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教会として自民党日本国憲法改正草案を読む

教会として自民党日本国憲法改正草案を読む
2013年8月25日(読書会)
日本キリスト改革派教会 名古屋岩の上教会 牧師:相馬伸郎

はじめに 
30分の発題で、どれほど深く広い学びができるかと思います。何よりも憲法の専門家ではありません。しかしながら、キリストの教会として今、この国がどのような状況にあるのかについての認識を共有し、ふさわしい態度を整えることは、必須のことと考えます。しかも、今回は、伝道所委員会の決議を受け、教会員や教会に関わっておられる方だけではなく、関心のあるすべての方に呼びかけて学び会を行うことと致しております。私どもは第4主日(日曜日)の午後に定例集会として読書会を開催しています。それは、「神の教会」としてふさわしく、御言葉によって常に養われ、砕かれ、キリストの主権に服する堅固で柔らかな教会を目指し続けるため、キリスト者が御言葉によって奉仕の務めに整えられるために、必須のことと考えるからです。読書会では、教理(教会の教え・聖書の信仰の要約)を学ぶことを軸としながらも、教会の歴史や時代の課題についても学びと議論を積み重ねてまいりました。とりわけ8月の読書会は、「この日本に神の教会を!」との志と祈りのもと開拓伝道を開始した私どもが、日本の教会の戦争責任を問い続けると共に、「日本」についての歴史認識を深めることに集中した歴史があります。そして、それらの学びは、教会だからこそ可能であり、同時にキリスト者以外の真理と正義を愛するすべての方にとっても共鳴と理解を得られるものと確信しています。

 「3:11」以降を生きる今、教会の戦争責任、戦後責任を問うことは、神から新たな問いかけを受けていると思います。私どもは、少なくとも、教会の戦争責任を自覚し、悔い改めを深めて来たハズです。ところが、その間、戦前の状態つまり旧日本の構造が残存していることをなお深く掘り下げ得なかった事実が、特に原発事故において鮮明にされました。私どもの「教会の第二の敗戦」とも言うべき姿があります。私どもの教会は、第一の敗戦によって創立致しました。しかし今や、「第二の敗戦」(第一の敗戦の深化)を迎えているという認識を持ちます。それは、他ならない教会自身の敗北を意味しています。確かに、ヤスクニ問題において心ある諸教会は、教会の戦争責任への自覚を深め、靖国神社国家護持の企てに対して、反対と抵抗の運動を担ってまいりました。しかし、その掘り下げと広がりに対しての不足を思わざるを得ません。これまでどれだけの教会が、「原子力ムラ」に反対と抵抗を表明してきたでしょうか。それは、戦前の日本の教会の態度と極めて似ていると思います。

 さて、本日の読書会は、参議院選挙の結果を受け、安倍政権の宿願である憲法改定
(むしろ自民党結党以来の悲願であることを覚えておくべきです。「わが党は、結党以来、「憲法の自主的改正」を「党の使命」に掲げてきました。占領体制から脱却し、日本を主権国家にふさわしい国にするため、自民党は、これまでも憲法改正に向けた多くの提言を発表してきました。~わが国が主権を回復したサンフランシスコ講和条約から60年になる本年(平成24年)4月、自民党は、新たに日本にふさわしい「日本国憲法改正草案」を発表しました。」 
自民党HPより)が現実化しようとする状況に鑑み、自民党憲法草案(2012年4月27日)そのものを学びます。

Ⅰ 大日本帝国憲法を「取り戻す」ための自民党憲法草案 

今回の参院選で、自民党は「日本を取り戻す」というキャッチフレーズを掲げました。誰から、何を取り戻すのか、ほとんど意味不明です。しかし、民主党は大敗北し、自民(公明)党政権は安定することとなりました。確かに、民主党政権から日本を取り戻すということも含んでいるのかもしれません。しかし彼らが、本気で、本心から取り戻したいと願っている日本とは、戦前の「大日本帝国」なのだろうと思っています。それは、今回取り上げた「改正草案」を読めば、明らかであると思います。それは、「改正」あるいは「改悪」などという次元のものではなく、その本質から言えば、「破棄」に近いものと言わざるを得ません。一言で言えば、近代立憲主義の否定を目指すものとして示されているからです。

自民党のホームページには、改正草案と共に日本国憲法を対照させて掲載しています。自民党自身が、このように対照させていることに、草案への並々ならぬ自信、自負が込められていることに驚きを禁じ得ません。しかし、わたし自身は、日本国憲法に加えて大日本帝国憲法、いわゆる旧憲法と対照することこそその本質を見抜くために役立つであろうと思います。

