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「血の責任」

「血の責任」
                2013年3月17日
マタイによる福音書第27章11~14節 ①
【ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。】

物語が起こっている場所は、先週に続いてローマ総督ポンテオ・ピラトの官邸です。総督ピラトは、裁判長です。ユダヤの宗教家、権力者、指導者である祭司長たちや長老たちは、主イエスに対する不利な証言を続けています。しかし、主は、その偽りの証言、訴えに一言もお答えになりませんでした。総督は、このイエスさまの態度を非常に不思議に思っています。驚いています。

ピラトもひとりの権力者、指導者です。政治家です。それだけに、ユダヤの権力者たちの言い分やふるまいのなかに、すでに直感的に気づいていることがあります。おそらく、身に覚えがあるからなのだと思います。マタイは、18節でこのように記します。実に的確な分析です。重要な一言です。「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」聖書は、イエスさまが、人間によって殺されるはめになったのは、一言、「妬み」のためだと見抜いています。

ユダヤの指導者たちは、自分たちこそ正真正銘の、由緒正しき信仰と生活の指導者だとうぬぼれています。ところが、肝心の群衆はイエスさまを王にしようと熱狂的に支持していました。彼らは、イエスさまが子どものロバに乗って、エルサレムの都に来られたとき、「ホサナ、ホサナ」、「私たちを今こそ救って下さい。救って下さるのはイエスさま、あなたです。」と歓呼の声を挙げて喜んで出迎えました。それを見ていた祭司長、長老たちは、「あんな男に、ユダヤ社会、この国を譲り渡してなるものか」と地団太踏んで悔しがって、いよいよ危機感を募らせたことでしょう。自分たちの普段の生活をたなにあげ、群衆からの圧倒的な人気と支持を受けておられる主イエスを妬んだのです。まことに、宗教家らしくない心の動きだと言えなくもないでしょう。しかし、むしろ、そこに宗教指導者の罪の深さがあるのだとも言えると思います。

そしてそれはまた、実は、彼らだけの問題ではありません。私どもの小さな生活の中でも、家庭の中で、会社の中で、学校の中で、自分より少しでも相手の方が恵まれている、祝福されている、順調である、さかんであるということが明らかに示されたとき、「ああ、本当によかったですね。」と心の底から喜べないことがあることを、私ども自身がよく知っていることだと思います。「人の不幸は蜜の味・・・」と言う、礼拝式では避けたくなるような言葉があります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙第12章で「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と命じました。この神のご命令がしかし、罪深い私どもにとって、どれほど、困難であるかを思います。最初に喜ぶ人と共に喜ぶことが言われているのは、わたしの理解では、泣く人と共に泣くより、困難だからではないかと思うのです。それくらい、指導者だけの問題ではなく、私どもが妬みによって、罪を犯すことがここで言われていることを、深く悟りたいのです。そのことを十戒にあてはめるなら、第十戒の「むさぼってはならない」になると思います。私どもが、人と比較して、満足したり、感謝するというあり方を克服しないかぎり、この、むさぼりの罪を犯し続けることになります。本当に、恐れたいと思います。

 そもそも、人類最初の殺人は、兄弟殺しでした。兄のカインと弟のアベルの物語です。二人は、おそらく最初は中の良い兄弟だったのだと思います。しかし、遂にそれぞれ成人して、働き始めます。その働きの実りを神にそれぞれ捧げたのです。しかし、神がカインの捧げ物を評価されませんでした。その理由を、申し上げる時間はありません。神は、弟アベルの捧げ物を喜ばれました。そのとき、カインは、アベルを殺そうと思ったのです。そして、思っただけではなく、実行してしまったのです。何故でしょうか。それは、カインの妬みです。アベルは、お兄さんに何も悪いことをしていません。ただ、神に感謝し、心からの礼拝を捧げただけです。もし、神がアベルの捧げ物も評価されなかったとしたら、カインは、弟を殺そうなどとは、これっぽっちも思わなかっただろうと思います。比較です。比べたのです。そして妬んだのです。それが、アベルを殺す、唯一ではありませんでしょうが、決定的な罪の心でした。

