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「あなたも分かるはず」

「あなたも分かるはず」
                2013年7月7日
マタイによる福音書第27章45~56節⑤
【さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。】

 この個所から学んで礼拝を捧げるのは、今朝で5回目となります。遂に、最後になります。今朝は、54節から56節に集中して学びたいと思います。今朝最初に、学びたいのは、この一言です。「本当に、この人は神の子だった。」「このイエス、今まさに十字架の上で死んだこのイエスさまは、神の子だった」という信仰の告白がどれほど重要であり、決定的なものであるのかは、マタイによる福音書のある頂点である使徒ペトロの有名な信仰告白を思いだせば、ただちに分かると思います。第16章15節以下の個所です。主イエスは、弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問いかけられました。筆頭弟子であったシモン・ペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」それをお聞きになられた主イエスは、まさに喜びに溢れて語られました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」私どもの教会の名称の由来の個所です。この人は神の子、あなたは神の子、この告白の上にこそ、神の教会、キリストの教会が建てられてまいります。それほど、決定的な信仰告白なのです。
さて、今朝、私どもが注目したいのは、この信仰を告白したのは誰であるのかという点です。なんと、百人隊長です。彼はローマの軍人です。100人の部隊を任されていた軍人です。つまり、ユダヤ人ではなく、異邦人です。ユダヤ人からすれば、まことの神も、まことの信仰も、まったく何も弁えていないであろう人々のはずです。しかも彼だけではなく、彼の部下の兵士たちまでも、「本当に、この人は神の子だった。」と告白したのです。

そもそも、彼らは、そこで何をしていたのでしょうか。彼らこそ、死刑執行人です。彼らは、イエスさまの見張りとして、最初から最後までずっと見ていました。もとより、単に見ていてだけではありません。彼らは、その直前まで主イエスを嘲笑し、侮辱し、乱暴を働いていた者どもです。本当に目を背けざるを得ないほど、口に出すのもはばかれるようなひどいことをしていたのです。それほどまでに恐るべき悪事をしていた者どもが、主イエスが息を引き取られたそのとき、「本当に、この人は神の子であった」と、きびすをかえすように、告白したのです。

しかもです。その告白は、主イエスが5000人以上の人たちに満ち足りるほど食事をふるまった奇跡を目撃したからでもなく、海の上を歩いているのを見たからでもなく、荒波を静めたのを見たからでもないのです。主イエスが、驚くような奇跡をしてみせたからではないのです。大胆に、一言で言えば、主イエスが、十字架の上で、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死なれたお姿を目撃したからなのです。主イエスの苦しみに立ち合ったからです。犯罪者として、神に見捨てられた者として死なれたその苦しみ、その悲しみ、そのような赤裸々なお姿を見たからなのです。今朝、先ず、この事実から福音の真理、メッセージを聴き取りたいのです。

私は今、主の叫ばれたお姿を目撃したと申しました。これは、注意して聴いて頂ければ幸いです。そもそも、百人隊長は、ローマ人です。そして、主イエスが語ったのは、アラム語です。つまり、彼らは、「エリ、エリ、レマサバクタニ」の叫びで、何を言っているのか、分かった人は少なかったとはずです。ただし、言葉や言葉の意味を越えた何か、そこに込められた深い何か、もっとも大切なそのものじしんを見る事ができたのです。見ることによってもっとも大切な内容を聴きとることが出来たのではないでしょうか。確かに、彼らは、主イエスの異常なほどの苦しみのお姿の中に、この男は、本当に神に捨てられているのだ。本当に神に呪われているのだ。それほどまでにすさまじい死の現実を主イエスの中に見たのだと思います。ガラテヤの信徒への手紙第3章13節にこのような御言葉があります。「木に架けられた者は皆呪われている」まさに彼らは、主イエスが十字架の上で受けられたのは、神の怒りであり呪いであり、そのような恐るべき出来事が十字架の上で起こっているということを見たのです。