旧憲法は、1889年(明治22年)2月11日公布、1890年(明治23年)11月29日施行されました。日本は、東アジアで初めて、「最高法規」としての成文憲法を有する国家として出発しました。憲法によって国家の体制を整えたことで、【いちおう】立憲主義の体裁をとっています。しかし、この憲法は、近代立憲主義の常識である、市民(人民)による国家権力を制限するものではありませんでした。むしろ、「民定」ではなく「欽定」、つまり、元首である天皇が「臣民」に下賜したものでした。

下記、大日本帝國憲法、第一章 天皇の条項を読めば、この憲法の本質がよく分かります。

第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
第五條 天皇ハ帝國議會ノ協贊ヲ以テ立法權ヲ行フ
第六條 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第七條 天皇ハ帝國議會ヲ召集シ其ノ開會閉會停會及衆議院ノ解散ヲ命ス
第八條 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル爲緊急ノ必要ニ由リ帝國議會閉會ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ發ス  此ノ勅令ハ次ノ會期ニ於テ帝國議會ニ提出スヘシ若議會ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ將來ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第九條 天皇ハ法律ヲ執行スル爲ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ增進スル爲ニ必要ナル命令ヲ發シ又ハ發セシム但シ命令ヲ以 テ法律ヲ變更スルコトヲ得ス
第十條 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ
此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ揭ケタルモノハ各〻其ノ條項ニ依ル
第十一條 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二條 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第十三條 天皇ハ戰ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ條約ヲ締結ス
第十四條 ~十七條  (省略)

ここに示された驚くべき「天皇論」「天皇制」「国体」は、明治新政府の「王政復古」どころではありません。これまでの天皇の歴史において空前絶後のものと言わざるを得ません。圧倒的政治的権力、統治権能が付与されることとなりました。

確かに、大日本帝国時代にも、民主主義も信教の自由も【いちおう】あったことは、事実とすべきです。しかし、それは、常に、「制限」付きのものであったわけです。ちなみに、私どもの先輩は、この憲法をほとんど無批判で歓迎しました。それは、キリスト教が長く「邪宗」とされ、禁教されていた背景によるものでした。しかし、冷静に考えて見れば、真の信教の自由とは似て異なるものです。この自由権は、基本的人権の要となるものであり、神からすべての個人に平等に与えられたもの、人間の尊厳そのものだからです。

例えば、「第二十八條  日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とあります。つまり、ここで、言われている「信教の自由」とは、安寧秩序を妨げず、臣民つまり天皇の民であることに伴う義務に背かない範囲内における自由だと言うのです。言葉の罠です。人間が創造主なる神によって与えられた個人の尊厳と自由ではなく、天皇によって「内心」まで支配しうる「信教の自由」なのです。これは、大日本帝国憲法の一例ですが、一事が万事、天皇(結局は、政府)によって臣民の自由と権利を束縛し、拘束するための最高法規として制定されたものです。

ちなみに、自民党草案の第20条第3項にこうあります。「3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。 」つまり、旧憲法と本質的に同じことが言われているのです。戦前戦中、政府は、神社(参拝)は宗教ではなく国民儀礼(「社会的儀礼又は習俗的行為」)であるとの見解を押しつけ、すべての宗教団体を含む国民に、神社参拝を強制しました。悲劇的な事実ですが、私どもの教会(指導者)は、朝鮮キリスト教界に対して神社参拝を強要して、国策に積極的に協力してみせたのでした。草案の信教の自由とは、まさに、旧憲法の復活なのです。

同様に、草案第21条「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。 2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。 」も注目すべきです。

 既に、明らかになったかと思います。ここには、近代憲法と立憲主義の世界的常識である、「基本的人権の尊重」が欠落しているのです。事実、草案では、憲法第97条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」 が削除(!!)されてしまっています。

これらの権利は、要するにキリスト教、聖書の根本的教えに基づくものに他なりません。歴史的に言えば、まさに、人類(とりわけヨーロッパ大陸の人々、「30年戦争1618年~1648年」)の多年にわたる宗教的自由獲得の努力の成果でした。

(世界人権宣言1948年12月10日第3回国際連合総会採択 第18条 「すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。」)

キリストの教会にとって、この尊厳への侵害とは、即、神の主権と愛への侵害として理解されることとなります。ですから、キリスト教はいかなる人権侵害にも与することができません。むしろ、「もっとも小さな者」(小さくされている人々=被害者)の隣人となるように、主イエスから召されているのです。