 ヨハネの手紙Ⅰ、第3章で、使徒ヨハネはこのように言っています。「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。」妬みとの戦い、それが、教会の交わりをつくる上で、基本となるのです。そして、ヨハネは、互いに愛し合うことを、この手紙で、飽きることなく、命じ続けています。それほどまでに、互いに愛し合うこと、神を愛し、隣人を自分のように愛することこそ、神の子どもたちの生き方、主イエスがお命じになられた道、十戒の心そのものなのです。

さて、総督ピラトは、そこで、二つの施策を考えます。さすが、政治家です。一つは、恩赦です。恩赦とは、権力者がどれほど憐れみ深いものであるのかを国民に見せるための極めて政治的な恣意、政治的意図があるものです。それは、為政者への感謝を求め親近感を与えるためになされるのだと思います。ローマ帝国もまた、占領している民族や国家のガス抜きをするために、恩赦の制度を整えたわけです。要するに、権力者が民を支配する上で使う、「飴と鞭」の飴の方です。ピラトは、今こそ、恩赦の制度、飴を活用しようとします。

ピラトの心には、この男を殺したくはないという気持ちがあるのです。政治家たちの妬み、嫉みの冤罪であると分かっているのです。ピラトは、何とか、イエスを釈放したいと考えます。同時に、自分の寛大さを、群衆にアッピールできると思ったのです。一石二鳥をもくろむのです。

バラバは言います。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」ピラトは、このイエスと主イエスさまとを比べれば、間違いなく、釈放を要求するのは、主イエスさまの方だと確信していたはずです。

さらに、とても不思議なことですが、ピラトの耳に、妻からの伝言が入ります。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」ピラトもまた、なんだか胸騒ぎもしたのだと想像します。このイエスを殺させてはならないと、いよいよ、強く思っただろうと思います。ところがなんと、「祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得」し始めます。実に、徹底的に自分たちの悪事を貫きます。裏での工作です。悪い意味での根回しです。どんな説得をしたのでしょうか。群衆は、つい数日前まで、熱狂的にイエスさまを歓迎し、支持し、期待していました。自分たちの王になって欲しいと叫んだのです。それが、白を黒にしてしまうほど、180度の転換をはかるために、彼らは、どんな説得をしたのでしょうか。わたしは、この説得は、とても簡単であっただろうと思います。

つまり、祭司長たちや長老たちは、群衆が見ている事実を、しっかり見つめよと言ったのでしょう。「お前たちが王さまだ、自分たちの王様だと言って期待をかけていたイエスは、あっさりとつかまっているではないか。何の抵抗もせず、力なく、縛りあげられているではないか。目を覚ませ。お前たちは、騙されていたのだ。もし、あいつがメシアであれば、今こそ、ピラトと戦って、ローマ支配を打倒するために行動を起こすべきだろう。しかし、あいつには、そんな力も勇気もないのだ。むしろ、バラバ・イエスは、ローマ帝国の支配に抵抗したではないか。まだ、バラバの方が、ましではないか。」

群衆は、そう言われて、まったくその通りだと思ったのです。「自分たちは、裏切られていた、騙されていたのだ。ナザレのイエスの運動は、偽物だった。ユダヤを救う救い主だなんて、よくも、期待させたな。よくも、我々を欺いたものだ」まったく、自分勝手です。自分勝手なキリスト理解、救い主理解をもって、それが違っていたから、イエスこそ、悪だと、180度変わるのです。自分勝手な救い主イメージでしたから、見事に変われるのです。そして、これまでの思いの正反対の感情、憎しみが一気に噴き出すのです。

