂けるのです。

願わくは、私どももまた、彼女のように、主イエスの隣人となり、もっとも小さな者の隣人となりたいのです。ある人が、こう言いました。「私に与えられた二本の手は、一つは、自分のため、そしてもう一つは隣人のために」腕が動かない人は、それでよいのです。腕のない方は、そのままでよいはずです。しかし、二本与えられているのであれば、それを用いたいと思います。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、今朝、私どもが最も小さな者であるゆえに、あなたの憐れみを受け、天国へと選ばれている者であることを確認させていただきました。どうぞ、それゆえに、私どももまた、憐れみの心を発動させ、ここから出かけさせて下さい。あなたから受けた愛の負債、愛の借金をあなたと、そして隣人に返済するためです。しかし、先ず何よりも、共に生きる小さな者たち、教会員どうしが「互に慰め合い、相互の徳を高め」あうことができますように。御霊を注いで下さい。アーメン。