大河ドラマの「八重の桜」をご覧になっている方もいらっしゃると思います。山元八重は、やがて同志社大学を創設する新島襄の妻となります。何よりもキリスト者となって活躍した人です。先週、久しぶりに見る機会がありました。日本における内乱、ほとんど最後の戦争の場面が描かれていました。軍人は、常に死と隣り合わせにいます。おそらくローマの兵隊たちも、人の死の姿は見慣れていたと思います。戦闘において、またこのような処刑において、人の死に立ち合う場面が少なくなかったと思います。しかし、この十字架につけられた男の死の場合は、これまで見て来た他の人間の死に様とは違うと思ったのです。

主イエスは十字架の上で、まさに異常とも言えるほどの苦痛と恐怖を味わっておられるのです。そして、実にここがポイントです。何故、イエスさまの十字架の死は、壮絶なものだったのでしょうか。それは、主イエスの死が、「木に架けられた者は皆呪われている」という意味での死だったからです。これは単なる肉体の生命の死ではありません。心臓が止まり、息を引き取り、脳波も感知できなくなった、生物としての死だけではないのです。主イエスが味わわれた十字架の死とは、未だ人間が、経験していない神からの永遠の刑罰としての死なのです。永遠の亡びとしての死、最後の審判の後にくだされる神の怒りとしての死なのです。これをこそ、主イエスは十字架で味わわれたのです。だからこそ、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、何故、お見捨てになったのですか」と叫ばざるを得なかったのです。

ところが、このイエスの言葉、ふるまいを間近に見ていた百人隊長たちは、不思議に思い始めていたのです。先ほど、私は、彼らはユダヤ人の言葉が良く分からなかっただろうと申しました。実は、十字架の上で主イエスが語られた御言葉は、「エリエリ」だけではありませんでした。おそらく最も多くの人を信仰へと導いたかもしれない一言があるのです。それは、ルカによる福音書が記しています。「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」百人隊長も兵隊たちも、もしかすると、それすらよく聞き取れなかったかもしれません。しかし、それでも最低、分かったことがあるのだと思います。この男は、自分たちを軽蔑し、侮蔑し、憎み、呪ってはいないという一点です。主イエスは、愛の眼差しをもって彼らを見つめ続けておられたのです。

そして、もう一つのこと、この男は神に呪われ、裁かれながらも、この男自身は、少しも神を呪ったり、恨んだりしていないと言う事実です。このような男、このような人間が存在する。ああ、これは、人間以上の存在だと思ったでしょう。
 
巷では、特に若い世代の人たちが、「神」という表現を頻繁に使っているように思います。彼らは、その時には、神さまとは言いません。数年前に、説明はしませんが、AKBの「神7」という表現を聞いたことがあります。これには、びっくりしました。あらためて、今の若い世代の方々は、アイドルに対しても、少しどこか優れていたり、すごいことができる人に対して、気軽に「あの人、神だよね。」などというわけです。しかし、どの世代、どの社会でも、おそらく神と言う表現で用いられるのは、何かに「ひいでている」とか、「高貴」「神秘」とか、恭しいイメージが込められているだろうと思います。つまり、そこには、人間が誰しも憧れるような力、美しさ、賢さを帯びている者に使うのだろうと思い舞うs。

さて、何故、そのようなことをお話させていただいたのでしょうか。それは、一般の人たちが考える神のイメージと、この十字架の上での主イエスのイメージとが、まさに異なることに気づくべきだからです。確かに、福音書を読むとき、十字架につく前までの主イエスの言動において、ああ、やっぱりイエスさまは神の御子でいらっしゃるということは、むしろ、分かりやすいと思います。まことにただの人間であれば、絶対不可能なことを、次から次へをなさったからです。

ところが、ローマの百人隊長は、十字架の上の主イエスのお姿の中に、もっとも神の子としての煌めき、輝きを見たのです。そして、理解したのです。そして、実にこれこそが、キリスト教信仰なのです。