そのようなことも知らずに総督ピラトは、人々に尋ねます。「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」人々は、ただちに言います。「バラバを」ピラトは、驚いたでしょう。焦ったと思います。想定外の応答だからです。彼は、なお尋ねます。「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」すると、「皆は、「十字架につけろ」と答えます。しかしピラトはなお、負けじと言います。「いったいどんな悪事を働いたというのか」彼は、あくまでもこのユダヤ人たちの不正なやり方、主義主張を冷静に、客観的に審判すべきだと、まっとうな意見をもって、ユダヤ人に向き合うのです。ところが、「群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続け」ます。ついに、「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」と言います。ピラトの負けです。ピラトは、出来得る限り、頑張ります。しかし、結局、彼の頑張りとはなんでしょうか。それは、あくまでも自分の問題に留まったのです。つまり、ピラトは、自分はお前たちのように妬みや嫉みで無実の人間を殺すなど、まっぴらごめんだ。わたしは、総督としていつでも冷静に、客観的に、正しい判断を下して来たし、これからもそうするのだ。お前たちの宗教問題か民族問題かは、わたしの知った事ではない。しかし、常識的に、理性的に考えれば、このイエスは無罪、無実であることは明らかだ。そう思っています。しかし、そこまでです。つまり、自分が不利になるところでは、自分が泥をかぶりそうになると、彼は逃げたのです。これが、ピラトです。真理の前に、誠実に生き抜くわけではないのです。良心の呵責を感じながらも、最後はどこまでも、自分の地位や立場を守るということに執着したのです。自分の立場を守ることが、最初は、イエスをかばうことでした。しかし、今、あまりにも群衆の声が大きくなり、このままでは、騒動が起こりそうだと判断した、その瞬間、彼は、主イエスをかばうことを、きっぱり諦めます。自己防衛です。そこに、罪があります。

今週の月報の中に、このような文章がありました。「自分もピラトになっているかもしれない。日常生活で、男性は特に仕事上でキリスト者と名乗らない方がコミュニケーションがスムーズだからといって、イエス様を知らないフリをする場面があるのではないでしょうか?」これは、真剣で、深刻な私どもの課題です。自分が損をしない限りにおいては、自分が泥をかぶらない限りにおいては、正しい主張をする。しかし、その正しさを貫くと、自分が傷つく、損をする、不利益を被る、そのとき、それを貫かないところに、まさにピラトの罪があるのです。それは、この兄弟ひとりの課題ではないと思います。私どもは、牧会祈祷で必ず、してはならないことをしてしまった罪を告白し、赦しを求めます。そして、それだけではなく、すべきことを、勇気をもってしなかった罪、愛さなかった罪をも告白し、赦しを求めます。特に、キリスト者には、「しなかった罪」「御言葉に従わなかった罪」が新しく問われているのです。

さて、この課題は、ただ主イエスの真理、福音の真理だけにあてはめられるものでもありません。世間でいう立場の上の人ほど、権力を持っている人たちほど、罪が重くなると思います。たとえば、今日の日本において、原発の問題、TPPの問題、憲法の問題などさまざまな大きな問題があります。例えば、テレビ番組などで、しばしば、残念ながら評論家の方々、コメンテーターと呼ばれる方々の残念な発言を見ます。自分じしんは安全地帯の中にいて、常識的な正しいことをおっしゃるのです。いちいち、ごもっともと思います。しかし、申し訳ありませんが、彼らが、自分の職をかけて発言しているとは思えないことが多いのです。番組スポンサーを気にして、ここでこのように言ったら、もう、このテレビ番組には出られないなあと気にしながら、コメントしているのではないかと思いながら、見ることが多いのです。

それこそが、ピラトの問題だったと言えると思います。そして、繰り返しますが、それが、キリスト者である私どももまた、常に、問われ続ける課題なのです。信仰の課題です。牧師も信徒もそうです。自分じしんや自分の立場を守ろう、傷つかないようにしようというところで、私どもが隣人に向き合うとき、それは、真実に、向き合うことにはならないのです。隣人になっていないということでしょう。これは、親子の関係でも同じです。家族の関係でもまったく同じです。自己保身をすべてに優先させる罪の問題です。それが、結局、主イエスを殺すということにつながったことを、私どもは今朝、改めて、見つめたいと思います。

さて、最後に、ピラトの言葉とふるまいについて、学びましょう。「ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」ついに、ピラトは、群衆の「十字架につけろ、十字架につけろ」の声に負けてしまいます。ところが、彼は、自分には、責任がないのだと宣言します。「これは、お前たちの問題だ、お前たちの宗教の問題だ、お前たちどうしの妬み、嫉みの問題だ」言葉だけではなく、手を洗ってみせて、はっきりと確認させようとするのです。しかし、たといそのような言い訳が、人々の前で通用したとしても、神の前ではまったく通用しません。教会は、ニカヤ信条において、彼の名を記憶し続けているのです。