 その意味で、日本国憲法の「精神」を生かす努力は、まさに、日本にあるキリストの教会の重い責任として理解されるべきだと思います。憲法にもとづく政治を国会議員に行わせること、これが、主権者としての国民の責任です。また、その思想的支援こそ、教会の福音伝道と並行してなしうることです。敗戦後の日本の教会はなんという幸いな立場に置かれたのかと思わざるを得ません。しかし、この責任と使命を十分に担い得ていない現実があります。私どものこの点での真実の悔い改めを、今こそ深めたいと思います。

 さて、旧憲法施行に先立つこと数か月、明治政府は、教育に関する勅語、つまり「教育勅語」を発布(1890年10月30日)します。これによって子どもたちは、天皇のよい「赤子」、忠孝なる「臣民」となるための「義務」教育がなされます。憲法教育は、教育勅語によって担われて行くことが目指され、実行されたわけです。

ちなみに、私どもが真剣に戦った第一次安倍内閣による教育基本法改悪の企ては、彼らの勝利となりました。日本国憲法がありながら、教育においては既に、日本国憲法の理念が曲げられています。歴史的、論理的に言えば、自民党草案が成立後にその憲法を子どもたちに教育するために「教育基本法」を施行することが筋道です。ところが彼らのまさに巧妙な手口は、憲法改正議論と施行は、あまりにもハードルが高くて、困難であることを熟知しているので、実質的に改憲内容を国民に浸透させられるようにと、教育の憲法と云われる教育基本法の改訂を目指したのです。このような政治的策略は、すでに解釈改憲によって第9条をなし崩し的に無意味なものとしていることと通じています。少なくない国民は、「9条は時代遅れ、非現実的」という巧妙な情報操作によって、感覚的にならされてしまい始めていると思われます。このような言わばルール違犯、抜け道的な方策の延長線上に、憲法第96条の改正議論があるだろうと思います。つまり、三分の二以上の国会議員の賛成が必要であるとされているものを、過半数にしてハードルを下げてしまうということです。これは、まさに野球のルールを自分の都合のよいように変えてしまおうという議論に等しいように思います。最近、内閣法制局長官を交代させ、安倍首相の考えに近い畑違いの長官を据える人事がなされました。歴代内閣が受け入れて来た、内閣法制局の「集団的自衛権は憲法違反」という認識を、変えさせてしまおうという魂胆が丸見えです。

改訂前の教育基本法は、現憲法の理念を体現する子どもたちとなるようにと教育を国家権力の支配(国家権利)から親の権利として定められていました。これは、キリスト教の教育理念をほとんど全面的に反映したものと言っても過言ではないほど優れたものだと、わたしは考えています。制定の背後に、キリスト者の教育家(南原繁他)が活躍したからです。未だ多くの人が、自民党憲法草案の線で「改訂」されることの意味について深刻な危機感を抱いていないかもしれません。しかし、彼らにとって、憲法改正は結党以来の宿願なのです。しかも、その憲法は「まさか!!」と思うほどに旧・帝国憲法の再現に限りなく近いものとして提示されています。9条を葬り去って、戦争する国としての体制を整えるものです。今、多くの国民が憲法の意味、立憲主義の意味をわきまえ、それを投票行動によって示さないかぎり、取り返しのつかない事態が来ます。

草案の本質を示す数例

草案前文 「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって」憲法前文 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。 」

主語に注意しましょう。憲法は、一貫して日本国民が主語です。ところが、草案は、主語として「日本国」を最初に置きます。そもそも、国家とは、誰のためのものでしょうか。国民のためのものです。主権は「民」にあるのです。彼らの狙いは、主権者を意味不明の「日本国」と最初に置くことに端的にあらわれています。しかも、天皇を「戴く」と表記します。辞書をひも解けば、「敬って自分の上の者として迎える。あがめ仕える。」です。つまり、国民とはまったく別の、上位の存在とされているわけです。

憲法第99条では、憲法の尊重と擁護義務を課されているのは、国民ではなく「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」です。ところが草案は、この立憲主義の根幹を覆し、「すべて国民は、この憲法の尊重しなければならない」と規定し、しかも「天皇および摂政」を削除します。日本国憲法前文を誠実に読めば、自民党草案なるものは、「これに反する一切の憲法」に該当するものですから、排除されなければならないはずです。