彼らは、最初、イエスさまだけにではなかったかもしれませんが、本当にひどい侮蔑、暴力をふるいました。ところが、イエスさまは、そのような仕打ちをもって、苦しめる自分たちを憎んだり、恨んだり、呪ったりなさいませんでした。むしろ、彼らは、主イエスから不思議な眼差しを感じ取っていただろうと思います。それには、むしろ大きな違和感を持ったと思います。「いったい何故、こんなにひどいことをされているのに、少しも憎しみ返そうとしないのか。」むしろ、そのような主イエスのお姿に、いよいよ侮辱や暴力は、エスカレートしたのです。ところが、どれほど、ひどい目に合わせても、主イエスの眼差しの中に、自分たちへの憎悪、怒りを見いだせなかったのです。

ルカによる福音書23章34節が伝えていますが、主イエスは、十字架の上で、こうも祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」おそらく彼らにしてみれば、この言葉もまた意味が分からなかったと思います。しかし、彼らの心に何かが響いたのではないか、そう思うのです。少なくとも、こんなにひどいことをしている自分たちに対する恨み、呪いを叫んだのではないことは、分かったと思います。

さらに、あの「エリ、エリ」の叫び声の中にもまた、主イエスが、父なる神を恨んだり、呪ってもいないだろうことも分かったと思います。イエスが、こんなひどいことをする、自分たちまで愛し、さらには、このような状況に陥ってなお絶対的な信頼をもって、ご自身を神に捧げ、委ねておられるその信仰者としての姿、その信仰の姿に感動したのです。恐れ戦いたのです。

マタイは、読者に、こう問いかけていると思います。あなたも、十字架の上で、エリと叫ばれたイエスさまのお姿、その一言のなかに、神の愛、まこと神のお姿が見えて来るでしょう。分かるでしょうという問いであり、願いです。今朝で5回にわたるこの個所からの説教です。キリスト教の要、それは、十字架にあるということを少なくとも説教の回数だけからでも、理解していただけると思います。

私どもは、すでに、わが神わが神と叫ばれた言葉の意味だとか、何よりも十字架のイエスさまの死が、人間の罪を贖うための死、償いの死、罪人の代理としての死という教理について、学びました。しかし、ローマの兵隊も百人隊長も、そのような深い意味、教理については、まだまだ知ることができません。理解していません。しかし、大胆に申します。たとい、これまで、主イエスがどこで、何をなさったのか。どのような素晴らしい教えをされたのか、それらの事を、まったく知らなくても、もしあなたが、ただ、この十字架のイエスさまをまっすぐに見つめていれば、分かってくるはずだ、それが、マタイによる福音書の主張なのです。マタイは読者に、「この十字架のイエスさまを見つめていれば、あなたにも分かるでしょう」と問うのです。そして、事実、どれだけ多くの求道者、未信者が、この十字架の上の主イエスのお姿によって、主イエスを信じてきたことでしょうか。そして、救われてきたことでしょうか。

次に、私どもは今朝、あらためて神の真理、福音の真理とは、決して、この世の価値観と同じではないことに気づきたいと思います。むしろ、正反対です。イエスさまは、誰もが認める力ある神で、このお方にくっついて行けば、自分の人生は安泰だ。利益になる。プラスになる。それこそが神であり、そのような宗教こそがキリスト教なのだというような、間違った方向性から、きっぱりと離れなければならないはずです。私どもの教会は、常に、ここに、十字架の下に踏みとどまりましょう。十字架で死なれたイエスさまに向かって「神の子」と告白する信仰に生きてまいりましょう。確かに、十字架のイエスさまが、神の御子でいらっしゃることは、すべての人には分からないかもしれません。むしろ、分かろうとしないからでしょう。しかし、じっと十字架を見つめていさへすれば分かってくるのです。イエスさまの御苦しみの中に、父なる御神の苦悩の中に、天地創造の神が、主の主なる神が、罪人でしかない私をどれほど愛しておられるのか。大切にしておられるのか、イエスさまを見つめていれば、分かるはずです。そして、この真理こそが私どもを、新しくします。造りかえるのです。それは、どのような生活へと変えて行くのでしょうか。他人を蹴落として自分ひとりが上を目指し、力を獲得することを目指す生き方の空しさを悟らせてくださいます。そして、主イエスが十字架の上で見せて下さったように、神を愛し、隣人を愛する人生。隣人を生かし、そのようにして自分自身が生かされて行く、共に生きる生活。共に恵みにあずかる生活。ウインウインの方向へと、私どもを誘うのです。