最後の最後に、まさに、この神秘的なメッセージを聴きましょう。「民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」これは、どのように解釈したらよいのでしょうか。確かに、この御言葉は、いわゆる「ユダヤ人問題」において必ず、取り上げられます。その問題を扱う余裕はまったくありません。今朝は、結論だけ申します。ユダヤ人が主イエスを殺したのだから、ユダヤ人への迫害を仕方がないなどと、肯定する言葉として解釈してはなりません。むしろ、私どもは、福音として読むことができるし、読まなければなりません。つまり、この御言葉は、十字架とは何かを、新たに示しているのです。いったい、主イエスが十字架で流された血、それは、どのような意味があり、効力を持っているのでしょうか。それこそは、私どもの罪を償ういのちの代価です。つまり、私どもの罪を赦すために、流された御血です。このイエスの死、流された血潮によってのみ、私どもも、ユダヤ人もことごとく赦されたのです。救いの道が切り拓かれたのです。それこそが、主イエスの十字架の意味であり、その力、効力なのです。確かに、イエスを十字架に追いやったのは、祭司長たち、議員たち、ユダヤ人全員です。そればかりかローマ総督です。つまり、ユダヤ人だけではなく異邦人の罪、全人類の罪です。民族を越えて、すべての人間が、神の御子、人となられた救い主を極悪人として処刑し、殺したことを意味するのです。歴史上に登場した彼らは、罪人である私どもの言わば代表なのです。ある画家は、この個所を描きました。そして、その群衆の中に、自分の顔を書きいれたというのです。なるほど、それは、まさに正しいことでしょう。確かに、歴史上、十字架につけろと言ったのは、そこに居合わせた群衆です。しかし、私どももまた、自分勝手な、自己中心な罪を重ねるところで、自分に役立たないイエスを殺せ、自分に不都合なイエスは、知らない、関係がないと言ったり、思ったりしたことがあるはずです。イエスさまを殺したのは、まさに、この私どもなのです。

しかし、その自分たちが犯した極悪の罪が、なんと、十字架によって赦されるのです。ここに、神の恵みの神秘、奥義があります。私どもは誰でも、イエスの十字架で流された血のおかげで、ただその故に、神の前に罪赦されるのです。その驚くべき恵みと犠牲、その救いと愛の重さは、私どもばかりか子孫にまで及んで行くのです。そして、2000年後の今、この名古屋岩の上教会にも及んだのです。

確かに、私どもは、イエスさまに弁解できない悪を企て、実行しました。しかし、神はそれを十字架において逆転してくださいました。血の責任、つまり、神である救い主を殺した責任を、私どもに負わせず、神が責任を取ってくださったのです。それが十字架の意味です。

それは、あの創世記のヨセフの物語と同じです。ヨセフの兄弟は、ヨセフを殺そうと悪を企みました。しかし、神は、その悪を、善に換えてしまわれたのです。まさに、神の摂理の勝利です。それは、まさにここでの主イエスに悪を企んだ人々と重なります。そして、神は、それを私どもの救いへと大転換してくださったのです。

心から感謝致しましょう。同時に、心から自分の罪、自己保身の罪、自分勝手なキリスト理解、自己中心な信仰生活という罪を心から悔い、改めましょう。そこから離れましょう。そして、それは、単に離れるのではありません。それは、できません。十字架の前にたたずむことです。十字架のイエスさまを見上げることです。そこでのみ、罪は赦され、神の子とされている自分を新しく発見させていただけるのです。

祈祷
天の父なる御神、群衆の声は、私どもの声でした。自分勝手なキリスト像をつくり出し、それ以外のものを拒否しようとする罪と同じです。天の父よ、ピラトの妥協の罪、責任逃れもまた、私どものことでした。私どもが、すべきことをしなかったその罪と同じです。そのようにして、今なお罪を重ねる私どもがおります。恐ろしいことです。父よ、心から赦しを願います。そして、あなたは、まさにそのために、御子を十字架につけてくださり、御子の御血を流すことを決意されました。私どもの受けなければならない永遠の刑罰、永遠の滅びの責任を、御子に負わせられたのです。あまりに深く尊い救いの御業に、言葉を失います。ただ救いの神秘、御業を心から感謝し、心から賛美を歌います。どうぞ、私どもが心から罪を憎み、罪と戦う霊を新しくし、私どもを謙虚にし、十字架にすがる者として下さい。赦された者として、しっかりと立ち上がり、従うべき御言葉、なすべき務めを担わせて下さい。アーメン。