ちなみに、敗戦後、日本の「旧い国体」は、まさに新憲法施行によって、「新日本」として出発したことによって葬られた「ハズ」です。しかし、現実には、政府をはじめさまざまな機関(その一つの典型は、宗教団体であり、キリスト教界でした。)が敗戦の事実とその意味を掘り下げる努力を怠り、自らの戦争責任を「あいまい」にしたまま再出発できるものと考え、今日に至りました。しかも、戦勝国アメリカは、日本占領によるアジアの安定的な覇権を維持するために「天皇」と「天皇制」を積極的に利用できるものと考え直し、これを残しました。裕仁天皇が、政治的な直接活動をしたこと(憲法違反)は、今日、明らかにされています。
(豊下楢彦氏の著作参照 岩波現代文庫「昭和天皇・マッカーサー会見」他)戦前に、戦争推進の機関として整備された天皇制は、戦後は、平和と民主主義の擁護者として機能する役割を与えられ、裕仁天皇はそれを担ったのです。

自民党(維新の会)は、「東京裁判」を戦勝国の正義による不公平な裁判とし、日本国憲法を「押し付けられた」ものと主張し、「自主独立」を標榜します。ところが一方で、「日米地位協定」という完全に不平等な協定を残し、日米安保の傘を絶対的な体制として温存しようと歩み続けました。盲信的な対米追従と9条改悪を果たし敗戦国の傷つけられた自尊心を取り戻そうとの真逆の姿勢、ねじれ構造が、喜劇かつ悲劇的に並存しています。 
(ちなみに私は、日米地位協定と日米原子力協定を破棄できなければ敗戦状態を克服し得ないと考えます。)

草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり、」

「元首」とは、旧憲法の「第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」の復活です。確かに「象徴」が踏襲されていますが、元首としての「地位・権力」から説き起こします。そもそも、象徴とは、宗教(神学)用語です。今日でも法学的にも解釈の難しい課題だろうと思います。牧師として象徴の危険性を指摘しておきます。

草案第3・4条 第三条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。
第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。

これらは、まさにキリスト教界が敗戦後、一貫して旧日本回帰のための悪法として法制化に反対し、抵抗しつづけてきた事柄でした。今や自民党はこれを憲法に新設して、日本のキリスト教界への決定的回答として、私どもの信仰的戦いを憲法違反として弾圧する法整備をしようとしているわけです。

 残念ながら、逐条的にコメントする紙数がありません。しかし本質的で、根本的なことは、既に、指摘しているかと思います。その上で、やはり最後に、どうしても「憲法9条」については、短く触れて終わります。

1947年8月2日、当時の文部省は、中学校1年生の社会科の教科書として「あたらしい憲法のはなし」をつくりました。(童話社 小さな学問の書② 中学入学祝いに娘に贈呈しましたが、読んでもらえませんでした・・・。実に、すぐれた憲法への入門書です。これを文部省が教科書としてつくった!という今では、信じがたい事実です。)そのイラストに、憲法の三原則と言われる「民主主義、主権在民主義、国際平和主義」が記載されています。国際平和主義の中でも憲法9条の存在こそ、日本国憲法を比類のないものとしている原理です。世界の誇り、日本の「宝」とすべきものと考えます。しかも、その精神もまさにキリスト教のもの、聖書の教えに基づくものなのです。聖書の根本的使信、福音とは何でしょうか。それは、神の平和による支配、神の国です。主イエス・キリストの到来とその十字架と復活によってこの地上に神の国は始まり、教会を通して確実に前進しているのです。「神の平和」を宣べ伝えることが伝道であり、神の平和を具体的に確立することが教会形成です。そうであれば、教会の働きと憲法9条の擁護と実現とは、切っても切り離せない現代的課題として、提示されていることになると思います。

  ところが憲法草案は、第9条の戦力不保持を実質的に破棄します。「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。」 とされ、第二項は、「国防軍」の規定に差し替えられています。そして、第三項(領土等の保全等)が追加され、「国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。 」とされています。つまり、「徴兵制」は明記されていませんが、結局、国民は戦時に際して協力義務が課されているのです。まさに、集団的自衛権の行使を可能とするための「改悪」、これこそ、草案の正体だと思います。

私どもは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ第5章9節)との主イエスの御心に生きる弟子として、いよいよ聖書の教えと考え方とを身につけ、御言葉に従って神の恵みの支配である神の国の前進と拡大のために「語り」続けましょう。加えて、非キリスト者や意見の異なる人との冷静な議論と協力ができる触媒となれるようにも祈り求めたいと思います。

Soli Deo Gloria!(ただ神の栄光のために!)