最後に、ここに、今の私どもの教会にとって、さらに重要なメッセージを聞きとることができるかもしれません。それは、大勢の婦人たちの存在についてです。「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」彼女たちは、十字架の処刑を遠くから見守っていました。本当は、真下にいたかったと思います。しかし、近寄ることが許されなかったのだと思います。だから、「見守る」のです。それは、恐ろしい処刑から目をそらさないということを意味します。女性であればもしも処刑の場面に、運悪く行きあってしまったとしても、目を背けるのが普通ではないでしょうか。ところが、彼女たちは、主イエスを遠くから見つめ続けたのです。

マタイは、この女性たちを、ガリラヤから「従って来て世話をしていた」人々だと紹介しています。主イエスに従順になっていたのです。ここで、この従順という言葉を、新しく言いなおしてみたいと思います。従順とは、自分の考えとか知性を捨てて、盲目的になることではありません。キリスト教信仰とは、本来そのようなものではないはずです。彼女たちは自分自身、決断して、主イエスに従ったのです。そして、主イエスに従うということは、ついて行くことです。つまり、主イエスと共に生きるということです。これこそ、肝心なことです。主イエスと共に生きることが信仰であり、信仰生活なのです。ですから、信仰は、いつも主イエスが見えていなくてはなりません。主イエスから目を離しては成り立ちません。ここに主の日の礼拝式の重要性があります。彼女たちは、主イエスの十字架を見守っていたからこそ、主イエスのご復活の第一の目撃者になった、そう言っても過言ではありません。

次に、「世話をしていた」とあります。信仰は具体的なことです。彼女たちにとって信仰とは、主イエスのお世話をすることでした。そこには、当然、12弟子たちへのお世話も入っていたはずです。そして、そのお世話の中には、主イエスに言いつけられたことごと、貧しい人々へのお世話も入っていたはずです。それこそが、主イエスのお世話の中心であったであろうと思います。どこかの教祖のように、教祖のお世話係というような狭いことでは、あり得なかったはずです。

さて、このお世話というもとの言葉は、私どもにとってはすでに慣れ親しんでいるディアコニアが用いられています。奉仕です。仕えることです。主に仕えること、それが信仰なのです。そして具体的には、主イエスの御心を実現するために生きることです。奉仕に生きることです。御言葉に生きることです。従うことです。私どものディアコニアとは、主イエスの世話をすることから、離れた業ではありません。隣人へのディアコニアも、被災者へのディアコニアも、それらは、主イエスに仕えることと深く結ばれています。いへ、主イエスへの奉仕が具体的に、目に見える形になるとき、それが教会のディアコニアなのです。もう一度、繰り返します。私どものディアコニアとは、主イエスが十字架の上で見せて下さったように神を愛し、隣人を愛する働きなのです。隣人を生かし、そのようにして自分自身が生かされて行く、共に生きる生活のことです。共に恵みにあずかる生活。ウインウイン、隣人の益がわたしの益という方向を目指すのです。私どもは、8月にも第10回目のディアコニアを予定しています。これもまた、私どもに課された務めです。

祈祷
主イエス・キリストの父なる御神、十字架の上で私どもの罪の贖いのために、死んで下さった主イエスを仰ぎ見ます。そして、私どもの罪が赦されていることを今朝も信じ、感謝致します。神の子としての生き方が、十字架の上であらわにされました。だからこそ、信仰から遠く離れていた異邦人ですら、心動かされたのです。天の父よ、教会の信仰とその生活を、いよいよ、主を愛し、隣人を愛する方向へ、奉仕の方向へと導き続けてください。アーメン。